2008年2月17日日曜日

説教集A年: 2005年2月20日:2005年四旬節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 12: 1~4a. Ⅱ. テモテ後 1: 8b~10. Ⅲ. マタイ福音 17: 1~9.

① 四旬節の第2主日には、毎年アブラハム物語の中から第一朗読が選ばれていますが、今年の箇所はアブラム(すなわち後のアブラハム)の選びの話です。メソポタミアの異教文化の中に生まれ育ったアブラムが、宇宙万物を創造なされた神の声を聞き分けるに到ったことは、異教文化の中にも真の神がお働きになることを示しています。それで、異教や異教文化を軽視することなく、その中にも現存し働いておられる遍在の神に、信仰の眼を向けるよう心がけましょう。

② さて神はそのアブラムに、父の家を離れて神の示す地に行くよう命じたのですが、その目的として「私はあなたを大いなる国民にしてあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と話しておられます。本日の第一朗読には「祝福」という言葉が5回も登場していますが、聖書に数多く読まれる神からの祝福は、多くの人が単に相手のご無事、相手の幸せを祈るぐらいの軽い気持ちで言い交わしているのとは違って、相手に神からの貴重な現実的恵み、すなわち神の御保護・お導き・お助けなどを与えることを意味しています。ですから以前にも申しましたように、イサクはヤコブに長子に与えられる神よりのアブラハムの祝福を与えてしまった後に、イゾウが来て祝福を願った時に困ってしまい、結局地の祝福しか与えることができませんでした。アブラムは、そういう二つとない特別の現実的恵みの祝福を神から戴いたのです。しかも、「地の氏族は全てあなたによって祝福に入る」という神の言葉から察しますと、その祝福を単に自分の一族子孫のためにのみ受けたのではなく、全人類のために戴いたのです。従って、この世に生まれ出る諸国諸部族の全ての人は、血筋によらずに、ただアブラハムの信仰精神を受け継いで生活するだけで、アブラハムの受けた祝福に参与すると言ってよいのではないでしょうか。ピオ11世教皇はこの意味で、「私たちは皆アブラハムの子孫である」とおっしゃたことがあります。肉の血ではアブラハムの子孫ではありませんが、皆聖霊の赤い愛の血によって生かされ、それを受け継いでいるという意味では、神の御眼にアブラハムの子孫とされているのではないでしょうか。

③ 私たちもこのことを深く肝に銘じ、アブラハムの信仰精神を体得し堅持するよう心がけましょう。アブラムは、神のお言葉に従って、神がお示しになるという見知らぬ所へ出発したのですが、察するに行き先の情報が全くなく、ただ神のお導き一つに信頼して遠い旅を続けるのですから、これからの生活のため何を準備し何に警戒していたら良いのかも判らず、時々は厳しい現実に直面し、弱い人間として深刻な不安に襲われることもあったのではないでしょうか。しかしアブラムは、たとい一緒にいた妻や甥のロトがどれ程不安を訴えても、ひたすら神のご命令、神のお言葉だけに縋って祈りつつ、不屈の忍耐を持って歩み続けたのだと思われます。時々はちょうど暗いトンネルの中にいるかのように覚えたほど、不安の闇の深まりを痛感したことがあったかも知れません。しかし、その試練を抜け出た時には、また神に出会ったという喜びを見出していたのではないでしょうか。私たちも、時として暗い試練のトンネルを体験しようとも、神から召されたこの信仰生活の道に最後まで忠実に留まり続けましょう。全能の神が、私たちもアブラハムの精神に生きているのをご覧になって、私たちに豊かな祝福を与えて下さるように。

④ 本日の福音に描かれている主のご変容の出来事は、この世の日常の出来事からは離れた、ある意味では歴史を超えた神秘的出来事であったようです。そのことを象徴するかのように、主は三人の弟子たちだけを連れて高い山に登り、ルカ福音によるとそこで一夜を明かし、翌日その山から下りて通常の生活にお戻りになったようです。一行はその出来事の前にガリラヤ北方のフィリッポ・カイザリアにおり、出来事の後でガリラヤに戻って来ましたから、御変容の山は、キリスト時代にガリラヤでの暴動などに備えてローマ軍の砦が置かれていた、ガリラヤ中心部の背の低いターボル山ではなく、フィリッポ・カイザリアに近い、2千メートル級の大ヘルモン連山の一つであったと思われます。そこでは急に白い雲がかかったり、またすぐに過ぎ去ったりしますから。もしそんなに高い山で一夜を明かしたとしますと、この出来事は冬のことではなく、教会の典礼が昔から8月6日に記念しているように、真夏の出来事だったのではないでしょうか。ペトロが夢うつつの内に目撃した光り輝く出来事に感激して、「ここにテント小屋を三つ建てましょう」などと話したことからも、人里遠く離れたその山上が真夏には涼しくて過ごし易く、快く感じられる所だったと思われます。

⑤ さて、半日がけで登ったその山の上にいた時、ルカ福音には「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかった」とありますから、日が落ちて暗くなってからでしょうか、主のお姿が彼らの目の前で急に変わり始め、顔は太陽のように輝き、衣服も光のように白く輝き始めました。太陽のように輝いたという主のお顔は、シナイ山で神にまみえたモーセの顔や、黙示録1章にヨハネが描写している栄光に満ちた復活のキリストのお顔を思わせます。とその時、見ると遠い昔の人モーセとエリヤの姿が現れて、栄光に輝く主と語り合っていました。この二人は、救い主来臨の準備をする旧約時代を代表する二大人物です。この全く思いがけない夢幻のような出来事に、弟子たちの心は驚き感激したことでしょう。ペトロはとっさに「私たちがここにいるのは、すばらしいことです。云々」口走りましたが、まだ半分眠っていて、夢うつつのような心境にいたのだと思われます。

⑥ その時、急に光り輝く白い雲が彼らを覆い、雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という威厳に満ちた声が響き渡りました。弟子たちはその声を聞いて非常に恐れ、ひれ伏してしまいました。この場面は、ヨルダン川で主が受洗なされた時の場面によく似ています。ヨルダン川の時には天が開けて天から声が聞こえたのですが、天に近いこの山の上では、光り輝く雲が弟子たちを覆い、その間近の雲の中から威厳に満ちた声が響き渡ったのです。この時の光り輝く雲は聖霊の現れで、神の畏れ多い臨在を示していると思いますが、その臨在の突然の身近さに弟子たちの心は極度に畏れ、ひれ伏したのだと思われます。この場面も、モーセが2290m余のシナイ山の雲の中で神から啓示を受けた時の状況に似ていると思います。しかし、弟子たちはそれ以上には何も啓示を受けず、夢幻のようなあの世の光り輝く状況は過ぎ去ってしまいました。

⑦ その時、主イエスが近づき、ひれ伏している弟子たちに手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げて見ると、そこにはもう主イエスの他に誰もいませんでした。あの世の栄光に満ちた神の顕現は消えて、再びこの世の現実に戻っていたのでした。マタイ福音には「近づく」という言葉が52回も使われていますが、そのほとんどは人間が主の御許に近づく時などに使われています。しかし、2回だけ主が弟子たちに現れる時に使われています。その一つはこのご変容の場面であり、もう一つは、復活なされた主がご昇天の直前に、「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」とおっしゃって、弟子たちを全世界へ宣教に行くよう命じた場面で使われています。あの世の三位一体の神は、目に見えないながら今も世の終わりまで、ご聖体の主イエスにおいて私たちの間近に現存しておられるのではないでしょうか。弟子たちが体験した主のご変容の場面を心に描きながら、その主が目に見えないながら私たちにも近づき、私たちにも手を触れて、「起きなさい」と優しく呼びかけて下さるという、主の現存に対する信仰を新たに致しましょう。多くの人の救いのために、私たちも主と一致して、日々の苦しみを喜んで神にお捧げすることができますように。