2009年11月29日日曜日

説教集C年: 2006年12月3日、待降節第1主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 33: 14~16.  Ⅱ. テサロニケ前 3: 12 ~ 4: 2.
     Ⅲ. ルカ福音 21: 25~28, 34~36.

①主イエスの誕生を祝う降誕祭の前に置かれている、四つの日曜日を含む待降節という典礼期間には二つの意味があって、一つは救い主の人類社会への降誕をふさわしく歓迎し祝う降誕祭の準備期間という意味であり、もう一つは、終末の時の主キリストの第二の来臨を待望し、そのための心の準備を整える期間という意味であります。待降節の前半、すなわち12月16日までの典礼は、終末時の主の再臨を待望し、そのために私たちの心を準備することを主題としています。それで、新しい典礼の一年の最初の日曜日である本日は、主の栄光に満ちた再臨の直前に起こる天変地異や、それによって人々の心に生ずる極度の恐怖と不安などについての主の予言が、福音の中で朗読されます。主は「人々が恐ろしさのあまり気を失うであろう。天体が揺り動かされるからである」と話しておられますが、ここで「人々」とあるのは、神を信じていない人々、洗礼を受けていない人々だけを指しているのではありません。神を信じて日々神に祈っている人々も、この罪の世にあって多少なりとも罪の穢れを身に受けている者は皆、その恐ろしい出来事に直面したら恐怖と不安に心の底から震え怯えるのではないでしょうか。それは、この罪の世に対する、神の子による徹底的裁きと浄化の日だからです。

②主は言われます。「その時、人々は人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」と。そうです。その恐ろしい恐怖と裁きの日は、神を信じ神と共に生きようと努めている人々にとっては、私たちを愛しておられる全能の救い主によって、この罪の世から完全に解放される日、この苦しみの世が滅ぼされて新しい栄光の世に生まれ変わる日、いわば一種の恐ろしく巨大な「死の日」なのです。だから、崩壊するこの世の事物・現象などに心を囚われることなく、それらから眼を離して身を起こし、天から来られる救い主の方に信頼と希望の心を向けるように、「あなた方の解放の時が近い」のですから、と主は勧めておられるのです。

③しかし、その時になってからそのようにしよう、などといくら心に決めていても、「ノアの洪水」の時のように突然に襲来すると予告されている、その「天体がゆり動かれる」大災害に直面したら、心の奥底から気が動転してなかなかできることではないと思います。「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うであろう」と、主も予言しておられます。日ごろからこの世の富や幸せに少し距離を置く節制に心がけ、不要なものや、時には自分にとって大切なものも、神への捧げ物として貧しい人や困っている人たちに喜んで提供する、絶えざる小さな清貧と自己犠牲の実践に努めている必要があるのではないでしょうか。主は本日の福音の後半で、そのような心構えと心の準備を、私たちに命じておられると思います。

④「放縦や深酒や生活の煩い」などは、私たちの心をこの世の過ぎ去る楽しみ・思い煩いなどに深くのめり込ませ、神からの呼びかけや導きに対しては、心を鈍く頑なにするものだと思います。そのような心の人にとっては、「その日は不意に罠のように襲う」ことになり、その人の心は滅び行くこの世の事物財宝などの絆しに縛られ取り囲まれて、底知れぬ絶望と苦悩の淵に落とされてしまうかも知れません。信仰に生きる私たちはそのような不幸を逃れて、救い主の御前に希望と感謝の心で立つことができるよう、いつも目を覚まして祈ることに心がけましょう。「目を覚まして」というのは、肉体の目を覚まし、頭を眠らせずにという意味ではありません。それでは生活できませんから。体の目ではなく、奥底の心の眼を神の愛に向けて、幼児のように神の大きな愛に抱かれ、しっかりと捉まりながら生きていることだと思います。

⑤この世に生れ落ちたばかりの赤ちゃんは、まだ目がほとんど見えず、ぼんやりと光を感じているだけのようですが、しかし、心はもう目覚めていて、初めての新しい世界に対する不安から大声で泣いたり、手を伸ばして何か捉まるものを探したり、何かにしっかりと捉まっていようとしたりします。赤ちゃんのその生き方に学んで、私たちは、突然襲われるようにして全く新しい世界へと投げ出される終末の時に備え、日頃からいつも神の現存と神の働きに対する信仰にしっかりと捉まり、神の愛の懐に安らぐ生き方に心がけていましょう。その生き方が、終末の日には私たちにとっての「ノアの箱舟」になるのです。体は眠っても、心臓や肺は眠らずに働いています。同様に、頭は眠っても、奥底の心は眠らずに神の愛に捉まっていることはできるのです。そういう生き方を身につけるよう、この待降節に心がけましょう。私は、この奥底の心は母の胎内にいる時からすでに目覚めて働いており、体も頭脳も全てはこの奥底の心の器・道具として造られるのだと考えます。そして頭も体も、いやこの世の一切のものが崩れ去ってしまっても、この奥底の心は、神によって永遠に生き続けるよう創られているのだと思います。

⑥救い主は、ベトレヘムでは人の助けを必要としている貧しく小さな幼子の姿でこの世に来臨しましたが、終末の時には栄光の雲に乗って全能の神の権能に満ちた姿で再臨なさいます。しかし、外的には全く対照的に相異なるこの二つのお姿には、一つの変わらずに続いているしるしがあって、同一のお方であることを示していると思います。それは、「十字架の愛のしるし」と言ってよいでしょう。ベトレヘムでは、そのしるしは多くの人の救いのために生きようと、極度の貧困と人々からの冷たい無視の態度に静かに耐えるお姿のうちに示されていたと思います。そして終末の裁きの時には、自分の富や快楽・名声を何よりも優先させるこの世の闇から人々を徹底的に解放し、全てを神の明るい美しい愛の世界に変えて行こうと、十字架上で受けた五つの傷を帯びた全能の神の子の力強いお姿のうちに輝いていると思います。常日頃神の摂理によって自分に与えられる不便や貧困、誤解や苦痛などに逃げ腰になることなく、神に眼を向けながら全てを喜んで耐え忍び捧げている人たちは、その時五つの御傷から光を放ちつつ来臨する主をはっきりと見上げ、主の御傷から輝き出る栄光によって自分の心も体も輝き始めるのを見るのではないでしょうか。私たちもその時、小さいながら主と一致して「十字架の愛のしるし」を体現し、主の栄光に照らされて輝くことができるよう、大きな希望のうちに日々節制や各種の小さな苦しみを喜んで神に捧げる決意を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年11月26日木曜日

説教集B年: 2006年11月26日、王であるキリスト(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ダニエル 7: 13~14.   Ⅱ. 黙示録 1: 5~8.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 18: 33b~37.


① 王であるキリストの祝日は、教皇ピウス11世が1925年12月11日付の回勅 ”Quas primas (最初のものを) ”を発布して制定した、最も新しい大祝日であります。その前の19世紀には七つの海を支配すると称せられていた英国王も、ヴィクトリア女王の死後に王権が弱体化し、国際情勢や国内事情の変化でその後もますます弱まっているというのに、またドイツ皇帝も、オーストリアのハプスブルク皇帝家も、オスマントルコ皇帝も、第一次世界大戦に敗れて滅び、その同じ世界大戦中に起こったロシア革命でロシア皇帝も滅んだというのに、なぜこの祝日が制定されたのでしょうか。ローマ・カトリック教会は時代遅れなのでしょうか。時代錯誤を来たしているのでしょうか。
② いろいろと考えてみますと、これまで人類社会の上に立って多くの人を従わせていた国家権力者が次々と滅んだり、その権力を失ったりしてしまい、「人間は全て平等なのだ。各人はそれぞれ自分の考えに従って生活し、自分たちの生活に都合のいい政見を持つ人を多数決で政治家に選び、政治は全て多数決で決めるようにすればいいのだ」というような、少し過激な民主主義や自由主義が第一次世界大戦直後ごろ頃の若者たちの間に広まり始めたので、教皇はなし崩しに神の権威さえも無視し兼ねないそういう人々によって、心の教育が歪められるのを防止するためにも、また一部の独裁政党の台頭を阻止するためにも、この大祝日を制定して全世界のカトリック教会で祝わせ、人間には宇宙万物の創造主であられる神に従う良心の義務があり、その神から「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28: 18) と宣言なされた主キリストの王権に服する義務もあることを、世界の人々に周知させることを目指したのだと思われます。神の子で救い主でもあられるキリストの王権は、この世の政治的支配権とは次元を異にする心の世界のものであり、伝統的政治支配が崩壊して混乱の暗雲が社会を覆うような時代には特に必要とされる、各人の心の拠り所であり灯りでもあると思います。
③ 教皇ピウス11世は前述の回勅の中で、本日のミサの三つの朗読箇所からも、その他の聖書の箇所からも引用しながら、主キリストが天の御父から授けられた王権は、全ての天使、全ての人間、いや全被造物に対する永遠に続く統治権であることを説明していますが、例えば預言者ダニエルが夜に見た夢・幻の啓示である本日の第一朗読では、天の雲に乗って現われた「人の子」のようなもの (すなわち主キリスト) が、「日の老いたる者」(すなわち神) の御前に進み出て、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と述べられており、本日の第二朗読では、「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」という、挨拶の言葉が読まれます。ここで「地上の王たち」とあるのは、この世の世俗社会の為政者たちではなく、主キリストを王と崇める人たちを指していると思われます。この言葉にすぐ続いて、「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放して下さった方に、私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りがあるからです。主キリストは、神からご自身のお受けになった永遠の王権と祭司職に、罪から清められて救われた私たちをも参与させ、被造物の浄化救済に協力させて下さるのだと思われます。
④ しかし、主キリストのその王権は、過ぎ行くこの世の社会の支配権とは次元の異なる、心の世界のものであります。本日の福音がそのことを教えていると思います。裁判席のローマ総督ピラトは主イエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねます。これは危険な質問で、もし主が「はい、そうです」と答えるなら、それはローマ皇帝に謀反を企てているという意味にもなり兼ねません。そこで主は、「あなたは自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの者が云々」と、まずお尋ねになります。それから厳かに、「私の王国は、この世のものではない。云々」と宣言なさいます。そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と尋ねますと、主は「私が王だとは、あなたが言っています」という、以前にも説明したことのある、あいまいな返事をなさいます。それは、ご自身が王であることを否定せずに、ただあなたが言う意味での王ではないことを示すような時に使う、特殊な言い方だったようです。その上で主は、「私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」と話されて、ご自身が真理を証しするために、あの世からこの世に来た王であることを宣言なさいます。
⑤ ピラトにはこの言葉の意味を理解できませんでしたが、それまでの伝統的社会道徳が急速な国際貿易発展の煽りを受けて拘束力を失いかけていたキリスト時代に似て、それまでの伝統的価値観が権威も力も失ない、地震の時の地盤液状化のようにして、労働階級から自由主義や共産主義の水が湧き出した80年前頃のヨーロッパでは、世界大戦後の新しい国家の建設が、現今のイラクのように一時的に数々の困難に直面していました。しかし、権威をもって心の真理を証しするあの世の王を基盤にする信仰と生き方に努めることは、多くの人の心に新たな希望と生きがいを与えるものであったと思われます。事実、王であるキリストの祝日が祝われ始めた1920年代、30年代には、民間の非常に多くの欧米人が主キリストを自分の心の王として崇めつつ、各種の信仰運動を盛んにし、無宗教の共産主義に対抗する新たな社会の建設を推し進めたばかりでなく、カトリック界では、統計的に最も多くの修道者や宣教師を輩出させています。
⑥ 21世紀初頭の現代においても、極度の豊かさと便利さの中で心の欲情統制が訓練されていない人が増えているだけに、ある意味でピウス11世時代と似た個人主義精神や原理主義精神や新たな軍国主義精神の危険が、私たちの社会や生活を脅かしていますが、自分の心が仕えるべき絶対的権威者をどこにも持たない人は、意識するしないにかかわらず、結局頼りない自分の相対主義的考えや欲求のままに生きるようになり、現代のようにマスコミが強大な力を発揮している時代には、外から注がれる情報に操られ、枯葉や浮き草のように、風のまにまに右へ左へと踊らされたり、吹き寄せられたりしてしまい勝ちです。心があの世の王国に根を下ろし、忍耐をもって実を結ぼうとしていないのですから。心に不安のいや増すそういう現代人の間では、以前にも増していじめや家庭内不和などが多発しており、いつの時代にもあったそれらの人生苦に耐えられなくなって、自暴自棄になったり自殺に走ったりする人も増えています。真に悲しいことですが、その根本原因は、心に自分の従うべき超越的権威者、あの世の王を捧持していないことにあるのではないでしょうか。聖母マリアは「私は主の婢です」と申して、ご自分の内に宿られた神の御子を心の主と仰ぎ、日々その主と堅く結ばれて生きるように心がけておられたと思います。ここに、救われる人類のモデル、神の恵みに生かされ導かれ支えられて、不安の渦巻く時代潮流の中にあっても、逞しく仕合せに生き抜く生き方の秘訣があると思います。一人でも多くの現代人がその秘訣を体得するに至るよう、特に心の光と力の欠如に悩んでいる人々のため、王である主キリストの導きと助けの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年11月15日日曜日

説教集B年: 2006年11月19日、年間第33主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ダニエル 12: 1~3.   Ⅱ. ヘブライ 10: 11~14, 18.  
  Ⅲ. マルコ福音 13: 24~32.


① 毎年クリスマスの3, 4週間前に、待降節第一主日で始まる典礼暦年が、いよいよ今年B年の終りに近づきました。来週の日曜日は、年間最後の主日「王たるキリスト」の祝日です。それで本日の三つの朗読聖書は、いずれもこの世の終末を迎える時のための心構えについて教えている、と言ってもよいと思います。ところで、聖書に予告されている終末は決して全てが無に帰してしまうことではなく、目には見えなくても既にこの世に現存し、ゆっくりと発展し成熟しつつある神の国の完成を意味しており、その神の国を衣のように覆い隠していたこの世の全てが、いわば脱ぎ捨てられて全く新たなものに変容すること、そして永遠に続く新しい世界が神の栄光に照らされて輝き出ることを指していると思います。罪に穢れているこれまでの古い衣を剥ぎ取られる時には大きな苦しみも伴うでしょうが、神に対する信頼と希望のうちに、冷静にその大変換の時を迎える心を、日頃から整え備えていましょう。
② 第一朗読は、終末の時の到来と、その時が秘められ封じられていることなどについて預言しているダニエル書12章の冒頭部分からの引用ですが、国が始まって以来、かつて無かった程の苦難が続くその時、「大天使ミカエルが立って、お前の民の子らを守護する」という、頼もしい言葉が始めに置かれています。神に対する信仰と愛に生き、生命の書に記されている人たちは、その時神によって救われます。この希望を堅持していましょう。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」とあるのは、死者の復活を指していますが、「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」と預言されているのは、神信仰に生きていた人たちのことで、同時に「ある者たちは永久に続く恥と憎悪の的となる」という預言もありますから、その日は、それまで隠れていた善も悪も全て、神の光によって明るみにさらされ、容赦なく峻別される厳しい裁きの時でもあると思います。しかし、主は山上の説教の中で、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」と保証しておられるのですから、私たちはその裁きを恐れなくてよいと思います。ただひたすら神の愛に生かされて生きるように、そして誰に対しても憐れみ深くあるように心がけていましょう。
③ 本日の第二朗読は、主キリストが神にお献げになった永遠のいけにえについて教えていますが、この唯一つのいけにえで神に従う人々は全ての罪の赦しを与えられて清められ、永遠に聖なる者とされるのです。これは、驚くほど大きな恵みであり、無力な私たちの将来には、神の子らの永遠に続く明るい自由と喜びの世界が広がっているのです。ただその主キリストは、この世の人間的言葉で言うならば、今は天の御父の右の座に着いて、終末の日に敵どもがご自身の足台となってしまうまで、御父のお決めになるその日をひたすら待ち続けつつ、ご自身の永遠のいけにえを献げておられると申し上げてよいかと思います。主ご自身が待ち続けておられるのですから、この世の私たちも終末後の栄光の世界を希望と忍耐の内にひたすら目覚めて待ち続けるのは、当然の務めであると思います。私たちの信仰と愛は、忍耐によってますます深くまた太く心の畑に根を下ろし、豊かな実を結ぶに到るのですから、待ちくたびれないよう決意を新たにして、神への奉仕に励みましょう。
④ 本日の福音の出典であるマルコ福音の13章全体は、この世の終末に関する、主キリストの一つの長い説教になっていて、「小黙示録」とも呼ばれていますが、聖書学者の雨宮慧神父がその説教を四つの段落に分けて解説していますので、まずその全体像を簡単に紹介してみましょう。第一の段落の始めと終りには「気をつけなさい」という言葉があって、欺かれないようにという警告がその内容をなしていると思います。第二の段落の始めと終りには「その時」という言葉があって、それが本日の福音の前半であり、終末の時の人の子の到来について教えています。そして本日の福音の後半である第三の段落は、いちじくの木の譬えで人の子の到来の近さを強調し、人の子の到来まではこの世が終わらないことや、その日その時がいつ来るかは天使も人の子も知らず、ただ天の御父だけがご存じであることを教えており、最後の第四段落では、「目を覚ましていなさい」という言葉が繰り返されています。
⑤ この全体像を基礎にし、あらためて本日の福音を読み直してみますと、私たちが日ごろ無意識のうちにも、太陽も月も宇宙全体もまだまだ悠久の営みを続けていて、私たちの生きている間は天体に大きな変化は起こり得ないと思ってい勝ちなその思い込みを、根底から崩すような恐ろしい予告を主が話しておられ、しかもその予告は、太陽が暗くなり、星は空から落ち、天体は揺り動かされ、天地は滅びるというその瞬間がいつ到来するかは、天の御父以外は誰も知らないという、私たちの心を不安のどん底に突き落し兼ねない驚天動地の内容ですが、心を落ち着けて不安を掻き立てる熱狂主義に走ったり、あるいは無気力になったりせずに、戦争や大災害などの発生でこの世はもう終わりだと思われるような絶望的事態に直面しても、太陽が輝いている限りはそれを終末と思い違わないよう気をつけ、しっかりと目覚めて、それら全ての出来事の背後に神の救う働きを見ているようにというのが、主のお望みなのではないでしょうか。たとい太陽や月が暗くなるのを見ても、「それらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と命じておられるのですから。とにかく、今現に直面している出来事の背後に私たちを救う神の臨在を堅く信じつつ生活し、どこか遠く離れた所に神を探し求めたり、まだ直面していない終末時の恐ろしい大変革について勝手に空想し、心に不安を掻き立てたりしないことだと思います。
⑥ このことと関連して、私は釈尊の教えや大乗仏教の教えは素晴らしいものであり、私たちキリスト者もある程度それに学ぶべきであると考えます。2週間前の説教に、仏教の中にも神が働いておられ、その神の導きでキリスト教信仰の文化的影響を受けた大乗仏教に発展したのだ、というような話をしました。主がヨハネ福音10章の善き牧者の譬え話の中で、「私には、この庭には属さない他の羊たちもいる。私はそれらも導かなければならない。彼らも私の声を聞くようになり、一つの群れ、一人の牧者となるであろう」と話されているのを読み、私は、主が仏教者たちのことも考えて、こう話されたのではないかと考えます。仏教者に限らず、剣の道、芸の道、あるいは何かの技の道などに深く分け入って、自分の無数の成功・失敗体験からそれぞれ心で何か奥深い真理を悟るに到った人たちは、師匠や先輩たちからの教えはあっても、一神教者たちのように、神からの人間の言葉による啓示というものは持っていません。しかし、彼らの心は、神がお創りになり、その存在を維持し導いておられるこの世の現実や、長所も短所もある自分自身の心身の現実から、非常に多くの貴重な真理を実践的に学び取っています。彼らにとっては、それが神よりの啓示なのです。私たちもそれに倣って、自分の身近な日常体験の中で働いておられる神から、謙虚に、もっと深くもっと多くのことを、実践的に学び取るよう心がけましょう。聖書の教えも、そのためのものだと思います。
⑦ ところで、大乗仏教はいくらキリスト教信仰の影響を受けたと言っても、それによって釈尊の教えから離れたのではなく、むしろその伝統的教えを一層幅広く豊かに発展させたのです。その釈尊の教えの基本は、日々誰もが体験するこの世の人生苦の本質を深く見つめて奥底の心を目覚めさせ、その心が成熟して心中の煩悩を滅却する境地にまで到達すれば、人生苦を超克して深い内的喜びの内に自由に生きるようになる、という真理を悟ったことにあると思います。奥底の心を目覚めさせた釈尊の内に神の霊が働き、釈尊はキリストの救いの恵みにも浴したのだ、と私は信じています。大乗仏教発展の初期、3世紀前半のインドの仏教哲学者ナーガル・ジュナ (龍樹) は、釈尊の教えに基づいて、縁起によって生成消滅するこの世の万物を、実体 (すなわち一定不変の存在) のない「空」と考える思想を唱え、そこから大乗仏教の経典『般若経』の「空の思想」が日本にまで広まり、重視されていますが、私はこれも、神の導きによって人類に提供された貴重な真理であると考えます。
⑧ 私たちは、日々の日常体験から無意識の内に、この世の万物は外的には絶えず変動していても皆それぞれに一定の実体あるものと考え勝ちですが、創世記に立ち戻って考えますと、全ては神によって無から創造されたものであり、20世紀の人間の科学も、宇宙には初めがあることと、万物は極度に細かい素粒子の結合によって構成されており、その素粒子も原子爆弾などによって破壊されると、強大な光と熱と、大地や生物を持続的に汚染する放射線いう、形の全く無い巨大なエネルギー (力) に変換してしまうこととを明らかにしています。私たちの目に見える万物は、本来目に見えない各種の力が縁起によって結合している存在であると言うこともできましょう。「空の思想」は、この観点から受け止めてよいと思います。こう考えますと、この広い宇宙の万物は皆神の力によって産み出され、相互に結合され、支えられているだけで、それらが一瞬の内に無に帰しても、あるいは全く新しい栄光の世界に創り変えられても、それはあり得ないことではないと思われて来ます。人間の日常体験から理性が造り上げた固定的な物質像や宇宙像に拘わることなく、この世の宇宙についても自分の心身についても、全能の神の立場から可能な限り柔軟に考え、何よりも神の御旨、神の働きに謙虚に徹底的に従う生き方を身につけるよう心がけましょう。そのための照らしや恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2009年11月8日日曜日

説教集B年: 2006年11月12日、年間第32主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 列王記上 17: 10~16.   Ⅱ. ヘブライ 9: 24~28.  
  Ⅲ. マルコ福音 12: 38~44.


① 本日の三つの朗読聖書は、いずれも私たちにとって貴重なもの、それ無しでは生きられないほど大事なものを神に献げて、神に恵みを願う、あるいは神から恵みを受ける話だと思います。第一朗読は、預言者エリヤが神の言葉を受けて予言した通り、3年間余り雨が全く降らないために、人々が旱魃で食べ物に困窮していた時の話ですが、エリヤは初めは神の言葉に従ってヨルダンの東にある小さなケリト川のほとりに身を隠し、その川の水を飲みながら、数羽の烏が朝晩に運んで来るパンと肉に養われていました。聖書のこんな話を読むと、その烏はどこかのパン屋と肉屋の店先から盗んで来たのだろう、などと想像する人がいるかも知れません。しかし、この大飢饉の時には、どこの家でも乏しいパンや肉を烏に盗まれるような所には置かなかったと思われます。神が烏に与えて運ばせたのだと思います。暫くしてケリト川の水も涸れてしまうと、神はエリヤに、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め、私は一人の寡婦に命じて、あなたを養わせる」とおっしゃいました。
② 本日の第一朗読は、それに続く話であります。旧約時代には、寡婦は孤児や寄留者たちと共に貧しく弱い人々の代表のように見做されており、日頃の蓄えが少ないため、旱魃の時にはこの人たちが真っ先に苦しんでいたと思います。それだけに、神の助けに縋ろうとする信仰心も強かったでしょう。そこにエリヤという預言者的風格の人が訪ねて来て、水やパンを願ったのですから、明日のパンもない程貧しい状態でしたが、彼女はその言葉に従います。そして苦しい旱魃の時が過ぎ去るまで、パンにも油にも事欠かない生活を続けるという素晴らしい恵みを、神から預言者を通して受けるに至りました。貧しい客人(まろうど) エリヤは、ここでは救い主のシンボルだと思います。そういう客人を手厚くもてなすことによって、神より豊かな恵みを受けたという話は、古来西洋にも東洋にも数多くあり、客人(まろうど) 信仰と言われる風習も各地に残っています。四国のお遍路さん接待の慣習も、その一種だと思います。合理主義一辺倒の現代文明の中では、こういう温かい思いやりの信仰を持っていない人が非常に多いと思いますが、私たちは、聖書の教えに従ってその信仰を大切にしていましょう。主キリストは実際に、貧しい人、弱い人と共にそっと私たちを訪ね、その人たちに何かの温かい奉仕をするよう、お願いになることが少なくないように信じるからです。それは理屈の問題ではありません。そういう親切を幾度も続けている人の心に、その体験の蓄積からごく自然に育って来る確信だと思います。恐らくお遍路さん接待の慣習を持つ四国の人たちも、数多くの実践体験に基づいて同様の確信を持っていると思います。
③ 本日の第二朗読は、主キリストがご自身をいけにえとなしてただ一度天の御父に献げることにより、世の終りまでの全人類に救いの恵みをもたらす存在になられたことを教えていますが、その中で「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることとが決まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」とある言葉に、本日は少し注目してみたいと思います。というのは、余談になりますが、今年の秋に民法のテレビで、輪廻転生のことが実体験に基づいて説かれているのを、ちょっとだけ観たからです。今現に生きている人が、自分が一度も行ったことのない遠い地方の昔の人のことを、自分の体験を思い出すかのようにして事細かに語り始め、その話の中にある、本人はこれまで全く知らずにいた様々な地名や人名や年次などが、第三者が調べてみると、その故人の人生にそっくり適合しているので、テレビはその人をその故人の生まれ変わりであると結論していました。輪廻転生の思想は紀元前数世紀の昔からインドやギリシャで説かれており、わが国にも仏教と共に伝わって、平安時代の初期に成立した『日本霊異記』などに描かれていますが、察するに、同様の数多くの体験がその地盤をなしているのだと思われます。しかし、もし万一その思想が正しいとしますと、聖書の引用句は誤りになりますが、それは受け入れられません。
④ では、古来無数にあるそれらの体験はどう考えたらよいのでしょうか。ここで、私の人生体験に基づく個人的見解をご参考までに紹介してみましょう。信じない人もいるかも知れませんが、私は死者の霊が幽霊という形でこの世の人に現れるのを、数多くの実例から信じています。私がローマに留学していた頃に南イタリアのカプチン会修道院でミサを献げておられた聖ピオ・ピエトレルチーナは、アシジの聖フランシスコのように聖痕を受けた聖者でしたが、しばしば煉獄の霊魂たちの現われや訪問を受けて、その救済のために祈っておられたと聞いています。私も今は亡きドイツ人宣教師たちの模範に倣って度々あの世の霊魂たち、特に今苦しんでいる霊魂たちのために祈ったりミサを献げたりしていますが、するとあの世の霊魂たちに助けてもらったのではないか、と思うようなことを幾度も体験し、ある意味ではあの世の霊魂たちと親しくしています。岐阜県である会社の独身寮にたくさんの幽霊が現われ、若い社員たちが恐れから浮き足立って会社を辞めると言い出した時、私が社長に頼まれてそこでお祈りしましたら、幽霊は全然現れなくなりました。そして私の話を聞いて、社員たちは誰も辞めませんでした。信仰に堅く立ち、あの世の霊魂たちの救いのために祈っている人にとっては、幽霊は決して怖いものではありません。しかし、あの世の霊魂は、この世の人の夢に現れたり、稀にこの世の人の心の中に自分の記憶や思いを乗り移らせることもあるのではないかと思います。それをその人に前世があったと誤解する所から、輪廻転生思想が生まれたのではないでしょうか。立証不十分のそんな思想に振り回されて、各人には一度きりの人生しかないと教えている、聖書の啓示を疑うことのないよう気をつけたいと思います。
⑤ 本日の福音は前半と後半の二つの部分から構成されていますが、前半では当時の律法学者たちが厳しく批判されています。主の話によると、彼らはタリーットと呼ばれるクロークを人目を引くように少し長めにして歩き回り、広場で挨拶されることや、会堂や宴会で上座につくこと、人前で長い祈りをなすことなどを楽しんでいたようです。こういう話を読むと、私はエルサレムの「嘆きの壁」を訪れた時、真っ黒の長いクロークを着た長ひげのラビがその壁の一隅で椅子に腰掛け、人々から写真に撮られるのを喜んでいた姿を思い出しますが、数はごく少数でも、今でもそのようなラビたちがいるのかも知れません。主はそのような人たちについて、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と、恐ろしい警告を口にしておられます。神に対する信仰や奉仕は二の次にして、宗教を見世物のようにしているからなのでしょうか。私たちも気をつけましょう。宗教生活、修道生活は、何よりも神に見て戴くため、神に喜んで戴くためのものだと思います。
⑥ 福音の後半は、エルサレム神殿の大きな賽銭箱が幾つも並んでいる所での話です。当時は商売繁盛を願う異教徒の貿易商たちも、ギリシャやローマの通貨を聖書の言葉が刻まれたユダヤ通貨に両替して、気前よくどんどん投げ入れていました。それを弟子たちと共に横から眺めておられた主は、やがて貧しい寡婦が人々の陰に隠れるようにして、そっとレプトン銅貨2枚を投げ入れるのを御覧になりました。レプトン銅貨はギリシャの最小額通貨で、今日の百円ぐらいの値打ちしかありませんが、そんな通貨を1枚や2枚持って行っても、当時の神殿両替屋では軽蔑され、ユダヤ通貨に換えてもらえなかったのかも知れません。寡婦は、神殿の賽銭箱に投げ入れてはならないとされているその異国の通貨を、人目を盗んでそっといれたのではないでしょうか。それを目敏く御覧になった主は、たとえ異国の通貨であろうとも、明日の食べ物を買う金もない寡婦が、その最後の全財産を神殿に献げて真剣に祈る姿に御心を大きく揺り動かされ、その献金を他のどんな献金よりも喜ばれたのではないでしょうか。福音には何も語られていませんが、神はその寡婦の献金に豊かにお報い下さったと信じます。神に対する献金や奉仕や祈りにとって大切なのは、その外的な数量ではなく、そこに込められたその人の心であると思います。人は外的な数量や美しさ・偉大さなどに目を奪われ勝ちですが、神は何よりもその人の心に眼を向け、心を御覧になっておられるのですから。旧約聖書にも新約聖書にも「心」という言葉が非常に多く登場していますが、私たちももっと心に留意し、心を尽くして神を愛し、心を込めて神に祈るよう心がけましょう。その恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。

2009年11月1日日曜日

説教集B年: 2006年11月5日、年間第31主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 6: 2~6.   Ⅱ. ヘブライ 7: 23~28.  
  Ⅲ. マルコ福音 12: 28b~34.


① 本日の第一朗読を読む度に、いつも懐かしく思い出すことがございます。それは26年前の1980年9月に、東京のユダヤ教のシナゴガで、土曜日午前の安息日祭儀を参観した時、2時間ほど続いたヘブライ語の聖書朗読や祈りなどの中ほどに、本日の第一朗読の箇所も登場し、壇上のラビが「シェーマ、イスラエル (聞け、イスラエル)」と、力強く歌ったその威厳に満ちた声であります。その声は神の声のように感じられ、今でも忘れることができません。ユダヤ教では2千年前のキリスト時代にも、またその後の時代にも、全身全霊をあげて神を愛することを命じている申命記のこの掟が特別に重んじられていますが、主なる神は、キリスト者である現代の私たちにも、この掟の順守を万事に超えて大切にするよう、求めておられるのではないでしょうか。
② といっても、目に見えない神を愛するなどという夢のような話は、あまりにも現実離れしていて、頭で考えることはできても、実際上はほとんど何もできないと思う人もいるかも知れません。それは、全宇宙の創造主であられる神を、この世の現実から遠く離れた天上の世界、目に見えないあの世の霊界におられると思うからではないでしょうか。しかし、現実には紙の裏表のように、この世はあの世と密接に関係していて、この世の存在は全て、あの世の神によって絶えず産み出され維持されなければ忽ち無に帰してしまうほど、無力なもの儚いものなのです。私たちの生活を支えているこの大地も空気も水も、全てその神から絶えず存在を支えられている賜物で、父なる神は、目には見えなくても、それらの無数の賜物を介して絶えず私たちのすぐ近くに現存し、私たちに慈しみの御眼を注いでおられるのです。その神に対して、嬉しい時も悲しい時も信仰と信頼の心で「天のお父様」と呼びかけ、感謝したり助けを願ったりする習慣を続けていますと、不思議に運命の神に守られて導かれているという体験をするようになります。これまであまりにも長い間神を忘れて無視するような生き方をして来たのですから、その悪い習慣は長期間の新しい信仰習慣によって克服しなければなりませんが、神のお声は聞けなくても、日に幾度も事ある毎に「天のお父様」と愛をもって呼びかけ感謝を表明していますと、やがて心の中に新しい神観念が育って来ます。そしてどんな苦しい状況にも、希望をもって耐え抜く力が備わって来ます。神は、私たちが皆このようにして生きる、神の子になることを求めておられるのではないでしょうか。
③ 本日の福音の中で、一人の律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねられた主イエスは、「第一の掟はこれである」と、本日の第一朗読に引用されている申命記の掟をあげ、すぐに続いて、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに勝る掟は他にない」と答えておられます。神への愛の掟と隣人愛の掟とを合わせてお答えになったのは、モーセ五書の中に読まれるこの二つの古い掟が、互いに深く関連しているからだと思います。ただ今も申しましたように、万物の創造主であられる神は、そのお創りになった被造物を介して、特に神に似せて創られた人間、万物の霊長である人間を介して、いつも私たちのすぐ近くに臨在しておられるのです。自分の間近におられるその神に対する愛は、隣人を愛するという行為を介しても表明するように、というのが神のお望みなのではないでしょうか。レビ記19章に読まれる「隣人を自分のように愛せよ」という掟から、隣人を正しく愛するには、まず自分自身を正しく愛さなければならないと考え、あなたが自分自身を愛するように隣人を愛せよ、という意味に解釈する人もいますが、しかし、誰もが生来自然に持っている自己愛の熱心は比較の対象にされているだけで、この掟は隣人愛を命じているのであり、自己愛は命じられていないと解釈する人もいます。どちらの解釈でも良いと思いますが、そんな中にあって、あるプロテスタントの聖書学者が「隣人を自分自身として愛せよ」と邦訳しているのを知り、私の気に入りました。神に対する愛を、隣人を自分自身として親身になって愛することにより表明せよというのが、旧約の二つの掟を一つに結んで教えられた、主イエスのお考えであるように思われるからです。
④ ところで、第一朗読にもあるように、第一の掟の前には「私たちの神である主は、唯一の主である」という大切な言葉があって、主イエスもその通り引用しておられます。現実の人間社会には数多くの雑多な宗教思想が各地に広まっていて、聖書の教えもそれらの宗教思想の一つとして、頭で理知的に総合しながら神をたずね求めようとすると、混乱してしまいます。そうではなく、初代教会や古代教父たちがなしていたように、聖書を自分たちに対する神よりの啓示、神からの呼びかけとして心の意志で謙虚に受け止め、その神を自分の唯一の主となし、神に徹底的に聞き従う信仰と従順の心でまずしっかりと立つこと生きることが大切です。こうして全知全能の神の導きや働きの世界に、次第に深く入って行きますと、その神ご自身が、全宇宙の中で、また諸々の他宗教の中でも日々大きな働きをしておられることを、次々と教えて下さいます。私の経験したその一つの例を紹介致しましょう。
⑤ 1989年の秋に京都の東本願寺で三日間にわたって開催されたある研修会で、私は最後の合同討議の議長をさせられました。議長の役は、自分の見解はほとんど言わずに、ただできるだけ多くの参加者が自由に自分の見解を発言できるよう配慮することだと思いますので、私はひたすら聞くだけでしたが、その時名古屋の浄土宗西蓮寺の住職大田敬光師と大谷大学の武田武麿教授との間に、親鸞の教えをめぐってちょっとした議論が始まり、その折に武田教授が余談のようにして、キリスト教と浄土教との関係について日頃思っていることを披露しました。それは、現存する史料からは立証できないが、大乗仏教の中に浄土教が発生した歴史的状況を総合的に吟味してみると、そこにキリスト教の影響が大きく働いていたと考えられる、というようなものでした。浄土真宗の武田教授のこの言葉に、私はその後大いに啓発されました。私はその後も武田教授と親しくしていて、確か98年に東京で開かれた日本宗教学会の理事会の後であったと記憶していますが、二人で一緒に写真を撮ったのを最後に、武田教授はその翌年に亡くなりました。大乗仏教の発生についての武田教授の考えを私なりに推測しますと、次のように言ってよいかと思います。
⑥ 日本に伝来した大乗仏教は、厳しい修行に励む男の比丘教団と女の比丘尼教団を設立させた釈尊が入滅した後、二百年余りも経て、釈尊の遺骨を納めた各地のストゥーバ (仏舎利塔) を崇敬する在家の信徒団の信仰運動を基盤として、ゆっくりと数世紀かけて形成された仏教ですが、厳しい戒律の厳守に束縛されていない在家の信徒たちは、仏教の伝統的教えからは少し自由になって考え始め、自分も仏陀のようになりたいという憧れから、やがて各人には生来仏性があるという思想を生み出し、紀元1世紀か2世紀頃からは、シルクロードを介してキリスト教の思想も伝播していた西北インドの地方で、多くの庶民を救ってくれる阿弥陀仏に対する信仰も菩薩信仰も生み出しています。そしてそこからやがて阿弥陀仏に対する念仏も、西方に浄土があると考えて西方往生を願う思想も生まれ、また数々の大乗仏教経典も書かれるに至りました。
⑦ 仏教側からのこういう話を聞くと、なるほどと思うことも少なくありません。例えば、原始仏教の経典にははっきりと提示されていない地獄・極楽の話や死後の閻魔大王による審判の話、ならびに聖母マリア崇敬に似た観音信仰や、世の終りに来臨する弥勒菩薩に対する信仰なども、キリスト教信仰の影響を受けて発展したのではないでしょうか。同じ頃、オリエントのキリスト教にも仏教側からの影響と思われるものが幾つか導入されています。例えば、民間に語り継がれていたお釈迦様の伝記を、マタイ福音書からの引用文などを挿入しながらキリスト教的に作り替えた、聖バラアムと聖ヨザファトの伝記は4世紀頃に書かれたようで、中世期には西方教会でも愛読されていますが、16世紀末に邦訳されて、キリシタンたちにも読まれています。ユダヤ教の伝統を受け継いだ初代教会には、キリスト者も両手を左右に上げて祈っていたのに、古代教会に手を合わせて祈る習慣が広まったのも、東洋の宗教の影響だと思われます。
⑧ こう考えると、キリスト教と仏教との文化的交流を介して、もともと人生苦超克を主目的としていた仏教に、無数の民衆を救う一神教的来世信仰を導入させたのには、表向きの形はどうであれ、一人でも多くの人を神の国に導き入れようとしておられる、神の働きがあったのではないでしょうか。神秘な神のその働きを、人間理性でとやかく論ずることはせずに、心を大きく開いて、神の救いの御業に徹底的に従うよう心がけましょう。主イエスもルカ福音書13章の中で、「救われる人は少ないのでしょうか」という質問に、「人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会の席につくであろう」と答えておられます。文化や宗教は違っても、その文化その宗教の中でも働いて下さる神の導きに従う人なら、皆神の国に導き入れられるのだと思います。この明るい信仰と希望を新たにしながら、異教徒や未信仰者たちの救いのためにも、このミサ聖祭の中で祈りましょう。