2009年11月26日木曜日

説教集B年: 2006年11月26日、王であるキリスト(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ダニエル 7: 13~14.   Ⅱ. 黙示録 1: 5~8.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 18: 33b~37.


① 王であるキリストの祝日は、教皇ピウス11世が1925年12月11日付の回勅 ”Quas primas (最初のものを) ”を発布して制定した、最も新しい大祝日であります。その前の19世紀には七つの海を支配すると称せられていた英国王も、ヴィクトリア女王の死後に王権が弱体化し、国際情勢や国内事情の変化でその後もますます弱まっているというのに、またドイツ皇帝も、オーストリアのハプスブルク皇帝家も、オスマントルコ皇帝も、第一次世界大戦に敗れて滅び、その同じ世界大戦中に起こったロシア革命でロシア皇帝も滅んだというのに、なぜこの祝日が制定されたのでしょうか。ローマ・カトリック教会は時代遅れなのでしょうか。時代錯誤を来たしているのでしょうか。
② いろいろと考えてみますと、これまで人類社会の上に立って多くの人を従わせていた国家権力者が次々と滅んだり、その権力を失ったりしてしまい、「人間は全て平等なのだ。各人はそれぞれ自分の考えに従って生活し、自分たちの生活に都合のいい政見を持つ人を多数決で政治家に選び、政治は全て多数決で決めるようにすればいいのだ」というような、少し過激な民主主義や自由主義が第一次世界大戦直後ごろ頃の若者たちの間に広まり始めたので、教皇はなし崩しに神の権威さえも無視し兼ねないそういう人々によって、心の教育が歪められるのを防止するためにも、また一部の独裁政党の台頭を阻止するためにも、この大祝日を制定して全世界のカトリック教会で祝わせ、人間には宇宙万物の創造主であられる神に従う良心の義務があり、その神から「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28: 18) と宣言なされた主キリストの王権に服する義務もあることを、世界の人々に周知させることを目指したのだと思われます。神の子で救い主でもあられるキリストの王権は、この世の政治的支配権とは次元を異にする心の世界のものであり、伝統的政治支配が崩壊して混乱の暗雲が社会を覆うような時代には特に必要とされる、各人の心の拠り所であり灯りでもあると思います。
③ 教皇ピウス11世は前述の回勅の中で、本日のミサの三つの朗読箇所からも、その他の聖書の箇所からも引用しながら、主キリストが天の御父から授けられた王権は、全ての天使、全ての人間、いや全被造物に対する永遠に続く統治権であることを説明していますが、例えば預言者ダニエルが夜に見た夢・幻の啓示である本日の第一朗読では、天の雲に乗って現われた「人の子」のようなもの (すなわち主キリスト) が、「日の老いたる者」(すなわち神) の御前に進み出て、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と述べられており、本日の第二朗読では、「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」という、挨拶の言葉が読まれます。ここで「地上の王たち」とあるのは、この世の世俗社会の為政者たちではなく、主キリストを王と崇める人たちを指していると思われます。この言葉にすぐ続いて、「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放して下さった方に、私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りがあるからです。主キリストは、神からご自身のお受けになった永遠の王権と祭司職に、罪から清められて救われた私たちをも参与させ、被造物の浄化救済に協力させて下さるのだと思われます。
④ しかし、主キリストのその王権は、過ぎ行くこの世の社会の支配権とは次元の異なる、心の世界のものであります。本日の福音がそのことを教えていると思います。裁判席のローマ総督ピラトは主イエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねます。これは危険な質問で、もし主が「はい、そうです」と答えるなら、それはローマ皇帝に謀反を企てているという意味にもなり兼ねません。そこで主は、「あなたは自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの者が云々」と、まずお尋ねになります。それから厳かに、「私の王国は、この世のものではない。云々」と宣言なさいます。そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と尋ねますと、主は「私が王だとは、あなたが言っています」という、以前にも説明したことのある、あいまいな返事をなさいます。それは、ご自身が王であることを否定せずに、ただあなたが言う意味での王ではないことを示すような時に使う、特殊な言い方だったようです。その上で主は、「私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」と話されて、ご自身が真理を証しするために、あの世からこの世に来た王であることを宣言なさいます。
⑤ ピラトにはこの言葉の意味を理解できませんでしたが、それまでの伝統的社会道徳が急速な国際貿易発展の煽りを受けて拘束力を失いかけていたキリスト時代に似て、それまでの伝統的価値観が権威も力も失ない、地震の時の地盤液状化のようにして、労働階級から自由主義や共産主義の水が湧き出した80年前頃のヨーロッパでは、世界大戦後の新しい国家の建設が、現今のイラクのように一時的に数々の困難に直面していました。しかし、権威をもって心の真理を証しするあの世の王を基盤にする信仰と生き方に努めることは、多くの人の心に新たな希望と生きがいを与えるものであったと思われます。事実、王であるキリストの祝日が祝われ始めた1920年代、30年代には、民間の非常に多くの欧米人が主キリストを自分の心の王として崇めつつ、各種の信仰運動を盛んにし、無宗教の共産主義に対抗する新たな社会の建設を推し進めたばかりでなく、カトリック界では、統計的に最も多くの修道者や宣教師を輩出させています。
⑥ 21世紀初頭の現代においても、極度の豊かさと便利さの中で心の欲情統制が訓練されていない人が増えているだけに、ある意味でピウス11世時代と似た個人主義精神や原理主義精神や新たな軍国主義精神の危険が、私たちの社会や生活を脅かしていますが、自分の心が仕えるべき絶対的権威者をどこにも持たない人は、意識するしないにかかわらず、結局頼りない自分の相対主義的考えや欲求のままに生きるようになり、現代のようにマスコミが強大な力を発揮している時代には、外から注がれる情報に操られ、枯葉や浮き草のように、風のまにまに右へ左へと踊らされたり、吹き寄せられたりしてしまい勝ちです。心があの世の王国に根を下ろし、忍耐をもって実を結ぼうとしていないのですから。心に不安のいや増すそういう現代人の間では、以前にも増していじめや家庭内不和などが多発しており、いつの時代にもあったそれらの人生苦に耐えられなくなって、自暴自棄になったり自殺に走ったりする人も増えています。真に悲しいことですが、その根本原因は、心に自分の従うべき超越的権威者、あの世の王を捧持していないことにあるのではないでしょうか。聖母マリアは「私は主の婢です」と申して、ご自分の内に宿られた神の御子を心の主と仰ぎ、日々その主と堅く結ばれて生きるように心がけておられたと思います。ここに、救われる人類のモデル、神の恵みに生かされ導かれ支えられて、不安の渦巻く時代潮流の中にあっても、逞しく仕合せに生き抜く生き方の秘訣があると思います。一人でも多くの現代人がその秘訣を体得するに至るよう、特に心の光と力の欠如に悩んでいる人々のため、王である主キリストの導きと助けの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。