2015年11月8日日曜日

説教集B2012年:2012年間第32主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 17章10~16節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節
福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節

   本日の第一朗読の出典である列王記は、ダビデ王の晩年からバビロニアに滅ぼされたユダ王国の最後の王までの出来事を扱っていますが、そこには預言者ナタンをはじめ、エリヤ、エリシャなどの優れた預言者たちの活躍も多く扱われていますので、聖書の中では前期預言書の部類に入れられています。本日の朗読箇所である列王記上の17章は、シドン人の王女イゼベルを妻に迎えた北イスラエルのアハブ王が、サマリアにバアルの神殿を建設して異国の神々に仕えるようになったので、お怒りになった主なる神がエリヤを介して、アハブ王に「数年の間、露も降りず雨も降らないであろう」と天罰を告げるところから始まっています。そして主はエリヤに、「ここを去って東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私は烏たちに命じて、そこであなたを養わせる」とお命じになりました。そのケリト川がどこにあったのか、今日では分からないそうですが、察するに、人里から遠く離れた山奥の小さな谷川であったかも知れません。

   国王や世間の人々の目を逃れて身を隠すには絶好の隠れ場でしょうが、しかしこれから干ばつが始まり、農作物も木々も実を結ばなくなるというのに、食物の蓄えが全くないそんな所で生きて行けるのでしょうか。エリヤの心は不安を覚えたと思います。しかし、全能の主に対する信仰と従順の故に、その不安を主に委ねてそこに身を隠しました。すると不思議な事に、その隠れ家に数羽の烏が朝晩パンと肉を運んで来ました。エリヤはそれを食べ、その川の水を飲んで生活していました。しかし、しばらくするとその川の水も涸れてしまいました。雨がヨルダンの東の地方にも全然降らなくなったからでした。すると主の御言葉がエリヤに臨み、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と命じました。そのお言葉の続きが、本日の第一朗読であります。エリヤは立ってサレプタに行きました。アハブ王の罪故に下された天罰、大干ばつは、アハブ王の支配下でない隣国のフェニキア地方にまで及んでいたようで、そこでも人々は干ばつによる食糧不足に苦しんでいました。

   やもめは、聖書の中では孤児や寄留者と共に貧しい人、弱い人の代表のようにされています。聖書の時代には、女性の社会的権利が低く抑えられていましたので、男性の保護を欠くやもめたちは、一般に財産の蓄えもなく、貧困と戦いながら生活を営むことが多かったと思われます。社会全体が飢饉に苦しむような時には、その苦しみは極度に達したと思います。そのようなやもめの一人に預言者エリヤは派遣されました。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません」という返事から察しますと、聖書の教えやおきてのことは何も知らなくても、彼女は世界万物の創り主であられる神の存在や働きに対する信仰は持っていたと思います。その彼女が全てをエリヤの言葉通りに為しますと、「彼女もエリヤも、彼女の家の者も」食物に事欠くことがなくなりました。主の御言葉に完全に従いつつ生きる預言者を通して、全能の神が貧しい人たちの所でこのような大きな奇跡をなさったからだと思います。現代においても同じ神は、信仰と博愛の内に敬虔に生きる貧しい人、弱い人たちを特別にお心にかけて、助け導いて下さると信じます。その神の愛と憐れみに感謝しながら、私たちも現代の貧しい人、弱い人たちのため、希望をもって神に助けと導きを願い求めるよう心がけましょう。

   ご存じのように、今年は107日から28日までバチカンで、「新しい福音宣教」をテーマに第13回通常シノドス(世界代表司教会議)が開催され、26日に「神の民へのメッセージ」を採択し、28日に閉会ミサを挙行しました。3週間にわたるこのシノドスには、260人以上の司教や修道会・宣教会総長らが出席し、公式オブザーバーや学識経験者たちも数十人参加したと聞いています。カトリック教会が世俗化の進む現代社会に信仰を広めるため、また教会の再活性化のために、深刻な危機感を抱えながら討議したシノドスであったと思います。26日に採択された「神の民へのメッセージ」は、イタリア語をはじめ五カ国語で読み上げられ、参加司教たちの拍手で迎えられたそうですが、その要旨はバチカン放送によって全世界に伝えられています。その中で、神の民がヨハネ福音書に登場する「サマリアの女」に譬えられ、「イエスに出遭う者は救いと希望の知らせの証し人とならざるを得ない。しかしながら、福音を告げるには、自分自身が福音化され、回心していることが大切である。云々」と述べられていることは、私の注目を引きました。教皇は今年1021日「世界宣教の日」のメッセージの後半でも、ヤコブの井戸で主キリストに遭い、話し合ったサマリアの女についてかなり詳しく考察しておられるからです。

   本日の朗読に登場する異邦人の町サレプタに住む貧しいやもめも、ヨハネ福音書に登場するこのサマリアの女も、キリスト教信仰の教理については殆ど何も知らない無学な女であったと思われます。しかし、ユダヤ人の信ずる全世界の創り主であられる神については多少なりとも聞き知っていて、その存在と力を信じていたのではないでしょうか。その神が預言者を介してお語りになり、苦しむ人々を助け導かれることも聞き知っていたと思われます。彼女たちはこの信仰を心の奥底に保持し、神の導きや働きに対する心の感覚を失わずにいたために、預言者エリアに、あるいは主キリストに出遭った時、この人は「神よりの人」と受け止め、その命令に従おう、あるいはその人の所に町の人々を呼び集めようと動いたのではないでしょうか。身近な現実世界の中で働かれる神に対する、このような信仰と従順のセンスが、全てを人間理性で合理的に説明しよう、その理性中心に世界を発展させようとしている現代世界の人々に、一番欠けている大切な心がけなのではないでしょうか。この世の知識人たちは、人間理性による聖書解釈や実証主義的現実理解などを何よりも重視していて、長年のその生き方を通して各人の心に形成された、一種の合理主義的原則に基づき全てを判断し勝ちですが、この世の社会で幸せに生活するためにはそれで良いとしても、今の教皇は、一年前にドイツの国賓として招かれてドイツの国会議事堂で話をなさった時、現代人が日々の生活を通して身につけているその実証主義的理性は、宗教とは全く関係ないものと言明しておられます。あの世の神秘な神からの呼びかけや招きを受け止めて、永遠に続くあの世の人生に通用する実を結ぶには、各人の魂の奥に神から与えられているもう一つの知性的能力を、目覚めさせる必要があるのだと思います。神の導きや働きを感知してそれに従おうとする魂の愛の能力を磨き、道を求めて悩む現代人の間にその生き方を広めるのが、今私たちの祝っている「信仰年」の、一つの大切な目的なのではないでしょうか。頭の知識や生活のノーハウだけを重視する、人間中心のこの世的価値観や生き方に、信仰生活や修道生活まで汚染されないよう気をつけましょう。神の御旨中心主義の己を無にした神の僕・神の婢としての信仰感覚と生き方が、「信仰年」に当たって私たちが体得するよう神から求められている心の能力であり、生き方であると信じます。


   長年の現代文明生活の中で全てを人間中心に巧みに利用することに慣れた私たちにとり、己を無にして神の御旨に徹底的に従うことがいかに難しいかは理解できますが、その難しさを復活の主キリストの現存信仰と、聖母マリアの取次によって謙虚に乗り切るように努めましょう。あの世の命に復活し、神のような存在になられた主と聖母は、いつも私たちの身近に現存し、神と共に全てを観ておられます。日々信仰の内に、その主と聖母マリアと共に生活するよう心がけましょう。主は本日の福音の中で「律法学者に気をつけなさい」「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と警告しておられます。神の神秘な導きや働きに対する魂の感覚を眠らせたままにしている、ファリサイ派のパン種には警戒しましょう。それは、私たちの心の中にもたくさん蒔かれています。主は本日の福音の後半に、神殿のさい銭箱にレプトン銅貨2枚を入れた貧しいやもめを、「この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れた」と言って賞賛なさいました。私たちも隠れた所から観ておられるこの主の現存を信じつつ、主に喜ばれるように日々の生活を営むよう、決心を新たにして本日のミサを捧げましょう。