2012年10月7日日曜日

説教集B年:2009年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: . 創世記 2: 18~24.     . ヘブライ 2: 9~11.  
              . マルコ福音 10: 2~16.

   本日の第一朗読は、神から示された幻示を描写した一種の神話ですが、そこには神の意図しておられる人間像が示されています。それまでの無数の生き物とは違って、神が「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。そして全てを支配させよう」とおっしゃってお創りになった人間は、この神話から察すると、万物の霊長として創造されたのだと思います。神はそれまでの動物たちの場合とは違って、人間の場合には特別に、「その鼻に命の息を吹き入れ」て、原文を直訳しますと「生きる魂」としておられるからです。続いて神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃいました。このお言葉から察しますと、人間は独りではまだ未完成であると思われます。神はまず獣や鳥などを次々とその人の前に連れて来て、人が「それをどう呼ぶか見ておられた」とありますが、「呼ぶ」ことは名をつけることで、名づけたものの主人になることを意味していました。こうして人はすべての生き物の主人として振舞うようになりました。しかし、それらの生き物の中には、まだ自分と対等に助け合い愛し合うことのできる者は見つけられませんでした。思うに、神はこのようにしてその人に、対等の話し相手、愛し合う相手がいない時の孤独感を味わわせたのだと思います。

   それから神は、その人を深い眠りに陥れ、いわば死の状態にしてから、そのあばら骨の一つで女を創り上げ、眠りから覚めたその人の所へ連れて来ました。すると、その人は「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」といって喜び、「女と呼ぼう。男から取られたものだから」と言ったとあります。察するにその人アダムには、神が深い眠りの状態にある自分のあばら骨の一つで女を創り上げるのを、幻示で知らされたのではないでしょうか。とにかく神の意図された人間の創造は、こうして男と女が互いに相手を理解し愛し合って生きる存在、相互に支え合い助け合う一つの共同体となって、神の愛の内に生き始めることにより、一応完成したのだと思います。現代においても、人間は家庭的愛の共同体の内に成長して一人前の人間になり、男と女がそれぞれ相互に助け合う愛により、共に一つの共同体形成に協力し合う時に初めて、神が初めに意図なされた「人間」の状態になるのだと思います。しかし核家族化が進み、夫婦共働きという家庭が多い現代には、外的物質的には豊かでも、家族一緒の会話や寛ぎの時間が少なすぎて、無償奉仕の家庭的愛の喜びや人間としての命の生き甲斐を見出せずにいる人も増えているのではないでしょうか。この世に人間としての生を享けたことの喜びを見出せず、深い感謝と明るい希望の内に生活できずにいる人の多いことは、残念至極です。

   自由主義・個人主義の教育を受けた現代の人たちは、「愛」という言葉で、自分の好みや楽しみを中心とする感情的な愛、情愛を考え勝ちのようですが、聖書が教えている愛は、そこに自分の生き甲斐を実感させるような、献身的奉仕の愛、意志の愛を意味していると思います。創世記に描かれている最初の人間アダムは、まず深い孤独を味わった後に自分の骨から創造され対等に話し合うことのできる最初の女イヴに出逢った時、その女に親切を尽くすことに自分の人生の生き甲斐を見出し、大きな喜びと感動の内に、「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」と叫んだのではないでしょうか。私たち人間の生命は、本来自分の望み中心に他者や万物を利用し支配するためにではなく、他者に献身的に奉仕し他者に喜んでもらう愛に生きるために、神から創造されたのだと思います。人間は勿論動植物にも献身的愛をもって奉仕することができますが、しかし、対等に話し合うことのできない彼らへの一方的奉仕だけでは満足できず、心に深い孤独を覚えるように人間は創られているのかも知れません。勿論その孤独の内にも、創り主であられる神と共に生きるという献身的愛の生き方もありましょうが、しかし、神はもう一人の女という人間を創造なさることにより、人間が日々目に見える体験を介して奉仕的愛に成長し、その愛の行為によって人類の人口が増加し、遂にはその献身的愛が世界中に広まるようお定めになりました。日本語の「親切」という言葉は、本来は自らを切るという意味合いを持つ熟語だそうで、自らを犠牲にして奉仕することにより、いかに多くの恵みを他者にまた自分の心に齎すことができるかを体験した人たちが、造り出した単語なのかも知れません。

   私たち独身の修道者たちは、全ての人がいずれ皆そこに所属するよう神から召されている「キリストの神秘体」という、個々の家族よりは遥かに大きくて崇高な神の愛の来世的共同体のメンバーになって、この世で福音のために生きるよう、神から特別に召されていると思います。洗礼と修道誓願の宣立で既にそのメンバーになっている私たちは、全ての人がキリストの愛の内に皆一つの共同体になって生きる、そういう永遠に続く共同体に召されていることと、過ぎ行くこの世の結婚生活はそのための一つの準備であり、配偶者の不在や死別などで結婚生活ができなくても、信仰と神の愛の生活に励むことにより、神の意図しておられる永遠に続く愛の共同体に入れてもらえることとを、世の人々に証しするために、修道生活を営んでいるのだと考えます。全ての人は、究極においては過ぎ行くこの世の儚い結婚生活のためにではなく、永遠に続くその大きな愛の共同体の中で仕合せに生きるために神から創造されたのであり、これが、神が本来意図しておられる人間像だと思います。この世の結婚者も独身者も、皆神の愛に成長することにより、その来世的共同体に入るよう召されているのです。聖ベルナルドはこのような信仰の立場に立って、婚約神秘主義と称されたその愛の思想を力説しています。

   本日の第二朗読は、多くの人をその来世的愛の共同体の「栄光へと導くために」死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に生来自分中心の強い傾きをもっている人の多いこの世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人は、多くの人の罪を背負って苦しめられることを教えているのではないでしょうか。しかし、その苦しみを通して心は鍛えられ、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる試練や苦難を嫌がらず、逃げ腰にならないよう心がけましょう。神は私たちを特別に愛しておられるので、時としてそのような苦しみで私たちの心をまだ奥底に残っている罪の穢れから浄化し鍛え上げて、主キリストの栄光の内に一層美しく照り輝くようにして下さるのだと信じます。思わぬ苦しみに出あうと、自分の過去の行いや自分が他者に為したことにだけ眼を向け、理性の考える原因結果の原理を中心にして、どこからこの苦しみが来たのかと考え、他人と比較したり他人を疑ったりする人が多いようですが、思わぬ苦しみに襲われた時はすぐに神に心の眼を向け、その苦しみの背後に現存し私たちの心にそっと温かいまなざしを注いでおられる神に、一言感謝の言葉を申し上げましょう。それが、主キリストとの内的一致を深める道だと思います。神は、その苦しみに耐え抜く力も与えて下さいます。