2010年8月29日日曜日

説教集C年: 2007年9月2日 (日)、2007年間第22主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 3: 17~18, 20, 28~29. Ⅱ. ヘブライ 12: 18~19, 22~24a. Ⅲ. ルカ福音書 14: 1, 7~14.

① 本日の聖書朗読のテーマは、神は遜る者を高められると言ってもよいと思います。第一朗読であるシラ書(「集会の書」とも言う) には、旧約のユダヤ人たちの間に伝えられ愛用されていた多くの格言や教訓が集められていますが、本日の朗読箇所には「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる。」「主は、遜る人によって崇められる。」などの言葉が読まれます。「遜る」と聞くと、多くの人は人前で出しゃばった言行を慎み、謙虚に振舞うというような意味で理解し勝ちですが、聖書に言われている遜り、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前の外的遜りとは大きく違っています。それは、神に背を向け神の愛を裏切った人間の罪を自覚し、それを背負って神の御前に遜る姿、心を大きく開いて全てを神から受けながらも、神の無益な僕として我なしに生きようとする内的姿勢を指しています。それは、主イエスが御自ら生きてみせた生き方であり、聖母マリアも神の婢として実践していた生き方ですが、神はそのように遜る者を通して、救いの恵みを人類に豊かにお与え下さったのです。

② 主は一度、この世の成功や快楽だけを追い求めている町々の不信を厳しくお咎めになった後に、「天地の主なる父よ、私はあなたを褒め讃えます。あなたはこれらのことを知恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。云々」と祈っておられます。神の御前に神にあくまでも従順で忍耐深い「小さな者」として生きるのが、聖書の教えている「遜り」であると思います。ヘブライ語の「アニィ」という言葉には、「小さな」という意味と共に「遜る」という意味もあると聞いています。アウグスチヌスはこのような遜りを「メシアの徴」としていますが、神はこの遜りを実生活の中で実践している人を通して、この世で働き、救いの恵みを豊かにお与え下さるのです。そのことを幾度も体験し確信するに到ったからでしょうか、聖母はその讃歌の中で「神はその力を現し、思い上がる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座から下ろし、見捨てられた人を高められる。云々」と歌っています。運命の神が、遜った神の子ら「小さな者たち」を通して、救う働きをして下さる新しい時代が始まったのです。私たちも、聖書の教えているこの内的遜りの生き方を体得し実践するように努めましょう。本日の第二朗読は、そのような遜る生き方をする者たちの行く着く先について教えています。神の子らのこのような内的遜りを体得している人は、外的言動においても、慎みや謙遜の態度をごく自然に体現するでしょうが、それらの振る舞いを単に外的に真似るだけでは、ファリサイ派の教師たちのように心の内容が伴っていない「偽善者」と非難され、神から救いの恵みを人々の上に呼び下すことはできないと思います。幼子のように謙虚で素直な心、いつも神の御前で生きていようとする心が、何よりも大切だと思います。

③ 本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」という言葉は、日本語の「譬え」よりはずーっと広い意味であり、二つの全く異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時にも、よく使われます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会にも適用して、この世の社会生活においても「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」などと考えてはなりません。それは、主のお考えではないと思われますから。主は神より遣わされた使者、神の僕として、人々の救いのために奉仕する場合の内的心構えについてだけ語っておられるのです。相手からの報いを全く期待せずに、この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に、あなた方は神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。

④ この世的損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けながら、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちが、小さいながらもそのような生き方を身につけることができるよう、恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

⑤ 福者マザー・テレサは、「誰からも必要とされない病気」という言葉を話されたことがあります。病気にはそれぞれ医薬品や治療法がありますが、心を極度の内的孤独感で蝕むこの病気は、「喜んで差し伸べられる奉仕の手と、愛の心があるところでない限り、癒されることがない」というのが、福者マザー・テレサのお考えだそうです。来日なさった時に話された、「日本は豊かな国ですが、内的には貧しい国です」というというお言葉は、必要なものは何でもあり余る程所有している外的豊かさの故に、非常に多くの人たちの間に心と心との献身的愛の交流が育たず、外的豊かさの中にあって「誰からも必要とされていない」という病気に苦しんでいる人が少なくないことを見抜いて、話されたのではないでしょうか。自由主義・個人主義・能力主義などは皆それぞれに個人や社会を発展させる長所を持つ善ですが、ただその対極にある共同体精神や連帯精神などと共にバランスよく心の中に育てないと、個人をも社会をも内面から病的にする危険なものでもあります。近年外的豊かさの中でメタボリック症候群の病人が急増したら、適度の運動の必要性や食生活のバランスなどが強調されるようになりましたが、同様のバランスの必要性は精神面についても強調されないと、多くの日本人も日本社会も、いずれ恐ろしい内的病魔に苛まれることになるでしょう。一人でも多くの人が早くその危険性を察知するよう、神からの照らしと導きの恵みも祈り求めましょう。

2010年8月22日日曜日

説教集C年: 2007年8月25日 (日)、2007年間第21主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 18~21. Ⅱ. ヘブライ 12: 5~7, 11~13.
     Ⅱ. ルカ福音書 13: 22~30.


① 本日の第二朗読には「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、私たちキリスト者を「神の子供」と考えているような勧めの言葉が読まれます。

② 戦後暫く経ってから「めだかの学校」という歌が流行り、戦前の「雀の学校」とは対照的に違うその歌詞の故に話題になりましたが、しかし、各個人の自由だけを謳歌するその「めだかの学校」を愛唱しながら育ち、頭の能力や理知的技術能力を早く開発して競わせる教育を受けた人たちの中には、心を鍛える厳しい教育に不足し勝ちであったため、大人になっても心の本当の底力が眠ったままで、心に宿る欲情をバランスよく統御することができない人や、酒・タバコ・ギャンブル・麻薬・万引き等々に対する様々な依存症や、登校拒否・家出・うつ病などに悩む人たちが少なくないようです。70年前の日本にもそのような人たちは少しはいたようですが、現代はそれとは全く比較できない程激増しています。各人の知的能力の発達に比べると、奥底の心の力、すなわち無意識界の底力があまりにも脆弱で、見えない内に疲れやストレスを心の中に溜めている所に、その根本的原因があると私は考えています。

③ この世の能力主義一辺倒に傾いている現代の育児教育に反対して来た私は、40年ほど前から、親しくなった若い夫婦たちに「愛をもって叱る」という心の教育も部分的に必要であることを説き、二歳、三歳位の幼児を20人ほども厳しく叱って泣かせたことがありますが、私に叱られて大きくなった子供たちは、後年私が会って知っている限りでは、比較的素直に育って、親にも先生にもほとんど心配をかけない人間になっているように思います。父なる神も、主キリストにおいて神の子とされた信仰者たちを愛すればこそ、そのような心の底から生きる積極的愛の人、すなわち心の底に宿る神の愛に生かされて生きる人にしようと厳しく鍛え、主キリストが実践なされた神に対する従順と忍耐を身につけさせようとなされるのではないでしょうか。神によるその鍛錬を嫌がらず、どれほど苦しめられ鍛えられても落胆しないよう努めましょう。オリンピックに活躍している選手たちは、私たちの想像を絶するほどの厳しい訓練や指導に耐えて、心の底力を磨いています。その努力を積み上げて高度の技を発揮するようになったからこそ、多くの人の中から選ばれるに到ったのではないでしょうか。神ご自身によって、もっと遥かに大きな永遠の栄誉を受けるよう召されている私たちも、その人たちの努力に負けてはならないと思います。

④ 2千年前に主イエスが、また聖母マリアが歩まれた、心の奥底に宿る神の愛・神の聖霊に生かされて生きる信仰生活と、同じ頃のファリサイ派ユダヤ人たちの信仰生活との違いも心得ていましょう。善意からではありますが、当時のファリサイ派ユダヤ人たちは、自分たちの頭に宿るこの世の人間理性を中心にしてあの世の神の言葉(聖書) を解釈し、その解釈に基づいて生活していました。彼らは自分の力によってこの世からあの世の神に近づこうと、競うようにして熱心に努力していたと思われます。500年前、450年前頃のプロテスタント宗教改革者たちも、一心に神の助けを祈り求めながら、近代人的な頭の理性、人間社会の力に頼って、基本的にはほぼ同様の人間主導の精神で、あの世の神のためこの世の教会を改革しようと励んでいました。彼らはいずれもその努力によってそれなりの成果を残してはいますが、しかしそれは、奥底の心に宿る神の霊に従い、神の僕・神の婢として自分というものに死し、あの世の神の御旨だけを中心にして生きておられた主イエスや聖母マリアの生き方ではないと思います。

⑤ 本日の福音の始めには、「イエスは、……エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に9章51節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降19章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ13章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの、緊張した雰囲気が弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。

⑥ としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、エルサレムで主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、この世の人たちからは高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世中心の心に死んで、神の子キリストのパーソナルな愛に生かされて生きようとする精神を、その生活実践に込めていない限り。このことは、現代の私たち修道者にとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴに死んで、神の子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の誰もが歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとする、2千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは山程の外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教理についてはほとんど知らなくても、非常に多くの人たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。

⑦ 3年前のお盆休みに、名古屋で夕食を共にした横浜の知人から、十数年前から「うつ病」に悩まされており、医師にかかってもなかなか治れずにいることを打ち明けられて、少し驚いたことがありました。現代の日本社会には、非常に有能な人たちの中にも職場の複雑な人間関係の中で生じる問題を自分独りで背負い、合理的に解決しようとして「うつ病」になり、夜も眠れなくなる人、時には自殺したいなどと思ったりする人が増えているようです。私もそのような人を他にも数人知っており、その一人は十数年前に自殺しています。相談を受ける精神医たちは、その人を取り巻く周囲の人たちの協力で、温かい人間関係やくつろげる環境を造ることにより、その病気が数年かけてゆっくりと治るのを待つという療法を取っているようです。多くの人はそれで結構癒され、立ち直っているようですが、しかし中には、内的周辺環境がほとんど変わらないためなのか、十数年経っても治れずにいる人たちもいます。そういう人たちは、どうしたら良いのでしょう。

⑧ そこで私が3年前にその知人に話したことを、少し補足して紹介してみましょう。今の日本には、これからも「うつ病」に苦しむ人が続出するでしょうし、皆様もそのような人に会うことがあるかも知れませんから。私は、ストレスが心の中に蓄積して奥底の心が成熟できず、底力を発揮できずにいる所に、「うつ病」の一番の原因があると考えています。もしそうであるなら、奥底の心を目覚めさせて成熟させれば、治るのではないでしょうか。その道は、聖書に示されていると思います。まずペトロ前書5章7節の「全ての思い煩いを神に委ねなさい」という勧めに従って、人間主導の考えで生きようとはせずに、神の御旨・神のお導き中心に生かされて生きようと立ち上がり、主イエスや聖母マリアのように、神の僕・神の婢として生活することです。それは単純なことですが、実際上これまで長年続けて来た人間主導、この世中心の生き方から、あの世の神中心の生き方へと心を脱皮させることは、簡単でありません。

⑨ まず、聖人たちの模範に習って自分の奥底の心に愛の眼を向け、時には厳しく時には優しく、日に幾度も話しかけるように致しましょう。シトー会に入会した聖ベルナルドは、しばしば「ベルナルドよ、何のためにここに来たのか」と話しかけていたそうですが、聖フィリッポ・ネリやその他の聖人たちも、皆それぞれに自分の心に話しかけています。古来わが国には「言霊(ことだま) 信仰」というものがあり、心を込めて話した言葉には、不思議にいのちや霊がこもると信じられていました。主キリストも「私があなた方に話した言葉は、霊であり命である」(ヨハネ6:63)と話しておられます。現代世界に氾濫している単なる「頭の言葉」ではなく、心の深い愛のこもった言葉には、不思議な力が宿るからだと思います。若い動植物の命にも、そういうパーソナルな愛の言葉をかけていると、育ちが違うと聞いています。私たちの奥底の心も、いつまでも幼子のように若々しい命なのです。ですから主も、「ひるがえって幼子のようにならなければ、天の国には入れない」(マタイ18:3) などとおっしゃったのだと思います。

⑩ その幼子のように素直な奥底の心に、日に幾度もねぎらいの短い言葉やシュプレヒ・コールのような励ましの言葉をかけたり、その奥底の心に立ち返って神に射祷を捧げたりしていると、その心の中に神の霊が働くようになるようで、ゆっくりとですが、不思議に心の底力が育って来ます。そして次第に、この世のさまざまな困難や失敗などには挫けないようになります。これは私が年来実践していることで、相談を受けた「うつ病」を患っていると思われる別の人にも勧めたら、数ヶ月して将来に希望を持てるようになったそうです。頭の思想などとは違って心は生き物であり、その命は急には流れを変えることができませんが、幾度も話しかけ呼びかけているうちに、だんだんと神中心の新しい流れに変わって行くもののようです。神ご自身も、私たちが自分の権利や言い分などを一切神の御前に放棄して、素直な幼子のように神から与えられるものに満足し、神の僕・婢として神の導き、神の働きに聴き従い、日々喜んで生きていようとするのを待っておられると思います。そのため、自分に必要と思われる導きや力を願ってみて下さい。きっと与えられます。希望と忍耐をもって励みましょう。

2010年8月15日日曜日

説教集C年: 2007年8月19日 (日)、2007年間第20主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 38: 4~6, 8~10. Ⅱ. ヘブライ 12: 1~4.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 49~53.

① 本日の第一朗読に登場するゼデキヤ王はユダ王国最後の王で、在位は紀元前597年から587年とされています。エルサレムが598年から翌年にかけ、強力な新バビロニア王ネブカドネザルに侵略されて、国王はじめ一群の貴族・祭司たちが第一次バビロン強制移住でいなくなり、後に残されたユダ王国を新バビロニアの属国として統治するために立てられた国王でした。戦争に負けたのですから、王国の再建は容易でなかったと思われます。側近たちは国王を動かしてエジプトと提携させ、新バビロニアに反抗させたようです。それで既に有名になっていたエレミヤ預言者は、カルデア軍とエジプト軍との両大軍の間にあって揺れ動く国王とその役人たちに、いろいろと神からの言葉を伝えて活躍しましたが、それが国王を囲む役人たちに理解されずに、監禁されたり迫害されたりしました。第一朗読は、その迫害の一端を伝えています。

② 時代の大きな過渡期にこの世の人々の見解が相互に激しく対立したり、この世の諸勢力が相争ったりするような時、エレミヤ預言者のように神中心に生きようとすること、神よりの啓示を世の人たちに伝えようとすることは、この世中心の立場で生きている人たちから誤解されたり迫害されたりする危険があって、決して容易なことではありません。主キリストも、2千年前のユダヤ人たちが政治的にも宗教的にも意見が分かれて一致できずにいた過渡期に、神中心に生きる模範を実証しつつ、神よりの新しい啓示を世に伝えようとして、誤解されたり迫害されたりした人であります。

③ 本日の第二朗読であるヘブライ書の著者は、恐らくは紀元1世紀の末葉に、使徒たちがほとんどいなくなりエルサレムも紀元70年に滅亡して、産まれてまだ間もない初代教会の結束が内面から大きく動揺していた時代に、キリスト教に転向したユダヤ人たちに向けてこの書簡をしたため、彼らの信仰を堅めようとしたのだと思います。本日の朗読箇所12章の始めに読まれる、「このように夥しい証人の群れに囲まれている以上」という言葉は、11章に読まれる、アベルを始めとして、アブラハム、モーセなど旧約時代の数多くの信仰の証人たちを指しており、ユダヤ人たちの誇りであるそれら信仰の偉人たちの模範に倣って、時代の大きな過渡期に増大する「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、(神から) 自分に定められている競争(のコース) を忍耐強く走り抜こう」と励ましているのだと思います。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉も、大切だと思います。

④ 「グローバル時代」と言われる現代に生きる私たちも、一つの大きな過渡期に生きています。人類史上にいまだ嘗てなかった程の、規模の大きな過渡期と称してもよいと思います。現代文明、特に交通・通信機器の目覚しい発達で、これまで各種の壁で分断されていた人類全体が一つの群れとなり、大小無数の伝統的文化も宗教も慣習も皆一つの巨大な海の渦の中で相互に出会い、切磋琢磨させられるような激動の過渡期に、私たちは既に入って来ているのだ、と言ってもよいでしょう。この大きな渦の中で、私たちの受け継いでいるキリスト教信仰も、日本文化や理知的な西洋文明も、他の多くの文明文化との接触・軋轢・抗争・協働などによって、徹底的に試され、磨かれ、鍛えられることになるかも知れません。この渦の中で、自力ではどうしても耐えられなくなって苦しみ滅んで行く人たちもいるでしょうが、しかし、その渦の背後に、私たちの魂を磨き高めようとしておられる神の御摂理、神の導きや働きを感知し受け入れている人たちは、主キリストのようによくその苦しみに耐え、神の力に基づく本当の平和と祝福を全人類の上に豊かに呼び下すことでしょう。

⑤ 本日の福音の中で、主が「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」と話しておられることから察しますと、この話は既に主を殺そうとしている大祭司たちの勢力がいるエルサレムへの、最後の旅の途中で弟子たちに語られた言葉であると思われます。「洗礼」は、自分のこの世の命に死ぬことと、神の新しい不滅の命に生きることとの両面の恵みを与える秘跡ですが、ここでは主キリストの受難死と復活の二つを指していると思います。この地上の人々の心に神への信仰と愛の火を点し、燃え広がらせようと3年間ひたすら尽力して来たのに、生活を共にしている弟子たちの心にさえ、まだその火を大きく燃え上がらせることができずにいる程なのに、既に御父の御摂理によってご自身をいけにえとして神に献げる時が間近に迫って来たのを切実に感じ取りつつ、人間としての主の御心は、いろいろと深く苦しんでおられたのではないでしょうか。迫り来る死苦を目前にした時に覚えるその苦しみや孤独感なども、主は人類救済のため天の御父にいけにえとして献げておられたのだと思います。

⑥ 福音の後半には、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂である」というお言葉がありますが、ここで言う平和は、単に外的争いのない平穏無事の状態を指していると思います。主はこの世の支配階級中心、既にある社会的価値観中心に、全ての不備や労苦やしわ寄せを超越し我慢させようと説く、そんな消極的我慢の生き方を広めるためにこの世に来られたのではありません。人類の生活の営み全体を、宇宙の創造主・所有主であられる神の御旨中心のものへと積極的に変革し高めるために、そしてあの世的神の国を広めるために、来られたのだと思います。それは、一つの大きな内的改革を各人の心の中に導入することを意味しています。そのため、その神の国を受け入れるか拒むかで、同じ家族に属していても、人の心と心とが互いに対立し分れるということは大いに起こり得ます。

⑦ そのような場合、神に従わないこの世の一切は、神ご自身によってやがて徹底的に滅ぼされてしまうこと、ならびに私たちの永遠に続く本当の人生は、神中心に生きる者たちだけの住むあの世にあることを思って、神のみに頼って生きる一念発起の決意を新たにし、あくまでも主キリストの御後に従って行きましょう。過ぎ行くこの世の命を日々いけにえとして神に献げつつ、その命の奥に宿る神よりの博愛の命に生き抜くこと、それが主がこの世で歩まれた道であり、主はその道を歩むための力を私たちにも、「洗礼」の秘跡を通して豊かに提供しておられます。そして世の終りまで、私たちのそば近くに内的に伴っていて下さいます。「信仰の創始者また完成者」であられる主イエスを見つめながらという聖書の勧めを心に銘記しつつ、今の世のこの大きな過渡期の流れを乗り切りましょう。

2010年8月8日日曜日

説教集C年: 2007年8月12日 (日)、2007年間第19主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 18: 6~9. Ⅱ. ヘブライ 11: 1~2, 8~19.
      Ⅲ. ルカ福音書 12: 32~48.


① 日本のカトリック教会は、ローマ教皇が1981年に広島でなされた「平和アピール」に応え、その翌年より毎年の8月6日から終戦記念の15日までを「平和旬間」と定めて、世界平和のためのさまざまな共同的祈りと催しを致しています。今日はその平和旬間中の日曜日であります。私たちは、北朝鮮が核開発を再開した昨年の春以来、極東アジア諸国の平和共存のため、毎月一回この祭壇で、神の恵みと導きを願ってミサ聖祭を献げています。幸い事情は今では好転しつつありますが、本日は同じこの意向でミサ聖祭を献げます。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読である『知恵の書』の後半10章から19章は、イスラエルの歴史の中で働いた神の知恵について語っていますが、本日の朗読箇所は、そのうちのエジプト脱出の夜のことについて語っています。その夜、神の民は神からの約束を信じて、動揺することなく神による救いと、敵ども(すなわちエジプト人たち) の滅びとを待っていたように述べられています。そして清い子らは「密かにいけにえを献げ、神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。それは、聖なる民が、順境も逆境も心を合わせて受け止めるということである」と語られています。これは、エジプト脱出の出来事から千年以上も経ってから、民間の伝えに基づいて歴史を多少美化しながら語られた話ですから、事実はこれとは多少違っていたと思われます。

③ しかし、こういう描写の中に、旧約末期の神の民の歴史観や信仰心が反映していることは疑い得ません。神を信ずるということは、目前の世界の情勢がどれ程絶望的であっても、たじろぐことなく神による救いを従順に待ち続けることであり、また神にいけにえを献げ、神からの掟を守り、順境も逆境も全員で心を合わせて受け止めるということである、と考えていたことを示しています。旧約末期に伝統的信仰に忠実であったユダヤ人たちは、このような精神で救い主の到来を待ち望んでいたと思われます。現代に生きる私たちも、同様の精神で主の再臨を待ち望んでいましょう。

④ 第二朗読はヘブライ人への書簡からのものですが、そこでは「信じる」とはどういうことかについて教えられています。最初にまず、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉が読まれます。これは、どういう意味でしょうか。「信じる」とは、頭で理解し納得することではない、心で受け入れ、その受け止めたものに堅く信頼して生きることだという意味ではないでしょうか。心は意志です。神からの言葉、神からの啓示をまだよく理解できなくても、それを聖母マリアのようにそのまま素直に受け入れ、日々心の中で考え合せ模索しつつも、神の僕・婢としてそれに身を任せ、意志的に生き続けることはできます。信仰の暗闇に置かれていても、このような信頼と従順の実践に励むなら、神はその人の魂に次々と必要な導きと照らしと助けを与えて下さいます。こうしてその人は、神が自分の将来に計画しておられることについてはよく知らなくても、神の導きと助けに対しては益々大きな希望と感謝と信頼を抱くことができるようになります。第二朗読に述べられているアブラハムも、ひたすら神のお言葉、神の約束に信頼し不安と困難に耐えて歩む、そのような意志的信仰生活を実践して、神からの大きな恵みと祝福を一族の上に、また全人類の上に呼び下した太祖であります。

⑤ ある男の人が私の所に来て、洗礼を受けたいと思って一年前の春から土曜日毎に教会の神父に教理を習っていますが、まだなかなか納得できなくて悩んでいます、という話をしたことがありました。そこで私は、信仰は頭で理解するものではありません、教理の理解は道しるべとして、あるいは危険防止の柵や手すりのようなものとしてある程度必要であり有益でもありますが、信仰は神よりの言葉や啓示を自分に対する神からの呼びかけとして意志的に受け止め、それに従って生きようとすることです、というような話をしました。

⑥ その時に引用したのが、「信仰は一種の賭けである」というパスカルの言葉でした。どれ程優秀な人間理性でも、神からの啓示や聖書を疑問なく明確に解説することはできません。理性は何よりもこの世の事物を理解し利用するために創られているので、それが優秀であればある程、神からのお言葉に疑問や謎を見出すように、神は人間にお語りになっているからです。ですから、全てを自分中心に理性で考え理解しようとすることを止めて、心に次々と生じてくる疑問や不安などを全て神の御許に投げ出し、神に下駄を預けて神のお求め通りに、まず祈りと愛の実践に励むと、何でも自分中心に理知的に考え勝ちだった自分の心が、不思議に神秘な神の方へと引き上げられて、自分の頭で理解できなくても、そんなことは全然問題でなくなり、それよりも神が目に見えないながら不思議に自分に伴っていて下さるという心の感覚が目覚めて来ます。そして神が自分を守り導き助けて下さるという体験に関心が高まって来るようになります。これが、聖書の教えている信仰というものです、というようなことも話しました。

⑦ 本日の福音はルカ12章の後半部分からの引用ですが、その前半部分には、一週間前の日曜日の福音である「愚かな金持ち」の譬え話があります。それでか、主は後半部分では、まずその愚かな金持ちとは対照的に、尽きることのない富を天に蓄えるようお勧めになります。天の父なる神が喜んで神の国を下さり、天に蓄えた富には盗人も虫も近寄らないからです。また、その宝のある所に私たちの心も高められて、たとえこの世では貧困や困難の内に生活していても、内的にはいつも大きな希望と喜び・感謝の内に生きることができるからです。この世にどれ程大きな富を所有していても、自分の将来に大きな明るい希望を持てずにいる人や、日々神に守られ導かれる喜びと感謝の内に生活できない人は、決して仕合わせではないと思います。

⑧ 主は富を天に蓄えて、天に心を向けている人に、この世では「腰に帯を締め、ともし火を点していなさい」と勧めています。その人たちの所には時々天から主人が来て下さり、御自ら帯を締めてその人たちの食事の給仕をして下さるからです。ここで言われている「主人」とは誰を指しているのでしょうか。37節には「そばに来て給仕をしてくれる」という言葉が読まれますが、日本語で「そばに来て」と訳されているギリシャ語原文の動詞パレルトーンは、本来「通り過ぎる」という意味で、ラテン語でもtransiens(通り過ぎる) と訳されており、聖書では神が来臨する時に用いられる特殊用語となっています。例えばアブラハムの所を神が三人の旅人の姿で訪れた時や、主が夜に湖の上を歩いて弟子たちの船に近づいた時などに、この言葉が使われています。後者の場合、マルコ福音書では「そばを通り過ぎようとされた」と訳されています。その訳で結構なのですが、同時にそこには、神である主が来臨なされたという意味も込められていることを、見逃してはなりません。

⑨ 私は、天から来臨して給仕して下さるという「主人」を、復活なされた主キリストのことだと考えています。主は今もミサ聖祭の度毎に、眼に見えないながらも実際に私たちの所に来臨して、私たちに恵みの糧を給仕して下さるのではないでしょうか。この信仰をもってミサ聖祭にあずかる人は、その信仰ゆえに豊かな祝福を頂きますが、この信仰がなければそれだけ恵みは少ないと思います。本日の福音を、自分にそのような心の信仰、神である主の現存に対するパーソナルな愛の信仰を持つように、という神からの個人的呼びかけのお言葉として受け止め、実践的にそれに従おうとするのが、アブラハム的あるいは聖母マリア的信仰の生き方だと思います。

2010年8月1日日曜日

説教集C年: 2007年8月5日 (日)、2007年間第18主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. コヘレト 1: 2, 2: 21~23. Ⅱ. コロサイ 3: 1~5, 9~11.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 13~21.

① 本日の第一朗読にあるコヘレト(すなわち集会の指導者) は、書面の上では紀元前10世紀のソロモン王を指していますが、聖書学者によると本書が編纂されたのは、古代オリエント世界の各種伝統がアレキサンダー大王のペルシャ遠征後に、根底から液状化現象によって崩れ始めた紀元前3世紀頃とされており、その頃に誰かが智恵者ソロモンの権威を利用して執筆したのだと思われます。としますと、ある意味では現代社会のように、それまでそれぞれの社会で絶対視されていた価値観が相対化されて、何が善、何が悪であるかも、人それぞれに判断が大きく違っていた時代、大儲けをする人たちの陰に、いくら真面目に働いても貧困から抜け出せずにいる人たちが多いという、貧富の格差が大きかった時代、何を基準にしてこの世の人生を生きたら良いかに迷う人、悩む人が多かった時代に書かれたのではないでしょうか。「なんという空しさ、空の空」というような激しい嘆きの言葉で始まるコへレトの言葉はもっと長いのですが、第一朗読は、その始めと2章の終わりの部分だけに限られています。しかし、人生の空しさを語るこのコへレトの言葉の12:13には、「神を畏れ、その戒めを守れ」とありますから、この世を超越した次元におられる神を畏敬し、神からの戒めを守る人は、この極度に空しく見える人生の営みの中にあっても、心の眼を神に向けつつ、神の導き、神の助けに支えられて、永遠に価値ある人生を営むことができるのではないでしょうか。現代の私たちも、そのような生き方をしたいものです。

② 本日の第二朗読には、ちょっと驚くような表現があります。「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなた方の命であるキリストが現れる時、あなた方もキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」という言葉です。ここで「命」とある言葉は、ギリシャ語の原文では「ゾーエー」となっていて、間もなく時が来て死んでしまうこの世の儚い命ではなく、神の内に神と共に永遠に生き続ける命を指しています。私たちはキリストの洗礼を受けた時、この「ゾーエー」の命を授かり、神からのこの命を中心に据えて生きることを神に誓いました。ということは、この世の富や名誉や快楽などを目標にし勝ちなこの世の過ぎ去る命は、いわば神の命のための着物や器のような一時的手段と見做し、それらを神の愛のために利用しながら生きることを意味していると思います。聖書はそのことを、この世の過ぎ去る幸せのために生きているのではないという意味で、「あなた方は死んだのです」と表現したのだと思います。

③ 私たちの本当の命(ゾーエー) は、この世の命を卵の殻や母体のようにしてその中に孕まれていますが、その本当の姿と栄光は、主キリストの再臨の時に輝き出るというのが、聖書の教えであります。その栄光の日が来るまでは、第二朗読の後半に述べられているように、この世の過ぎ去る幸せを目指して生きようとする「古い人」を、その行いと共に絶えず新たに脱ぎ捨て、「創り主の姿に倣う新しい人(すなわちキリストの生き方) を絶えず新たに身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」ようにというのが、聖書の勧めだと思います。本日この勧めを心に銘記して、私たちが洗礼の時になした神への約束を新たに堅めましょう。

④ 本日の福音にある主の譬え話の中の金持ちは、畑の豊作でますます豊かになり、「どうしよう。作物をしまって置く場所がない。云々」と話していますが、そこに現れる動詞は全て「私」が主語ですし、日本語の訳文では煩わしいので省かれていますが、ギリシャ語原文ではここに「私の」という所有代名詞が4回も繰り返されています。この金持ちは、何事も常に自分中心に考え、自分が獲得し、自分が利用し、自分が所有し使うことのみに関心を示している人のようです。しかし、貧しい人・苦しむ人のために与えようとする愛の精神に欠けている人が蓄えている富は、死と共にその人から完全に奪い取られる性質のもので、その時貧者への愛に欠けていたその人の魂は、愛のない恐ろしく暗い冷たい苦しみの世界の中に投げ落とされてしまうことでしょう。

⑤ このような人は、豊かさと便利さを追い求めて45年ほど前から急速に発展して来たわが国でも増えているのではないでしょうか。神を無視する、神なしの利己主義一辺倒の毒素が家庭や社会をますます酷く汚染しているのかも知れませんが、以前には考えられなかったような犯罪も多発しています。近年一人の若い母親が、同じ幼稚園に子供を通わせているもう一人の母親の女の子を絞め殺し、自分の家の庭に埋めたという事件がありました。その子を殺しさえすれば、もうその母親と顔を合せなくて済むという、全く短絡的利己的な気持ちから起きた事件のようです。「言葉に表せない心のぶっつかり合いが、相手の母親との間にありました」という、子供を殺した母親の言葉は、現代の多くの日本人にとって他人事ではないように思います。共に助け合って共同の困難に耐えていた時代の、温かい愛の共同体が失われ、各人がそれぞれ主体的に自力で親も社会も利用しなければならない、と思っている人たちが増えているようです。愛のないそのような冷たい個人主義時代には、神という超越的権威を受け入れ、そのお言葉に従って神の愛に生きようと努めない限り、個性的な人間同士の理解の限界、理知的な言葉の限界に苦しむことが多くなり、その悩みから逃れるための離婚や嫌がらせや殺人などは、今後もますます多くなると思われます。既に自分中心になっている心の中にとじ籠っていくら考えてみても、人間の力では解決の道が見出せません。心を神に向かって大きく開き、自分を捨てて神のお考えに従おうと立ち上がりましょう。その時、上から新たな光が心の中に差し込んで、神の愛による問題解決の道が可能になります。

⑥ 本日の福音にある譬え話の最後に、神は金持ちに「愚か者よ」と話しかけていますが、聖書には「愚かな」という形容詞と「愚か者」という名詞は非常にたくさん使われていて、それぞれ皆共通した意味を持っています。私が調べた所では、両方を合せて旧約聖書には108回、新約聖書には38回登場しています。例えば詩篇14には、「愚かな者は心の内に神はないという」とあり、マタイ福音書には「砂の上に家を建てた愚かな人」の譬え話や、五人の「愚かな乙女」の譬え話などが読まれます。これらの用例をよく吟味してみますと、「愚かな」とか「愚か者」という言葉は、頭が悪い人のことではなく、この世の利益や楽しみのためには頭の回転が早く、利にさとい人かも知れませんが、神はいない、あるいは神は見ていないと考え、神を信じ神に従おうとしている人を軽視している人、その頭にも心にもエゴが居座っているような人を指しています。そのような人間にならないようにというのが、本日の福音の一つの教訓だと思います。

⑦ もう一つ、主は本日の譬え話のすぐ前に、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と話しておられますが、ここで「命」と言われている言葉は、先程の時と同様ギリシャ語の「ゾーエー」で、あの世に行っても失われない永遠の命、神から湧き出る命を指しており、ヘブライ語の「ハイ」という言葉に対応しています。新約聖書には「生命に到る門は狭い」だの、「死から生命に移る」だの、「私に従う者は、生命の光を得る」などという言葉が多く読まれますが、これらの場合には、いつもゾーエーという言葉が使われています。しかし、日本語に「命」と訳されていても、ギリシャ語のゾーエーではなく、この世の過ぎ去る命を意味する「プシュケー」という言葉の訳であることもあります。ヘブライ語の「ネフェシュ」という言葉に対応していて、自我とか小我などと訳すこともできる言葉です。例えば「命のために何を食べようかと思い煩うな」だの、「善い牧者は羊のために命を捨てる」などという時に、このプシュケーという言葉が使われています。本日の譬え話の中で「今夜お前の命は取り上げられる」と神から宣告された金持ちの命も、ギリシャ語原文ではプシュケーとなっています。ですから、日本語では「命」と訳されていても、ある場合には永遠の神の命を、他の場合にはこの世の過ぎ去る自我の命を指していることを弁えていましょう。そして何事にも、主キリストの御功徳によって与えられた神からの愛の命、永遠に失われることのないゾーエーの命に生きるよう、日々大きな感謝と喜びのうちに心がけましょう。