2016年6月26日日曜日

説教集C2013年:2013年間第13主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 19章16b、19~21節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1、13~18節
福音朗読 ルカによる福音書 9章51~62節

   本日の三つの朗読聖書は、主に従う者が身につけるべき特性について教えていると思います。第一朗読は、エリヤがエリシャを預言者として召し出す独特の仕方について伝えています。言葉で呼びかけて従わせたのではありません。何も言わずに、働いているエリシャのそばを通り、自分の外套を彼の上に投げかけただけなのです。この出来事の前に、神からエリシャに何かの話があったのかも知れませんが、この思いがけない突然の出来事に出遭った時、エリシャはすぐにエリヤの後を追い、父母に別れの接吻をさせてくれるよう願って、「それからあなたに従います」と話しています。エリヤのなした風変わりな行為を神よりのものとして受け止め、早速対応する預言者的信仰のセンスが、エリシャの心に成熟していたしるしだと思います。エリヤもそれを認めて願いを許可しましたが、その時「私があなたに何をしたのか」という言葉を口にします。よく判りませんが、これは、私があなたに為した行為を忘れず、思いがけない小さな出来事の背後にも、神からの呼びかけを感知する心のセンスを大切にしているように、というような意味ではないでしょうか。

   第二朗読には、「キリストが私たちを自由の身にして下さったのです」「自由を得させるために」という言葉が読まれます。ここで言われている「自由」とは、何からの自由を指しているのでしょうか。本日の朗読個所では説明が省かれていますが、すぐその言葉に続くガラテヤ書52~12節を読んでみますと、律法からの自由、すなわち律法の細かい規定を厳守することによって宗教的救いを得ようとする、ある意味では人間主導・自分中心のファリサイ的生き方からの自由を指していると思います。それは、自分で何かを獲得しよう、利用しよう、所有しようとする欲求や生き方からの自由ではないでしょうか。したがって、第二朗読に読まれる「奴隷のクビキに二度と繋がれてはなりません」という言葉は、そういう自分中心の生き方や「肉の欲望」に負けてはならないという意味だと思います。

   戦後の自由主義・能力主義教育の普及と核家族の激増とにより、皆で力を合わせて生きようとしていた、それまでの地域共同体や家族共同体の結束が急速に弱まった上に、現代技術文明の発達で日常生活が極度に便利になりますと、現代の日本には自分の思いのままに一人で生きて行こうとする人間が多くなり、各人の価値観も好みも違うため、家庭においても家族と皆で楽しく話し合うことが少なくなり、テレビやインターネットや携帯電話の頻繁な利用で、話し相手の顔が見えない半分バーチャルな夢世界で生きている人々や子供たちが多くなりました。夢を見ている時、人は内的には孤独で遊ぶようにして世渡りをしていますが、しかし時には不安感や恐怖感、あるいは人々からの見捨てられ感などに襲われます。「キレる」という言葉は1998年から辞書に登場しますから、その少し前の90年代中ごろから、日本の各地でそのような症状を示す、感性的に未熟な子供や若者たちが多くなったと思われます。昔にも「堪忍袋の緒が切れる」という表現がありますが、これは、まず忍耐を続けた後の怒りであるのに比べますと、現代の「キレる」人は、耐え忍ぶ心が働かずに、始めから突発的に怒りが爆発するようです。日頃他者と一緒に助け合い励まし合って生きることなく、自分独りで孤独と不安の中で生きているため、その気ままと個人主義が無視されたと感ずるような言行に出会うと、途端に見捨てられたと受け止めて怒り出す、過敏さと被害者感覚とが心の中に共存しているのかも知れません。

   考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、自分の思い通りにならない現実社会を蔑視する傲慢さもあって、心の奥に落ち着きがなく、心の衝動をコントロールすることが苦手なのでないでしょうか。こういう人たちは社会にとって迷惑千万の困った存在ですが、本人たち自身も自分を持てあまし、苦しんでいるのかも知れません。私は「キレる」人たちをその心から救い得るものは、神信仰以外にないと考えます。1995年にオウム真理教事件が発生すると、一時的に若者たちの宗教に対する関心が低落し、伝統宗教に対する教団離れが一層進んだばかりでなく、80年代以降に急成長していた新新宗教に対する関心も薄れたようですが、伝統的な共同体精神が次々と崩壊し、各人の思想も価値観も極度に多様化しつつある現代の終末的社会にあっては、この社会的現象は驚くほど多くの人の心を深刻な内的孤独と絶望の淵へと落ち込ませるのではないかと恐れます。現代世界は外的には各人に、富も便利さも情報も技術も楽しみも山ほど提供していますが、多くの人の心はそれらに満足できずに深い孤独と絶望に悩み始めるのです。

   こういう人たちの心の救いのためには、その人たちを既成の宗教集団の社会的組織の中に連れ戻そうとするのではなく、むしろその心を全く個人的な宗教の原点に立ち返らせ、そこで万物の創造主で全ての恵みの与え主であられる神と、自分の人生との関係について目覚めさせる必要があるのではないでしょうか。仏教の創始者釈尊は、遺言として「自灯明法灯明」、すなわち自分の今の現実体験からの光と、「法」即ち神からの光という二つの光だけを頼りとして生活することを勧めています。時代の大きな変わり目には社会的組織それ自体が大きな分裂の悩みを抱えていて、私たちの心の頼りにはならないからだと思います。主キリストも善き牧者の譬えを通して、羊たちが各々善い牧者の声を聴き分けそれに従うことを、教えておられると思います。主の創立なされたカトリック教会も、極度に多様化しつつある現代世界の流れの中で大きな悩みを抱えています。このような時代には各人がそれぞれ自分の日々の生活の中に現存し働いて下さる主キリストの御声を聴き分け、それに従う実践信仰に心がけるべきなのではないでしょうか。各人の具体的生活の場が多様化しているように、その中での主のお導きも外的には人によって大きく違うと思います。それらを人間の考えで合理的にまとめようとはせずに、唯ひたすらその時その時の自分に対する神の導きに黙々と従う実践信仰に励みましょう。それが、ますます混沌の度合いを深めつつあるこれからの時代にあって、神によって護られ救い出される生き方、そして神の道具となって隣人たちを助け、豊かな愛の実を結ぶ生き方であると信じます。

   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい」と強調しています。その愛の霊は既に私たちの心の奥底には与えられていますが、自分のこれまでの孤独な生き方や自力の限界を痛感し、神よりの助けを新たな形で祈り求めている現代の若者たちの心にも、神の憐れみによって与えられるよう祈りましょう。彼らが心の奥底に現存しておられる神の霊に信仰と信頼の眼を向け、自分中心であった古いエゴを捨てて、神中心に神の愛の霊に導かれて生きよう、この不信の闇の世に神の愛の灯を点そうと心掛けるなら、神はその恵みを下さると信じます。

   本日の福音の始めにある「天に上げられる時期」という言葉は、主のご受難ご復活の時を指しています。主は既にそのことを弟子たちに予告して、エルサレムに向かう決意を固め、ガリラヤを後にされたのです。いわば死出の旅に出発し、その旅の途中に横たわるサマリア人の村で泊めてもらおうとしたのです。しかし、エルサレムのユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人たちは、主の一行がエルサレムへ行こうとしているのを知って宿泊を拒みました。使徒のヤコブとヨハネはそれを見て怒りましたが、主は二人を戒めて、一行は別の村へと向かいました。主は殺されるために、エルサレムへ向かっておられるのです。何か緊迫した雰囲気が一行の上に漂っているような、そんな状況での出来事だと思います。


   しばらく行くと、次々と三人の人が登場しますが、ルカがここで登場させている人たちは、マタイ8章の平行記事では「弟子」と明記されていますので、エルサレムへと進んでおられた主に話しかけたのは、いずれも一行の後を追って来た主の弟子であったと思われます。数多くの大きな奇跡をなされた主イエスが、その主を殺害しようとしているユダヤ教指導者たちの本拠エルサレムに向かっておられると聞いて、メシアの支配する新しい時代が始まるのだと考え、この機会にメシアのために手柄を立てて、出世したいと望んで駆けつけたのかも知れません。最初の人は「どこへでも従って参ります」と申し上げていますが、主は、メシアに敵対する悪霊たちが策動する大きな過渡期には、どんな貧困や苦労をも厭わぬ覚悟や、日々清貧愛の精神で生活することが必要であることを諭すためなのか、「人の子には枕する所もない」などと話されました。その後に来た弟子たちにも、それぞれ自分の考えや夢を捨てて、ひたすら黙々と主に従って来ることを要求なさいました。神信仰に基づいて孤独に悩む自己の生きる道を見出そうとしている現代人に対しても、主は各人がそれぞれ自分を捨てて、ひたすら神の御旨に従順に従うことをお求めになると思います。その人たちが、主のこの厳しいお求めに従って、キリストの内にこれまでよりも遥かに大きな自由と生きる喜びとを見出すに至るよう、神よりの照らしと助けを願い求めましょう。