2015年11月22日日曜日

説教集B2012年:2012年の王であるキリスト(三ケ日)

第1朗読 ダニエル書 7章13~14節
第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節


   いよいよ秋の暮、人生の終りやこの世の終末の時などを偲びつつ、覚悟を固めるに相応しい季節になりました。平安前期の紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則には、この世の悲哀感を慎ましやかに詠っているものが幾つもありますが、その歌の一つに「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しているのは、注目に値します。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風は、そのことを私たちの心に思い知らせるために吹くのかも知れません。私たちの心の奥底にも、そのような無色透明で孤独な「無」あるいは「空」と呼んでもよいような、小さな虚無の世界が潜んでいるのではないでしょうか。私たちが時として感ずる侘びや寂びの美しい心情は、心の底のその「無」の世界から産まれ出るのかも知れません。

   この世の仕事が思い通りに運ばずに失敗したような時や、自分の愛情が相手によく理解されずに人に捨てられたように覚える時、あるいは病気が進んで死が間近に迫って来たような時、人は心の底のその虚無を、挫折感や喪失感あるいは悲痛や恐れとして痛感させられますが、しかしそれは、私たちの心が神に生かされて生きるという人間本来の生き方を見失って自分中心に生きる時に、その心の眼に空しいものとして映る虚無であって、人間の心をそのようなものとしてお創りになった神の側に立って観れば、その「無」あるいは「空」の場こそ、愛の神が私たちの心を神の力によって浄化し、神の御旨中心の新しい生き方をさせるために働いて下さる場なのではないでしょうか。心がこの世の儚さ・侘びしさや、自分の働きや人生の空しさを痛感する時、すぐに神に心の眼を向けるように努めましょう。神はその時、私たちの心の奥底にそっと伴っておられ、私たちが心からひたすらに神に縋り、神の愛に生かされようとするのを、静かに待っておられるのですから。

   預言者ダニエルが夜に見た夢・幻の啓示である本日の第一朗読では、天の雲に乗って現われた「人の子」のようなもの (すなわち主キリスト) が、「日の老いたる者」(すなわち永遠の昔から存在しておられる神) の御前に進み出て、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と宣言されており、第二朗読では、「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」という、黙示録1章の始めを飾る挨拶の言葉が読まれます。ここで「地上の王たち」とあるのは、この世の社会の為政者たちのことではなく、主キリストを王と崇める人たち皆を指していると思います。この言葉にすぐ続いて、「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放して下さった方に、私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りがあるからです。主キリストは、神からご自身のお受けになった永遠の王権と祭司職に、罪から清められ救われた私たちをも参与させ、被造物の浄化救済に協力させて下さるのだと思います。私たちは外的この世的には真に弱く儚い存在ですが、洗礼を受けて主キリストの御命に参与し、主キリストの御体の細胞の一つとなって生きるよう召されているのですから、その意味では既に主の永遠の王権にも参与し、日々出遭うこの世の全てのものを、神の力によって神に従わせ、神へと導く王である主キリストの使命にも参与していると思います。

   しかし、主キリストの王権は、過ぎ行くこの世の社会の支配権とは次元の異なる心の世界のもの、永遠に続くあの世の超自然世界のものであります。私たちが生来持っている自然理性は、この世の自然界や人間社会での限られた体験や経験に基づいて、自然法則や何か不動の恒久的原理などを作り上げ、それを基盤にして全ての事物現象を理解したり批判したりしますが、人間理性が主導権を握っているそういう考えや原則などは、宇宙万物の創造主であられる全知全能の不可思議な神が主導権を握っておられる、永遠に続くあの世の真実の世界、いわゆる「超自然の世界」には通用しないもの、刻々と過ぎ行くこの儚い仮の世での非常に限られた狭い経験に基づいて、視野の狭い人間たちの作り上げた仮のものでしかありません。あの世の超自然界では、何よりも神の御旨に従う徹底的従順と、神の霊に照らされ導かれて、聖書も日々出逢う事物現象も正しく深く洞察する、霊魂の知性との二つが重視されていると思います。2千年前に神の御子主イエスは、その生き方を私たち人類の歴史の中で身を持ってはっきりとお示しになっています。

   87年前の19251211日に回勅”Quas primas”を発布して、「王たるキリスト」の祝日を制定なさった教皇ピオ11世は、主キリストを各人の心の王と崇めつつ、その御模範に倣って生活するのが、第一次世界大戦によってそれまで皇帝家あるいは王家として君臨していた伝統的権威が全て次々と失われ、民衆の数の力に根ざす強い者勝ちの民主主義や共産主義が世界的に広まり始め、社会的権威の下での団結心や従順心が失われつつある時代に、神から豊かな恵みを受ける道、人類社会を正しく発展させる道であると確信して、この祝日を制定なさったのだと思います。本日の福音には、裁判席のローマ総督ピラトの「お前はユダヤ人の王なのか」という質問に、主は厳かに、「私の王国は、この世のものではない。云々」と宣言なさいます。そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と尋ねますと、主は「私が王だとは、あなたが言っています」という、以前にもここで説明したことのあるあいまいな返事をなさいます。それは、ご自身が王であることを否定せずに、ただあなたが言う意味での王ではないことを示すような時に使う、特殊な言い方だったようです。その上で主は、「私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」と話されて、ご自身が真理を証しするために、あの世からこの世に来た王であることを宣言なさいます。

   ピラトにはこの言葉の意味を理解できませんでしたが、それまでの伝統的社会道徳が急速な国際貿易発展の煽りを受けて拘束力を失いかけていたキリスト時代に似て、それまでの伝統的価値観が権威も力も失ない、地震の時の液状化のようにして、労働階級から共産主義の水が湧き出した87年前頃のヨーロッパでは、権威をもって心の真理を証しするあの世の王を基盤とする新しい明るい信仰に生きることは、多くの人の心に新たな希望と生きがいを与えるものであったと思われます。事実、王であるキリストの祝日が祝われ始めた1920年代、30年代には、民間の非常に多くの欧米人が主キリストを自分の心の王として崇めつつ、各種の信仰運動を盛んにし、無宗教の共産主義に対抗する新たな社会の建設を推し進めたばかりでなく、カトリック界では、統計的に最も多くの修道者や宣教師を輩出させています。主キリストの神秘体に組み込まれ、その普遍的祭司職や王権に参与している現代の私たちキリスト者も、今の世の個人主義や自由主義の流れの中で、主のようにもっと雄々しく神の権威に従う威厳を示しながら、大胆に生き抜きましょう。


   21世紀の現代には、極度の豊かさと便利さの中で自分の心の欲情統制もできないひ弱な人間や、外から注がれるマスコミ情報に操られ、枯葉や浮き草のように、風のまにまに右へ左へと踊らされたり吹き寄せられたりしている人間が増え、いじめや家庭内不和などに悩まされ、自暴自棄になったり自殺に走ったりする人も多いようです。真に悲しいことですが、その根本原因は、心に自分の従うべき超越的権威者、あの世の王キリストを捧持していないことにあると思われます。聖母マリアは「私は主の婢です」と申して、ご自分の内に宿られた神の御子を心の主と仰ぎ、日々その主と堅く結ばれて生きるように心がけておられたと思います。ここに、救われる人類のモデル、神の恵みに生かされ導かれて、不安の渦巻く時代潮流に打ち克ち、逞しく仕合せに生き抜く秘訣があると思います。一人でも多くの人がその秘訣を体得するに至るよう、特に心の光と力の欠如に悩んでいる人々のため、王である主キリストの導きと助けの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。