2008年2月24日日曜日

説教集A年: 2005年2月27日:2005年四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 17: 3~7. Ⅱ. ローマ 5: 1~2, 5~8. Ⅲ. ヨハネ福音 4: 5~42.

① 本日の第一朗読に読まれる「マサ」や「メリバ」という地名は、私たちが日々唱えている詩篇の祈りにも、「今日神の声を聞くなら、メリバのあの日のように、マッサの荒れ野の時のように、神に心を閉じてはならない」という形で登場していますが、本日の朗読箇所の中でモーセが主に、「彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫んでいることや、主の命令に従ってイスラエルの長老たち数名をいわば護衛のようにして伴いながら、民衆に近づいていることから察しますと、荒れ野での民衆の不満は非常に激しく、神との調停者であるモーセは死を覚悟しなければならなかった程、その場の雰囲気は一時的に険悪になっていたと察せられます。太陽が容赦なく照りつける砂漠で、水が全く得られない時の苦しみは、それ程深刻で絶望的に覚えるのだと思われます。しかし、私たちの信奉している神は、そのような極度に絶望的事態をも簡単に解消することがおできになる程、全能の神です。私たちはそういう力強い神に伴われ、導かれ、守られているのですから、目前の困難がどれ程大きくとも不満を言わずに、ひたすら黙々と神に従おうとすべきことを、本日の第一朗読は教えているのだと思います。

② シナイ地方に多い石灰岩には、今日でも水を豊かに内に蓄えている岩のあることが、第一次世界大戦の後にこの地方を支配していた英国軍によって確認されています。空気に触れている石灰岩の表面は固くなっていますが、空気に接触していない部分の石灰岩は幾分柔らかいので、その岩が山の麓などにあって、そこに遠い高い山からの地下水が流れ込んでいるような時には、その岩の表面を固いもので打ち壊して穴を開けると、水が豊かに流れ出ることがあるのだそうです。神は3千4百年も前に、そのことをイスラエルの民に実証的に示し、くよくよ心配せずに全てを神に委ねて従って来るよう、お求めになったのだと思います。私たちも、目前の過ぎ去る困難に心を振り回されずに、私たちを愛しておられる全知全能の神への信頼に生きるよう、日々決意を新たにして歩み続けましょう。

③ 本日の第二朗読には、「信仰によって」という言葉と「希望」という言葉が、それぞれ二回ずつ読まれます。以前にも話しましたように、ギリシャ語のpistis (信仰)という言葉は、信頼という意味の言葉ですから、神の働きや導きに絶対的に信頼し続けることによって数々の苦境を乗り越えて来た体験を持つ使徒パウロはここで、たとえどんなに絶望的状態に陥ることがあろうとも、諦めてしまうことなく、あくまでも神に信頼し希望し続けているよう勧めているのだと思います。神は、苦しみの中で実践的に表明されたそのような信頼や希望には、必ず応えて下さるからです。私がここで「実践的に」と申しましたのは、単に口先で「信頼しています。希望しています」と申し上げているだけでは、その祈りは頭の信仰の段階に留まっているだけで、奥底の心はまだ十分に目覚めず、そっぽ向いているかも知れないと思うからです。意識界の「頭」が「心」に呼びかけつつ実践に励むと、無意識界の「心」が度重なるその実践に促されて目覚めて来るのだと思います。頭の働きは自己中心的ですが、心が神に頼り神中心に生きようと目覚めて来ると、そこに神の力が働き出すのです。奥底の心が目覚めて真剣に祈る時は、それは態度や顔や行動にまで現れます。苦しくとも神に眼を向けてその苦しみを喜んで捧げる時、神は感謝と信頼の心が籠ったその微笑みをお喜びになり、特別に眼をかけて下さるのではないでしょうか。四旬節に当たり、使徒パウロの模範に倣って、私たちも自分の受ける苦しみを十字架上の主と一致して耐え忍び、多くの人の救いのために天の御父にお捧げするよう心がけましょう。

④ 本日の福音には、旅に疲れてヤコブの井戸の側に休んでおられる主と、サマリアの女との話が載っています。ちょうど正午頃で、弟子たちは皆食べ物を買うために町に行っていた、とあります。水汲みは朝夕の涼しいときになすのが普通なのに、誰も井戸に来ない正午頃に、女が一人で町外れの井戸に来たのは、社会的に恥ずかしい罪があって、なるべく人目を避けていたからかも知れません。主はその女に「水を飲ませて下さい」と願うことから、話しかけます。ユダヤ人はサマリア人と対立していて、サマリア人に自分から挨拶の言葉をかけるようなことはなく、まして男が女に話しかけるようなことはないので、その女ははじめ、この型破りの人に驚きますが、しかし、その人の謎めいた言葉や態度から、間もなくこの人は神よりの人、預言者ではないかと思います。そして暑い日中にもう水汲みに来なくてもいいように、主の話された「決して渇くことのない水」を、自分に与えてくれるよう願います。女は、自分の人生や今の社会に嫌気がさし、救いを渇き求めてもいたのだと思います。主は正にそのような苦しんでいる人生の脱落者をも救おうとして、ここで巧みに話しかけられたのだと思います。主と暫く話している内に、女の心には、町に戻って人々に自分が今出会った人のことを語ろうとする望みも勇気も生じて来たようで、この女の語る言葉から、サマリア伝道の道も開かれるに到ったようです。

⑤ 現代にも、救いを切に渇き求めている人生の脱落者は少なくありません。もしも神の御摂理によってそのような人に巡り会うようなことがありましたら、私たちもその人に何かを願ったり、その人の話に耳を傾けたりして、巧みにその人に神信仰の恵みを伝えることができるよう、日ごろから全ての人、特に今苦しんでいる人、今助けを必要としている人のため、心を開いて自分の祈りや苦しみなどを神に捧げることにも心がけていましょう。

⑥ 最後 に、主が女に語られた「真の礼拝者たちが、霊と真理のうちに父を礼拝する時が来る。今がその時である」というお言葉も、忘れないようにしましょう。旧約時代には、礼拝する所は云々などという細かい外的規制がたくさんあって、各民族はそれぞれその民族特有の宗教形態を細かく順守しながら神を崇めていましたが、救い主が来臨して全人類救済のいけにえを神に捧げ、神信仰の新しい道を全ての人に向けて開かれ、新しい宗教の時代が始まったのです。宗教には何らかの美しい外的形というものも大切ですが、しかし古い時代から受け継いだ一つの固定化した形にあまりこだわり過ぎずに、何よりも心の底から神を礼拝し、神に感謝し信頼して生きること、すなわちそのような心の信仰、心のあり方を新しく自由に表明することの方が、神に喜ばれる時代になっているのではないでしょうか。私たちが主キリストの望んでおられる「真の礼拝者」となって、心から自由に神信仰に生きることができるよう、恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。

2008年2月17日日曜日

説教集A年: 2005年2月20日:2005年四旬節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 12: 1~4a. Ⅱ. テモテ後 1: 8b~10. Ⅲ. マタイ福音 17: 1~9.

① 四旬節の第2主日には、毎年アブラハム物語の中から第一朗読が選ばれていますが、今年の箇所はアブラム(すなわち後のアブラハム)の選びの話です。メソポタミアの異教文化の中に生まれ育ったアブラムが、宇宙万物を創造なされた神の声を聞き分けるに到ったことは、異教文化の中にも真の神がお働きになることを示しています。それで、異教や異教文化を軽視することなく、その中にも現存し働いておられる遍在の神に、信仰の眼を向けるよう心がけましょう。

② さて神はそのアブラムに、父の家を離れて神の示す地に行くよう命じたのですが、その目的として「私はあなたを大いなる国民にしてあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と話しておられます。本日の第一朗読には「祝福」という言葉が5回も登場していますが、聖書に数多く読まれる神からの祝福は、多くの人が単に相手のご無事、相手の幸せを祈るぐらいの軽い気持ちで言い交わしているのとは違って、相手に神からの貴重な現実的恵み、すなわち神の御保護・お導き・お助けなどを与えることを意味しています。ですから以前にも申しましたように、イサクはヤコブに長子に与えられる神よりのアブラハムの祝福を与えてしまった後に、イゾウが来て祝福を願った時に困ってしまい、結局地の祝福しか与えることができませんでした。アブラムは、そういう二つとない特別の現実的恵みの祝福を神から戴いたのです。しかも、「地の氏族は全てあなたによって祝福に入る」という神の言葉から察しますと、その祝福を単に自分の一族子孫のためにのみ受けたのではなく、全人類のために戴いたのです。従って、この世に生まれ出る諸国諸部族の全ての人は、血筋によらずに、ただアブラハムの信仰精神を受け継いで生活するだけで、アブラハムの受けた祝福に参与すると言ってよいのではないでしょうか。ピオ11世教皇はこの意味で、「私たちは皆アブラハムの子孫である」とおっしゃたことがあります。肉の血ではアブラハムの子孫ではありませんが、皆聖霊の赤い愛の血によって生かされ、それを受け継いでいるという意味では、神の御眼にアブラハムの子孫とされているのではないでしょうか。

③ 私たちもこのことを深く肝に銘じ、アブラハムの信仰精神を体得し堅持するよう心がけましょう。アブラムは、神のお言葉に従って、神がお示しになるという見知らぬ所へ出発したのですが、察するに行き先の情報が全くなく、ただ神のお導き一つに信頼して遠い旅を続けるのですから、これからの生活のため何を準備し何に警戒していたら良いのかも判らず、時々は厳しい現実に直面し、弱い人間として深刻な不安に襲われることもあったのではないでしょうか。しかしアブラムは、たとい一緒にいた妻や甥のロトがどれ程不安を訴えても、ひたすら神のご命令、神のお言葉だけに縋って祈りつつ、不屈の忍耐を持って歩み続けたのだと思われます。時々はちょうど暗いトンネルの中にいるかのように覚えたほど、不安の闇の深まりを痛感したことがあったかも知れません。しかし、その試練を抜け出た時には、また神に出会ったという喜びを見出していたのではないでしょうか。私たちも、時として暗い試練のトンネルを体験しようとも、神から召されたこの信仰生活の道に最後まで忠実に留まり続けましょう。全能の神が、私たちもアブラハムの精神に生きているのをご覧になって、私たちに豊かな祝福を与えて下さるように。

④ 本日の福音に描かれている主のご変容の出来事は、この世の日常の出来事からは離れた、ある意味では歴史を超えた神秘的出来事であったようです。そのことを象徴するかのように、主は三人の弟子たちだけを連れて高い山に登り、ルカ福音によるとそこで一夜を明かし、翌日その山から下りて通常の生活にお戻りになったようです。一行はその出来事の前にガリラヤ北方のフィリッポ・カイザリアにおり、出来事の後でガリラヤに戻って来ましたから、御変容の山は、キリスト時代にガリラヤでの暴動などに備えてローマ軍の砦が置かれていた、ガリラヤ中心部の背の低いターボル山ではなく、フィリッポ・カイザリアに近い、2千メートル級の大ヘルモン連山の一つであったと思われます。そこでは急に白い雲がかかったり、またすぐに過ぎ去ったりしますから。もしそんなに高い山で一夜を明かしたとしますと、この出来事は冬のことではなく、教会の典礼が昔から8月6日に記念しているように、真夏の出来事だったのではないでしょうか。ペトロが夢うつつの内に目撃した光り輝く出来事に感激して、「ここにテント小屋を三つ建てましょう」などと話したことからも、人里遠く離れたその山上が真夏には涼しくて過ごし易く、快く感じられる所だったと思われます。

⑤ さて、半日がけで登ったその山の上にいた時、ルカ福音には「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかった」とありますから、日が落ちて暗くなってからでしょうか、主のお姿が彼らの目の前で急に変わり始め、顔は太陽のように輝き、衣服も光のように白く輝き始めました。太陽のように輝いたという主のお顔は、シナイ山で神にまみえたモーセの顔や、黙示録1章にヨハネが描写している栄光に満ちた復活のキリストのお顔を思わせます。とその時、見ると遠い昔の人モーセとエリヤの姿が現れて、栄光に輝く主と語り合っていました。この二人は、救い主来臨の準備をする旧約時代を代表する二大人物です。この全く思いがけない夢幻のような出来事に、弟子たちの心は驚き感激したことでしょう。ペトロはとっさに「私たちがここにいるのは、すばらしいことです。云々」口走りましたが、まだ半分眠っていて、夢うつつのような心境にいたのだと思われます。

⑥ その時、急に光り輝く白い雲が彼らを覆い、雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という威厳に満ちた声が響き渡りました。弟子たちはその声を聞いて非常に恐れ、ひれ伏してしまいました。この場面は、ヨルダン川で主が受洗なされた時の場面によく似ています。ヨルダン川の時には天が開けて天から声が聞こえたのですが、天に近いこの山の上では、光り輝く雲が弟子たちを覆い、その間近の雲の中から威厳に満ちた声が響き渡ったのです。この時の光り輝く雲は聖霊の現れで、神の畏れ多い臨在を示していると思いますが、その臨在の突然の身近さに弟子たちの心は極度に畏れ、ひれ伏したのだと思われます。この場面も、モーセが2290m余のシナイ山の雲の中で神から啓示を受けた時の状況に似ていると思います。しかし、弟子たちはそれ以上には何も啓示を受けず、夢幻のようなあの世の光り輝く状況は過ぎ去ってしまいました。

⑦ その時、主イエスが近づき、ひれ伏している弟子たちに手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げて見ると、そこにはもう主イエスの他に誰もいませんでした。あの世の栄光に満ちた神の顕現は消えて、再びこの世の現実に戻っていたのでした。マタイ福音には「近づく」という言葉が52回も使われていますが、そのほとんどは人間が主の御許に近づく時などに使われています。しかし、2回だけ主が弟子たちに現れる時に使われています。その一つはこのご変容の場面であり、もう一つは、復活なされた主がご昇天の直前に、「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」とおっしゃって、弟子たちを全世界へ宣教に行くよう命じた場面で使われています。あの世の三位一体の神は、目に見えないながら今も世の終わりまで、ご聖体の主イエスにおいて私たちの間近に現存しておられるのではないでしょうか。弟子たちが体験した主のご変容の場面を心に描きながら、その主が目に見えないながら私たちにも近づき、私たちにも手を触れて、「起きなさい」と優しく呼びかけて下さるという、主の現存に対する信仰を新たに致しましょう。多くの人の救いのために、私たちも主と一致して、日々の苦しみを喜んで神にお捧げすることができますように。

2008年2月10日日曜日

説教集A年: 2005年2月13日:2005年四旬節第1主日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. 創世記 2: 7~9, 3: 1~7. Ⅱ. ローマ 5: 12~19. Ⅲ. マタイ福音 4: 1~11.

① 本日の第一朗読は、創世記2章と3章に述べられている人間の創造と堕落についての話ですが、この話をそのまま歴史的出来事についての報告と思わないよう気をつけましょう。目撃証人のいない事柄ですし、これは神から聖書記者に夢か幻のうちに啓示された一種の神話物語だと思います。世界各地の諸民族には、世界の創造や人間の創造についての断片的神話が幾つも伝えられていますが、それらに比べて創世記に読まれる神話は遥かに詳しく、また最もよく纏まっていると言うことができましょう。それ故私は、この神話は人間の心が自力で生み出した夢物語のようなものではなく、その心の中に神の霊が働いて生み出された物語だと思っています。人間の心の中に神霊が働いて見聞きした幻示や、それに基づいた語った言葉が、多少形を変えてでも後でその通りに実現したという実例は、聖書の中でも数多く読まれますし、聖人伝の中にも、民間の伝承の中にも枚挙に暇がない程多く存在します。私は歴史家として、そういう実例をたくさん知っていますので、創世記の神話も、神霊が人の心に働いて生み出した話だと信じます。

② ところで、その神話の中で、神が「命の息を吹き入れて生きる者となった」と人間について述べられている言葉は大切だと思います。私が中学生であった頃には、「自己とは何ぞや」という哲学的な問題が、真面目な若者たちの間で盛んに囁かれていました。ちょうど太平洋戦争が負け戦になっていた頃や、終戦直後の絶望的社会事情が社会を暗くしていた時代で、個人ではどうしようもない程自分の人生に明るい希望を持てずにいた時でした。この世の事物現象に執着するから苦しむのであって、心がその執着を全く断ち切った心境に入れば、悩みも苦しみも超越して生きることができるという、釈尊の教えも耳にしていましたし、禅によってその超越的「無」の心境を体得しようとしている人の多いことも知っていました。しかし私は、長く続いた青春期のその悩みを介して仏教からキリスト教へと導かれ、今は神の不思議な導きに感謝しています。そしてキリスト者となった立場から、改めて「自己とは何ぞや」と問い直すこともあります。

③ 洗礼者ヨハネは、ユダヤ教指導者たちから「あなたはどなたですか」と、繰り返して問われた時、「私は荒れ野に叫ぶ者の声」と答えていますが、このような自己認識は、豊かさと便利さの中で、また様々の意見対立の中で生活している現代人にとっても大切なのではないでしょうか。つまり、自分であれこれの事物や意見などを全く所有しようとせず、ただ神の声・救い主の声となって、自分に与えられている今の世を貧しく身軽に渡り歩くなら、心は執着から解放されていますから、悩みも苦しみも超越して生きることができるのではないでしょうか。神からの「命の息」という聖書の言葉に出会った時、私も「ここに私の本当の自己がある」と思いました。ヘブライ語の原文では息は「ルーアッハ」といって、風という意味も持っているそうです。外的には殆ど見ることも掴むこともできない、「無」のように軽い自己に成り切って、春風や秋風のように、人々にそっと奉仕していること、自分では富も名誉も能力も何も自分のものとして所有しようとせずに、全ては神からの委託物として利用させていただいていること、そしてわずか数十年の短い人生を風のように過ぎ去って行くこと、そこにキリスト者としての私の生き方があるのだと悟りました。

④ 神から啓示された創造神話によると、人祖は狡猾な蛇に騙されて神からの戒めを無視し、自分中心に理知的に考え、禁断の木の実を取って食べてしまいました。自分中心に自己をも事物や論理をも所有しようとしたために、神よりの霊的な「命の息」から離れてしまったのではないでしょうか。人間の悩み・苦しみはそこから始まったのであることを、神話は教えているのだと思います。主キリストは「敵を愛せよ」とお命じになりましたが、私は、自分にとって嫌な敵も競争相手も、自分の恩人だと考えます。自分の能力・見解・権利・実績などに固執し、十分に評価してくれない相手にそれを認めさせようとすると、当然その執着から深刻な苦しみも生じて来ます。理知的尺度を最高のものにして「不平等だ」などと怒らずに、自分の受ける苦しみを黙々と喜んで神にお捧げすると、無から創られた自分と神との接点である「無」に近づくことができ、それだけ神の力が内面から自分の内に働くようになります。もし積極的に相手の存在に感謝し、「敵のために祈れ」という主の勧めに従って、日々相手の上に神の恵みを祈るなら、不思議に心が軽くなり、やがて温かい眼で相手を眺め、相手と気軽に話し合うこともできるようになるでしょう。こうなったらしめたものです。その大きく広がった自分の心の中に、運命の糸を握っておられる神がのびのびと働いて下さり、自分に新しい道が開けて来るのですから。これは、小さいながら私の体験して来たことでもあり、人生の秘訣だと思います。

⑤ 本日の福音は、主が公生活の始めに聖霊に導かれて荒れ野に行き、四十日間昼も夜も断食なさった時に、悪魔から受けた誘惑の話であります。極度の空腹を覚えておられた主に、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」といったようですが、主はすぐに「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の申命記の聖句を引用して、その誘惑を退けておられます。この世の物質的豊かさに依存して生きているだけの人間では、まだ創造神の意図した人間ではなく、詩篇にも詠われているように、やがて寿命が来て次々と死んで行く野の草や動物たちとあまり違わない存在価値しかありません。そうではなく、神の御前に人間らしい心の輝きを放ちつつ、永遠に価値ある人生を営むには、どうしてもその時その時に神から与えられる言葉に生かされ導かれて生きる必要がある、というのがこの聖句の骨子だと思います。創世記の冒頭にも描かれているように、この世界は全て「光あれ !」などの力強い神の言葉によって創られ、また支えられているのです。全能の神の言葉には、無から事物を創造したり奇跡を行ったりする威力と共に、人の心を神の命へと導く働きもあります。その神の言葉に内面から生かされ導かれて生きるのが、人間本来の生き方なのではないでしょうか。

⑥ 次に悪魔は、主を神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ」などと、聖書の言葉も引用しながら誘惑しますが、主はここでも申命記の言葉を引用して、その誘惑を退けます。「神である主を試す」のは、人間主導の理知的思考を駆使して、神をも聖書をも利用しようとする傲慢不遜の行為だと思います。私たちも気をつけ、神の言葉、聖書の言葉に対しては、ひたすら謙虚に聞き従う僕・婢の態度を心がけましょう。最後に悪魔は、世の全ての国々とその繁栄ぶりとを見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、云々」と誘惑しましたが、主はまたも申命記の言葉を引用して、神以外のものを拝ませようとする不遜な試みを、断固として退けます。宇宙万物の創造者であられる神のみを唯一の主として推戴し、聖母のように神の僕・婢としてただ神のみに仕えよう、神のみに従っていようとするのが、感謝を知る人間本来の生き方なのではないでしょうか。四旬節の初めに当たり、自己とは何か、人間本来の生き方はどうあるべきかなどについて、主キリストの生き方やお言葉なども模範にして改めてしっかりと考え、神の働きに一層深く根ざした実り多い人生を営むよう、決意を新たに致しましょう。

2008年2月3日日曜日

説教集A年: 2005年1月30日:2005年間第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ゼファニヤ 2: 3, 3: 12~13. Ⅱ. コリント前 1: 26~31. Ⅲ. マタイ福音 5: 1~12a.

① 本日の第一朗読の預言者ゼファニヤは、バビロン捕囚の少し前頃の人で、ヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったと考えられています。当時のユダヤ貴族の罪深さをよく知っていて、「主は言われる。私は地の表から全てのものを一掃する」という言葉で、恐ろしい主の怒りの日についての預言を書き始めています。しかし、ゼファニヤ預言者の言う「主の怒りの日」は終わりの日ではなく、そこから新しい神の民が出現する始まりの日のようです。本日の第一朗読にも、「恵みの業を求めよ。苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に、あるいは身を守られるであろう。」「私は お前の中に、苦しめられ卑しめられた民を残す。彼らは、主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は、云々」とあって、神に従おうとしない世俗社会での成功や安楽を自分の人生目的とせずに、苦しみに耐えてひたすら神の御旨を訊ね求め、それに従おうとしている少数の小さい貧しい者たちには、神が避難所を提供してその人たちを匿い、生き残らせて下さることが予告されています。ゼファニヤという名前も、「隠す」という意味の動詞から派生している名詞のようです。

② 本日の第二朗読の中でも、「神は、…世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人神の前で誇ることがないようにするためです」という言葉が読まれますが、私たちも、預言者ならびに使徒たちのこれらの言葉に従って、ひたすら神の御旨中心に、神に匿われて小さく貧しく忠実に生きるよう心がけましょう。そうすれば、不慮の恐るべき天罰の日や災害の日にも、神に守られて生き残り、神の民として立ち直って新しく仕合せに生き続けることができると信じます。

③ 本日の福音は、いわゆる「山上の説教」と言われている話からの引用ですが、その始めにギリシャ語原文で「この群衆を見て」とあるその群衆とは、すぐ前にある文脈を見ますと、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆を指しています。としますと、そこにはユダヤ人に混じって非常に多くの異教徒もいたと思われます。ルカ福音6章の平行記事を見ても同様です。どちらの福音にも、主はこの話の後でカファルナウムの町に行っています。従って、マタイがここで「山」と書いているのは、地上高くに聳えているような山ではなく、大群衆が一緒に寄り集まることのできる広い高台や高原のような所を指していると思われます。カファルナウムの西南にはちょうどそのような広い平坦な丘がありますし、そこには今日「山上の説教」の教会が建っています。それでルカが、山にいって夜通し祈ってから12使徒を選定した主が、「彼らと共に山を下り、平らな所にお立ちになった」と書いている処と同じ、平らな丘の上での話であったと思われます。

④ しかし、マタイがその処をわざわざ「山」と表現しているのには、何か特別な意図があるからではないでしょうか。察するにマタイはこの「山上の説教」を、神がかつてシナイ山上でモーセを介して旧約の神の民に授けた十戒などの信仰規範に匹敵する、神の子メシアがユダヤ人も異邦人も一緒になっている新しい神の民に、人里よりは天に近い山の上から授けた新約時代の信仰規範として描いているのではないでしょうか。それでこの観点から、本日の福音であるいわゆる「真福八端」(八つの幸い) について、考察してみましょう。

⑤ まず出エジプト記20章に載っている十戒には、「他のものを神にしてはならない」とか「みだりにあなたの神、主の名を呼んではならない」とか、「ならない」という禁令が数多く連発されており、その間に二回だけ「安息日を心に留めて聖とせよ」という命令と、「あなたの父母を敬え」という命令があって、旧約の信仰規範は全体として、罪に傾き勝ちな人間の自由を束縛し、心を矯めなおそうとしているような印象を与えます。これに対してマタイの描く新約の信仰規範は、まず「マカリオイ(幸い)」という言葉を連発しながら、神の救う力がどういう人々の中で働くかを啓示しています。「幸い」と邦訳されている原語の「マカリオイ」は、英語ではhappyと訳されていますが、いずれも少しニュアンスが違っていて、中国語の「恵福」(恵まれ祝福された) という訳語の方が、原語の意味に近いと思われます。新約の信仰規範は、神から各人の心に注がれる温かい思いやりの精神で、主体的に自由に生きさせる規範であり、ますます豊かに神よりの恵みと祝福を受けさせる規範である、と考えてよいのではないでしょうか。

⑥ 次に、十戒の最初の部分が対神関係、後の部分が対人関係のものであるように、私は勝手ながら、マタイ福音書にある「真福八端」も、前半部分に神に対する心の態度を、「憐れみ深い人々」以降の後半部分に人に対する心の態度を教えていると受け止めています。もしこの見解が正鵠を得ているとするなら、主はこの世で貧しい人、悲しんでいる人が天国に入れていただき慰められる、などと説かれたのではないと思います。神の御前で霊的に貧しい人、すなわち人間の心が生み出す一切の偶像を捨て去って真の神以外のものを神とせず、ひたすら神中心に生きている宗教的に貧しい人が、神の国、すなわち神の支配・神の働きを自分のものとする、と宣言しておられるのだと思います。

⑦ 「心の貧しい」と邦訳されている原文のプトーコイ・トー・プネウマティは、原文をそのまま訳しますと「霊において貧しい」となり、神の御前での霊的乞食を指していると思われますし、同様に「悲しむ人々」という言葉も、この世の富・権力・名誉や、対人関係のことで悲嘆に暮れている人々のことではなく、何よりも神を忘れ、神に背を向けて生き勝ちな自分の中の罪のことで悲しむ人々を指している、と私は受け止めます。ここで「慰められる」と邦訳されている動詞パラカレオーは、直訳すると「側で声をかける」となり、慰め励ますという意味で理解することもできますが、側で声をかけて慰めて下さるのは、神ご自身なのではないでしょうか。第三の「柔和な人々」も、対神関係の観点から見直しますと、八方美人のような人々ではなく、神からの呼びかけや導きにすぐに従おうとしている聖母や聖ヨゼフのような、神の僕・神の婢の精神で生活している人々を指していると思います。「柔和な」と邦訳されているヘブライ語も、「貧しい」と邦訳されているヘブライ語と同様に、背を曲げるという意味合いを持っているそうです。これは、神の御前に遜り、神に徹底的に従おうとしている人々の姿を指しているのではないでしょうか。第四の「義に飢え渇く人々」は、この世の社会正義や自分の権利主張のために奔走する人々のことではなく、神の御前での義、すなわち神に対する正しい従属関係のうちに生きることを切望している人々を指していると思います。そういう人の心は、ちょうど鉄が磁石に引きつけられるように絶えず神に憧れ、神中心に生きようと努めると思いますが、この憧れは、神に近づくほど強くなるのではないでしょうか。

⑧ 次に後半部分で「幸い」と言われている人々は、この世の暗い難しい生活環境や、真の信仰に生きる人を迫害するような社会状況の中で、神の愛の命に生かされている人々を指していると思います。「憐れみ深い人々」は、たといこの世では人から理解されず迫害されることが多いとしても、その罪を快く赦して善をなす人々を、「心の清い人々」は、心に神の愛の火を燃やしつつ、誤解する人や迫害する人をも温かい清い眼差しで眺める人々を、更に「平和を造る人々」は、神の子キリストの献身的愛の精神に内面から生かされつつ、この世の人々の間に互いに赦しあい助け合う精神を広める人々を指していると思います。たとい神の義のために迫害されたり、あるいは身に覚えのない言葉や行いのことで悪口を浴びせられることがあっても、荒れ狂うその現実や滅び行くこの世の流れを恐れずに、むしろ「その時にこそ大いに喜びなさい。天国はその人たちのものであり、その人たちは天国で大きな報いを受けるのですから」というのが、主キリストが新しい神の民に与えた実践的信仰規範なのではないでしょうか。私たちも積極的心意気を重んずるこの規範を日々心に銘記しながら、激動する今の世を希望をもって生き抜きましょう。