2015年11月1日日曜日

説教集B2012年:2012年間第31主日(三ケ日)

第1朗読 ヨハネの黙示録 7章2~4、9~14節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~3節
福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節

   本日の第一朗読は、モーセがヨルダン川の東で「乳と蜜の流れる土地」と言われた、神からの約束の地、豊かな国土を目の前にして、イスラエルの民に語った言葉であります。モーセは自分がその土地に入ることができず、モアブの国で遠くからその土地を眺めながら、間もなく死ぬ事を知っていましたので、この言葉を遺言のようにして語ったのだと思います。「イスラエルよ、あなたの神、主を畏れ、私の命じる全ての掟と戒めを守るなら」、「よく聞いて忠実に行う」なら、「あなたは幸いを得て」「長く生きる」、「神・主が約束なされた通り、乳と蜜の流れる土地で大いに増える」というのが、モーセの話の要旨だと思います。モーセがまず神・主を畏れること、次いで神からの掟と戒めを守ること、そしてよく聞いて忠実に行うことの三つを強調していることは、現代に生きる私たちにとっても大切だと思います。物資や知識や技術が豊かに揃ろっている文明社会に生きる現代人の多くは、子供の時から、何でも自分の望みのままに利用しながら生きようとする生活様式に慣らされていますので、大人になっても、全てを自分中心に考え、自分の望みのまま、好みのままに生きようとし勝ちですが、イスラエルの民を率いて砂漠で40年間も神による心の目覚めと修練を体験させられて来たモーセが、ここで教えている「長く幸せに生きる」ための三つの心がけは、換言すれば、神の御旨中心に神の僕・婢として生きること、と申してもよいと思います。数々の対立抗争や行き詰まりに悩む現代社会の中で幸せに生活する秘訣も、神の御旨中心に神の僕・婢として生きることにある、と言ってよいのではないでしょうか。そのような生き方をなす人の中では、全能の神が主となり、主導権をとって自由にお働き下さるからです。神ご自身が私たちを道具としてお使いになり、各種の対立を解消したり、行き詰まりを打開したりして下さるからです。

   モーセは最後に、これまでに命じた全ての掟と戒めを一言に要約して、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と命じています。神に対する全身全霊をあげての愛は、今の私たちには実際上まだ不可能に近いくらい難しいと思われますが、これから世界の終末的様相が深刻化して、日々生きるのがやっとと思われる程の窮乏を体験するようになりましたら、私たち各人の奥底の心が生きるため真剣になりますから、その時にこの命令を想起するよう今から心に銘記していましょう。使徒ヨハネの第一書簡には、「反キリスト」という言葉が4回、「悪魔」という言葉がそれより少し多く登場していますが、「終りの時」にはキリストに反対する「反キリスト」が大勢現れるように記されています。近年マスコミを賑わせている事件の中には、悪霊に執りつかれて衝動的に犯してしまったと思われるものや、悪魔が教えたと思われるような全く新しいやり方や手段が少なくないように見えますが、如何なものでしょうか。これからの社会には、エルサレム滅亡直前頃のユダヤ社会のように、人々の想定を超える思わぬ殺人行為や不詳事件が多発するかも知れません。悪霊が市民の心に執りついて暴れるのなら、人力ではいくら警戒し気をつけていても、災害は避け得ません。人の力に頼ってではなく、何よりも祈りつつあの世の力に助け導かれて生活するように心掛けましょう。

   前教皇福者ヨハネ・パウロ2世は来日した二カ月半ほど後の1981513日に、ヴァチカン広場で狙撃されて危ふくお命を取り留めた直後に、開封させてご自身でお読みになり、2000626日に公開させた「ファティマの第三の秘密」という文書をご存じでしょうか。子供の時、19177月にポルトガルのファティマで聖母から明かされた幻示の第三部を、シスター・ルチアが聖母と司教を通して伝えられた神の命令に従って記した、短い将来予告ですが、それによりますと、天使が右手で地を指しながら、大声で「悔い改め、悔い改め、悔い改め」と叫んだ後、教皇・司教・司祭・修道士・修道女たち、そして大勢の信徒たちが、頂上に大きな十字架が立っている山に登り始め、次々と殉教するという場面の幻示が、ファティマの牧童たちに与えられたようです。将来に対する大きな不安を人々に与えないためでしょうか、教皇庁はこの公開と同時に、ここに示されている事柄は全てこの20世紀に世界各地で発生した過去の出来事の啓示である、と解説しました。しかし私は、ますます多くの悪霊たちが働き始めるこれからの時代にも、信仰に生きる人たちの内的戦いと殉教は、世界的な規模で発生するであろう、と受け止めています。今私たちの祝っている「信仰年」は、そのために各人の信仰心を実践的に堅めるようにと、神がその御摂理によってお与えになった信仰の鍛錬期間なのではないでしょうか。

   少なくとも私はそのように受け止め、この信仰年においては特に小さな清貧の実践に心がけています。現代文明の世界に生まれ育った日本人たちは、水や食料や電力やその他のエネルギーを贅沢に浪費しています。現代の日本にはそれらが川の流れのように、有り余る程豊かに提供されていて、細かく気を使って節約してみても、大きく存分に利用してみても、金銭的にはあまり違いません。しかし、地球上の他の国々では日本の総人口の十数倍も多くの人たちが、国土が砂漠化したり、難民生活をさせられたり、経済事情が深刻化したりしていて、水不足・食料不足・電力不足などに苦しんいます。私たちは福者マザー・テレサや国際的慈善活動者たちのように、その人たちの生活を助けることができませんが、せめてその人たちとの内的連帯精神の内に、自分の全く個人的な水や電力の使用を節約することはできます。共同生活を営んでいる私は、廊下やその他共同の生活領域では皆の生き方に合わせていますが、個室では数十年前から小さな節水・節電に心がけ、その実践を全て神に祈りとして貧窮者たちのために捧げています。神に清貧の誓願を宣立した修道者なのですから。神はこのような小さな実践に特別に関心をお持ちのようで、私のこれ迄の人生を回顧しますと、私は神に特別に愛され守られ導かれているように実感しています。これからの終末時代に日本社会がどれ程不安なものに変わるか知りませんが、私はこれ迄の人生で神から数多くの体験を通して教わった通り、小さな愛と清貧と従順に心がけつつ、神の僕として生きたいと願っています。


   本日の福音では、主が一人の律法学者の質問に答え、神に対する愛を第一の掟、隣人愛を第二の掟として、「この二つにまさる掟はない」と話しておられますが、その律法学者がそのお言葉に賛意を表すると、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。しかしこの二つの掟は、既に申命記やレビ記に述べられている旧約時代からの古い掟であって、主が最後の晩餐の席でお与えになった「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ14: 34)という、新約時代のための新しい掟ではありません。でも、この古い掟を誠実に守る人は、主キリストが身を持ってお示しになった新しい掟を守る人に近い生き方を為すと思います。それで主は、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃったのだと思います。ところで主は別の所で弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に警戒しなさい」(ルカ12: 1)と警告しておられます。ファリサイ派は掟の言葉だけを重視し、その掟の人間理性による理解を中心にして掟を順守しようとしているからだと思います。これでは欠点の多い人間の聖書解釈を中心に据え、それに従っているだけで、神の御旨に従うのとは違うことが少なくないと思われます。そこで、人間理性では知り得ない、その時その時の神秘な神の御旨に従うことのみを第一にしておられた主は、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と、新しい愛の掟を弟子たちにお与えになったのではないでしょうか。「信仰年」に当たりこの違いもしっかりと心に刻んで、主や聖母のように神の僕・神の婢として何事にも神に心の眼を向け、その時その時の神のお望み・神の御旨に従って生きるよう心がけましょう。それが、私たちの受け継いだ信仰を心の奥底にしっかりと根付かせ、悪霊の働きが激しくなると思われるこれからの終末時代に、あの世からの導き・助けを豊かに受けて、幸せにまた逞しく生き抜く生き方だと信じます。使徒ヤコブは行いのない信仰を「死んでいる信仰」と称していますが、多くの小さな行いによって心の奥底に信仰を根付かせないと、ただ信仰を持っている、信仰の真理を正しく理解し信じているというだけの信仰では、道端に落ちた神の命の種のようなもので、いつまでも実を結べないだけではなく、これからの終末時代にはそれを狙っている空の鳥、悪魔をおびき寄せ、大きな不幸を招くことになるかも知れません。「信仰年」にはそのことも考慮して、恐れの内に受け継いだ信仰を心の奥にしっかりと根付かせることに励みましょう。