2016年6月19日日曜日

説教集C2013年:2013年間第12主日(三ケ日)

第1朗読 ゼカリヤ書 12章10~11、13章1節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 3章26~29節
福音朗読 ルカによる福音書 9章18~24節

   本日の第一朗読はゼカリヤ書からの引用ですが、ゼカリヤ書は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書のすぐ前に置かれている預言書で、14章から成る幾分長い預言書です。その前半には6章を費やして、ユダヤ人に好意的であったペルシャのダレイオス皇帝の初期に神から示された、八つの黙示録的幻が語られています。そして第7章以降の後半部分には、エルサレム復興の約束や、諸国民に対する神の裁きとイスラエルの救いなどが語られています。本日の第一朗読はそのイスラエルの救いについての神の御言葉からの引用です。「私は憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」とあるのは、メシアの受難死を幻の内に示しながら語られた神のお言葉ではないでしょうか。神は続いて、「その日ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と穢れを洗い清める一つの泉が開かれる」と予告しておられます。これは、メシアの受難死によって無数の人の罪の穢れを洗い清める、霊的には真に豊かな恵みの水を溢れ流す泉が一つ、メシアの苦しめ苛まれた御心臓の内に、この世の人々に開かれることを約束なされたお言葉であると思います。そのメシアの十字架上での御死去を、聖母と共にすぐ近くで目撃した使徒ヨハネは、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」と証言し、「これは目撃者の証しであり、その証しは真実である。その人は自分が真実を語っていることを知っている」と、少しくどい程に、死去したメシアのわき腹から実際に血と水が流れ出たことを証言しています。

   死んでもまだ心臓に残っていた血が、槍に刺された時に流れ出たことは理解できるが、その血と一緒にある程度まとまった量の水が流れ出たという話は、信じられないという異論を退けるための証言であると思います。一体このようなことがあり得るのでしょうか。私が神学生時代に読んだ西欧の医師たちの証言によりますと、何かの事情で医師の世話を受けることも鎮痛剤を飲むこともなく、しかも極度の苦しみが長時間続いた後に死去した人の体を解剖しますと、心臓の周囲に水がたまっていることがあるのだそうです。前日から一睡もせずに苛酷な責め苦を受け続けた主イエスの心臓の周辺にも、水が多くたまったのではないでしょうか。としますと、主がその恐ろしい苦しみに耐えて、十字架上でも最後まで適切な言葉を話すことがおできになったのは、自然の人間の力を凌ぐ神の霊の特別な助け・支えによるのだと思います。

   ご存じのように、フィリピ2章には「キリストは神の身分でありながら、神としてのあり方に固執しようとなさらず」「ご自身を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、謙って死に至るまで従順でした」と述べられています。私は聖書のこの言葉を読む時に、神の全能に驚き入っています。人類救済のために天の御父から派遣なされた神の御言葉は、ご自身の神の身分を全く無となして、百%人間になられたのです。しかも、人間社会の最下層に感受性の鋭敏な肉体をもって生まれ、大きな過渡期に直面していた人間社会の全ての罪科を受け止めて、苦悩のうちに神の内的僕の身分に成長なされたのではないでしょうか。そして最後には、ご自身の人間としての体力の最後の一滴までも苦しみ抜き、天の御父に捧げ尽くして全人類の罪を償い、私たち罪人にあの世の救いに至る道を開き、その道を歩む霊的力も提供なされたのではないでしょうか。無数の人の罪の穢れを洗い清める救い主の泉は、このようにして掘り起こされ、あの世からこの世へと豊かな恵みの水を流してくれているのだと思います。
   しかし、私たちがその恵みの水を霊魂の内に取り入れ、その恵みに内面から生かされるためには、悔い改めによって人間中心主義の古いアダムの精神を心の中から取り除き、主キリストと共に自分の心を無にして神の僕となること、そして神から与えられる苦しみを人類の罪の償いとして耐え忍び、神にお捧げすることが必要であると思います。神から与えられる苦しみは、大小を問わず全て私たちの心に恵みを注ぐ手段や器でもあると信じます。思わぬ失敗や不運、病苦や生活の煩わしさなどを、信仰と愛をもって神の御手から受け取り、厭わぬように心掛けましょう。いくら待ってもなかなか来ないバスを待つ苦しみ、あるいは人身事故が発生して遅れている列車を待つ苦しみなども、嫌な顔を見せずに神よりの試練として祈りつつ快く耐え忍んでいますと、後で不思議に神が便宜を図って下さるのを、私はこれまでに幾度も体験しました。神は実際に、私たちの捧げる小さな奉仕や苦しみを、愛をもってご覧になっておられるようです。

   本日の第二朗読には「あなた方は皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」「キリストを着ているからです」「皆キリスト・イエスにおいて一つになっており」「アブラハムの子孫です」などという言葉が読まれます。神の御眼から見れば、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、私たち全人類は主キリストにおいて一つの共同体、一つの存在「神の子」となるよう召されているのではないでしょうか。神はかつてアブラムをお召しになった時、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」とおっしゃいましたが、イサクが生まれる前年には、「もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。私はあなたを多くの国民の父とするからである」と話しておられます。それで教皇ピオ11世はある時、「私たちも皆アブラハムの子孫です」と、ヴァチカンで公然とお話しになったことがあります。現代の技術文明が世界的にここまで普及し、アジア人も白人も黒人も一緒に助け合って生活するようになってみますと、聖書に読まれる神のこれらのお言葉が、新たに実感されて来ます。神は私たち全人類が主キリストにおいて一つの共同体、一つの大きな群れになるよう、現代においても新たに呼びかけ働いておられるのではないでしょうか。日々心を大きく開いて、小さいながらも全人類のため、全ての人のために祈り、奉仕するよう心掛けましょう。これまでの宗派の違いや民族・慣習の違いなどに囚われてはなりません。福者マザー・テレサのように、助けを必要としている全ての人に奉仕するよう努めましょう。それが、終末時代の様相を強めている現代世界の中に生きるキリスト者の生き方、第二ヴァチカン公会議の精神に適う生き方だと信じます。


   本日の福音の中ほどには、「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じた」という言葉が読まれます。それは、そのすぐ前にペトロが主に話した、「あなたは神からのメシアです」という信仰宣言のことではありません。ギリシャ語の原文では、21節と主のご受難を予告している22節とはひと続きの文になっていて、22節の冒頭にある分詞「と言って」で結ばれていますから、メシアの受難死と復活についての主の予言を、誰にも言わないようにという戒めだと思います。ルカ福音書の2章には、聖母は「これらのことを心に納めて考え合わせていた」という言葉が二度読まれますが、神から受けた新しい教えや心に共鳴した聖書の言葉、あるいは私たちが個人的体験から新しく学んだ悟りなどもすぐには口外せずに、心に納めて考え合わせていることは、そこに込められている真理を、心の奥深くに根付かせる秘訣であると思います。神はそのような心の人に、もっと多くのことを次々と教え、優しく導いて下さるようです。聖母マリアもこのようにして、次々と非常に多くのことを、神の御子と共に歩んだ人生体験から学んでおられたことでしょう。私たちも、同じその主イエスに伴われて今の人生を営んでいる身であることを、忘れないよう気を付けましょう。主は私たちにも、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」と呼びかけておられます。その復活の主に信仰の眼を注ぎながら、日々与えられる小さな十字架の苦しみを嫌がらないよう、心掛けましょう。