2016年2月7日日曜日

説教集C2013年:2013年間第5主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 6章1~2a、3~8節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節
福音朗読 ルカによる福音書 5章1~11節

    本日の福音では、ペトロとその漁師仲間たちの召し出しがテーマになっています。神の御言葉を聞こうとして押し寄せて来た群集に押されるようにして岸辺にまで来られた主は、そこに二そうの舟と数人の漁師たちとを御覧になり、舟から上がって網を洗っていたペトロの舟に乗せてもらい、岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その舟の中から岸辺にいる群衆に教えを説きました。話し終えるとペトロに、沖の方に少し漕ぎ出して網を下ろすようお頼みになりました。夜通し漁をして疲れている漁の専門家ペトロは、昼の今時網を下ろしても何も取れず、無駄であるとは思いましたが、漁師でない先生の「お言葉ですから」と、いわば先生に対する好意と尊敬の証しとして網を降ろしたのだと思います。ギリシャ語原文では「私が網を降ろしましょう」となっていて、夜通し働き続けた「私たちが」ではありません。ペトロは、どうせ今日は魚がいないのだからと、仲間たちには協力を願わず、軽い気持ちで網を降ろしたのだと思います。ところが夥しい魚がかかって網が破れそうになったので、岸辺にいたもう一艘の舟の仲間たちに合図して助けてもらい、二艘の舟は沈みそうになる程、魚でいっぱいになりました。
    この大漁に驚き恐縮したペトロは、少し前には「ラビ(先生)」とお呼びした主の足元にひれ伏し、神に向かっての呼びかけ「キリエ(主よ)」とお呼びして、自分の罪深さを告白しました。心が自分の罪深さを直感して畏れにおびえる程、自分の舟に乗っておられる主の内に、全能の神の力、神の臨在を痛感したのだと思います。主はそれに答えて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話し、ペトロを新しい人生へとお召しになり、ペトロとその仲間たちは、全てを捨てて主に従いました。聖書学者の雨宮神父によると、ここで「人間をとる」と訳されている動詞は、形容詞「生きている」と動詞「捕る」との合成語で、捕まえて生かすという意味合いの言葉だそうです。それで、ある聖書学者は「人間を生け捕る」と邦訳したことがあるそうですが、「生け捕る」は捕虜にするという意味になりますので、適当でないと思います。しかしとにかく、ここでは食べるためや何かの利益を得るために捕らえるのではなく、その人々にもっと仕合わせな、新しい生き方をさせるために捕らえることを意味していると思います。この世で学んだ自分の考えやこの世の常識に従ってではなく、自分には理解し難い主のお言葉にも、素直に従って主に奉仕しようと努めることにより、新しい生きがいと神の大きな祝福とを見出すに到った使徒ペトロに倣って、私たちも、日常茶飯事の中に思わぬ形で出会うことの多い神の御旨やお導きに、すぐ素直に従うことを優先する神の僕・婢としての心構えを日ごろから磨き、大切にしていましょう。
    二千年前頃のファリサイ派は、神の啓示なされた律法を自力で熱心に研究し、その人間的理解を中心にして全てを判断し神に奉仕しようと、互いに競っていました。ルカ18章に読まれる主の譬え話によると、週に二回も断食する人もいたようです。神のために何かを為そうとするその熱心は大きかったと思いますが、しかし神が全く新しい働きを為そうとしておられるメシア時代・新約時代には、自分の聖書研究や人間社会の律法理解を中心とした信仰生活は、神の御旨中心ではないので、神による救いの御業の妨げになります。それで主は弟子たちに「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」とお命じになったのだと思います。使徒パウロはガラテヤ書3章に、律法は「私たちをキリストに導く養育係」であると説き、キリストがお出でになった信仰時代には、私たちはもう「その養育係の下にはいません」と明言しています。使徒がここで律法について書いている事を、現代の私たちは自分の聖書理解や、自分のカテキズム理解と言い換えて受け止めることもできると思います。旧約の律法もカテキズムも、私たちの心を各種の危険から守って、キリストの御声に従うようにするために与えられた恵みであり、宗教教育の手段であります。しかし、この信仰段階では私たち各人の自然理性が主導権を握っており、自力で理解したり決定したり神に祈ったりしています。
    ところで神からメシアや聖霊の恵みが豊かに派遣される新約時代には、神は私たちの心がいつまでもそのような理知的養育係の下に留まっていることをお望みにならず、神の新しい働きや聖霊の導きを正しく感知して、それに従う生き方へと進むことを求めておられます。そのためには、各人の心の奥に眠っている霊魂の預言者的信仰能力とあの世の神に対する従順心を目覚めさせ、人間主導の生き方に死んで神の御旨・主キリストの御声に従って生きようとする、神の僕・婢としての生き方に転向しなければなりません。新約時代に生きる私たちは皆、主も聖母も無数の聖人たちも生きてみせている、そのような神主導の福音的信仰生活を体得し、世に証しするよう神から強く求められているのです。私たちの修道生活も、何よりもそのような福音的信仰生活を実践し、その霊的喜びを世に示すためのもので、外的理知的な修道会則を自力で自主的に守り通し、その報酬を神に期待するような人間主導のファリサイ精神は神から厳しく罰せられると思います。

    神から全人類に派遣された救い主の御声を聞き分けてそれに従う羊たちは、仏教や他の宗教にもたくさんいると思います。主は善い羊飼いの譬え話の中で、「私にはまだこの囲いの中に入っていない羊たちもいる。私は彼らをも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いになる」などと話しておられるからです。第二ヴァチカン公会議の開催前から開催後まで、その下働きに参加する恵みに浴して来た私は、帰国後も公会議の精神に従って、1969年から2000年まで毎年、高野山や比叡山を始めとして数多くの諸宗教の本山や中心的施設を二泊三日で訪問し、多くの宗教者や有名人の話をじかに伺って来ましたが、主キリストは実際にそれら異教の信仰者たちの中で働いておられると証言できます。罪と誤謬の世であるこの世に人生を営んでいる間は、外的社会的な宗教思想は多様化して相互に大きく違っていても構いません。あの世に行けば、全ては神ご自身によって清められ高められて、完全なものに補足修正されるのですから。ただ大切なのは、私たちの奥底の心が目覚めて、神の僕・婢として主の御声を正しく聞き分け、日々その御声に従って行く従順心に生きているか否かだと思います。「信仰年」に当たり、自分の魂が果たして主の御声を正しく聞き分けているか否かを吟味してみましょう。また自分の理解や考えを第一にするこの世的「頭の信仰生活」ではなく、何よりも主の御声を正しく聞き分けて、それに従う「預言者的霊の信仰生活」を営んでいるか否かを吟味してみましょう。アブラハムもモーセも旧約時代の無数の預言者たちも、また新約時代の聖母マリアも主キリストも、皆あの世の神の御旨への従順を中心にして、信仰生活を営んでいました。明日の現実がどうなるかは知らなくても良いのです。聖ヨゼフも夜に突然夢の知らせを受けて、聖母と幼子イエスを急いでエジプトに連れて行き、その御命を守ったのでした。私たちも皆その伝統を受け継ぎ、自分の個人的人間的考えや欲求を全て無にして、神の僕・婢・器として生きる決心を主にお捧げしながら、本日のミサ聖祭をお捧げ致しましょう。それが、今のこの不安極まりない終末の時代に、神が私たちから求めておられる信仰の生き方だと思います。全能の神を明るい希望の眼で仰ぎ観ながら、全てを神に捧げて喜んで生き抜きましょう。