2016年1月10日日曜日

説教集C2013年:2013主の洗礼(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節

    本日の第一朗読であるイザヤ書は、1章から39章までは神の民の罪を糾弾して神の裁きについて預言している紀元前8世紀の第一イザヤのものですが、40章から54章までは紀元前6世紀のバビロン捕囚頃の第二イザヤのものとされています。この第二イザヤ書は、旧約聖書の中でも新約時代の喜びの福音に最も近い預言書の一つと言ってよいと思います。本日ここで朗読された個所は、その第二イザヤ書の序曲ともいうべき個所であります。はじめに「慰めよ」という神の御言葉が二度も繰り返されています。神はバビロンの大軍によってエルサレムが滅ぼされ捕囚の身となった神の民に、全能の神の力に頼って生きる、新しい希望と喜びを与えようとしておられるのだと思います。しかし、羊の群れを導き養われる羊飼いのように働かれる神の導きと働きに聞き従うには、人間の考えや望み中心に生きて来たこれまでの生き方に死んで、神のお導きや御旨中心に生きようとする素直な幼子や小羊の心に立ち返り、これまでの生き方で築かれた諸々の山や丘を崩し、荒れ地を平らにならす必要があります。第二イザヤは、神の御旨中心の神の僕・神の婢のその新しい生き方を教えようとしているのだと思います。本日の福音に登場する洗礼者ヨハネも、民衆にそのような新しい生き方をさせるために悔い改めの説教をなし、水による悔い改めの洗礼を授け始めたのだと思います。
    ところがメシアである主イエスが、民衆の群れに混じってヨハネの洗礼を受けに来たので、ヨハネは驚いたと思います。マタイ福音によると、ヨハネは恐縮して「この私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と申し上げて、主に受洗を思い止まらせようとしましたが、主は「今はそうさせてくれ。このように全ての義を満たすのは、私たちに相応しいことだから」と答えて、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになりました。もし主のこの受洗が公然と書き残されるなら、主は清めを必要としている罪人だったと誤解される恐れがあります。そこでマタイは、二人の間のこのような会話を福音に載せたのだと思います。誤解される恐れが大きいにも拘らず、四人の福音史家が揃って主の受洗について書いていることを考えると、主の受洗は、人類救済の上に大きな意味を持つ史実であったと思われます。それはどんな意味でしょうか。察するに、公生活を始める当たって、まず主御自ら全人類の罪を背負い、罪深い民衆の中の一人となってヨハネから悔い改めの洗礼を受けるのが、天の御父の御旨だったのではないでしょうか。主のお言葉にある「義」という言葉は、御父神のこの御旨のことを指していると思います。
    主がヨルダン川の濁流に全く沈められ、そこからすぐに立ち上がって神に祈られると、天が開け、聖霊が鳩の姿で主の上に降って来ました。そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、聞こえて来ました。それは、詩篇2番とイザヤ42章に預言されていた通りの言葉ですが、同時に聖霊が主の上に降ることによって、洗礼者ヨハネに予め掲示されヨハネが預言していた通りに、この方が聖霊によって洗礼を授けるメシアであることを、神ご自身が証しなされたことを示す、言わば一種の主の御公現であると思います。こう考えますと、ヨルダン川での主の受洗は、救い主としての務めへの主の就任式といってもよいのではないでしょうか。そして聖霊の降下は、その任務を遂行する力の授与だったのではないでしょうか。救われるべき民衆と救い主とを結ぶ接点、それがメシアご自身もお受けになった、ヨハネの悔い改めの洗礼であると思います。
    私たちも、救い主による救いの恵みを受けて豊かな実を結ぶには、悔い改めの洗礼を受けて各人の奥底の魂の肌に深い傷をつける必要があるのではないでしょうか。さもないと、救い主の功徳による洗礼の秘跡を受けても、その恵みは魂の奥にまでは入り込まず、魂の奥にはいつまでも原罪の名残である自我中心の精神が居残っていて、魂が神の愛に全面的に生かされて生きることができないのではないでしょうか。新約時代の恵みは、旧約時代の準備を基礎にして与えられたものです。キリストによる洗礼の秘跡を受けた者には、洗礼者ヨハネの説く悔い改めは必要ないなどと、短絡的に考えないようにしましょう。洗礼者ヨハネから受洗なされた主は、今の私たちにも、「我に従え」とおっしゃっておられると思います。
    本日の第二朗読には、「私たちが行った義の業によってではなく」という使徒パウロの言葉が読まれます。私たちが救われるのは、神のために為した自分の努力や実績によるのではありません。私たちは一旦自分に絶望し、自分に死んでひたすら神の憐れみに縋る必要があります。その生き方へと魂を立ち上がらせるヨハネの悔い改めの洗礼は、現代の私たちにとっても必要であると思います。主はそのことを教えるためにも、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。主に見習って、私たちも日々悔い改めに励み、魂の奥底にまだ残っている自我の部厚い肌に深い傷をつけつつ、その傷から新約時代の洗礼の水が魂の奥にまで入り込むように致しましょう。そのための勇気と忍耐の恵みを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

    「カトリック教会のカテキズム」発布20周年に当たる昨年の1011日から、私たちは「信仰年」として信仰を深めることに努めていますが、誰が呼びかけたのか知りませんが、わが国のカトリック界ではカテキズムを改めて学び直そうとする読書が流行っているようです。しかし、私たち現代人が必要としている信仰は、頭で学び知る理知的な信仰ではなく、心で具体的に実践する信仰の生き方であります。教皇がこの「信仰年」を発表した自発教令「信仰の門」の中では、信仰の理論を学ぶことではなく、何よりも信仰の具体的生き方の実例が強調されています。生涯「神の婢」として生活なされた聖母マリア、全てを棄てて主に従った使徒たち、命を捧げて福音の真理を証しした殉教者たち、福音に基づく従順・清貧・貞潔を生き抜いた修道者の模範等々です。自分の聖書理解や信仰理解を中心にして神を遠くから崇めていたファリサイ派のパン種を完全に捨て去り、己を無にしてその時その時の神の導きにすぐ従う神の小羊、神の僕・婢の生き方、何よりもそれをしっかりと日々の生活の中で身につけるのが、「信仰年」の一番大切な目標だと思います。神がこれ迄とは全く違う新しい働き方をなさるこれからの終末時代には、人間理性中心の思考ではなく、あの世の神の働きへの徹底的従順中心の僕・婢の生き方が、特に大切だと思います。人間の理性や技術はこの世の生活のために神から与えられた貴重な能力ですが、神が自己中心的な罪に穢れたこの世を破滅させようとなさる終末時代には、それは大きな天罰と不幸を招くと思います。ですから今の教皇は、公会議直後のパウロ六世教皇に次いで「信仰年」を新たに設け、信徒の信仰生活の喚起を促したのだと思います。私たちの日々の生活が神の現存信仰や、神の僕・婢の精神で実践されているかを振り返り、自己中心の精神で生きていた無数の人々の罪を背負って己に死んだ主キリストと共に、私たちもこれまでの利己的な奥底の魂の生き方に死んで、主キリストの器、神の僕・婢として生きる恵みを願い求めましょう。