2016年2月14日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第1主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 26章4~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 10章8~13節
福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節

   30年余り前のことですが、私は東京で1980年秋にユダヤ教の安息日の礼拝を、1982年秋にイスラム教の安息日の礼拝を、それぞれ聖堂内の立派な客席から参観させて戴きましたが、いずれの場合も出席していた信徒たちは、神を自分の人生の主、絶対的中心として頭を深く垂れ敬虔に礼拝していました。イスラム教の所では床に頭をつけ、特別に心を込めて礼拝しているように見受けました。復活の主キリストにおいて神から豊かな恵みを戴いている私たちキリスト者も、神を自分の人生の与え主、絶対的所有主として崇め感謝するその人たちの礼拝の熱心に、負けてはならないと思います。30余年前頃の日本のカトリック教会では、古い伝統から抜け出て新しいものを追い求める改革的動向が盛んで、神の導きに従ってここまで発展して来た古い伝統の中での神の現存を信じ、その神を敬虔に礼拝し、何よりもその神の御旨に従おうとする信仰心や従順心があまり見られませんでしたので、私はユダヤ教徒やイスラム教徒の礼拝に深い感銘を受けました。
   本日の第二朗読に読まれる、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という使徒パウロの言葉を、軽く外的に受け止めないよう気をつけましょう。信仰を頭で理解している、いわば「頭の信仰」に生きている人にとっては、その信仰を公に言い表すのは実に簡単で、易し過ぎると思われるかも知れません。しかしパウロは、それとは違う「心の信仰」の立場でこの言葉を書いているのではないでしょうか。心は無意識界に属していますが、私たちの意志・望み・態度・実践などの本拠であり、日頃心に抱いている望み・不安・信仰などは、無意識のうちにその人の言葉や態度や夢などに表われ出るものです。頭で意識して受け入れた信仰が、心の中に根を下ろし、不屈の決意と結ばれた「心の信仰」となるには、度重なる敬虔な信仰実践が必要であり、時間がかかります。
   「頭の信仰」に生きている人はよく、目に見える外的な寄付の金額や奉仕活動の量などで、その人や自分の信仰の熱心を計り勝ちのようですが、聖書に描かれている神の秤は、少し違うようです。2千年前のサドカイ派やファリサイ派の人たちは、熱心にたくさん祈れば、また神の栄光のために熱心に何かの苦行や活動をなせば、神に喜ばれると考えていたかも知れません。宗教に熱心なのは結構ですが、問題はその熱心が何に基づき、どこから生じているかだと思います。もし神に対する私たち人間の熱心が神を動かすとか、神の栄光のため神をお喜ばせするために、私は毎週2回断食し、これこれの仕事をしているなどと誇らしげに考えているなら、その熱心は自分の考えや努力に重点を置いており、神からはあまり喜ばれないと思います。聖書の神は、神の声を正しく聞き分け、神の御旨中心に従順に生きる人、神の僕・神の婢として忠実に生きる心の人を捜し求め、祝福しておられるように見えるからです。心の底から神中心に生きようとする「心の信仰」の人になる時に、私たちはその信仰によって義とされるのではないでしょうか。そしてその神信仰を口でも表明することによって、救いの恵みに浴するのだと思います。神の愛の霊、聖霊が、そのような人の心の内に、存分に生き生きと自由にお働きになるからです。
   本日の福音の始めには「イエスは聖霊に満ちて」という言葉があって、この福音箇所に続く次の段落の始めにも、「イエスは聖霊の力に満ちてガリラヤに帰った」という言葉が読まれます。この聖霊は救い主を敵の手から護り、その使命を全うさせるために与えられた神の力ですが、人祖の罪によって、この世の人間の心に対する大きな影響力・支配権を獲得している悪魔は、神と人間イエスとの間に割って入り、両者の絆を断ち切ろうとします。しかし、三度にわたる悪魔の試みは、いずれも申命記から引用された神の言葉により、断固として退けられました。聖書に載っている神の言葉には、威厳に満ちた神の力が篭もっているからだと思います。私たちも、主や聖母マリアの御模範に倣って、日々神の言葉や神の為された御業を心の中に保持し、思い巡らしていましょう。いざ悪魔の誘いと思われる局面に出遭った時、断固としてその誘惑を退けることができるように。
   創世記によりますと、楽園の中央には命の木と善悪の知識の木とがありましたが、エワはこの善悪の知識の木に先に近づいて、目前の楽しみ・この世的幸せを先にする人間理性に従って考え判断したために、悪魔に騙され不幸になったのではないでしょうか。もし神から戴いた命を神に感謝しつつ、「命の木」の下で神の愛に心の眼を向けながら、神のお考えに従うことを優先していたなら、その心の奥には神の愛・聖霊が力強く働いて、道は大きく異なっていたのではないでしょうか。
   主は、悪魔から「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と誘惑された時、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記の言葉でその誘いを退けておられますが、この言葉と共に、ヨハネ福音の434節に読まれる「私の食べ物は、私をお遣わしになった方の御旨を行い、その業を成し遂げることである」というお言葉も、合わせて心の中に留めて置きましょう。神や主キリストを、どこか遠く離れた天上の聖なる所に鎮座しておられる全知全能者と考え勝ちな「頭の信仰」者たちは、「神の御旨」と聞いても、それを何か自分の頭では識別し難い神のお望みやご計画と受け止めることが多いようですが、そんな風に人間が主導権をとって理知的な頭の中で考えていたら、神の力は私たちの内に働かず、「神の御旨」は私たちの日々の糧にはなり得ません。主は天の御父の御旨をそんな風には考えず、今出遭っている目前の出来事の中でその御旨を神の霊によって鋭敏に察知し、その時その時の具体的呼びかけに応えて、御旨の実行に努めておられたのだと思われます。
   福者マザー・テレサのお言葉の中に、「遠い所にイエス様を探すのは、お止めなさい。イエス様はあなたの側に、あなたと共におられるのです。常にあなたの灯火を灯し、いつでもイエス様を見るようにするだけです。その灯火を絶えず小さな愛のしずくで燃え続けさせましょう」というのがありますが、ここで「灯火」とあるのは、主の現存に対する心の信仰と愛の灯火だと思います。人間イエスも、目に見えない天の御父の身近な現存に対する信仰と愛の灯火を絶えず心に灯しながら、その時その時の天の御父の具体的御旨を発見しておられたのだと思います。主イエスにとって「神の御旨」とはそういう身近で具体的な小さな出来事や出逢いによる招きや呼びかけのようなものであったと思われます。それは、罪によって弱められている私たち人間の自然的理性の光では見出せないでしょうが、心が神現存の信仰によって聖霊の光に照らされ導かれるなら、次第に発見できるようになります。

   難しい理屈などは捨てて、幼子のように単純で素直な心になり、目前の事物現象の内に隠れて伴っておられる神に対する、信仰と愛の灯火を心に灯して下さるよう、まず聖霊に願いましょう。日々己を無にしてこの単純な願いを謙虚に続けていますと、心に次第に新しいセンスが生まれ育って来て、働き出すようになります。そして小さくても、その時その時の神の御旨と思われるものを実践することに努め、その実践を積み重ねるにつれて、次第に自分に対する神の深い愛と導きとを実感し、心に喜びと感謝の念が湧き出るのを覚えるようになります。人間イエスも聖母マリアも、このようにして「神の御旨」を心の糧として生きておられたのではないでしょうか。それは、実際に私たちの心を内面から養い強めて下さる霊的糧であり、弱い私たちにも摂取できる食べ物なのです。福者マザー・テレサも、その他の無数の聖人たちも、皆そのようにして深い喜びの内に心が養われ、逞しく生活できるようになったのではないでしょうか。四旬節の始めに当たり、私たちも決心を新たにして、主がご自身で歩まれたその聖なる信仰と愛の道を、聖霊の力によって歩み始めましょう。