2016年1月31日日曜日

説教集C2013年:2013年間第4主日(三ケ日)

第1朗読 エレミヤ書 1章4~5、17~19節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章31~13章13節
福音朗読 ルカによる福音書 4章21~30節

    本日の第一朗読は、紀元前7世紀の後半にエレミヤを預言者として召し出された時の、神のお言葉を伝えています。旧約の預言者の中には、エリヤ預言者のように積極性と豪胆さに溢れていた強い人もいますが、祭司ヒルキアの子エレミヤは全くその逆の性格で、内気の人、引っ込み思案をし勝ちな人だったようです。当時の神の民イスラエルは、先住民の持っていた民間信仰の影響を受けて太祖以来の神信仰を歪め、何でも人間中心、この世の幸せ第一に考え、伝統的神信仰も異教の神信仰も、そのために利用しようとするような宗教生活に陥っていたようです。神に忌み嫌われるこのような生き方を為す政治家や祭司たちを咎めて、罰を宣告するような神のお言葉を語ることは、内気で若いエレミヤにとっては考えるだけでも大きな恐れとおののきを覚えることであったと思われます。
    しかし神は、「彼らの前におののくな」「私があなたと共にいて救い出す」とおっしゃって、弱気のそのエレミヤを「諸国民の預言者として」お立てになったのでした。エレミヤという名前は「神立てる」という意味の名前だそうですが、神は、エレミヤが生まれる前からこの子に御目をかけ、このような名前がつけられるようになさったのだと思います。どんなに弱い人間でも、その時その時に神から与えられ導きに忠実に従うならば、苦しみながらでも、驚くほど大きな仕事を成し遂げるに到ると思います。弱いエレミヤも神の導きに従うことによって、偉大な預言者としての実績を残すに到りました。
    キリスト者・修道者として神から召された私たち各人も、神の僕・婢となって神からのその時その時の導きに心の眼を向け、それに忠実に従うよう心がけましょう。そうすればエレミヤを守り導いた神の霊が私たちをも守り導いて、神がお望みになる目的を達成させて下さいます。本日の福音では、主の故郷ナザレの人々が、「皆イエスを褒めて、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるのに、その人々はその直後に「この人はヨゼフの子ではないか」と、ナザレでは高く評価されていなかったと思われる貧しいヨゼフの名を引き合いに出して驚いています。私は以前に、一見矛盾しているように見えるナザレの人々のこの態度をどう受け止めたら良いものか、と戸惑いを覚えていました。しかし、聖書学者雨宮神父が1991年にお出しになった本を読んで、この疑問が解消してしまいました。日本語で「褒める」と訳されているギリシャ語のマルテュレオーという動詞には、「証言をする」という意味もあって、この動詞は有利な証言をする時にも不利な証言をする時にも使われるのだそうです。思うに、ナザレの人々は会堂で初めて聞く主の恵み深いお言葉に驚き、あの貧しいヨゼフの息子で首都エルサレムで勉強したこともないのに、と自分たちが昔少し軽蔑しながら眺めていたイエスの人間像について証言しながら、まあ教えのことはどうでもよいから、カファルナウムで行ったと聞く奇跡よりももっと大きな奇跡を我々にも見せてくれ、ここはお前の故郷なのだからというような、少し利己的要求を突きつける態度で、主を眺めていたのではないでしょうか。それで主は、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」というような話をなさったのだと思います。
    信仰と愛のない人々のためには、主も奇跡をなさいません。神の力によって為す奇跡は人々を楽しませるための見世物ではなく、神の国、神の働きの臨在を証しして、人々の信仰を堅固にするためのものですから。まず神の現存を信ずること、そして神への感謝と愛に生きようとすることが大切であり、それが神による奇跡の前提だと思います。サレプタのやもめは、極度の貧困故に一心に神に祈り求め、祈りつつ飢え死にを迎えようとしていたのではないでしょうか。またシリア人ナアマンは、イスラエルの神による癒しに希望を繋ぎつつ、たくさんの贈り物をもって遠路はるばるやって来たのではないでしょうか。いずれも、その心は神の働きに対する信仰や希望に生きていたと思われます。神に対するこのような信仰のある所では、神の国の到来を奇跡によって証ししようとなさる主もお働きに成れますが、ナザレの人々はこの世の社会的伝統や社会的上下関係などを、神信仰よりも重視していたのではないでしょうか。マタイ福音の13章とマルコ福音の6章にも、主が故郷ナザレを訪問なさった時のことが読まれますが、主が最後に「預言者が敬われないのは、ただ自分の郷里や親族の所だけである」とおっしゃると、本日のルカ福音に読まれますように、会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって主を町の外へ追い出したようです。主は人々の間を通り抜けて立ち去られましたが、マルコ福音には、人々の不信仰の故に「そこではただ少数の病人に手を置いて癒されただけで、他には何も奇跡を行うことができなかった」とありますから、どれ程不信仰の闇が強くなっている所でも、心がその社会の流れに抗して神信仰に生き、主の憐れみに縋る少数の人たちがいるなら、主はその人たちを奇跡によって救われるのではないでしょうか。

    ご存じのように、現代文明が人間生活の豊かさ・便利さを極度に発展させましたら、困難や貧困に耐えて互いに助け合って生きるという心の教育に欠如している、家族も社会も自分中心に利用しながら生きようとしている人間が世界中に激増して、家族も国家も、最近では伝統的生活共同体が内部から崩壊する危機を大きくして来ているように思われます。これからの時代には、心を開いてどれ程話し合ってみても、人間の力では解決し得ない問題が多くなると思います。しかし、私たちの神は人の心を内面から変えて清め高める力、心と心を結ぶ力をお持ちです。その神と深く結ばれ、神の御旨中心に生活するように、これ迄以上に励みましょう。そうすれば、罪の闇の深まる所に神の恵みもいや増すことを、幾度も体験すると信じます。

2016年1月26日火曜日

説教集C2013年:2013.1.26.藤沢の聖心の布教姉妹会で

第1朗読 テモテへの手紙二 1章1~8節
または、テトスへの手紙 1章1~5節
福音朗読 ルカによる福音書 10章1~9節

    私たちの住んでいる今の世界は、次第に終末的様相を濃くしています。創世記128節には、人祖をご自身に似せて創造なされた神は、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」と言われましたが、現代では人類が70億人を超えて全世界に広まり、水や食物やその他の資源やエネルギーにも不足し始めている程に大地に満ちています。しかも人類は、高度に発達した現代科学や技術革命でこの地球上の殆ど全ての情報を入手し、この地球に住む全ての生き物、動植物を意のままに支配しているようです。従って、創世記1章に読まれる神のお言葉は、そのまま実現していると考えてよいのではないでしょうか。しかし、私たち人間の生活を極度に便利にし豊かにして来たこの現代文明の進歩は、今や飽和状態に近付いており、神はこの世における人類文明のこれ以上の進歩発展は御望みになっておらず、この世の人類もその他の被造物もこれまでの一切の苦労や病や苦しみなどから解放されて、これからは神が栄光の内に支配しておられるあの世で、永遠に神と共に仕合わせに生きることを望んでおられると考えてよいのではないでしょうか。20世紀の終りに、現代科学がヒトゲノムまで解明して、創造神の御業の素晴らしさを明らかにした時、即ち何億という数の遺伝子情報が人間の体のごく小さな各細胞に書き込まれていることを立証した時、私は人類が創造の神の御業の素晴らしさをここまで明らかにした以上、人類がこの世で神の御業を研究して神を讃える使命は、もう終わりに近いのではないかと思いました。遠からずキリストの再臨する世の終りとなり、これからは私たちの本当の仕合わせな人生が始まるあの世に復活する時代になるのではないか、考えました。
    ヨハネの第一書簡には、「終りの時」に反キリスト、即ち悪霊たちが多く現れて活動するかのように記されていますが、これからの大きな変わり目の時代には、これまでになかったような新しい形の犯罪や災害が多発するかも知れません。日々祈りによって神と聖母マリアにしっかりと繋がれていましょう。聖母が、悪霊のわなから私たちを護り導いて下さると信じます。ルカ福音21章に主は、キリスト再臨の徴として「民は民に、国は国に逆らって立ちあがり、また大地震があり、方々に疫病や飢饉が発生するであろう」「日と月と星にしるしが現れ、地上では海が逆巻き荒れ狂うので」「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさと不安のあまり気を失うであろう。云々」「これらの事が起こり始めたら、恐れずに頭を上げなさい。あなた達の贖いの時が近づいているからである」と話しておられます。主のこのお言葉を忘れずに、身近に何かの災害や危険が発生したような時には、恐れずにすぐ神に心を向けて祈る習慣を今から身につけていましょう。主の予言なされた出来事は既に世界の各地に起こり始めている、と考えてよいかも知れません。しかし、「悪のいや増す所には、神からの恵みもいや増す」と言われています。恐れずに神との心の繋がり、羊飼いの声に聴き従う生き方を、日々の生活の中に根付かせるよう、実践的に努めていましょう。主も聖母も、そのように生きる信仰の人を必ず護り導いて下さいます。

    この世の政治の限界。原子炉の即時撤廃は、日本産業を凋落させ20万人も失業。しかし核廃棄物の処理には数百年必要。それに地震国の日本には巨大地震のエネルギーも火山爆発のマグマも蓄積中。Ps.18.18.災いの日には、神が支えて下さる。

2016年1月24日日曜日

説教集C2013年:2013年間第3主日(藤沢の聖心の布教姉妹会で)

第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節
福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節

    本日の第一朗読であるネヘミヤ記は13章から成っていて、7章までの前半はエルサレム城壁の修築について、8章からの後半は祭司エズラによる律法の公布と、総督ネヘミヤによるユダヤ社会の改革について扱っています。70年間余り続いたバビロン捕囚の後、バビロニアを滅ぼしたペルシャ帝国の王から、ユダヤ人たちに故国に帰って神殿を再建することが許され、必要な権限や資金も与えられると、ユダヤ人全員ではありませんでしたが、帰国したユダヤ人たちは、紀元前515年にまだ真に小さいながらも一応神殿を再建しました。しかし、隣国のサマリアを統治していたペルシア帝国の総督は、サマリア人たちをその神殿の再建にも儀式にも参加させず、サマリア人と共に生きようとしないユダヤ人たちの政治経済的再興に協力しなかったため、エルサレムは間もなく経済的に行き詰まり、やがて周辺諸部族による襲撃も受けて、神殿礼拝も行われなくなる程悲惨な状態になったようです。
    そこで、ペルシャの第二の都スサで帝王アルタクセルクセス1世に愛されて奉仕していたユダヤ人高官ネヘミヤは帝王に願い、エルサレム再建のために必要な権限と援助を与えて派遣してもらい、まずエルサレムを周辺の諸部族による襲撃から身を守るため、片手に剣を持たせ、片手に煉瓦を積み上げさせながら、壊されたエルサレムの城壁を修復させました。この工事が完成すると、ネヘミヤは一旦スサの都に戻って帝王から新たに権限と援助を受け、大祭司の家系出身者でモーセ五書の律法に精通していた祭司エズラの教えに基づき、ユダヤ社会を律法を基礎として再建することに尽力しました。
    エルサレムでのその宗教的祖国再建の初日についての話が、本日の第一朗読であります。祭司であり書記官であるエズラが、用意された木の壇の上に立ち、会衆に向かって荘厳に律法の書を読み聞かせ、レビ人がその意味を解き明かす行為を夜明けから正午頃まで繰り返し続け、最後に総督ネヘミヤと祭司エズラと解説したレビ人たちが、「今日は我らの主にささげられた聖なる日だ」と宣言して、この日を喜び祝うことにしたのでした。「嘆いたり泣いたりしてはならない」とあるのは、神から与えられたその律法を知らなかったために為していたこれまでの生き方の罪深さに囚われて、後ろ向きの後悔や悲しみに終始していてはならない、という意味だと思います。神によって自分の失敗、自分の罪に気づかせて頂いたなら、謙虚にそれを受け止めると同時に、感謝と新しい希望の内にすぐその失敗、その罪から立ち上がって生き始めたら良いのですから。ちょうど重い十字架を背負わせられた主イエスが、ゴルゴタへの途中で幾度倒れても、倒れたままに留まることなく、すぐにそこから立ち上がって歩まれたように。
    大祭司の家系の出身で、モーセ五書などの律法の研究に精通していた書記官エズラは、キリスト時代のファリサイ派からは「最初の律法学者」として尊敬されていた人であります。ネヘミヤ総督による祖国再建を、律法の研究と順守という宗教運動・宗教活動の基礎堅めによって支援し、その後のユダヤ社会を周辺諸国の異教文化や異教的慣習からきっぱりと分離独立したもの、エルサレムの神殿礼拝も民衆の宗教生活も、異教からは完全に分離独立した「ユダヤ教」と言われる宗教的流れにして、メシアを迎える信仰基盤や信仰教育を産み出した功労者でもあります。しかし私たちは、使徒パウロがガラテヤ書324~25節に書いている、次の言葉も忘れないようにしましょう。「こうして律法は、私たちが信仰によって正しい者とされるように、私たちをキリストに導く養育係となりました。しかし、この信仰の時代が来ましたので、私たちはもはや養育係の下にはおりません」という言葉であります。使徒がここで律法について書いていることを、現代の私たちは「カテキズム」と言い換えて受け止めることも、できると思います。
    旧約の律法もカテキズムも、私たちの心を神信仰・キリスト信仰に深く進ませるために神から与えられた貴重な恵みであり、信仰教育であります。この段階ではまだ私たち各人の頭に与えられている自然的人間理性が主導権を握っており、自力で理解したり決定したりしています。しかし神は、私たちの心がいつまでもその養育係の下に留まっていることを御望みにならず、聖霊の恵みを受けて神の霊的な導き・働きなどを正しく感知してそれに従う、私たちの奥底の心に神から与えられている預言者的信仰能力と従順心を目覚めさせ、この奥底の魂の霊的能力を磨いて神の僕・婢として神の御声、キリストの御声に従って生きる、新約時代に相応しい新しい信仰生活を営むことを強く求めておられます。この奥底の魂の能力は、理知的な能力ではありません。何よりも神よりの導きを鋭く感知しそれに従うことを第一にしている、あの世的な能力、預言者的な信仰能力であります。そこで主導権を握っているのは、もはやこの世の理性ではなく、あの世の霊であります。律法も「カテキズム」も、私たちの奥底の魂がこの霊によって主キリストの御声を聞き分け、それに従って生きるようになるまでの養育係であると思います。いつまでも人間の理知的聖書解釈中心の、頭の信仰生活に留まっていてはなりません。善い羊飼いであられる主は、もっと直接にその時その時の主の御声を正しく聞き分けて、従ってくれる羊たちを求めておられるのですから。

    そのような羊たちは、仏教や他の宗教の中にもたくさんいると思います。主は善い羊飼いの譬え話の中で、「私にはまだこの囲いに入っていない羊たちもいる。私は彼らも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる」などと話しておられるからです。この世の人生を営んでいる間の外的宗教思想は、多様化していても構わないと思います。あの世に行けば、全ては神ご自身によって清められ高められて、完全なものに補足修正されるのですから。ただ大切なのは、奥底の魂が目覚めて、神の僕・婢として主の御声を正しく聞き分け、日々主の御声に従って行く、従順心に生きている否かだと思います。「信仰年」に当たり、自分の日常茶飯事を振り返り、自分の魂が果たして主の御声を聞き分けているか否かを吟味してみましょう。そして自分の理解や考えを第一にする頭の信仰生活ではなく、何よりも主の御声に従順に聴き従う実践を優先する心の信仰生活を営むように努めましょう。

2016年1月17日日曜日

説教集C2013年:2013年間第2主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 62章1~5節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章4~11節
福音朗読 ヨハネによる福音書 2章1~11節

    本日の第一朗読の出典であるイザヤ書の、56章から最後の66章までは、バビロン捕囚から解放される希望や喜びについての預言である第二イザヤ書には出てこない、安息日や神殿についての記事が登場することから、神の民が既にエルサレムに戻り、破壊された神殿を再建していた頃に預言されたもので、「第三イザヤ書」と言われています。当時のエルサレムには数々の大きな問題や困難が山積していたと思われますが、本日の朗読箇所ではエルサレムが擬人化されて、神から「あなた」と親しく呼びかけられています。そして「あなたは再び捨てられた女と呼ばれることなく、あなたの土地は再び荒廃と呼ばれることはない」などと、神の特別な愛と保護が約束されています。神から神の御手に抱かれた王冠や花嫁のように愛の御眼をかけられている、この悩み苦しんでいたエルサレムを、数多くの問題を抱えて苦悩している現代の教会のシンボルと観ることも許されると思います。司祭・修道者の老齢化や減少で、将来が絶望的と思われることもありますが、全能の神の愛にあくまでも信頼し続け、忍耐と希望の内にこの苦境を乗り切るよう心がけましょう。どれ程問題が山積していても、神の御旨に対する私たちの信頼と従順が揺るがないなら、全能の神は必ず全てを終りが良くなるよう導き助けて下さいます。
    本日の第二朗読には、神の賜物(ギリシャ語でカリスマ)についての使徒パウロの見解が述べられています。それによりますと、カリスマはその人の訓練・努力によって目覚め磨かれるような魂の能力、現代の流行語で言えば個人的な「超能力」ではなく、神の霊によって無償で与えられる神の働きであり、その働きには様々な種類があります。それらの働きをなさるのは、全て神ご自身のようです。そして神は、共同体全体の利益のために、一人一人の内に相異なるそのような働きをなさるのだそうです。神の霊は、私たち一人一人の内にもそのように働いておられます。自分中心の人間的考えを慎み、聖母マリアのように神の僕・婢となって、明日の事、将来の事は皆目知らなくても、聖霊の働きに徹底的に従う精神が大切だと思います。
    紀元前2世紀の中頃に、カルタゴと同様にローマ軍によっていったん完全に滅ぼされてしまった港湾都市コリントには、その後当時の世界各地から夢多い有能な若者たちが次々と数多く流れ込み、それぞれ出身地の古い伝統から完全に解放された自由な雰囲気の中で、新しい港湾都市、新しい社会の建設に競って働いていました。地の利を得て経済的にも大きく発展しつつあったこの若さと自由の精神に溢れているコリントで、使徒パウロによって創始された教会内にも、聖霊は積極的に働いて、いろいろのカリスマに恵まれた信徒たちが活躍していたようです。その恵みを自分個人の能力と誤解することのないよう、パウロはその書簡にこのような教えを書いたのだと思われます。古い伝統的組織がその統制力を失いつつある現代においても、各地で頻発する恐ろしい悪魔的事件や災害・不幸に抗して、神の霊は人目につかない様々の新しい形の働きを展開しておられるのではないでしょうか。キリスト者の中だけではなく、善意ある異教徒や無宗教者の中でも、教会の祈りや私たちの必要に応えて聖霊が働いておられると思います。目には見えなくても、心を大きく開いて聖霊のそのような働きに感謝しつつ、世界の平和のため、また全ての人の贖いのため、今後も明るい希望の内に日々の祈りと捧げに励みましょう。
    本日の福音は、主がガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えて、結婚祝宴の最中にぶどう酒不足に困っていた家庭に、そっと大量のぶどう酒をお与えになった奇跡の話です。使徒ヨハネはこれを「しるし」と書いています。私たちが表面の力ある業・奇跡的出来事にだけ心を奪われ、神介入のしるしと、そこに込められている神のメッセージを見逃さないように、との配慮からだと思います。結婚式に招かれて出席した人が多すぎたのか、祝宴の最中に台所の葡萄酒がもう無くなりかけていることに気づかれた聖母マリアは、そのことをそっと主に知らせます。台所にまで心を配る女性特有の細やかな配慮からの行為であったと思われます。祝宴の席から台所の方へ行かれた主は、聖母に「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」と、冷たいような謎めいたお言葉をおっしゃいました。しかし、拒絶なさったのではなく、「母よ」といわれなかった事から察しますと、主はここであのエルサレム神殿での12歳の時のように、この世の母子の人間関係から離れ、天の御父との特別の霊的関係にお入りになって、葡萄酒の不足という差し迫った困窮事態に注目しておられること、そして天の御父からの使命達成のために働こうとしておられることを知らせる言葉であったと思われます。
    神が提供される終末の日の祝宴について預言している、イザヤ書の256~8節では、葡萄酒は、神が死を永久に滅ぼして神の民の恥を地上からぬぐい去り、全ての民にお与えになる救いのシンボルとされています。主は、この預言を考えておられたのかも知れません。主の受難死によって成就され提供されるに到るその救いの時はまだ来ていませんが、いま目前にぶどう酒不足で大恥をかくことになる新婚夫婦の差し迫った危機を前にして、神による終末の大祝宴の前兆をここで人々に味わわせるのが天の御父の御旨である、と主はお考えになったのではないでしょうか。台所での主のその御態度から、主が天の御父から使命を受けて何かをして下さろうとしておられるのを感じ取った聖母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言いました。神が何かをして下さろうとしている時には、一切の人間的判断を控えて、ただ神のみに従おうとする精神が大切だからです。
    そこには清めのための水がめが六つ置いてありましたが、いずれも2乃至3メトレテス入りとありますから、80リットルから120リットル位も入るような大きな水がめだと思います。主がそこに皆、水をいっぱいに満たさせ、それを無言のうちに最上等のぶどう酒に変えて、祝宴に集まっている人々に提供なされたとすると、これは真に驚嘆に値する奇跡であります。しかしそれは、神が終末の日に救われる全人類に提供しようとしておられる大祝宴の、まだほんの小さな小さな前兆でしかないのです。私たちに対する全能の父なる神の絶大な愛と、日々のご配慮に感謝しつつ、明るい大きな希望のうちに本日のミサ聖祭を献げましょう。

    同時に、神の働きを妨げて止まない私たちの心に住みついている煩悩を抑制し、排斥することにも心がけましょう。戦後の自由主義・民主主義の教育を受けて育った日本人の中には、社会も親も自然界も何でも自分の欲中心に利用しようとする生き方が、ごく自然に定着しているかと思いますが、これが古来仏教者が警告している、煩悩中心の生き方だと思います。私が度々警告しているように、神はこれからの終末時代にそのような煩悩中心・人間の欲望中心の罪の世を徹底的に浄化するため、これまでの世界には無かったような各種の恐ろしい天罰、寒冷・暑熱・暴風・旱魃、それに水不足・不作・疫病蔓延等々で、現代人の文明生活ばかりでなく、この世を徹底的に崩壊させようとなさるかも知れません。しかし、仏教者の言う阿頼耶識、即ち奥底の心に宿る胎児の時以来の本来の自分の素直な心に立ち帰って、頭の理知的考えに根を張る、仏教者が「客塵」と呼んでいるよそ者を排斥するなら、私たちは神の働きによって救われると思います。一週間前に学んだ洗礼者ヨハネの洗礼を受けて、我なしの精神で生き始めるなら、神の聖霊の働きにより新しい道が私たちの前に開かれて来るのではないでしょうか。主キリストの御模範に習って神の御旨中心主義のこの道を歩む恵みを願いつつ、その道を歩み続けましょう。

2016年1月10日日曜日

説教集C2013年:2013主の洗礼(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節

    本日の第一朗読であるイザヤ書は、1章から39章までは神の民の罪を糾弾して神の裁きについて預言している紀元前8世紀の第一イザヤのものですが、40章から54章までは紀元前6世紀のバビロン捕囚頃の第二イザヤのものとされています。この第二イザヤ書は、旧約聖書の中でも新約時代の喜びの福音に最も近い預言書の一つと言ってよいと思います。本日ここで朗読された個所は、その第二イザヤ書の序曲ともいうべき個所であります。はじめに「慰めよ」という神の御言葉が二度も繰り返されています。神はバビロンの大軍によってエルサレムが滅ぼされ捕囚の身となった神の民に、全能の神の力に頼って生きる、新しい希望と喜びを与えようとしておられるのだと思います。しかし、羊の群れを導き養われる羊飼いのように働かれる神の導きと働きに聞き従うには、人間の考えや望み中心に生きて来たこれまでの生き方に死んで、神のお導きや御旨中心に生きようとする素直な幼子や小羊の心に立ち返り、これまでの生き方で築かれた諸々の山や丘を崩し、荒れ地を平らにならす必要があります。第二イザヤは、神の御旨中心の神の僕・神の婢のその新しい生き方を教えようとしているのだと思います。本日の福音に登場する洗礼者ヨハネも、民衆にそのような新しい生き方をさせるために悔い改めの説教をなし、水による悔い改めの洗礼を授け始めたのだと思います。
    ところがメシアである主イエスが、民衆の群れに混じってヨハネの洗礼を受けに来たので、ヨハネは驚いたと思います。マタイ福音によると、ヨハネは恐縮して「この私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と申し上げて、主に受洗を思い止まらせようとしましたが、主は「今はそうさせてくれ。このように全ての義を満たすのは、私たちに相応しいことだから」と答えて、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになりました。もし主のこの受洗が公然と書き残されるなら、主は清めを必要としている罪人だったと誤解される恐れがあります。そこでマタイは、二人の間のこのような会話を福音に載せたのだと思います。誤解される恐れが大きいにも拘らず、四人の福音史家が揃って主の受洗について書いていることを考えると、主の受洗は、人類救済の上に大きな意味を持つ史実であったと思われます。それはどんな意味でしょうか。察するに、公生活を始める当たって、まず主御自ら全人類の罪を背負い、罪深い民衆の中の一人となってヨハネから悔い改めの洗礼を受けるのが、天の御父の御旨だったのではないでしょうか。主のお言葉にある「義」という言葉は、御父神のこの御旨のことを指していると思います。
    主がヨルダン川の濁流に全く沈められ、そこからすぐに立ち上がって神に祈られると、天が開け、聖霊が鳩の姿で主の上に降って来ました。そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、聞こえて来ました。それは、詩篇2番とイザヤ42章に預言されていた通りの言葉ですが、同時に聖霊が主の上に降ることによって、洗礼者ヨハネに予め掲示されヨハネが預言していた通りに、この方が聖霊によって洗礼を授けるメシアであることを、神ご自身が証しなされたことを示す、言わば一種の主の御公現であると思います。こう考えますと、ヨルダン川での主の受洗は、救い主としての務めへの主の就任式といってもよいのではないでしょうか。そして聖霊の降下は、その任務を遂行する力の授与だったのではないでしょうか。救われるべき民衆と救い主とを結ぶ接点、それがメシアご自身もお受けになった、ヨハネの悔い改めの洗礼であると思います。
    私たちも、救い主による救いの恵みを受けて豊かな実を結ぶには、悔い改めの洗礼を受けて各人の奥底の魂の肌に深い傷をつける必要があるのではないでしょうか。さもないと、救い主の功徳による洗礼の秘跡を受けても、その恵みは魂の奥にまでは入り込まず、魂の奥にはいつまでも原罪の名残である自我中心の精神が居残っていて、魂が神の愛に全面的に生かされて生きることができないのではないでしょうか。新約時代の恵みは、旧約時代の準備を基礎にして与えられたものです。キリストによる洗礼の秘跡を受けた者には、洗礼者ヨハネの説く悔い改めは必要ないなどと、短絡的に考えないようにしましょう。洗礼者ヨハネから受洗なされた主は、今の私たちにも、「我に従え」とおっしゃっておられると思います。
    本日の第二朗読には、「私たちが行った義の業によってではなく」という使徒パウロの言葉が読まれます。私たちが救われるのは、神のために為した自分の努力や実績によるのではありません。私たちは一旦自分に絶望し、自分に死んでひたすら神の憐れみに縋る必要があります。その生き方へと魂を立ち上がらせるヨハネの悔い改めの洗礼は、現代の私たちにとっても必要であると思います。主はそのことを教えるためにも、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。主に見習って、私たちも日々悔い改めに励み、魂の奥底にまだ残っている自我の部厚い肌に深い傷をつけつつ、その傷から新約時代の洗礼の水が魂の奥にまで入り込むように致しましょう。そのための勇気と忍耐の恵みを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

    「カトリック教会のカテキズム」発布20周年に当たる昨年の1011日から、私たちは「信仰年」として信仰を深めることに努めていますが、誰が呼びかけたのか知りませんが、わが国のカトリック界ではカテキズムを改めて学び直そうとする読書が流行っているようです。しかし、私たち現代人が必要としている信仰は、頭で学び知る理知的な信仰ではなく、心で具体的に実践する信仰の生き方であります。教皇がこの「信仰年」を発表した自発教令「信仰の門」の中では、信仰の理論を学ぶことではなく、何よりも信仰の具体的生き方の実例が強調されています。生涯「神の婢」として生活なされた聖母マリア、全てを棄てて主に従った使徒たち、命を捧げて福音の真理を証しした殉教者たち、福音に基づく従順・清貧・貞潔を生き抜いた修道者の模範等々です。自分の聖書理解や信仰理解を中心にして神を遠くから崇めていたファリサイ派のパン種を完全に捨て去り、己を無にしてその時その時の神の導きにすぐ従う神の小羊、神の僕・婢の生き方、何よりもそれをしっかりと日々の生活の中で身につけるのが、「信仰年」の一番大切な目標だと思います。神がこれ迄とは全く違う新しい働き方をなさるこれからの終末時代には、人間理性中心の思考ではなく、あの世の神の働きへの徹底的従順中心の僕・婢の生き方が、特に大切だと思います。人間の理性や技術はこの世の生活のために神から与えられた貴重な能力ですが、神が自己中心的な罪に穢れたこの世を破滅させようとなさる終末時代には、それは大きな天罰と不幸を招くと思います。ですから今の教皇は、公会議直後のパウロ六世教皇に次いで「信仰年」を新たに設け、信徒の信仰生活の喚起を促したのだと思います。私たちの日々の生活が神の現存信仰や、神の僕・婢の精神で実践されているかを振り返り、自己中心の精神で生きていた無数の人々の罪を背負って己に死んだ主キリストと共に、私たちもこれまでの利己的な奥底の魂の生き方に死んで、主キリストの器、神の僕・婢として生きる恵みを願い求めましょう。

2016年1月3日日曜日

説教集C2013年:2013年主の公現(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

    「公現」とは、「公に現れる」あるいは「公に現わす」ことを意味していますが、「主の公現」の祭日では、本日の福音に読まれるように、東方の占星術の博士たちがエルサレムに来て、ユダヤ人の王としてお生まれになった幼児の居場所を尋ね、ベトレヘムでその幼児を拝んだ出来事と、その主がナザレトでの私生活の後に、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから受洗したら、天から「これはわが愛する子」という声が聞こえて、神ご自身が主をメシアとして公に宣言なさった出来事、ならびに主がその後カナで結婚の祝いに参加なさり、大量の水を葡萄酒に変える奇跡を行って、ご自身が全能の救い主であることを初めて実証なさった出来事の三つを合わせて、特別に記念しています。
    本日の福音に戻りますと、ヘロデ大王は東方の博士たちの言葉を聞いてなぜ不安になり、エルサレムの人々も皆同様に不安になったのでしょうか。ヘロデはユダヤ人ではなく、エサウの子孫とされるエドゥマイヤ人の出身で、ローマの将軍アントニウスがBC42年にオリエント諸国を征服し、ユダヤをローマ軍に降伏した大祭司ヒルカノス2世に支配させた時、アントニウスに巧みに取り入って、ヒルカノス2世の支配をエドゥマイヤ人の一族を挙げて擁護する命令を受けた人間であります。しかし、ローマ軍がいなくなると、ローマに恨みを持つユダヤ人たちが、東方の強力なパルツィア人たちと組んで、大祭司を騙してエルサレムの外へ誘い出し、捕えてバビロンに連行してしまいました。そして別の大祭司を選び、エルサレムを奪い取る動きを始めました。それで少数の兵と共に神殿の留守を担当していたヘロデは、夜に急いでエルサレムから逃げ、大祭司の娘と孫娘、並びに自分の一族郎党をエルサレムの南66キロの死海を見下ろす山の要塞マサダに滞在させて、自分はローマに行って二人の将軍アントニウスとオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス皇帝)に会って、支援を願いました。二人の将軍は若いヘロデのこの積極性を高く評価し、元老院に紹介してヘロデをユダヤの国王に任命してもらいました。ローマ軍の援助を受けたヘロデはパルツィア軍や反乱軍を次々と撃ち破ってエルサレムを取り戻し、BC37年に王位に就きましたが、耳を切られてバビロンに連れて行かれた大祭司をエルサレムに迎えて優遇し、大祭司の孫娘を王妃に迎えて、自分の子孫の血筋を高めることにも努めていました。しかし、かつて自分と戦ったユダヤ人反乱軍の徒党はほとんど皆粛正され、定員70名の衆議所の議員の内45名も死刑にされたので、ユダヤ人の間にはヘロデ王に恨みを持っている人が少なくありませんでした。
    BC30年にアントニウスに勝ったオクタヴィアヌスがローマの初代皇帝の位に就き、シルクロード貿易を積極的に支援して商工業を発展させる平和外交を盛んにすると、由緒ある神殿の建つエルサレムにも国際貿易商が押し寄せるようになりましたが、その人たちを優遇して間接税で大儲けをするようになったヘロデ王は、多くのユダヤ人の支持を得るためか、BC20年からエルサレム神殿をもっと大きく美しく改築する工事に着手しました。ギリシャから招聘した建築士ニカノールに活躍させ、大量の美しい大理石も買い集めました。神殿の周囲にあったソロモン王のハーレムの跡地は整理されて、異邦人もそこで祈ることのできる広々とした神殿の外庭になり、その周囲に「ソロモンの回廊」と言われた大理石の四列の大柱廊をめぐらせました。中央と左右の三つの門からなる「美しの門」と言われた神殿の東に新築された正門は、多くの異邦人の讃嘆の的でもありました。その東にあったエルサレムの城門は、当時の人々によって東から来られるメシアが入城する門と信じられていたようです。それでヘロデ王は「黄金の門」とも呼ばれたこの総門の上に、ローマのシンボルであった鷲の紋章を掲げさせ、これだけはユダヤ人たちからどれ程反対されても、取り下げようとしませんでした。当時の人々によってユダヤをローマから独立させると信じられていたメシアが現れても、自分はローマと結託して自分の王権を譲らないという意志表示でした。
    そのヘロデ大王の晩年に、国際的に高く評価されていた東方の占星術の博士たちが、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか」「東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」と言ったので、王は急に不安になりました。そしてエルサレムの人々も皆不安になったというのは、残酷なヘロデ大王がまた新たに多くのユダヤ人を殺すのではないか、と怖れたからだと思います。ヘロデは祭司長たちや律法学者たちからベトレヘムに生まれることになっていると聞き、占星術の博士たちから星の現れた時期を聞くことのできたので、ひと安心したと思います。メシアがまだ幼いうちに殺してしまおう、考えたでしょうから。「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も拝みに行こう」と言って快く博士たちを送り出したのですが、その博士たちに密かに密偵を伴わせる慎重さには欠けていました。しかし、後で神が博士たちの夢に介入し、彼らを別の道を通って東方に帰してしまわれると、ヘロデ大王は怒って、ベトレヘムとその周辺の男の幼子たちを皆殺しにするという、残忍なことをさせています。しかし、神の御子を殺すことはできませんでした。
    自由主義・民主主義・人間中心主義の空気を吸いながら生まれ育った現代人たちの中にも、ヘロデのような精神の人間や、2千年前のユダヤ教祭司長や律法学者たちのような生き方をしている人たちは無数にいると思います。現代社会の下層で抑圧されている人たち・小さい人・貧しい人たちの中で隠れて現存しておられる主キリストは、そういう自分中心・わが党主義の生き方をしている人たちによって、日々人知れず様々なしわ寄せを受けておられるのではないでしょうか。現代社会の表向きの華々しい発展や黒潮のように力強い流れだけに目を向けることなく、深い海の底の栄養豊かな深層水の静かなゆっくりとした流れにも、心の眼を向けるよう心がけましょう。主はその深層水のようにして、人知れず静かに私たちの生活に、また現代社会の流れに伴っておられると信じます。

    同じその救い主は、私たち信仰者各人の心の内にも、洗礼・聖体などの秘跡によって特別に現存しておられます。もし私たち各人の心がこの信仰の真理に目覚めて、日常生活をその救い主と共に営むならば、主は私たちの心の中でも王となられ、各人の心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。主キリストの、私たち各人の心の中でのこの目に見えない現存、来臨に対する信仰を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2016年1月1日金曜日

説教集C2013年:2013年神の母聖マリアの祝日(三ケ日)

第1朗読 民数記 6章22~27節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節

    年末の末という漢字と未来の未という漢字は、辞書によりますと、どちらも木の梢を意味していて、それはその木のこれまでの生長の最後を示すと同時に、これからの生長の始まりを示している、と説明されています。昔の人は、人の心は人生の始めにも終りにも、小さな梢・幼児のようになると考えていたのかも知れません。しかし、その小さな梢には、命の本源であられる神の若々しい力が特別濃厚に伴っていると思います。神は特に小さな梢・小さな存在に関心を持たれてそこに現存し、新しく働こうとしておられるのだと思います。新しい年を迎えた私たちも、まずその神に心の眼を向け、これからの一年を神にお捧げして、その恵みを祈り求めましょう。
    元旦はカトリック教会で「世界平和の日」とされており、世界平和のために特別に祈る日ですので、このミサ聖祭も、ローマ教皇の意向に従い、全世界の教会と一致して世界平和のために神の照らしと導きの恵みを願い求めてお献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。第二ヴァチカン公会議は19621011日、聖母マリアの「神の母性」の祝日に始まりましたが、ラテン語でMaternitas Dei(神の母性)の祝日とされていた聖マリアのこの祭日は、公会議後の典礼刷新で元日に移され、「神の母聖マリア」の祭日とされました。そして日本のカトリック教会では、教皇庁からの二度にわたる強い要望に応えて、クリスマスと共にカトリック者の「守るべき祝日」とされています。わが国では家族が揃って元日を祝うのが古くからの慣例になっていますので、カトリック者だけが信者でない家族から離れて教会に行くのは好ましくないという配慮からか、司教団も司祭たちも、年に二回のこの「守るべき祝日」について強調しないので、わが国ではその規定について知らずにいるカトリック者が大勢います。しかし、せめて私たちはその人たちの不足面を補い、「日のもとの国」と言われるこの日本で、神にミサ聖祭を通して感謝と讃美を捧げましょう。
    「私は主の婢です」と返事して、神の御子を懐妊することに承諾し、神の母となられた聖母マリアについて黙想する時、私はよく紀元2世紀から3世紀初頭にかけての偉大な教父聖エイレナイオスの模範に倣って、創世紀の神話の中で教えられている人祖の罪も考え合わせます。使徒ヨハネの孫弟子である聖エイレナイオスは、2世紀に流行した各種グノーシス異端を批判し退けたその著『異端駁論』の中で、人祖エワと聖母マリアの精神の違いを明記しているので、「マリア学の生みの親」とも呼ばれています。神はアダムをお創りになった時、その鼻に命の息を吹き入れて、それまでにお創りになった全てのものを支配するようお命じになりました。ここで「命」とあるのは、刻々と過ぎ行く儚いこの世の命だけではなく、永遠に死ぬことのないあの世の命、神の愛の霊が参与させて下さる超自然の命をも指していたと思います。そのアダムの助け手としてアダムの体から創られたエワも、同じ愛の命の息を受けていたと思います。また人祖に与えられた「支配せよ」という命令は、自分中心に支配せよという意味ではなく、神から吹き入れられたその愛の息吹、神の御旨中心に生きる超自然的命の導きに従って、神の子として支配せよという意味だと思います。
    エデンの園の中央には命の木善悪の知識の木が生えていましたが、もし人祖たちがその命の木の実を食べていたら、彼らの心の内に神の奉仕的愛の命が逞しく育って来て立派に全ての被造物を統治しただけではなく、死の苦しみを味わうことなく、神の永遠の栄光へと召し上げられていたと思います。しかし、エワは好奇心に駆られてか、まず善悪の知識の木に近付き、蛇の姿をとって現れた悪霊に「神のようになる」と騙されて、じっくりとその木の実を眺め、それを食べると神のように賢くなるように思ってしまいました。それでその木の実と取って食べ、夫アダムにも食べさせました。すると途端に、それまで自分たちの心を支えていた神の奉仕的愛の息吹は消えてしまい、心は急に寂しく不安になったようです。神の被造物・神の所有物・神の愛の道具として、神の御旨中心に、いわば神の僕・婢となって神の支配に奉仕する生き方を拒み、神のように賢くなろう、自分中心に自分の力で自由に生きようとしたからだと思います。彼らはまず自分が裸であることに気づき、いちじくの葉をつづり合わせて、自分の腰を覆うものを作りました。これからも、神のお創りになった神の所有物を、次々と自分の望みのまま自分のために利用しながら、自分中心に生き続けることになるでしょうが、神の奉仕的愛の息吹に内面から生かされていないその生き方、その精神が、神の忌み嫌われる罪というものだと思います。善悪の知識の木の実は自分たちにとって善か悪か、自分たちにとって善か悪か、利用価値があるか否かの、人間中心主義の知識や判断を優先させる木の実だったようです。
    2千年前のユダヤでは、ユダヤ教指導層のサドカイ派やファリサイ派の人たちも、自分たちの望み中心、自分たちの知識や聖書解釈を中心にユダヤ社会を指導し、神の御旨中心に生きるよう悔い改めを説く洗礼者ヨハネの呼びかけには耳を貸そうとしませんでした。小さな者・弱い者を冷たく蔑視していたそういう人たちの統治するユダヤ社会の、貧しい最下層に神の御子がか弱い幼子の姿で生まれ、自分の手に抱かれているのを見た時、聖母マリアはどれ程深い感動を覚えたことでしょうか。神の婢として小さく清く生きておられた聖母は、マグニフィカトの讃歌にあるように、これからは小さな者・弱い者を介して神の救いの力が働き、奢り暮らす者たちを退け、見捨てられた人を高めて下さる新しい時代が始まったのだ、という感動を新たにしたことでしょう。新しい年の始めに当たり、私たちもその感動を改めて想起し、追体験するよう心がけましょう。
    当時の僕や婢は、主人がどういう将来計画を持っているか具体的には何も知らず、ただその時その時の主人の言葉に従って奉仕するだけでした。聖母マリアも同様に、これからの自分の人生が、また神から授かったこの幼子の人生がどのようなものになるか、将来の出来事については全く知らず、ただその時その時に神から示される御旨にすぐ忠実に従おうとしておられただけであったと思います。夜中に急いでエジプトへと避難したり、またナザレトの平凡な貧乏生活に隠れたりと、その人生は波乱に富んでいました。しかし、最低限必要なものはその時その時に神から支給されていたと思います。人類が最も必要としている救いも平和の恵みも、人目に隠れたこの小さな僕・婢たちの従順をお喜びになる神ご自身によって準備され、提供される恵みであると思います。

    今年一年、私たちの将来に何が待っているか、どんな幸運あるいは不運が訪れようとしているのか、私たちも全く知りません。しかし、僕・婢の精神で日々何よりも神の御旨に心の眼を向けながら、神への信頼と愛の内に生きておられた聖家族の模範にならい、私たちも今年一年同様の精神で生きる決心を新たに神にお献げしましょう。そうすれば、神は私たちのその小さな心がけをご覧になって、世界平和のためにも多くの人の幸せのためにも、ご自身で人々の心の中にお働き下さると信じます。平和の基礎は自分中心に考え主張する心に死んで、相手と共に仲良く生きようとする自己犠牲的奉仕的愛の精神にあると思いますが、このような愛は、神の働きによって心の中に生まれ育つ神の恵みであると信じます。神はその御旨を屡々平凡な日常茶飯事の中で出遭うごく小さな出来事や兆しを介してお示しになります。それらを軽視しないよう、心がけましょう。そして神の御旨中心の従順心を磨く導きと、神のお働きを鋭敏に感知する信仰のセンスも祈り求めましょう。こうして今年も神による救いと平和の恵みが、多くの人の上に豊かに与えられるよう願いつつ、本日の感謝の祭儀を献げましょう。