2015年11月22日日曜日

説教集B2012年:2012年の王であるキリスト(三ケ日)

第1朗読 ダニエル書 7章13~14節
第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節


   いよいよ秋の暮、人生の終りやこの世の終末の時などを偲びつつ、覚悟を固めるに相応しい季節になりました。平安前期の紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則には、この世の悲哀感を慎ましやかに詠っているものが幾つもありますが、その歌の一つに「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しているのは、注目に値します。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風は、そのことを私たちの心に思い知らせるために吹くのかも知れません。私たちの心の奥底にも、そのような無色透明で孤独な「無」あるいは「空」と呼んでもよいような、小さな虚無の世界が潜んでいるのではないでしょうか。私たちが時として感ずる侘びや寂びの美しい心情は、心の底のその「無」の世界から産まれ出るのかも知れません。

   この世の仕事が思い通りに運ばずに失敗したような時や、自分の愛情が相手によく理解されずに人に捨てられたように覚える時、あるいは病気が進んで死が間近に迫って来たような時、人は心の底のその虚無を、挫折感や喪失感あるいは悲痛や恐れとして痛感させられますが、しかしそれは、私たちの心が神に生かされて生きるという人間本来の生き方を見失って自分中心に生きる時に、その心の眼に空しいものとして映る虚無であって、人間の心をそのようなものとしてお創りになった神の側に立って観れば、その「無」あるいは「空」の場こそ、愛の神が私たちの心を神の力によって浄化し、神の御旨中心の新しい生き方をさせるために働いて下さる場なのではないでしょうか。心がこの世の儚さ・侘びしさや、自分の働きや人生の空しさを痛感する時、すぐに神に心の眼を向けるように努めましょう。神はその時、私たちの心の奥底にそっと伴っておられ、私たちが心からひたすらに神に縋り、神の愛に生かされようとするのを、静かに待っておられるのですから。

   預言者ダニエルが夜に見た夢・幻の啓示である本日の第一朗読では、天の雲に乗って現われた「人の子」のようなもの (すなわち主キリスト) が、「日の老いたる者」(すなわち永遠の昔から存在しておられる神) の御前に進み出て、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と宣言されており、第二朗読では、「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」という、黙示録1章の始めを飾る挨拶の言葉が読まれます。ここで「地上の王たち」とあるのは、この世の社会の為政者たちのことではなく、主キリストを王と崇める人たち皆を指していると思います。この言葉にすぐ続いて、「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放して下さった方に、私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りがあるからです。主キリストは、神からご自身のお受けになった永遠の王権と祭司職に、罪から清められ救われた私たちをも参与させ、被造物の浄化救済に協力させて下さるのだと思います。私たちは外的この世的には真に弱く儚い存在ですが、洗礼を受けて主キリストの御命に参与し、主キリストの御体の細胞の一つとなって生きるよう召されているのですから、その意味では既に主の永遠の王権にも参与し、日々出遭うこの世の全てのものを、神の力によって神に従わせ、神へと導く王である主キリストの使命にも参与していると思います。

   しかし、主キリストの王権は、過ぎ行くこの世の社会の支配権とは次元の異なる心の世界のもの、永遠に続くあの世の超自然世界のものであります。私たちが生来持っている自然理性は、この世の自然界や人間社会での限られた体験や経験に基づいて、自然法則や何か不動の恒久的原理などを作り上げ、それを基盤にして全ての事物現象を理解したり批判したりしますが、人間理性が主導権を握っているそういう考えや原則などは、宇宙万物の創造主であられる全知全能の不可思議な神が主導権を握っておられる、永遠に続くあの世の真実の世界、いわゆる「超自然の世界」には通用しないもの、刻々と過ぎ行くこの儚い仮の世での非常に限られた狭い経験に基づいて、視野の狭い人間たちの作り上げた仮のものでしかありません。あの世の超自然界では、何よりも神の御旨に従う徹底的従順と、神の霊に照らされ導かれて、聖書も日々出逢う事物現象も正しく深く洞察する、霊魂の知性との二つが重視されていると思います。2千年前に神の御子主イエスは、その生き方を私たち人類の歴史の中で身を持ってはっきりとお示しになっています。

   87年前の19251211日に回勅”Quas primas”を発布して、「王たるキリスト」の祝日を制定なさった教皇ピオ11世は、主キリストを各人の心の王と崇めつつ、その御模範に倣って生活するのが、第一次世界大戦によってそれまで皇帝家あるいは王家として君臨していた伝統的権威が全て次々と失われ、民衆の数の力に根ざす強い者勝ちの民主主義や共産主義が世界的に広まり始め、社会的権威の下での団結心や従順心が失われつつある時代に、神から豊かな恵みを受ける道、人類社会を正しく発展させる道であると確信して、この祝日を制定なさったのだと思います。本日の福音には、裁判席のローマ総督ピラトの「お前はユダヤ人の王なのか」という質問に、主は厳かに、「私の王国は、この世のものではない。云々」と宣言なさいます。そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と尋ねますと、主は「私が王だとは、あなたが言っています」という、以前にもここで説明したことのあるあいまいな返事をなさいます。それは、ご自身が王であることを否定せずに、ただあなたが言う意味での王ではないことを示すような時に使う、特殊な言い方だったようです。その上で主は、「私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」と話されて、ご自身が真理を証しするために、あの世からこの世に来た王であることを宣言なさいます。

   ピラトにはこの言葉の意味を理解できませんでしたが、それまでの伝統的社会道徳が急速な国際貿易発展の煽りを受けて拘束力を失いかけていたキリスト時代に似て、それまでの伝統的価値観が権威も力も失ない、地震の時の液状化のようにして、労働階級から共産主義の水が湧き出した87年前頃のヨーロッパでは、権威をもって心の真理を証しするあの世の王を基盤とする新しい明るい信仰に生きることは、多くの人の心に新たな希望と生きがいを与えるものであったと思われます。事実、王であるキリストの祝日が祝われ始めた1920年代、30年代には、民間の非常に多くの欧米人が主キリストを自分の心の王として崇めつつ、各種の信仰運動を盛んにし、無宗教の共産主義に対抗する新たな社会の建設を推し進めたばかりでなく、カトリック界では、統計的に最も多くの修道者や宣教師を輩出させています。主キリストの神秘体に組み込まれ、その普遍的祭司職や王権に参与している現代の私たちキリスト者も、今の世の個人主義や自由主義の流れの中で、主のようにもっと雄々しく神の権威に従う威厳を示しながら、大胆に生き抜きましょう。


   21世紀の現代には、極度の豊かさと便利さの中で自分の心の欲情統制もできないひ弱な人間や、外から注がれるマスコミ情報に操られ、枯葉や浮き草のように、風のまにまに右へ左へと踊らされたり吹き寄せられたりしている人間が増え、いじめや家庭内不和などに悩まされ、自暴自棄になったり自殺に走ったりする人も多いようです。真に悲しいことですが、その根本原因は、心に自分の従うべき超越的権威者、あの世の王キリストを捧持していないことにあると思われます。聖母マリアは「私は主の婢です」と申して、ご自分の内に宿られた神の御子を心の主と仰ぎ、日々その主と堅く結ばれて生きるように心がけておられたと思います。ここに、救われる人類のモデル、神の恵みに生かされ導かれて、不安の渦巻く時代潮流に打ち克ち、逞しく仕合せに生き抜く秘訣があると思います。一人でも多くの人がその秘訣を体得するに至るよう、特に心の光と力の欠如に悩んでいる人々のため、王である主キリストの導きと助けの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年11月15日日曜日

説教集B2012年:2012年間第33主日(三ケ日)

第1朗読 ダニエル書 12章1~3節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章11~14、18節
福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節


   本日の第一朗読の出典であるダニエル書の最後10章から12章までは、ユダヤ人たちをバビロン捕囚から解放したペルシア王キュロスの治世第3年、即ちBC 557年に、ダニエル預言者が受けた終りの時についての長い恐ろしい幻示を伝えています。第一朗読は、その12章の始めに語られている、神の民に慰めと希望を与えるような美しい韻文であります。「その時、大天使長ミカエルが立つ」「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、云々」とある言葉から察しますと、これはこの世の終りの時の事を述べている啓示だと思います。マタイ、マルコ、ルカのどの福音書でも、主イエスは紀元70年に起こったエルサレムの滅亡について予告なされた時に、すぐ続けてこの世の終りについても予告しておられます。もしエルサレムの滅亡がこの世の終りを小型の規模で示しているモデルであるとするならば、現代世界はそろそろ世の終りの時を目前にしていると思われます。

   エルサレムの滅亡を数十年後にしていた主キリストの時代に、神の御摂理はエルサレムの都をソロモン時代の時のように、いや恐らくはそれ以上に経済的に豊かにし発展させました。ヘロデ大王がギリシャ人の天才的建設師ニカノールを招致して、BC20年からエルサレム神殿とソロモン回廊を、美しいギリシャ大理石をふんだんに使ってそれまでのどこの国にもない程に美しく建設させると、当時の世界各国から、中国・インドに出入りする国際商人たちもシルクロードを通ってエルサレムに来るようになり、エルサレムの町はその人たちの神殿献金や滞在費などで、一時的にはかつてない程に豊かになっていたと思われます。しかし同時に、民衆の宗教教育を担当していたファリサイ派の人たちは、貧しさ故に彼らの宗教教育に出席せず神殿礼拝にも参加できない貧者や羊飼いたちを、神から忌み嫌われている人々として社会的に退け、救いを必要としている病人・罪人を救おうとしておられた救い主をも、発展しつつあるユダヤ社会の将来に不幸を齎す人物として断罪していました。

   現代科学の発達で人類史上未だかつてなかった程の豊かさ・便利さの中で生活しながら、全てをこの世の人間中心の判断基準で実証主義的に評価し、全世界の創造主・所有主であられる神の御旨には少しも従おうとしていない現代人たちも、2千年前のファリサイ派の人々と同様の価値観で貧しさを軽視し、外的豊かさだけを追い求めて生活しているのではないでしょうか。その生活態度の陰には毎年非常に多くの罪が犯されて、無数の胎児が殺害されたり、盗みや詐欺事件が横行したりしています。察するに、家族や社会の共同体構成員が相互に助け合って生活していた、これまでの時代に比べると、比較にならない程数多くの犯罪が、世界的規模に広がっている現代の自由主義文明社会の中で犯されているのではないでしょうか。メシアを十字架刑にした後のユダヤ社会もエルサレム滅亡の少し前頃には、悪霊たちによると思われる新しい犯罪の多発に悩まされたようですが、世の終わり前の人類社会ではそれとは比較できない程多く、これまでの社会にないような犯罪が多発するのではないでしょうか。日々あの世の助けを願い求めつつ、神の僕・婢として苦難に堪えて正しく生き抜きましょう。そうすれば悪霊たちから護られ、第一朗読にあるように「大空の光のように輝き、多くの人の救いとなる」ことができます。

   本日の福音の中で主は、「いちじくの木から教えを学びなさい。云々」「あなた方は、これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と命じておられます。マタイ16章の始めには、「天からの徴を見せてもらいたい」と願ったファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、主が「あなた方は空模様を見分けることを知っているのに、どうして時の徴を見分けることができないのか」と詰問なされた話が記されています。そしてその後で弟子たちには、「ファリサイ派やサドカイ派の人々のパン種に警戒しなさい」と命じておられます。これらのことも一緒に心に銘記して、今の時の徴を正しく見分けるように心がけましょう。これは、主のご命令です。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、旧約聖書あるいはモーセ五書の教えは細かい所までよく知っていました。しかし、人間の言葉で書かれているその教えや掟だけに心を向けて生活し、それらを書かせた神を遠い昔にお働き下さった存在、今は遠く離れた天上からこの世を見下ろし、主の掟を忠実に守る人には恵みを、守らない人には罰をお与えになる全知全能の存在と考えていたようです。その神から派遣された神の子メシアが、父なる神と共にすぐ目の前におられるのに、神のこの現存は少しも感知していませんでした。私たちにとって一番大切な信仰の能力は、眠らせたままにしていたのでした。これが、彼らに道を誤らせてメシアを十字架刑に処し、エルサレム滅亡という恐ろしい不幸に陥れたのだと思います。


   今の私たちは、神の身近な現存に対する能力を日々磨いているでしょうか。主は、終末現象が多発し始めている現代社会に生きる私たちには特別に、「これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちが毎日目撃している自然界や隣人の内に、特に日々何らかの形で見聞きする貧しい人、助けを必要としている人の内に、主キリストの現存を信仰をもって感知し、祈りや態度でその主に奉仕する実践に努めましょう。日ごろこのような信仰実践に心がけていますと、次第に今の時を正しく見分ける魂の能力も、聖霊の働きによって磨かれて来ます。私は個人的に、悪霊の接近や働きに対する魂の予感能力も鋭くなって、神の助けを祈り求めることにより受ける災いを回避したり、削減したりすることができるのではないか、と信じています。いずれにしろ、これからの時代には小さな信仰実践を数多く繰り返すことによって、あの世の神との魂の絆を太くし強めることが、何よりも大切だと思います。

2015年11月8日日曜日

説教集B2012年:2012年間第32主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 17章10~16節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節
福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節

   本日の第一朗読の出典である列王記は、ダビデ王の晩年からバビロニアに滅ぼされたユダ王国の最後の王までの出来事を扱っていますが、そこには預言者ナタンをはじめ、エリヤ、エリシャなどの優れた預言者たちの活躍も多く扱われていますので、聖書の中では前期預言書の部類に入れられています。本日の朗読箇所である列王記上の17章は、シドン人の王女イゼベルを妻に迎えた北イスラエルのアハブ王が、サマリアにバアルの神殿を建設して異国の神々に仕えるようになったので、お怒りになった主なる神がエリヤを介して、アハブ王に「数年の間、露も降りず雨も降らないであろう」と天罰を告げるところから始まっています。そして主はエリヤに、「ここを去って東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私は烏たちに命じて、そこであなたを養わせる」とお命じになりました。そのケリト川がどこにあったのか、今日では分からないそうですが、察するに、人里から遠く離れた山奥の小さな谷川であったかも知れません。

   国王や世間の人々の目を逃れて身を隠すには絶好の隠れ場でしょうが、しかしこれから干ばつが始まり、農作物も木々も実を結ばなくなるというのに、食物の蓄えが全くないそんな所で生きて行けるのでしょうか。エリヤの心は不安を覚えたと思います。しかし、全能の主に対する信仰と従順の故に、その不安を主に委ねてそこに身を隠しました。すると不思議な事に、その隠れ家に数羽の烏が朝晩パンと肉を運んで来ました。エリヤはそれを食べ、その川の水を飲んで生活していました。しかし、しばらくするとその川の水も涸れてしまいました。雨がヨルダンの東の地方にも全然降らなくなったからでした。すると主の御言葉がエリヤに臨み、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と命じました。そのお言葉の続きが、本日の第一朗読であります。エリヤは立ってサレプタに行きました。アハブ王の罪故に下された天罰、大干ばつは、アハブ王の支配下でない隣国のフェニキア地方にまで及んでいたようで、そこでも人々は干ばつによる食糧不足に苦しんでいました。

   やもめは、聖書の中では孤児や寄留者と共に貧しい人、弱い人の代表のようにされています。聖書の時代には、女性の社会的権利が低く抑えられていましたので、男性の保護を欠くやもめたちは、一般に財産の蓄えもなく、貧困と戦いながら生活を営むことが多かったと思われます。社会全体が飢饉に苦しむような時には、その苦しみは極度に達したと思います。そのようなやもめの一人に預言者エリヤは派遣されました。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません」という返事から察しますと、聖書の教えやおきてのことは何も知らなくても、彼女は世界万物の創り主であられる神の存在や働きに対する信仰は持っていたと思います。その彼女が全てをエリヤの言葉通りに為しますと、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も」食物に事欠くことがなくなりました。主の御言葉に完全に従いつつ生きる預言者を通して、全能の神が貧しい人たちの所でこのような大きな奇跡をなさったからだと思います。現代においても同じ神は、信仰と博愛の内に敬虔に生きる貧しい人、弱い人たちを特別にお心にかけて、助け導いて下さると信じます。その神の愛と憐れみに感謝しながら、私たちも現代の貧しい人、弱い人たちのため、希望をもって神に助けと導きを願い求めるよう心がけましょう。

   ご存じのように、今年は107日から28日までバチカンで、「新しい福音宣教」をテーマに第13回通常シノドス(世界代表司教会議)が開催され、26日に「神の民へのメッセージ」を採択し、28日に閉会ミサを挙行しました。3週間にわたるこのシノドスには、260人以上の司教や修道会・宣教会総長らが出席し、公式オブザーバーや学識経験者たちも数十人参加したと聞いています。カトリック教会が世俗化の進む現代社会に信仰を広めるため、また教会の再活性化のために、深刻な危機感を抱えながら討議したシノドスであったと思います。26日に採択された「神の民へのメッセージ」は、イタリア語をはじめ五カ国語で読み上げられ、参加司教たちの拍手で迎えられたそうですが、その要旨はバチカン放送によって全世界に伝えられています。その中で、神の民がヨハネ福音書に登場する「サマリアの女」に譬えられ、「イエスに出遭う者は救いと希望の知らせの証し人とならざるを得ない。しかしながら、福音を告げるには、自分自身が福音化され、回心していることが大切である。云々」と述べられていることは、私の注目を引きました。教皇は今年1021日「世界宣教の日」のメッセージの後半でも、ヤコブの井戸で主キリストに遭い、話し合ったサマリアの女についてかなり詳しく考察しておられるからです。

   本日の朗読に登場する異邦人の町サレプタに住む貧しいやもめも、ヨハネ福音書に登場するこのサマリアの女も、キリスト教信仰の教理については殆ど何も知らない無学な女であったと思われます。しかし、ユダヤ人の信ずる全世界の創り主であられる神については多少なりとも聞き知っていて、その存在と力を信じていたのではないでしょうか。その神が預言者を介してお語りになり、苦しむ人々を助け導かれることも聞き知っていたと思われます。彼女たちはこの信仰を心の奥底に保持し、神の導きや働きに対する心の感覚を失わずにいたために、預言者エリアに、あるいは主キリストに出遭った時、この人は「神よりの人」と受け止め、その命令に従おう、あるいはその人の所に町の人々を呼び集めようと動いたのではないでしょうか。身近な現実世界の中で働かれる神に対する、このような信仰と従順のセンスが、全てを人間理性で合理的に説明しよう、その理性中心に世界を発展させようとしている現代世界の人々に、一番欠けている大切な心がけなのではないでしょうか。この世の知識人たちは、人間理性による聖書解釈や実証主義的現実理解などを何よりも重視していて、長年のその生き方を通して各人の心に形成された、一種の合理主義的原則に基づき全てを判断し勝ちですが、この世の社会で幸せに生活するためにはそれで良いとしても、今の教皇は、一年前にドイツの国賓として招かれてドイツの国会議事堂で話をなさった時、現代人が日々の生活を通して身につけているその実証主義的理性は、宗教とは全く関係ないものと言明しておられます。あの世の神秘な神からの呼びかけや招きを受け止めて、永遠に続くあの世の人生に通用する実を結ぶには、各人の魂の奥に神から与えられているもう一つの知性的能力を、目覚めさせる必要があるのだと思います。神の導きや働きを感知してそれに従おうとする魂の愛の能力を磨き、道を求めて悩む現代人の間にその生き方を広めるのが、今私たちの祝っている「信仰年」の、一つの大切な目的なのではないでしょうか。頭の知識や生活のノーハウだけを重視する、人間中心のこの世的価値観や生き方に、信仰生活や修道生活まで汚染されないよう気をつけましょう。神の御旨中心主義の己を無にした神の僕・神の婢としての信仰感覚と生き方が、「信仰年」に当たって私たちが体得するよう神から求められている心の能力であり、生き方であると信じます。


   長年の現代文明生活の中で全てを人間中心に巧みに利用することに慣れた私たちにとり、己を無にして神の御旨に徹底的に従うことがいかに難しいかは理解できますが、その難しさを復活の主キリストの現存信仰と、聖母マリアの取次によって謙虚に乗り切るように努めましょう。あの世の命に復活し、神のような存在になられた主と聖母は、いつも私たちの身近に現存し、神と共に全てを観ておられます。日々信仰の内に、その主と聖母マリアと共に生活するよう心がけましょう。主は本日の福音の中で「律法学者に気をつけなさい」「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と警告しておられます。神の神秘な導きや働きに対する魂の感覚を眠らせたままにしている、ファリサイ派のパン種には警戒しましょう。それは、私たちの心の中にもたくさん蒔かれています。主は本日の福音の後半に、神殿のさい銭箱にレプトン銅貨2枚を入れた貧しいやもめを、「この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れた」と言って賞賛なさいました。私たちも隠れた所から観ておられるこの主の現存を信じつつ、主に喜ばれるように日々の生活を営むよう、決心を新たにして本日のミサを捧げましょう。

2015年11月1日日曜日

説教集B2012年:2012年間第31主日(三ケ日)

第1朗読 ヨハネの黙示録 7章2~4、9~14節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~3節
福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節

   本日の第一朗読は、モーセがヨルダン川の東で「乳と蜜の流れる土地」と言われた、神からの約束の地、豊かな国土を目の前にして、イスラエルの民に語った言葉であります。モーセは自分がその土地に入ることができず、モアブの国で遠くからその土地を眺めながら、間もなく死ぬ事を知っていましたので、この言葉を遺言のようにして語ったのだと思います。「イスラエルよ、あなたの神、主を畏れ、私の命じる全ての掟と戒めを守るなら」、「よく聞いて忠実に行う」なら、「あなたは幸いを得て」「長く生きる」、「神・主が約束なされた通り、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」というのが、モーセの話の要旨だと思います。モーセがまず神・主を畏れること、次いで神からの掟と戒めを守ること、そしてよく聞いて忠実に行うことの三つを強調していることは、現代に生きる私たちにとっても大切だと思います。物資や知識や技術が豊かに揃ろっている文明社会に生きる現代人の多くは、子供の時から、何でも自分の望みのままに利用しながら生きようとする生活様式に慣らされていますので、大人になっても、全てを自分中心に考え、自分の望みのまま、好みのままに生きようとし勝ちですが、イスラエルの民を率いて砂漠で40年間も神による心の目覚めと修練を体験させられて来たモーセが、ここで教えている「長く幸せに生きる」ための三つの心がけは、換言すれば、神の御旨中心に神の僕・婢として生きること、と申してもよいと思います。数々の対立抗争や行き詰まりに悩む現代社会の中で幸せに生活する秘訣も、神の御旨中心に神の僕・婢として生きることにある、と言ってよいのではないでしょうか。そのような生き方をなす人の中では、全能の神が主となり、主導権をとって自由にお働き下さるからです。神ご自身が私たちを道具としてお使いになり、各種の対立を解消したり、行き詰まりを打開したりして下さるからです。

   モーセは最後に、これまでに命じた全ての掟と戒めを一言に要約して、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と命じています。神に対する全身全霊をあげての愛は、今の私たちには実際上まだ不可能に近いくらい難しいと思われますが、これから世界の終末的様相が深刻化して、日々生きるのがやっとと思われる程の窮乏を体験するようになりましたら、私たち各人の奥底の心が生きるため真剣になりますから、その時にこの命令を想起するよう今から心に銘記していましょう。使徒ヨハネの第一書簡には、「反キリスト」という言葉が4回、「悪魔」という言葉がそれより少し多く登場していますが、「終りの時」にはキリストに反対する「反キリスト」が大勢現れるように記されています。近年マスコミを賑わせている事件の中には、悪霊に執りつかれて衝動的に犯してしまったと思われるものや、悪魔が教えたと思われるような全く新しいやり方や手段が少なくないように見えますが、如何なものでしょうか。これからの社会には、エルサレム滅亡直前頃のユダヤ社会のように、人々の想定を超える思わぬ殺人行為や不詳事件が多発するかも知れません。悪霊が市民の心に執りついて暴れるのなら、人力ではいくら警戒し気をつけていても、災害は避け得ません。人の力に頼ってではなく、何よりも祈りつつあの世の力に助け導かれて生活するように心掛けましょう。

   前教皇福者ヨハネ・パウロ2世は来日した二カ月半ほど後の1981513日に、ヴァチカン広場で狙撃されて危ふくお命を取り留めた直後に、開封させてご自身でお読みになり、2000626日に公開させた「ファティマの第三の秘密」という文書をご存じでしょうか。子供の時、19177月にポルトガルのファティマで聖母から明かされた幻示の第三部を、シスター・ルチアが聖母と司教を通して伝えられた神の命令に従って記した、短い将来予告ですが、それによりますと、天使が右手で地を指しながら、大声で「悔い改め、悔い改め、悔い改め」と叫んだ後、教皇・司教・司祭・修道士・修道女たち、そして大勢の信徒たちが、頂上に大きな十字架が立っている山に登り始め、次々と殉教するという場面の幻示が、ファティマの牧童たちに与えられたようです。将来に対する大きな不安を人々に与えないためでしょうか、教皇庁はこの公開と同時に、ここに示されている事柄は全てこの20世紀に世界各地で発生した過去の出来事の啓示である、と解説しました。しかし私は、ますます多くの悪霊たちが働き始めるこれからの時代にも、信仰に生きる人たちの内的戦いと殉教は、世界的な規模で発生するであろう、と受け止めています。今私たちの祝っている「信仰年」は、そのために各人の信仰心を実践的に堅めるようにと、神がその御摂理によってお与えになった信仰の鍛錬期間なのではないでしょうか。

   少なくとも私はそのように受け止め、この信仰年においては特に小さな清貧の実践に心がけています。現代文明の世界に生まれ育った日本人たちは、水や食料や電力やその他のエネルギーを贅沢に浪費しています。現代の日本にはそれらが川の流れのように、有り余る程豊かに提供されていて、細かく気を使って節約してみても、大きく存分に利用してみても、金銭的にはあまり違いません。しかし、地球上の他の国々では日本の総人口の十数倍も多くの人たちが、国土が砂漠化したり、難民生活をさせられたり、経済事情が深刻化したりしていて、水不足・食料不足・電力不足などに苦しんいます。私たちは福者マザー・テレサや国際的慈善活動者たちのように、その人たちの生活を助けることができませんが、せめてその人たちとの内的連帯精神の内に、自分の全く個人的な水や電力の使用を節約することはできます。共同生活を営んでいる私は、廊下やその他共同の生活領域では皆の生き方に合わせていますが、個室では数十年前から小さな節水・節電に心がけ、その実践を全て神に祈りとして貧窮者たちのために捧げています。神に清貧の誓願を宣立した修道者なのですから。神はこのような小さな実践に特別に関心をお持ちのようで、私のこれ迄の人生を回顧しますと、私は神に特別に愛され守られ導かれているように実感しています。これからの終末時代に日本社会がどれ程不安なものに変わるか知りませんが、私はこれ迄の人生で神から数多くの体験を通して教わった通り、小さな愛と清貧と従順に心がけつつ、神の僕として生きたいと願っています。


   本日の福音では、主が一人の律法学者の質問に答え、神に対する愛を第一の掟、隣人愛を第二の掟として、「この二つにまさる掟はない」と話しておられますが、その律法学者がそのお言葉に賛意を表すると、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。しかしこの二つの掟は、既に申命記やレビ記に述べられている旧約時代からの古い掟であって、主が最後の晩餐の席でお与えになった「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ14: 34)という、新約時代のための新しい掟ではありません。でも、この古い掟を誠実に守る人は、主キリストが身を持ってお示しになった新しい掟を守る人に近い生き方を為すと思います。それで主は、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃったのだと思います。ところで主は別の所で弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に警戒しなさい」(ルカ12: 1)と警告しておられます。ファリサイ派は掟の言葉だけを重視し、その掟の人間理性による理解を中心にして掟を順守しようとしているからだと思います。これでは欠点の多い人間の聖書解釈を中心に据え、それに従っているだけで、神の御旨に従うのとは違うことが少なくないと思われます。そこで、人間理性では知り得ない、その時その時の神秘な神の御旨に従うことのみを第一にしておられた主は、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と、新しい愛の掟を弟子たちにお与えになったのではないでしょうか。「信仰年」に当たりこの違いもしっかりと心に刻んで、主や聖母のように神の僕・神の婢として何事にも神に心の眼を向け、その時その時の神のお望み・神の御旨に従って生きるよう心がけましょう。それが、私たちの受け継いだ信仰を心の奥底にしっかりと根付かせ、悪霊の働きが激しくなると思われるこれからの終末時代に、あの世からの導き・助けを豊かに受けて、幸せにまた逞しく生き抜く生き方だと信じます。使徒ヤコブは行いのない信仰を「死んでいる信仰」と称していますが、多くの小さな行いによって心の奥底に信仰を根付かせないと、ただ信仰を持っている、信仰の真理を正しく理解し信じているというだけの信仰では、道端に落ちた神の命の種のようなもので、いつまでも実を結べないだけではなく、これからの終末時代にはそれを狙っている空の鳥、悪魔をおびき寄せ、大きな不幸を招くことになるかも知れません。「信仰年」にはそのことも考慮して、恐れの内に受け継いだ信仰を心の奥にしっかりと根付かせることに励みましょう。