2012年10月28日日曜日

説教集B年:2009年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: . エレミヤ 31: 7~9.     . ヘブライ 5: 1~6.  
        . マルコ福音 10: 46~52.

   本日の第一朗読は、旧約の神の民の数々の罪を嘆き、警告を語ることの多かったエレミヤ預言者の言葉からの引用ですが、本日朗読されたこの預言書の31章は神との新しい契約について予告していて、エレミヤ書の中でも、将来に対する大きな希望を与えている最も喜ばしい箇所だと思います。

   紀元前10世紀に南北二つの王国に分裂した神の民のうち、北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、そこに住んでいた住民はアッシリアの支配下に置かれたり、アッシリアに所属する他の国に連行されたりして、各地に分散させられてしまいました。アッシリア人によるこの征服と連行の過程で、命を失った者や信仰を失って異教徒になってしまった人たちは多かったと思われます。しかし、そのイスラエル人たちが皆信仰を失ってしまったのではないようです。外的にはもはや真の神を礼拝・讃美する宗教儀式に参列できなくても、それを自分たちが犯した罪の罰、神よりの試練と受け止め、個人的に悔い改めと罪の償いに励んでいた信徒たちが、少なからずいたのだと思われます。神は、それまでの自分たちの社会や生活が台無しに破壊されても、それを自分たちが犯した罪の罰と受け止めて、謙虚に神への新しい信仰生活に励むその人たちの悔い改めと信仰の熱心を、嘉しておられたのではないでしょうか。

   アッシリアの侵略から100年余りを経て神の言葉を受けたエレミヤは、本日の朗読箇所の中で信仰を失わずにいるその人たちのことを「イスラエルの残りの者たち」と呼び、その人たちを救ってくれるように祈ることを、神から命じられています。そして神は、「見よ、私は彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める」という、嬉しい約束の言葉も話しておられます。「北の国」とあるのは、アッシリアの支配下にある国々だと思います。神は更に、「私はイスラエルの父となり、エフライムは私の長子となる」とも話しておられますが、ここで「エフライム」とあるのは、エジプトで宰相となったヨゼフの息子の名前で、その子孫である北王国の中心的部族の名でもあり、総じてアッシリアに連行されたイスラエル人たちを指していると思います。彼らが新たに神の子らとされて、メシアによる救いの恵みに浴することを、神が予告しておられるのではないでしょうか。アッシリアの侵略によってイスラエル12部族のうち10部族は滅び去り、残ったのは南のユダ王国に住むユダ族とレビ族だけであった、と考えてはなりません。北イスラエルの10部族のうちの「残りの者たち」は、エレミヤ預言者の時代にユダ王国に移住して、イスラエル12部族の子孫たちは、数は少なくなっても立派にメシア時代を迎えるに到ったと信じられています。

   ここで「イスラエルの残りの者たち」とある言葉を、現代の私たちの信仰生活に関連させて少し考えてみましょう。私たちは今はまだこれまで通り平穏にまた幸せに暮らしていますが、しかし、この状態がいつまで続くかは誰も予測できません。既に地球温暖化によって世界各地の自然環境は元に戻し得ない程に大きく悪化しつつあるようですし、この温暖化現象には私たち現代人たちの生活が深く関与しているそうです。人類の人口の急激な増加で、遠からず水不足や食料不足の問題も深刻化するかも知れません。比較的豊かに自然の恩恵に浴している私たち日本人は、まだそれらの問題を深刻に受け止めていませんが、これからの全地球化時代には、地球上の他の多くの地方で発生した深刻な災害や窮乏問題が、直ちに私たちの食糧や生活を苦しめることも起こり得ると思います。今の日本は自給自足ではなく、食料の大半を外国からの輸入に依存しているのですから。

   それに、もう数十年も前から大規模な東海地震や南海地震の発生が遠くないと予測され、警告されています。もしこの二つの大地震が同時に、あるいは相次いで発生したなら、単に数多くの住宅が崩壊して無数の死傷者が出るだけではなく、その後の日本経済も破綻の危機に曝されると思います。それで耐震工事の完備しているこの建物が倒壊しなくても、電気や水や食料の不足のため、生き残った人たちは途端に恐ろしい程の窮乏生活を余儀なくされるかも知れません。もし諸外国でもその前後に大規模な災害が発生していたなら、外国からの援助もあまり期待できないと思われます。これからの時代には、そういう想定外の悲惨な大災害や極度のもの不足も発生し得ると思います。既に地球全体の環境も、これまでとは大きく違って来ているようですから。神を無視する現代人たちが、人間中心主義の不遜な心で日々犯している罪の数も、これまでのどの時代よりも大きくなっているのではないでしょうか。以前には盛大に挙行されていた欧米の教会でのミサ聖祭も、最近は司祭不足・参加者不足で寂れている所が多いと聞きます。人々が万物の創り主であられる神への感謝を怠り、目前の豊かさだけを追い求めている今こそ、「目覚めて用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る」という主の警告を、心に銘記して信仰に励むべき時なのではないでしょうか。

   神の特別な愛の被造物であるこの美しい水の惑星「地球」を穢して止まない利己的人間中心の怠りの罪や貪欲の罪に対して、神はこれまでは黙して眺めておられても、この終末的時代には恐ろしい天罰を次々と下して、被造物世界のすべてを全く新たにしようとなさるかも知れません。その時には先程の「イスラエルの残りの者たち」のように、たとえ共同体的ミサ聖祭に与かれなくなっても個人的に日々悔い改めの業に励み、主キリストの聖心と一致して人類の罪の償いに心がけましょう。神は謙虚に信仰と愛に生きるそのような「残りの者たち」の生き方に特別に御眼を留め、その祈りと必要に応えて新しい救いの道を示し、必要な力も助けも与えて下さると信じます。……..

2012年10月21日日曜日

説教集B年:2009年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: . イザヤ 53: 10~11.     . ヘブライ 4: 14~16.  
        . マルコ福音 10: 35~45.

   毎年十月の最終日曜日の前の日曜日は、83年前の1926年に当時の教皇ピオ11世によって「布教の主日」とされましたが、その伝統が受け継がれて、今日では「世界宣教の日」と改称されています。十月に日曜日が五つある時には「世界宣教の日」は第四日曜日になりますが、今年は四つしかありませんので、第三日曜日である本日が「世界宣教の日」となります。ピオ11世教皇はこの「布教の主日」を制定するに先だって、1925年の聖年にヴァチカン宮殿で盛大な布教博覧会を開催し、カトリック布教地諸国の文化財を数多く展示して欧米人の布教地諸国の文化に対するそれまでの見解を改めさせています。この時展示された文化財はその後ラテラノ博物館に展示されるようになりましたので私も皆拝観していますが、そこに展示されていた日本の文化財の中には、何方が寄進したのか知りませんが、日本の博物館でも見られないような素晴らしく豪華な七重の重箱や豪華な屏風などもありました。またニューギニアから収集された幾つかの民俗学的発掘品も、その後にはもう二つと発見されない貴重な生活用品のように見えました。アジア・アフリカの布教地諸国から収集されたこれらの文化財は、今は1970年代に拡大されたヴァチカン博物館に保管されています。

   ピオ11世教皇は最初の「布教の主日」が祝われた直後の1028日に、御自ら中国人6名を司教に祝聖し、続いてインド人、フィリピン人、韓国人、アフリカ人たちも司教に祝聖しました。これは、それまで西洋人司教司教たちの統治下でだけ営まれていた布教事業に、新しい風を吹き込む画期的出来事でした。翌271030日には、最初の日本人司教早坂久之助師もローマで長崎司教として祝聖されました。ローマ教皇がこのようにして、先頭に立って布教地諸国の文化や生活様式などに適応する布教活動を推進しましたら、例えば1933年、昭和8年には、奈良の東大寺のすぐ近くの大通りに面して、奈良市役所の斜め前の敷地にフランス人のビリオン神父が、鐘楼を備えた仏教風の木造カトリック教会を献堂したり、昭和10年には、英国人のワード神父が軽井沢で丸太造りの多少神道風の聖パウロ聖堂を献堂するなど、各国でそれまでのカトリック布教とは違う様々の新しい動きが盛んになり、第二次世界大戦とその後の世界の動きによっていろいろと抑圧されましたが、しかしそれなりにかなりの成果をあげて、今日ではアジア・アフリカのカトリック教会は、西洋化し高度に文明化した我が国を別にすれば、かなりしっかりとそれぞれの国の伝統の中に根を下ろしつつあるという印象を受けます。

   しかし、現代文明が極度に発達して全地球化時代・グローバルと言われる時代を迎えている今日では、第二ヴァチカン公会議までの昭和前期とは宣教対象の様相が大きく違って来ています。わが国を含め、先進諸国の人々の文化や考え方が、それまでの世界観・人生観・人間観・宗教観などから大きく離れて来ているのではないでしょうか。最近ではかつてキリスト教国と言われていた欧米でも、伝統的キリスト教信仰から離れて生活している人が多いので、再布教・再福音化が必要だなどと叫ばれています。わが国のカトリック教会も、大なり小なり似たような状況に置かれていると思います。グローバル時代の現代では、以前とは違う新しいタイプの宣教活動が神から求められているのではないでしょうか。

   聞く所によると、先年他界した漫画家手塚治虫は700余のタイトルをもつ漫画を残しているそうですが、それらの漫画や、大なり小なりその影響を受けた日本人の漫画が今世界の多くの国々で愛読されているそうです。としますと、私はそれらの漫画を全然見ていませんが、それらのキリスト教信仰に生きていない日本人漫画家たちの世界観・人生観・人間観などが、興味深い数多くの漫画を介して無意識のうちに無数の人たちの心を染めているのではないでしょうか。漫画は人間の心が全く自由奔放に産み出すことのできるバーチャルな世界ですので、私の推察ですが、そこでは死んでも別の形や別の人の中で新しく生き始める、一種の新しい輪廻転生思想が多くの人の心を汚染し、神の御旨中心に真摯に生きるキリスト教信仰を全面的に受け入れ、それに従うのを難しくしているのではないでしょうか。先進国の現代人相手に宣教するには、漫画によって広められつつある新しいバーチャルな世界観・人生観・人間観などを弄び、ある意味では夢を見ているようになっている現代人の心を、まず実在する苦しみの世の厳しい現実に、はっきりと目覚めさせる体験が必要なのではないかと思われます。夢を見ている人の心には、どんなによく整っている論理も、そのままでは通用しないことが多いそうです。全ては今見ている夢の立場で、変形されてしまうからでしょう。洗礼の秘跡による救いの恵みは、生まれながらの自分中心の命や生き方に死んで、神の御旨中心の主キリストの新しい命や生き方に生かされ、神に対する従順と自己犠牲的奉仕愛の実践によって神から注がれると教わりましたが、夢のようなバーチャル世界に遊んでいるような心の現代人は、余程しっかりと苦しみの世の現実に目覚めて悔い改めに努めなければ、神による救いの恵みを受けることができないのではないでしょうか。

   現代の教会は、その宣教活動の内に、これまでにはなかったこういう全く新しい問題も抱えていると思います。本日の福音の中で主イエスは、一般社会に流布している支配様式を述べた後に、「しかし、(中略) あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。云々」と、一般社会とは対照的に異なる全く新しい仕方で教会活動を為すよう命じておられます。同じ主イエスは、全世界的現代文明・現代思潮の中に生活している人たちに対する宣教活動においても、一般社会の思想的流れや生き方とは全く異なる神への従順中心の生活に根ざした立場にしっかりと立つことから始めるよう、強く望んでおられるのではないでしょうか。福音宣教に従事する人たちが一人でも多く、神なる主のこのような御要望をしっかりと心に受け止め、神の霊に導かれ支えられて福音宣教の実績をあげるよう、豊かな恵みを祈り求めつつ本日のミサ聖祭を献げましょう。

2012年10月14日日曜日

説教集B年:2009年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書: . 智恵の書 7: 7~11.     . ヘブライ 4: 12~13.  
        . マルコ福音 10: 17~30.

   本日の第一朗読である知恵の書は、紀元前1世紀に当時のエジプトの首都アレキサンドリアに住むユダヤ人によって執筆されたと考えられています。アレキサンダー大王の時以来エジプトを征服し支配しているギリシャ系のプトレマイオス王朝は、被支配者の人口に比べてギリシャ人の少ないのをカバーするため、隣国のユダヤ人を優遇して大勢エジプトに移住してもらい、軍事面でも行政面でも活躍させていました。それで紀元前1世紀頃には、アレキサンドリアの町の五つの区画のうち、二つはユダヤ人街になっていたと言われています。有能で支配者に対して忠実であったこの頃のエジプトのユダヤ人たちは、経済的に豊かであっただけでなく、時間的余裕を利用して既にギリシャ語に翻訳された聖書もよく研究し、高い教養を持つ人たちが少なくなかったと思われます。知恵の書は、そういうユダヤ人によってギリシャ語で書かれたと考えられます。それで、エジプトでは聖書とされていても、ユダヤのラビたちには聖書と見なされていません。ヘブライ語で書かれたものでないからだと思います。

   神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであります。ですから執筆者は神に祈ったのであり、神から知恵の霊を授けられたのです。この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が、私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵はここでは生きている存在として描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人のこの世的智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。

   主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられますが、最後の晩餐の時には「真理の霊」の派遣を約束なさり、その方が「あなた方を導いて真理を悉く悟らせる。云々」と、その知恵の霊、神よりの生きる存在として話しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとして、神よりの啓示までも人間の理性だけで批判的に解釈するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの生きる智恵に生かされ信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を体験に基づいて悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程綿密にキリスト教を研究し、その外殻を明らかにしてみても、知り得ないものだと思います。

   本日の第二朗読でも、第一朗読の「智恵」のように「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」は、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。主は私たちの心の思いや悩みや望みなどを全て見通しておられる方ですので、くどくどと多く申し上げる必要はありません。全てを主に委ねて、ただ主に対する幼子のように素直な信頼と愛と従順の心を申し上げましょう。主の御言葉の種が、心にしっかりと根を下ろし、豊かな実を結ぶに到りますように。

   古い思い出になりますが、私が小学生であった昭和15年頃に「個人主義は捨てましょう」という呼びかけや、「新体制」という言葉を、社会でも学校でも度々耳にしたことがあります。日本の小学校はその翌年から「国民学校」と改称され、国のために命を捧げる軍国主義教育が盛んになりましたが、我なしのそういう教育を受け、国のため皆で助け合って生きる共同体精神に慣れていた、生真面目な性格の私は、戦争に負けて民主主義が鼓吹され、自由主義・個人主義が学校でも社会でも広められて来ると、敗戦で極度に貧しくなった社会にも道義心の乱れが酷くなったこともあって、そんな日本社会に生き甲斐が感ぜられなくなり、心理的ストレスのためか、中学4年の頃は学校から帰宅すると腰に痛みを覚え、よく横になっていました。しかし、社会の大きな過渡期に一年間ほど続いたこの悩み体験がプラスに働いたのか、中学5年の夏にカトリック教会で受洗し、半年後に多治見の修道院に入って司祭職への道を目指すようになったら、内的には大きな喜びと意欲と自由を覚えるようになりました。心の奥底が神のため福音のために自分の一生を捧げるという精神にしっかりと束縛されると、その目的以外の全てのものから、私自身からも自由になれます。私たちの心に本当の喜びを齎す自由とは、こういうものだと思います。

   今の日本社会には、戦後の自由主義・個人主義・能力主義の教育を受け、社会に出ても能率主義で競わされる生活を続けて来た人たちの中で、うつ病になっている人が少なくないそうです。特に真面目に努力して来た生真面目な性格の人間が、ある時に急に全てが恐ろしい程虚しく感じられる虚脱感に襲われ、過激な反社会的行動に走ったりするのだそうです。そういう話を耳にすると、同様に生真面目人間だった私は、カトリック信仰の恵みに浴し、神様に救って戴いたのだという感謝の念を新たに致します。最近の医者たちの中には、「燃え尽き症候群」という診断を下す例も増えて来ているそうです。全世界的な情報の流れの中で、小さな自分の力で自分中心の生き方を続けていると、やがて自分の夢も意欲も熱情も消えて、深い不安と無力感の内に全てが嫌になってしまう症状のようです。自分の力で生きるエネルギーが燃え尽きてしまう所に、原因があるのだと思います。最近自死する人が増えている一つの要因は、その病気にあるそうです。

   もし私がカトリック信仰の恵みに浴さず、小さき聖テレジアの「幼子の道」を知らずにいたなら、私も同様の悩みを抱えていたことでしょう。私はその「燃え尽き症候群」に対する一番効果的な治療法は、憐み深い神現存の信仰と、小さき聖テレジアの「幼子の道」にあると思います。神に対する頭の信仰では足りません。隠れた所から自分に伴い自分の生活の全てを見ていて下さる神に対する、生活実践に根ざした信仰が必要だと思います。小さき聖テレジアのように、自分の計画、自分の夢というようなものは持たず、何事にもただ神の導きに心の眼を向け、神に縋り、神の働きの器のようになって人々に、また社会に奉仕しようと努める時、自分中心主義に根差すそういう症状から完全に解放されるに至ると信じます。私たちも福音のため、そういう神中心の生き方を世の人々に実践的に証しするよう心がけましょう。それが、現代において神の知恵の霊に生かされる道であると信じます。

2012年10月7日日曜日

説教集B年:2009年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: . 創世記 2: 18~24.     . ヘブライ 2: 9~11.  
              . マルコ福音 10: 2~16.

   本日の第一朗読は、神から示された幻示を描写した一種の神話ですが、そこには神の意図しておられる人間像が示されています。それまでの無数の生き物とは違って、神が「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。そして全てを支配させよう」とおっしゃってお創りになった人間は、この神話から察すると、万物の霊長として創造されたのだと思います。神はそれまでの動物たちの場合とは違って、人間の場合には特別に、「その鼻に命の息を吹き入れ」て、原文を直訳しますと「生きる魂」としておられるからです。続いて神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃいました。このお言葉から察しますと、人間は独りではまだ未完成であると思われます。神はまず獣や鳥などを次々とその人の前に連れて来て、人が「それをどう呼ぶか見ておられた」とありますが、「呼ぶ」ことは名をつけることで、名づけたものの主人になることを意味していました。こうして人はすべての生き物の主人として振舞うようになりました。しかし、それらの生き物の中には、まだ自分と対等に助け合い愛し合うことのできる者は見つけられませんでした。思うに、神はこのようにしてその人に、対等の話し相手、愛し合う相手がいない時の孤独感を味わわせたのだと思います。

   それから神は、その人を深い眠りに陥れ、いわば死の状態にしてから、そのあばら骨の一つで女を創り上げ、眠りから覚めたその人の所へ連れて来ました。すると、その人は「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」といって喜び、「女と呼ぼう。男から取られたものだから」と言ったとあります。察するにその人アダムには、神が深い眠りの状態にある自分のあばら骨の一つで女を創り上げるのを、幻示で知らされたのではないでしょうか。とにかく神の意図された人間の創造は、こうして男と女が互いに相手を理解し愛し合って生きる存在、相互に支え合い助け合う一つの共同体となって、神の愛の内に生き始めることにより、一応完成したのだと思います。現代においても、人間は家庭的愛の共同体の内に成長して一人前の人間になり、男と女がそれぞれ相互に助け合う愛により、共に一つの共同体形成に協力し合う時に初めて、神が初めに意図なされた「人間」の状態になるのだと思います。しかし核家族化が進み、夫婦共働きという家庭が多い現代には、外的物質的には豊かでも、家族一緒の会話や寛ぎの時間が少なすぎて、無償奉仕の家庭的愛の喜びや人間としての命の生き甲斐を見出せずにいる人も増えているのではないでしょうか。この世に人間としての生を享けたことの喜びを見出せず、深い感謝と明るい希望の内に生活できずにいる人の多いことは、残念至極です。

   自由主義・個人主義の教育を受けた現代の人たちは、「愛」という言葉で、自分の好みや楽しみを中心とする感情的な愛、情愛を考え勝ちのようですが、聖書が教えている愛は、そこに自分の生き甲斐を実感させるような、献身的奉仕の愛、意志の愛を意味していると思います。創世記に描かれている最初の人間アダムは、まず深い孤独を味わった後に自分の骨から創造され対等に話し合うことのできる最初の女イヴに出逢った時、その女に親切を尽くすことに自分の人生の生き甲斐を見出し、大きな喜びと感動の内に、「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と叫んだのではないでしょうか。私たち人間の生命は、本来自分の望み中心に他者や万物を利用し支配するためにではなく、他者に献身的に奉仕し他者に喜んでもらう愛に生きるために、神から創造されたのだと思います。人間は勿論動植物にも献身的愛をもって奉仕することができますが、しかし、対等に話し合うことのできない彼らへの一方的奉仕だけでは満足できず、心に深い孤独を覚えるように人間は創られているのかも知れません。勿論その孤独の内にも、創り主であられる神と共に生きるという献身的愛の生き方もありましょうが、しかし、神はもう一人の女という人間を創造なさることにより、人間が日々目に見える体験を介して奉仕的愛に成長し、その愛の行為によって人類の人口が増加し、遂にはその献身的愛が世界中に広まるようお定めになりました。日本語の「親切」という言葉は、本来は自らを切るという意味合いを持つ熟語だそうで、自らを犠牲にして奉仕することにより、いかに多くの恵みを他者にまた自分の心に齎すことができるかを体験した人たちが、造り出した単語なのかも知れません。

   私たち独身の修道者たちは、全ての人がいずれ皆そこに所属するよう神から召されている「キリストの神秘体」という、個々の家族よりは遥かに大きくて崇高な神の愛の来世的共同体のメンバーになって、この世で福音のために生きるよう、神から特別に召されていると思います。洗礼と修道誓願の宣立で既にそのメンバーになっている私たちは、全ての人がキリストの愛の内に皆一つの共同体になって生きる、そういう永遠に続く共同体に召されていることと、過ぎ行くこの世の結婚生活はそのための一つの準備であり、配偶者の不在や死別などで結婚生活ができなくても、信仰と神の愛の生活に励むことにより、神の意図しておられる永遠に続く愛の共同体に入れてもらえることとを、世の人々に証しするために、修道生活を営んでいるのだと考えます。全ての人は、究極においては過ぎ行くこの世の儚い結婚生活のためにではなく、永遠に続くその大きな愛の共同体の中で仕合せに生きるために神から創造されたのであり、これが、神が本来意図しておられる人間像だと思います。この世の結婚者も独身者も、皆神の愛に成長することにより、その来世的共同体に入るよう召されているのです。聖ベルナルドはこのような信仰の立場に立って、婚約神秘主義と称されたその愛の思想を力説しています。

   本日の第二朗読は、多くの人をその来世的愛の共同体の「栄光へと導くために」死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に生来自分中心の強い傾きをもっている人の多いこの世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人は、多くの人の罪を背負って苦しめられることを教えているのではないでしょうか。しかし、その苦しみを通して心は鍛えられ、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる試練や苦難を嫌がらず、逃げ腰にならないよう心がけましょう。神は私たちを特別に愛しておられるので、時としてそのような苦しみで私たちの心をまだ奥底に残っている罪の穢れから浄化し鍛え上げて、主キリストの栄光の内に一層美しく照り輝くようにして下さるのだと信じます。思わぬ苦しみに出あうと、自分の過去の行いや自分が他者に為したことにだけ眼を向け、理性の考える原因結果の原理を中心にして、どこからこの苦しみが来たのかと考え、他人と比較したり他人を疑ったりする人が多いようですが、思わぬ苦しみに襲われた時はすぐに神に心の眼を向け、その苦しみの背後に現存し私たちの心にそっと温かいまなざしを注いでおられる神に、一言感謝の言葉を申し上げましょう。それが、主キリストとの内的一致を深める道だと思います。神は、その苦しみに耐え抜く力も与えて下さいます。

2012年10月3日水曜日

説教集B年:2009年10月3日の五百旗頭家の追悼ミサ(浜松で)

朗読聖書: Ⅰ. ローマ8: 18~25.
                   . ヨハネ福音 1: 1~2,24.

     51年前に帰天なされたヨゼフ五百旗頭真治郎様と、12年前に帰天なされたその夫人マリア英子様を、祈りの内に感謝の心で偲び、記念する本日のミサでは、死んだら私たちの霊魂はどのような状態で肉身の復活を待望し、また復活の後にはどのようになるのかなどについて、カトリック教会の伝統から少し学んでみたいと思います。1955年に南山大学を卒業した私は、58年春に神戸大学経済学部を定年退職退職なされて、南山大学社会学部長に就任なされた真治郎様には一度も御目にかかっていません。しかし、真治郎様のお弟子と聞く斎藤隆助氏には大学一年の時に経済を教わっていますし、後に南山大学教授となった杉山俊治氏や、度々南山大学に出講してくれた野尻武敏氏ら、真治郎様のお弟子たちとは親しくしていましたので、真治郎様のことは間接的に多少お聞きしていました。またシュク川教会の所属で度々南山大学に来訪された経済学者飯島バンジ氏とも親しくしていて、二度ほどそのご自宅を訪れたことがあり、その方たちから聞いた話によりますと、終戦直後の頃わが国ではマルキシズム経済学が非常に盛んになって、関東でも関西でも大学の経済学部はマルキシズム経済学一色になりつつあるので、それに強く反対していた神戸大学と慶応義塾大学では、名古屋の南山大学でもマルキシズムに反対する経済学部を設置してもらおうと話し合い、南山大学がその呼びかけを受け入れると、真治郎様がまずは既に設置されている社会学部の部長として就任し、経済学部設置の準備に着手なされたのだそうです。神戸と慶応の両大学の協力で南山に経済学部が創設されたのは1960年ですから、真治郎様の没後になりましたが、その創設の為最初にいろいろとご尽力して下さった真治郎様には、この場を借り南山大学に代わって厚く感謝申し上げます。

     さて話はあの世の事になりますが、十数年前頃だったでしょうか、マスコミに臨死体験や超能力、心霊写真や霊能者・陰陽師などが頻繁に登場するようになりましたら、「死んだらどうなるの」、「カトリック教会ではどう考えているの」などという質問を受けるようになりました。私はそのような質問を受けると、神学生時代に恩師トナイク神父から聞いた言葉、すなわち「これまでの神学はいつも過去の由来や伝統に眼を向け勝ちであったが、これからはもっと将来に眼を向け、目的論の立場で考究する必要があると思う。そこから神学の未来が大きく開けて来るであろう」という言葉を懐かしく思い出します。神が何のためにこの広大な宇宙やこのような水の惑星地球を創造し、そこにその御独り子を派遣なされたのか、天使や人間は何のために永遠に存在するものとして創造されたのかなどについて、目的論の立場からもっと深く考えてみる必要があるということ以外に、神父は別に詳しい説明はしませんでしたが、このヒントは、その後の私のカトリック信仰理解にいろいろと影響を及ぼしていたように思います。そこでこの目的論の立場から、その後の私の心に去来した少し大胆な想像を紹介してみましょう。

     私が南山大学3年次に受講したドイツ人の教育学者ヘルデマン神父は、ある日の講義の中で、我々の人生はこの世だけで終わるものではなく、この世の人生はそのまま死後の人生に霊的に継続され、永遠に神目指して昇って行くものであると、カトリックの伝統に基づいて話したのを、私は感銘深く傾聴したことがあります。神父はその時、この世の人生はこの世で終わり、あの世はまた初めから新たに始まると考える二元論を厳しく退け、あの世の永遠に続く真の人生のため、この世にいる時から絶えず精神を準備し、鍛えるように心がけなければならないと強調していました。実際、カトリックの伝統的教えによると、この世で神目指して昇る人生を営んだ人は、死後もその上昇勾配を維持しながら神目指して高く上り続けるでしょうし、この世で神に徹底的に背を向ける路線を選び続けた人は、死後もその路線を進んでますます神から離れて行くことでしょう。この世の人生が既に胎児の時から始まっているように、死の闇を通って生まれ出る私たちのあの世の人生も、既にこの世にいる時から始まっており、使徒パウロがコリント前書15章に詳述しているように、この世で蒔いたものがあの世で永遠に続く素晴らしい体に復活するのだと思います。

     創世記によると、天と地、すなわち霊界と物質界とを創造なされた神は、物質界宇宙の万物を次々と生成発展させて、動植物も、また人間の生存活躍の地盤や環境も整えた後に、ご自身に似せて人間をお創りになったようですが、各人は、140億年とも言われているこの宇宙の歴史に比べてはあまりにも短い、数十年あるいは百年余の期間だけこの世に生息するために創られたのではなく、本来「神のように」永遠に生きるため、永遠に自由に考え愛し支配するために、神から特別の愛をもって創られたのではないでしょうか。それが、創世記の「神はご自身にかたどって人を創造された」(創、1:27)という言葉の意味だと思います。私たち各人の霊魂の奥底には、そのような自由と愛と自主性に対する根強い憧れが神ご自身によって本性的に組み込まれており、か弱い女子供であっても、それを頭から無視し押さえ込もうとする外からの力に対しては、時として命をかけるほどの強い抵抗を示すことがあります。私たちのこの世での短い人生は、永遠に続く本来の人生に入る前段階であり、言わば地に蒔かれた種の段階、昆虫の蛹の段階、あるいは動物の卵や胎児の段階のようなものだと思います。私たち各人は皆、あの世に生まれ出た後には、神のように「天」と「地」、霊界と物質界との接点にあって、その両方の世界に両足でしっかりと立ちながら、神の御許で神のため、神と共に永遠に万物を観察し愛し、「神の子」として自主的に支配する使命を神から戴いていると思います。この世の命の死は、その輝かしい真の人生の世界へと生まれ出るために通過する、暗いトンネルのような所と考えてよいのではないでしょうか。

     最近らせん状に2本の鎖に連なる人間のDNA、いわゆるヒトゲノムの30億にも達する塩基の配列が全部解読されましたが、その内onの状態になっている遺伝子は7%、32千ほどだけで、残りの93%はoffの状態になっており、どういう機能を持つものかまだ判っていないと聞きます。しかし、神がそんなに多くの塩基を全ての人間に無駄にお与えになっているとは思われませんので、私は勝手ながら、この世でoffの状態になっているそれらの遺伝子は、この世の時間空間の枠から解放された来世で、永遠に続く人生のために与えられている遺伝子だと考えています。私が神学生時代から長年親しくしていたオランダ人のファンザイル神父は、子供の時から時間空間の制約を超えて、遠く離れている所にある水や、他人の忘れ物や、知人の将来の死などについてしばしば正しく言い当てていましたが、それらは皆そのようなあの世的遺伝子による超能力だと思います。それらは私たちも皆、既に神から戴いている眠れる能力であり、主キリストの栄光に満ちた再臨によって、もはや死ぬことのないあの世の体に復活する時に働き出すのだと考えます。ですから私は、私たちのあの世の人生については、大きな明るい希望を持って生活しています。

     しかし、肉身ごとあの世の不死の生命に復活したと信じられている主キリストと聖母マリアとを別にしますと、肉身を離れてあの世に移った人間の霊魂たちは、本来肉と霊とから成る人間としてはまだ不完全な過渡的状態、言わば「死の状態」に置かれているのですから、メシアが再臨してこの世の全てを新たにし、この世に生を受けた全ての人を復活させる終末の日までは、まだ人間としての十全な活躍も、思う存分自由な移動などもできず、ひたすら静かに終末の時の復活を、さまざまの夢と憧れの内に待望しているのではないでしょうか。その霊魂たちは、まだこの世に残っている親しい人々の幸せのために祈ることも、この世の人々の祈りに慰められ助けられることもできる状態にあり、時にはそっとこの世の人々を守り助け導くこともあると信じます。意識は失っていないのですから。この世の肉身が灰となり完全に失われてしまっても、一度この世に生を受けたことのある霊魂は、既に自分独自の肉身とその遺伝子への志向性を保持していますから、肉身は完全に消滅していても、終末の日には再び自分の遺伝子を持つ肉身に、しかもその成熟した大人の姿に復活することになる、とカトリック教会の伝統は教えています。

     13世紀の優れた神学者聖トマス・アクィナスは、自分の肉身への志向性を持つそのような霊魂を、anima assignata と呼んでいます。私はこの事について、わが国における聖トマス研究の第一人者であった山田晶氏と親しく話し合ったことがあります。霊魂が自分の体に対して持つその志向性は、人間としての生を受けて懐妊された時に霊魂に与えられる遺伝子のようなものと考えてよいと思います。それで聖書にも描かれているように、胎児も人間であるというのが教会の伝統的教えです。では、一度もこの世に生まれ出ていない胎児の成熟した大人の姿をどうして見分けるのか、などという質問を抱く人がいるかも知れません。最近の科学機器でも独自の電波発信機を取り付けた人や動物が今どこにいるかを探知することができますが、私は、あの世ではそれよりも遥かに正確に、自分の身内や知人が今宇宙のどこにいるかを瞬時に見分ける能力を、各人の持つ遺伝子の内に保持していると考えます。各人はそれぞれ全く独自の遺伝子を与えられている、言わば一つの独立した小宇宙のようなものでしょうから、教会はたとえ胎児の命であろうとも、神からの二つとない全く独自の恵み故に、それを大切にするよう伝統的に心がけています。メシア再臨の日にその栄光に照らされて復活した人たちは、ちょうど2000年前のメシアの復活体と同様に、今も際限なく膨張しつつあるこの宇宙の至る所を神出鬼没に自由に移動しつつ、あらゆる風景や生物などを存分に観察したり、神に讃美と感謝を捧げたりして、神の子キリストの栄光に浴して輝く新しい宇宙の全被造物と共に、永遠に幸福に生き続けるのではないでしょうか。主イエスと聖母マリアの復活体は、すでにご自身の受け継いだ遺伝子を全てonにして永遠に生きる人間となっておられますから、今ある宇宙の神秘もこの世の人類の歴史についても、神に次いで誰よりも詳しく知っておられると思います。そして悲惨な出来事などが発生した時には、人間として涙を流しておられると思います。

     先程ここで朗読されたように、使徒パウロは神から与えられる私たち人間の栄光について、「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思います。被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます」「被造物も、滅びるものへの隷属状態から解放されて、神の子らの栄光ある自由に参与するからです」などと述べていますが、私たちはその時、近年ますます深く解明されつつある大宇宙の神秘も、各種生命の神秘も、また神の子らの栄光に参与して、新しく完全な共存共栄の内に永遠に発展し始める動植物の美しい輝きについても、あるがままに詳細に観測することができ、大きな感動と喜びのうちに神の全能と叡智と愛を讃美し、全被造物と共に神に永遠に感謝の讃歌を捧げるのではないでしょうか。そして時には、主キリストを頭とする巨大な交響楽団や合唱団のようになって、父なる神に礼拝・讃美・感謝の大交響曲を奏でたり、大合唱を捧げたりするのではないでしょうか。ヨハネの黙示録を読む時、私の脳裏にはそのような想像も去来します。

     既にあの世に移っておられる真治郎様、英子様の御霊魂は、他の無数の死者たちの霊魂と同様に「死の状態」という制約の下に留められていても、将来の栄光に輝く復活の時を大きな明るい希望のうちに待っており、この世に残されている私たちのためにも陰ながら配慮し、祈っていて下さると信じます。こうしてミサを捧げてそのお幸せを祈ることにより、あの世の身内の人たちの心の繋がりを深めることは、あの世からの支援を受けるパイプを太くすることにもなると信じます。これからも事ある毎にあの世の霊魂たちのことを思い出したり、その冥福を祈ったりするよう心がけましょう。