2016年2月21日日曜日

説教集C2013年:2013年四旬節第2主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 15章5~12、17~18節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙一 3章17~4章1節
福音朗読 ルカによる福音書 9章28b~36節

    本日の第二朗読に読まれる「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」という使徒パウロの嘆きの言葉は、豊かさと便利さの中で生活しつつ、楽しみだけを追い求め勝ちになり勝ちな現代人の忘れてならない警告だと思います。洗礼の秘跡を受けても私たちの奥底の心の中にまだ生き残っている「古いアダムの命」が、苦しみに対してはあくまでも逃げ腰で、死についてもなるべく考えないようにし勝ちなのはよく解ります。しかし、キリストが最も強く力説し体現しておられる福音によりますと、神は私たちの死の背後に、主キリストにおいて復活の栄光を備え提供しておられるのです。父なる神の御旨に徹底的に従った主と一致し、主の力に生かされ支えられて、暗い苦しい死の門、死のトンネルを通り抜けてこそ、私たちの卑しい体も主の栄光ある体と同じ姿に復活するのであることを、四旬節に当たって幾度も自分の心に言い聞かせましょう。そして自分の死の苦しみを先取りし、その苦しみを、主と共に多くの人の救いのために神にお献げする決意を新たに固めましょう。
    創世記によりますと、私たち人間は神に特別に似せて創られた存在であります。ということは、神と共に永遠に幸せに生きる存在として創られていると思います。私たちは不安や誤解や苦しみの多いこの世でわずか百年ほど生活するために創られた存在ではありません。私たちの本当の人生は、神と共に生きるあの世にあるのです。人祖の原罪の穢れを受けて生れた私たちは、この苦しみの世でその罪を償い、その穢れを死の苦しみを介して完全に洗い流してから、あの世の本当の人生に入ることができるのです。神の御独り子キリストがこの世にお出でになって、御自ら死の苦しみを受けて悪霊の攻撃を退け、あの世に入る道をお開きになったのです。そして私たちに、その御後に従ってその十字架の道を歩む力を提供しておられるのです。私たちが日々授かる秘跡も、体験する大小様々の苦しみ、誤解や失敗、やり直しや病気なども、皆主が私たちにその力を与えて下さる恵みの器であり、手段なのです。神の愛に対する信頼とあの世に対する明るい大きな希望の内に、喜んで日々の苦しみを受け止め、神にお捧げするよう心がけましょう。それが神から私たちに求められている「信仰」である、と申しても良いと思います。「信仰年」に当たり、この信仰実践に生きる覚悟を新たに堅めましょう。
    本日の福音にある主の御変容は、以前にも話したことですが、受難死直前の冬の時期に起こったのではなく、それよりも半年も前の夏の農閑期に起こった出来事であったと思います。ご受難までにはまだ数ヶ月ありますので、主はそれまでの間に、地上的栄光に満ちたメシア像という、ユダヤ人一般の通念から抜け出せずにいる弟子たちの心を、時間をかけて新しい真のメシア像を受け入れるように教育しようと意図しておられたと思います。その最初の段階で、主は三人の弟子たちだけを連れて、マタイとマルコによると、最初の受難予告から「六日の後」「高い山に登られ」ました。ルカによると、一同は「翌日に」山を下りて、麓で大勢の群集と他の弟子たちとに迎えられていますし、マタイとマルコによると、一行はその後でガリラヤに行っていますから、ご変容の山は、ローマに反抗する暴動の発生したガリラヤでの不測の事態に備えて、当時ローマ軍の砦があったと聞く、ガリラヤ中央部の海抜588mのターボル山ではなかったと思われます。大ヘルモン山の辺りには標高2千メートル級の山が幾つもありますから、そのうちのどの山かは特定できませんが、そういう高い山で一夜を明かしたとしますと、それは始めにも申しましたように、夏の出来事であったと思われます。この世で世界を支配し栄光の王座につくという、現世的メシア像に囚われている弟子たちの心を、メシアの王国も栄光もあの世的なものであることを、体験を通しても段々と悟りへと導くために、主はまず三人の弟子たちと共にその山で一夜を過ごされたのだと思います。せめて三人の弟子たちには、主が受難死の後に復活して入る至福の栄光を垣間見せて、主の受難死という大きなショックから、彼らの心が新しい希望の内に立ち直り易くするために。死の苦しみは、父なる神が備えて待っていて下さる約束の国、天国の素晴らしい栄光への脱出過程なのです。主と内的に結ばれている私たちも皆、父なる神によってその栄光へと召されているのです。感謝と大きな明るい希望の内に、主と共に、死のトンネルを恐れずにあくまでも神に忠実に従って行く心構えを、今からしっかりと整え、堅めていましょう。

    東方教会では主の御変容を、この世の私たちの人間性を神にそっくりの存在に高め清めて下さるDeificatioの恵みを、三人の使徒たちに現実に目撃させて下さった出来事として、特別に大切にしています。洗礼の秘跡によって神の子として戴いた私たちは、あの世では実際に神によって神のように栄光に輝く存在にして戴くのです。そして大きな自由と喜びの内に神によって創造された万物を愛し、支配するようになるのです。使徒パウロはローマ書8章に、「被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、」「同時に希望も持っています。被造物もいつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由に与れるからです。云々」と書いていますが、私はここで「被造物」とあるのは、神によって創られたこの世の宇宙万物、全ての動植物などを指していると思います。ヒトゲノムの発見により、数億もある人間の遺伝子の内93%はこの世でoffの状態にあることが明らかになりましたが、あの世の人生のために各人に与えられているこのような遺伝子は、個々の動植物にもたくさん与えられているのではないでしょうか。あの世では宇宙万物も、神の栄光に参与して輝く人間の支配下で、皆美しく輝いて永遠に生き続けるのではないでしょうか。あの世での人生に対するこのような明るい希望を堅持しながら、それとは比較できない程少ないこの世の苦しみを厭わずに喜んで耐え忍び、全ての苦しみを主キリストを介して神にお捧げしましょう。