2009年11月29日日曜日

説教集C年: 2006年12月3日、待降節第1主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 33: 14~16.  Ⅱ. テサロニケ前 3: 12 ~ 4: 2.
     Ⅲ. ルカ福音 21: 25~28, 34~36.

①主イエスの誕生を祝う降誕祭の前に置かれている、四つの日曜日を含む待降節という典礼期間には二つの意味があって、一つは救い主の人類社会への降誕をふさわしく歓迎し祝う降誕祭の準備期間という意味であり、もう一つは、終末の時の主キリストの第二の来臨を待望し、そのための心の準備を整える期間という意味であります。待降節の前半、すなわち12月16日までの典礼は、終末時の主の再臨を待望し、そのために私たちの心を準備することを主題としています。それで、新しい典礼の一年の最初の日曜日である本日は、主の栄光に満ちた再臨の直前に起こる天変地異や、それによって人々の心に生ずる極度の恐怖と不安などについての主の予言が、福音の中で朗読されます。主は「人々が恐ろしさのあまり気を失うであろう。天体が揺り動かされるからである」と話しておられますが、ここで「人々」とあるのは、神を信じていない人々、洗礼を受けていない人々だけを指しているのではありません。神を信じて日々神に祈っている人々も、この罪の世にあって多少なりとも罪の穢れを身に受けている者は皆、その恐ろしい出来事に直面したら恐怖と不安に心の底から震え怯えるのではないでしょうか。それは、この罪の世に対する、神の子による徹底的裁きと浄化の日だからです。

②主は言われます。「その時、人々は人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」と。そうです。その恐ろしい恐怖と裁きの日は、神を信じ神と共に生きようと努めている人々にとっては、私たちを愛しておられる全能の救い主によって、この罪の世から完全に解放される日、この苦しみの世が滅ぼされて新しい栄光の世に生まれ変わる日、いわば一種の恐ろしく巨大な「死の日」なのです。だから、崩壊するこの世の事物・現象などに心を囚われることなく、それらから眼を離して身を起こし、天から来られる救い主の方に信頼と希望の心を向けるように、「あなた方の解放の時が近い」のですから、と主は勧めておられるのです。

③しかし、その時になってからそのようにしよう、などといくら心に決めていても、「ノアの洪水」の時のように突然に襲来すると予告されている、その「天体がゆり動かれる」大災害に直面したら、心の奥底から気が動転してなかなかできることではないと思います。「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うであろう」と、主も予言しておられます。日ごろからこの世の富や幸せに少し距離を置く節制に心がけ、不要なものや、時には自分にとって大切なものも、神への捧げ物として貧しい人や困っている人たちに喜んで提供する、絶えざる小さな清貧と自己犠牲の実践に努めている必要があるのではないでしょうか。主は本日の福音の後半で、そのような心構えと心の準備を、私たちに命じておられると思います。

④「放縦や深酒や生活の煩い」などは、私たちの心をこの世の過ぎ去る楽しみ・思い煩いなどに深くのめり込ませ、神からの呼びかけや導きに対しては、心を鈍く頑なにするものだと思います。そのような心の人にとっては、「その日は不意に罠のように襲う」ことになり、その人の心は滅び行くこの世の事物財宝などの絆しに縛られ取り囲まれて、底知れぬ絶望と苦悩の淵に落とされてしまうかも知れません。信仰に生きる私たちはそのような不幸を逃れて、救い主の御前に希望と感謝の心で立つことができるよう、いつも目を覚まして祈ることに心がけましょう。「目を覚まして」というのは、肉体の目を覚まし、頭を眠らせずにという意味ではありません。それでは生活できませんから。体の目ではなく、奥底の心の眼を神の愛に向けて、幼児のように神の大きな愛に抱かれ、しっかりと捉まりながら生きていることだと思います。

⑤この世に生れ落ちたばかりの赤ちゃんは、まだ目がほとんど見えず、ぼんやりと光を感じているだけのようですが、しかし、心はもう目覚めていて、初めての新しい世界に対する不安から大声で泣いたり、手を伸ばして何か捉まるものを探したり、何かにしっかりと捉まっていようとしたりします。赤ちゃんのその生き方に学んで、私たちは、突然襲われるようにして全く新しい世界へと投げ出される終末の時に備え、日頃からいつも神の現存と神の働きに対する信仰にしっかりと捉まり、神の愛の懐に安らぐ生き方に心がけていましょう。その生き方が、終末の日には私たちにとっての「ノアの箱舟」になるのです。体は眠っても、心臓や肺は眠らずに働いています。同様に、頭は眠っても、奥底の心は眠らずに神の愛に捉まっていることはできるのです。そういう生き方を身につけるよう、この待降節に心がけましょう。私は、この奥底の心は母の胎内にいる時からすでに目覚めて働いており、体も頭脳も全てはこの奥底の心の器・道具として造られるのだと考えます。そして頭も体も、いやこの世の一切のものが崩れ去ってしまっても、この奥底の心は、神によって永遠に生き続けるよう創られているのだと思います。

⑥救い主は、ベトレヘムでは人の助けを必要としている貧しく小さな幼子の姿でこの世に来臨しましたが、終末の時には栄光の雲に乗って全能の神の権能に満ちた姿で再臨なさいます。しかし、外的には全く対照的に相異なるこの二つのお姿には、一つの変わらずに続いているしるしがあって、同一のお方であることを示していると思います。それは、「十字架の愛のしるし」と言ってよいでしょう。ベトレヘムでは、そのしるしは多くの人の救いのために生きようと、極度の貧困と人々からの冷たい無視の態度に静かに耐えるお姿のうちに示されていたと思います。そして終末の裁きの時には、自分の富や快楽・名声を何よりも優先させるこの世の闇から人々を徹底的に解放し、全てを神の明るい美しい愛の世界に変えて行こうと、十字架上で受けた五つの傷を帯びた全能の神の子の力強いお姿のうちに輝いていると思います。常日頃神の摂理によって自分に与えられる不便や貧困、誤解や苦痛などに逃げ腰になることなく、神に眼を向けながら全てを喜んで耐え忍び捧げている人たちは、その時五つの御傷から光を放ちつつ来臨する主をはっきりと見上げ、主の御傷から輝き出る栄光によって自分の心も体も輝き始めるのを見るのではないでしょうか。私たちもその時、小さいながら主と一致して「十字架の愛のしるし」を体現し、主の栄光に照らされて輝くことができるよう、大きな希望のうちに日々節制や各種の小さな苦しみを喜んで神に捧げる決意を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。