2009年11月15日日曜日

説教集B年: 2006年11月19日、年間第33主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ダニエル 12: 1~3.   Ⅱ. ヘブライ 10: 11~14, 18.  
  Ⅲ. マルコ福音 13: 24~32.


① 毎年クリスマスの3, 4週間前に、待降節第一主日で始まる典礼暦年が、いよいよ今年B年の終りに近づきました。来週の日曜日は、年間最後の主日「王たるキリスト」の祝日です。それで本日の三つの朗読聖書は、いずれもこの世の終末を迎える時のための心構えについて教えている、と言ってもよいと思います。ところで、聖書に予告されている終末は決して全てが無に帰してしまうことではなく、目には見えなくても既にこの世に現存し、ゆっくりと発展し成熟しつつある神の国の完成を意味しており、その神の国を衣のように覆い隠していたこの世の全てが、いわば脱ぎ捨てられて全く新たなものに変容すること、そして永遠に続く新しい世界が神の栄光に照らされて輝き出ることを指していると思います。罪に穢れているこれまでの古い衣を剥ぎ取られる時には大きな苦しみも伴うでしょうが、神に対する信頼と希望のうちに、冷静にその大変換の時を迎える心を、日頃から整え備えていましょう。
② 第一朗読は、終末の時の到来と、その時が秘められ封じられていることなどについて預言しているダニエル書12章の冒頭部分からの引用ですが、国が始まって以来、かつて無かった程の苦難が続くその時、「大天使ミカエルが立って、お前の民の子らを守護する」という、頼もしい言葉が始めに置かれています。神に対する信仰と愛に生き、生命の書に記されている人たちは、その時神によって救われます。この希望を堅持していましょう。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」とあるのは、死者の復活を指していますが、「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」と預言されているのは、神信仰に生きていた人たちのことで、同時に「ある者たちは永久に続く恥と憎悪の的となる」という預言もありますから、その日は、それまで隠れていた善も悪も全て、神の光によって明るみにさらされ、容赦なく峻別される厳しい裁きの時でもあると思います。しかし、主は山上の説教の中で、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」と保証しておられるのですから、私たちはその裁きを恐れなくてよいと思います。ただひたすら神の愛に生かされて生きるように、そして誰に対しても憐れみ深くあるように心がけていましょう。
③ 本日の第二朗読は、主キリストが神にお献げになった永遠のいけにえについて教えていますが、この唯一つのいけにえで神に従う人々は全ての罪の赦しを与えられて清められ、永遠に聖なる者とされるのです。これは、驚くほど大きな恵みであり、無力な私たちの将来には、神の子らの永遠に続く明るい自由と喜びの世界が広がっているのです。ただその主キリストは、この世の人間的言葉で言うならば、今は天の御父の右の座に着いて、終末の日に敵どもがご自身の足台となってしまうまで、御父のお決めになるその日をひたすら待ち続けつつ、ご自身の永遠のいけにえを献げておられると申し上げてよいかと思います。主ご自身が待ち続けておられるのですから、この世の私たちも終末後の栄光の世界を希望と忍耐の内にひたすら目覚めて待ち続けるのは、当然の務めであると思います。私たちの信仰と愛は、忍耐によってますます深くまた太く心の畑に根を下ろし、豊かな実を結ぶに到るのですから、待ちくたびれないよう決意を新たにして、神への奉仕に励みましょう。
④ 本日の福音の出典であるマルコ福音の13章全体は、この世の終末に関する、主キリストの一つの長い説教になっていて、「小黙示録」とも呼ばれていますが、聖書学者の雨宮慧神父がその説教を四つの段落に分けて解説していますので、まずその全体像を簡単に紹介してみましょう。第一の段落の始めと終りには「気をつけなさい」という言葉があって、欺かれないようにという警告がその内容をなしていると思います。第二の段落の始めと終りには「その時」という言葉があって、それが本日の福音の前半であり、終末の時の人の子の到来について教えています。そして本日の福音の後半である第三の段落は、いちじくの木の譬えで人の子の到来の近さを強調し、人の子の到来まではこの世が終わらないことや、その日その時がいつ来るかは天使も人の子も知らず、ただ天の御父だけがご存じであることを教えており、最後の第四段落では、「目を覚ましていなさい」という言葉が繰り返されています。
⑤ この全体像を基礎にし、あらためて本日の福音を読み直してみますと、私たちが日ごろ無意識のうちにも、太陽も月も宇宙全体もまだまだ悠久の営みを続けていて、私たちの生きている間は天体に大きな変化は起こり得ないと思ってい勝ちなその思い込みを、根底から崩すような恐ろしい予告を主が話しておられ、しかもその予告は、太陽が暗くなり、星は空から落ち、天体は揺り動かされ、天地は滅びるというその瞬間がいつ到来するかは、天の御父以外は誰も知らないという、私たちの心を不安のどん底に突き落し兼ねない驚天動地の内容ですが、心を落ち着けて不安を掻き立てる熱狂主義に走ったり、あるいは無気力になったりせずに、戦争や大災害などの発生でこの世はもう終わりだと思われるような絶望的事態に直面しても、太陽が輝いている限りはそれを終末と思い違わないよう気をつけ、しっかりと目覚めて、それら全ての出来事の背後に神の救う働きを見ているようにというのが、主のお望みなのではないでしょうか。たとい太陽や月が暗くなるのを見ても、「それらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と命じておられるのですから。とにかく、今現に直面している出来事の背後に私たちを救う神の臨在を堅く信じつつ生活し、どこか遠く離れた所に神を探し求めたり、まだ直面していない終末時の恐ろしい大変革について勝手に空想し、心に不安を掻き立てたりしないことだと思います。
⑥ このことと関連して、私は釈尊の教えや大乗仏教の教えは素晴らしいものであり、私たちキリスト者もある程度それに学ぶべきであると考えます。2週間前の説教に、仏教の中にも神が働いておられ、その神の導きでキリスト教信仰の文化的影響を受けた大乗仏教に発展したのだ、というような話をしました。主がヨハネ福音10章の善き牧者の譬え話の中で、「私には、この庭には属さない他の羊たちもいる。私はそれらも導かなければならない。彼らも私の声を聞くようになり、一つの群れ、一人の牧者となるであろう」と話されているのを読み、私は、主が仏教者たちのことも考えて、こう話されたのではないかと考えます。仏教者に限らず、剣の道、芸の道、あるいは何かの技の道などに深く分け入って、自分の無数の成功・失敗体験からそれぞれ心で何か奥深い真理を悟るに到った人たちは、師匠や先輩たちからの教えはあっても、一神教者たちのように、神からの人間の言葉による啓示というものは持っていません。しかし、彼らの心は、神がお創りになり、その存在を維持し導いておられるこの世の現実や、長所も短所もある自分自身の心身の現実から、非常に多くの貴重な真理を実践的に学び取っています。彼らにとっては、それが神よりの啓示なのです。私たちもそれに倣って、自分の身近な日常体験の中で働いておられる神から、謙虚に、もっと深くもっと多くのことを、実践的に学び取るよう心がけましょう。聖書の教えも、そのためのものだと思います。
⑦ ところで、大乗仏教はいくらキリスト教信仰の影響を受けたと言っても、それによって釈尊の教えから離れたのではなく、むしろその伝統的教えを一層幅広く豊かに発展させたのです。その釈尊の教えの基本は、日々誰もが体験するこの世の人生苦の本質を深く見つめて奥底の心を目覚めさせ、その心が成熟して心中の煩悩を滅却する境地にまで到達すれば、人生苦を超克して深い内的喜びの内に自由に生きるようになる、という真理を悟ったことにあると思います。奥底の心を目覚めさせた釈尊の内に神の霊が働き、釈尊はキリストの救いの恵みにも浴したのだ、と私は信じています。大乗仏教発展の初期、3世紀前半のインドの仏教哲学者ナーガル・ジュナ (龍樹) は、釈尊の教えに基づいて、縁起によって生成消滅するこの世の万物を、実体 (すなわち一定不変の存在) のない「空」と考える思想を唱え、そこから大乗仏教の経典『般若経』の「空の思想」が日本にまで広まり、重視されていますが、私はこれも、神の導きによって人類に提供された貴重な真理であると考えます。
⑧ 私たちは、日々の日常体験から無意識の内に、この世の万物は外的には絶えず変動していても皆それぞれに一定の実体あるものと考え勝ちですが、創世記に立ち戻って考えますと、全ては神によって無から創造されたものであり、20世紀の人間の科学も、宇宙には初めがあることと、万物は極度に細かい素粒子の結合によって構成されており、その素粒子も原子爆弾などによって破壊されると、強大な光と熱と、大地や生物を持続的に汚染する放射線いう、形の全く無い巨大なエネルギー (力) に変換してしまうこととを明らかにしています。私たちの目に見える万物は、本来目に見えない各種の力が縁起によって結合している存在であると言うこともできましょう。「空の思想」は、この観点から受け止めてよいと思います。こう考えますと、この広い宇宙の万物は皆神の力によって産み出され、相互に結合され、支えられているだけで、それらが一瞬の内に無に帰しても、あるいは全く新しい栄光の世界に創り変えられても、それはあり得ないことではないと思われて来ます。人間の日常体験から理性が造り上げた固定的な物質像や宇宙像に拘わることなく、この世の宇宙についても自分の心身についても、全能の神の立場から可能な限り柔軟に考え、何よりも神の御旨、神の働きに謙虚に徹底的に従う生き方を身につけるよう心がけましょう。そのための照らしや恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。