2016年1月31日日曜日

説教集C2013年:2013年間第4主日(三ケ日)

第1朗読 エレミヤ書 1章4~5、17~19節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章31~13章13節
福音朗読 ルカによる福音書 4章21~30節

    本日の第一朗読は、紀元前7世紀の後半にエレミヤを預言者として召し出された時の、神のお言葉を伝えています。旧約の預言者の中には、エリヤ預言者のように積極性と豪胆さに溢れていた強い人もいますが、祭司ヒルキアの子エレミヤは全くその逆の性格で、内気の人、引っ込み思案をし勝ちな人だったようです。当時の神の民イスラエルは、先住民の持っていた民間信仰の影響を受けて太祖以来の神信仰を歪め、何でも人間中心、この世の幸せ第一に考え、伝統的神信仰も異教の神信仰も、そのために利用しようとするような宗教生活に陥っていたようです。神に忌み嫌われるこのような生き方を為す政治家や祭司たちを咎めて、罰を宣告するような神のお言葉を語ることは、内気で若いエレミヤにとっては考えるだけでも大きな恐れとおののきを覚えることであったと思われます。
    しかし神は、「彼らの前におののくな」「私があなたと共にいて救い出す」とおっしゃって、弱気のそのエレミヤを「諸国民の預言者として」お立てになったのでした。エレミヤという名前は「神立てる」という意味の名前だそうですが、神は、エレミヤが生まれる前からこの子に御目をかけ、このような名前がつけられるようになさったのだと思います。どんなに弱い人間でも、その時その時に神から与えられ導きに忠実に従うならば、苦しみながらでも、驚くほど大きな仕事を成し遂げるに到ると思います。弱いエレミヤも神の導きに従うことによって、偉大な預言者としての実績を残すに到りました。
    キリスト者・修道者として神から召された私たち各人も、神の僕・婢となって神からのその時その時の導きに心の眼を向け、それに忠実に従うよう心がけましょう。そうすればエレミヤを守り導いた神の霊が私たちをも守り導いて、神がお望みになる目的を達成させて下さいます。本日の福音では、主の故郷ナザレの人々が、「皆イエスを褒めて、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるのに、その人々はその直後に「この人はヨゼフの子ではないか」と、ナザレでは高く評価されていなかったと思われる貧しいヨゼフの名を引き合いに出して驚いています。私は以前に、一見矛盾しているように見えるナザレの人々のこの態度をどう受け止めたら良いものか、と戸惑いを覚えていました。しかし、聖書学者雨宮神父が1991年にお出しになった本を読んで、この疑問が解消してしまいました。日本語で「褒める」と訳されているギリシャ語のマルテュレオーという動詞には、「証言をする」という意味もあって、この動詞は有利な証言をする時にも不利な証言をする時にも使われるのだそうです。思うに、ナザレの人々は会堂で初めて聞く主の恵み深いお言葉に驚き、あの貧しいヨゼフの息子で首都エルサレムで勉強したこともないのに、と自分たちが昔少し軽蔑しながら眺めていたイエスの人間像について証言しながら、まあ教えのことはどうでもよいから、カファルナウムで行ったと聞く奇跡よりももっと大きな奇跡を我々にも見せてくれ、ここはお前の故郷なのだからというような、少し利己的要求を突きつける態度で、主を眺めていたのではないでしょうか。それで主は、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」というような話をなさったのだと思います。
    信仰と愛のない人々のためには、主も奇跡をなさいません。神の力によって為す奇跡は人々を楽しませるための見世物ではなく、神の国、神の働きの臨在を証しして、人々の信仰を堅固にするためのものですから。まず神の現存を信ずること、そして神への感謝と愛に生きようとすることが大切であり、それが神による奇跡の前提だと思います。サレプタのやもめは、極度の貧困故に一心に神に祈り求め、祈りつつ飢え死にを迎えようとしていたのではないでしょうか。またシリア人ナアマンは、イスラエルの神による癒しに希望を繋ぎつつ、たくさんの贈り物をもって遠路はるばるやって来たのではないでしょうか。いずれも、その心は神の働きに対する信仰や希望に生きていたと思われます。神に対するこのような信仰のある所では、神の国の到来を奇跡によって証ししようとなさる主もお働きに成れますが、ナザレの人々はこの世の社会的伝統や社会的上下関係などを、神信仰よりも重視していたのではないでしょうか。マタイ福音の13章とマルコ福音の6章にも、主が故郷ナザレを訪問なさった時のことが読まれますが、主が最後に「預言者が敬われないのは、ただ自分の郷里や親族の所だけである」とおっしゃると、本日のルカ福音に読まれますように、会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって主を町の外へ追い出したようです。主は人々の間を通り抜けて立ち去られましたが、マルコ福音には、人々の不信仰の故に「そこではただ少数の病人に手を置いて癒されただけで、他には何も奇跡を行うことができなかった」とありますから、どれ程不信仰の闇が強くなっている所でも、心がその社会の流れに抗して神信仰に生き、主の憐れみに縋る少数の人たちがいるなら、主はその人たちを奇跡によって救われるのではないでしょうか。

    ご存じのように、現代文明が人間生活の豊かさ・便利さを極度に発展させましたら、困難や貧困に耐えて互いに助け合って生きるという心の教育に欠如している、家族も社会も自分中心に利用しながら生きようとしている人間が世界中に激増して、家族も国家も、最近では伝統的生活共同体が内部から崩壊する危機を大きくして来ているように思われます。これからの時代には、心を開いてどれ程話し合ってみても、人間の力では解決し得ない問題が多くなると思います。しかし、私たちの神は人の心を内面から変えて清め高める力、心と心を結ぶ力をお持ちです。その神と深く結ばれ、神の御旨中心に生活するように、これ迄以上に励みましょう。そうすれば、罪の闇の深まる所に神の恵みもいや増すことを、幾度も体験すると信じます。