2012年9月30日日曜日

説教集B年:2009年間第26主日(三ケ日)


朗読聖書: . 民数記 11: 25~29.     . ヤコブ 5: 1~6.  
   . マルコ福音 9: 38~43, 45, 47~48.

   本日の第二朗読は、神を信ずる人たちの間にもいる利己的蓄財に没頭する金持ちたちを、厳しく糾弾する使徒ヤコブの書簡からの引用です。一般社会の不信仰者たちに対する非難ではありません。ヤコブはエルサレムの信徒団を統括し指導する初代司教の要職に就いていましたから、ここでは富裕なユダヤ人の地主たちを念頭に置いて、警告しているのかも知れません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、現代の私たちの教会内にも、貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこる虞があると思います。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、第二朗読にある金持ちたちは、伝統的な各種団体が統率力を失って共同体が内面から瓦解しつつあった、当時の過渡的激動社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。

   これまでの社会倫理の基盤が、打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、そのようにして巧みに大儲けをしている人たちが少なくないことでしょう。殊に近年世界的に広まったネット社会では、自分を隠して相手と交渉したり、契約を結んだり、金を振り込ませたりすることが容易にできるので、悪魔たちはこの文明の利器を各種の詐欺犯罪などに頻繁に利用させているようです。しかし、この世の富、この世の生活の安全を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わない、そのような精神や生き方に、使徒ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人たちや能力ある人たちを優遇して、いつも特別扱いにするような行為は慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。

   本日の福音は、前半と後半の二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちは自分たちの団体や組織に属していない者たちを敵視したり、除外視したりせずに、主の御名を使って悪霊を追い出したり奇跡をなしたりしているなら「私たちの味方」なのだから、その活動を止めさせたりしないようにと命じておられます。このお言葉は、マルコ福音書だけではなく、マタイ福音書にも、ルカ福音書にも読まれますから、福音記者たちは皆、宗教の世界からわが党主義を排斥する主のこの寛大な御精神を重視していたと思われます。

   教会内の世界も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている多くの異教徒たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになりますし、事実、その人たちの信仰に応えて数々の奇跡をなしておられます。心を大きく開いて、そういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。私たちが日々ささげているミサ聖祭の功徳、主キリストによる救いの恵みは、まだ主の御教えをよく知らずにいる純真なその人たちの内に、私たちの所以上に効果的奇跡的に働くかも知れませんが、そのことで気を悪くすることのないよう心がけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、そのような寛大な生き方、すなわち人間側の努力や業績中心に報酬が与えられると考えない生き方を嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛の霊によって生かされている柔軟で温かい「肉の心」を持つように心がけましょう。

   本日の福音の後半は、主を信じている小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への献身的愛の道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを今の世の人たちに示しつつ、明るい希望のうちに生きるよう努めましょう。神はそのように生きる人たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、心で自分の言行を弁明したり、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。自分の心を悩ますその人は、神から派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くにまで来ておられる神に対する、畏敬の念を新たに致しましょう。まだ神中心に生きようとしていない自分の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとっていた人たちがその恵みによって温かい心に変わって行くことも見ることでしょう。