2012年10月3日水曜日

説教集B年:2009年10月3日の五百旗頭家の追悼ミサ(浜松で)

朗読聖書: Ⅰ. ローマ8: 18~25.
                   . ヨハネ福音 1: 1~2,24.

     51年前に帰天なされたヨゼフ五百旗頭真治郎様と、12年前に帰天なされたその夫人マリア英子様を、祈りの内に感謝の心で偲び、記念する本日のミサでは、死んだら私たちの霊魂はどのような状態で肉身の復活を待望し、また復活の後にはどのようになるのかなどについて、カトリック教会の伝統から少し学んでみたいと思います。1955年に南山大学を卒業した私は、58年春に神戸大学経済学部を定年退職退職なされて、南山大学社会学部長に就任なされた真治郎様には一度も御目にかかっていません。しかし、真治郎様のお弟子と聞く斎藤隆助氏には大学一年の時に経済を教わっていますし、後に南山大学教授となった杉山俊治氏や、度々南山大学に出講してくれた野尻武敏氏ら、真治郎様のお弟子たちとは親しくしていましたので、真治郎様のことは間接的に多少お聞きしていました。またシュク川教会の所属で度々南山大学に来訪された経済学者飯島バンジ氏とも親しくしていて、二度ほどそのご自宅を訪れたことがあり、その方たちから聞いた話によりますと、終戦直後の頃わが国ではマルキシズム経済学が非常に盛んになって、関東でも関西でも大学の経済学部はマルキシズム経済学一色になりつつあるので、それに強く反対していた神戸大学と慶応義塾大学では、名古屋の南山大学でもマルキシズムに反対する経済学部を設置してもらおうと話し合い、南山大学がその呼びかけを受け入れると、真治郎様がまずは既に設置されている社会学部の部長として就任し、経済学部設置の準備に着手なされたのだそうです。神戸と慶応の両大学の協力で南山に経済学部が創設されたのは1960年ですから、真治郎様の没後になりましたが、その創設の為最初にいろいろとご尽力して下さった真治郎様には、この場を借り南山大学に代わって厚く感謝申し上げます。

     さて話はあの世の事になりますが、十数年前頃だったでしょうか、マスコミに臨死体験や超能力、心霊写真や霊能者・陰陽師などが頻繁に登場するようになりましたら、「死んだらどうなるの」、「カトリック教会ではどう考えているの」などという質問を受けるようになりました。私はそのような質問を受けると、神学生時代に恩師トナイク神父から聞いた言葉、すなわち「これまでの神学はいつも過去の由来や伝統に眼を向け勝ちであったが、これからはもっと将来に眼を向け、目的論の立場で考究する必要があると思う。そこから神学の未来が大きく開けて来るであろう」という言葉を懐かしく思い出します。神が何のためにこの広大な宇宙やこのような水の惑星地球を創造し、そこにその御独り子を派遣なされたのか、天使や人間は何のために永遠に存在するものとして創造されたのかなどについて、目的論の立場からもっと深く考えてみる必要があるということ以外に、神父は別に詳しい説明はしませんでしたが、このヒントは、その後の私のカトリック信仰理解にいろいろと影響を及ぼしていたように思います。そこでこの目的論の立場から、その後の私の心に去来した少し大胆な想像を紹介してみましょう。

     私が南山大学3年次に受講したドイツ人の教育学者ヘルデマン神父は、ある日の講義の中で、我々の人生はこの世だけで終わるものではなく、この世の人生はそのまま死後の人生に霊的に継続され、永遠に神目指して昇って行くものであると、カトリックの伝統に基づいて話したのを、私は感銘深く傾聴したことがあります。神父はその時、この世の人生はこの世で終わり、あの世はまた初めから新たに始まると考える二元論を厳しく退け、あの世の永遠に続く真の人生のため、この世にいる時から絶えず精神を準備し、鍛えるように心がけなければならないと強調していました。実際、カトリックの伝統的教えによると、この世で神目指して昇る人生を営んだ人は、死後もその上昇勾配を維持しながら神目指して高く上り続けるでしょうし、この世で神に徹底的に背を向ける路線を選び続けた人は、死後もその路線を進んでますます神から離れて行くことでしょう。この世の人生が既に胎児の時から始まっているように、死の闇を通って生まれ出る私たちのあの世の人生も、既にこの世にいる時から始まっており、使徒パウロがコリント前書15章に詳述しているように、この世で蒔いたものがあの世で永遠に続く素晴らしい体に復活するのだと思います。

     創世記によると、天と地、すなわち霊界と物質界とを創造なされた神は、物質界宇宙の万物を次々と生成発展させて、動植物も、また人間の生存活躍の地盤や環境も整えた後に、ご自身に似せて人間をお創りになったようですが、各人は、140億年とも言われているこの宇宙の歴史に比べてはあまりにも短い、数十年あるいは百年余の期間だけこの世に生息するために創られたのではなく、本来「神のように」永遠に生きるため、永遠に自由に考え愛し支配するために、神から特別の愛をもって創られたのではないでしょうか。それが、創世記の「神はご自身にかたどって人を創造された」(創、1:27)という言葉の意味だと思います。私たち各人の霊魂の奥底には、そのような自由と愛と自主性に対する根強い憧れが神ご自身によって本性的に組み込まれており、か弱い女子供であっても、それを頭から無視し押さえ込もうとする外からの力に対しては、時として命をかけるほどの強い抵抗を示すことがあります。私たちのこの世での短い人生は、永遠に続く本来の人生に入る前段階であり、言わば地に蒔かれた種の段階、昆虫の蛹の段階、あるいは動物の卵や胎児の段階のようなものだと思います。私たち各人は皆、あの世に生まれ出た後には、神のように「天」と「地」、霊界と物質界との接点にあって、その両方の世界に両足でしっかりと立ちながら、神の御許で神のため、神と共に永遠に万物を観察し愛し、「神の子」として自主的に支配する使命を神から戴いていると思います。この世の命の死は、その輝かしい真の人生の世界へと生まれ出るために通過する、暗いトンネルのような所と考えてよいのではないでしょうか。

     最近らせん状に2本の鎖に連なる人間のDNA、いわゆるヒトゲノムの30億にも達する塩基の配列が全部解読されましたが、その内onの状態になっている遺伝子は7%、32千ほどだけで、残りの93%はoffの状態になっており、どういう機能を持つものかまだ判っていないと聞きます。しかし、神がそんなに多くの塩基を全ての人間に無駄にお与えになっているとは思われませんので、私は勝手ながら、この世でoffの状態になっているそれらの遺伝子は、この世の時間空間の枠から解放された来世で、永遠に続く人生のために与えられている遺伝子だと考えています。私が神学生時代から長年親しくしていたオランダ人のファンザイル神父は、子供の時から時間空間の制約を超えて、遠く離れている所にある水や、他人の忘れ物や、知人の将来の死などについてしばしば正しく言い当てていましたが、それらは皆そのようなあの世的遺伝子による超能力だと思います。それらは私たちも皆、既に神から戴いている眠れる能力であり、主キリストの栄光に満ちた再臨によって、もはや死ぬことのないあの世の体に復活する時に働き出すのだと考えます。ですから私は、私たちのあの世の人生については、大きな明るい希望を持って生活しています。

     しかし、肉身ごとあの世の不死の生命に復活したと信じられている主キリストと聖母マリアとを別にしますと、肉身を離れてあの世に移った人間の霊魂たちは、本来肉と霊とから成る人間としてはまだ不完全な過渡的状態、言わば「死の状態」に置かれているのですから、メシアが再臨してこの世の全てを新たにし、この世に生を受けた全ての人を復活させる終末の日までは、まだ人間としての十全な活躍も、思う存分自由な移動などもできず、ひたすら静かに終末の時の復活を、さまざまの夢と憧れの内に待望しているのではないでしょうか。その霊魂たちは、まだこの世に残っている親しい人々の幸せのために祈ることも、この世の人々の祈りに慰められ助けられることもできる状態にあり、時にはそっとこの世の人々を守り助け導くこともあると信じます。意識は失っていないのですから。この世の肉身が灰となり完全に失われてしまっても、一度この世に生を受けたことのある霊魂は、既に自分独自の肉身とその遺伝子への志向性を保持していますから、肉身は完全に消滅していても、終末の日には再び自分の遺伝子を持つ肉身に、しかもその成熟した大人の姿に復活することになる、とカトリック教会の伝統は教えています。

     13世紀の優れた神学者聖トマス・アクィナスは、自分の肉身への志向性を持つそのような霊魂を、anima assignata と呼んでいます。私はこの事について、わが国における聖トマス研究の第一人者であった山田晶氏と親しく話し合ったことがあります。霊魂が自分の体に対して持つその志向性は、人間としての生を受けて懐妊された時に霊魂に与えられる遺伝子のようなものと考えてよいと思います。それで聖書にも描かれているように、胎児も人間であるというのが教会の伝統的教えです。では、一度もこの世に生まれ出ていない胎児の成熟した大人の姿をどうして見分けるのか、などという質問を抱く人がいるかも知れません。最近の科学機器でも独自の電波発信機を取り付けた人や動物が今どこにいるかを探知することができますが、私は、あの世ではそれよりも遥かに正確に、自分の身内や知人が今宇宙のどこにいるかを瞬時に見分ける能力を、各人の持つ遺伝子の内に保持していると考えます。各人はそれぞれ全く独自の遺伝子を与えられている、言わば一つの独立した小宇宙のようなものでしょうから、教会はたとえ胎児の命であろうとも、神からの二つとない全く独自の恵み故に、それを大切にするよう伝統的に心がけています。メシア再臨の日にその栄光に照らされて復活した人たちは、ちょうど2000年前のメシアの復活体と同様に、今も際限なく膨張しつつあるこの宇宙の至る所を神出鬼没に自由に移動しつつ、あらゆる風景や生物などを存分に観察したり、神に讃美と感謝を捧げたりして、神の子キリストの栄光に浴して輝く新しい宇宙の全被造物と共に、永遠に幸福に生き続けるのではないでしょうか。主イエスと聖母マリアの復活体は、すでにご自身の受け継いだ遺伝子を全てonにして永遠に生きる人間となっておられますから、今ある宇宙の神秘もこの世の人類の歴史についても、神に次いで誰よりも詳しく知っておられると思います。そして悲惨な出来事などが発生した時には、人間として涙を流しておられると思います。

     先程ここで朗読されたように、使徒パウロは神から与えられる私たち人間の栄光について、「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思います。被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます」「被造物も、滅びるものへの隷属状態から解放されて、神の子らの栄光ある自由に参与するからです」などと述べていますが、私たちはその時、近年ますます深く解明されつつある大宇宙の神秘も、各種生命の神秘も、また神の子らの栄光に参与して、新しく完全な共存共栄の内に永遠に発展し始める動植物の美しい輝きについても、あるがままに詳細に観測することができ、大きな感動と喜びのうちに神の全能と叡智と愛を讃美し、全被造物と共に神に永遠に感謝の讃歌を捧げるのではないでしょうか。そして時には、主キリストを頭とする巨大な交響楽団や合唱団のようになって、父なる神に礼拝・讃美・感謝の大交響曲を奏でたり、大合唱を捧げたりするのではないでしょうか。ヨハネの黙示録を読む時、私の脳裏にはそのような想像も去来します。

     既にあの世に移っておられる真治郎様、英子様の御霊魂は、他の無数の死者たちの霊魂と同様に「死の状態」という制約の下に留められていても、将来の栄光に輝く復活の時を大きな明るい希望のうちに待っており、この世に残されている私たちのためにも陰ながら配慮し、祈っていて下さると信じます。こうしてミサを捧げてそのお幸せを祈ることにより、あの世の身内の人たちの心の繋がりを深めることは、あの世からの支援を受けるパイプを太くすることにもなると信じます。これからも事ある毎にあの世の霊魂たちのことを思い出したり、その冥福を祈ったりするよう心がけましょう。