2015年10月25日日曜日

説教集B2012年:2012年間第30主日(三ケ日)

第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節
福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節

   第一朗読は、旧約の神の民の数々の罪を嘆き、警告を語ることの多かったエレミヤ預言者の言葉からの引用ですが、本日朗読されたこの預言書の31章は神との新しい契約について予告していて、エレミヤ書の中でも、将来に対する明るい希望を与えている最も喜ばしい箇所だと思います。紀元前10世紀に南北二つの王国に分裂した神の民のうち、北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、そこに住んでいた太祖ヤコブの子孫の多くはアッシリアに所属する他の国々に連行され、各地に分散させられてしまいました。アッシリア人によるこの征服と連行の過程で、命を失った者や信仰を失って異教徒になってしまった人たちは多かったと思われます。しかし、そのイスラエル人たちが皆信仰を失ってしまったのではないようです。外的にはもはや真の神を礼拝・讃美する宗教儀式に参列できなくても、それを自分たちが犯した罪の罰、神よりの試練と受け止め、個人的に悔い改めと罪の償いに励んでいた信徒たちが、少なからずいたのだと思われます。神は、異国に移住させられて謙虚に悔い改めと新しい信仰生活に励むその人たちの熱心を嘉し、救い出そうとしておられたのではないでしょうか。

   彼らの住んでいたサマリアの町を中心とする北イスラエルの国々には、アッシリア人によって北方の国々から送り込まれた異邦人たちが住みつき、そこに残されていたイスラエルの下層民との結婚により、聖書に「サマリア人」と呼ばれている新しい混血民族になりました。サマリア人は、ユダヤ人の律法も祈りも知りませんが、しかし、そこで発生したある災害から学んで、それまでその地で崇められていた太祖アブラハムの神を、自分たちなりに礼拝し、その神に祈っていました。

   アッシリア帝国の侵略から100年余りを経て神の言葉を受けたエレミヤは、本日の朗読箇所の中で、数は少なくとも異国にあって信仰を失わずにいるイスラエル人たちのことを「イスラエルの残りの者たち」と呼び、その人たちを救ってくれるように祈ることを、神から命じられています。そして神は、「見よ、私は彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める」という、嬉しい約束の言葉も話しておられます。「北の国」とあるのは、アッシリアの支配下にある国々だと思います。神は更に、「私はイスラエルの父となり、エフライムは私の長子となる」とも話しておられますが、ここで「エフライム」とあるのは、エジプトで宰相となったヨゼフの息子の名前で、その子孫である北王国の中心的部族の名でもあり、総じてアッシリアに連行されたイスラエル人たちを指していると思います。彼らが新たに神の子らとされて、メシアによる救いの恵みに浴することを、神が予告なされたのではないでしょうか。アッシリア帝国の侵略によってイスラエル12部族のうち10部族は滅び去り、残ったのは南のユダ王国に住むユダ族とレビ族だけであった、と考えてはなりません。北イスラエルの10部族の内の「残りの者たち」は、エレミヤ預言者の時代にユダ王国に移住することができ、数は少なくてもその子孫たちは、後年立派にメシア時代を迎えるに到ったのだ、と思われます。

   ここで「イスラエルの残りの者たち」とある言葉を、現代の私たちの信仰生活に関連させて考えてみましょう。私たちは今はまだこれまで通り平穏に暮らしていますが、しかし、この幸せな状態がいつまで続くかは誰も予測できません。既に地球温暖化によって、世界各地の自然環境は元に戻し得ない程に悪化しつつあるようですし、この温暖化現象には、私たち現代人たちの贅沢な浪費生活が深く関与しているそうです。全世界の急激な人口増加で、遠からず水不足や食料不足の問題も深刻化することでしょう。自然界の豊かな恩恵に浴している私たち日本人は、それらの問題をまだ深刻には痛感していませんが、これからの時代には、既に地球上の他の多くの地方で発生している深刻な窮乏問題が、私たちの食糧や生活を著しく苦しめることになると思います。今の日本は自給自足ではなく、食料の大半を外国からの輸入に依存しているのですから。世界銀行が先日、各国の労働実態をまとめた報告書によりますと、70億の人類の内、失業して職探しをしている人は2億人、社会も生活も絶望的になって職探しを諦めている人が20億人だそうで、老人と子供を除く労働人口の内、30%にまともな仕事がないため、1億人以上の子供たちが学校にも行けずに、危険な環境の中で働かされているそうです。また食料不足のため、70億人類の20%、約14億人が栄養不足の状態にあり、内7千万人は飢え死に目前の状態に置かれているそうです。これは、世界的経済不況に悩む今の人類の力ではどうしようもない程の深刻な事態であり、全能の神の憐れみに縋る以外に救いの道はないように思います。神が現代の人類にエレミヤのような預言者を派遣して下さるかどうかは知りませんが、現代世界に広まっている神に対する不信仰や人間中心主義の不従順精神を考慮しますと、遠からず恐ろしい天罰が現代の文明諸国に到来するように思われて成りません。まだ目前の豊かさだけを追い求めている人たちの多い今こそ、「目覚めて用意していなさい。人の子は思いがけない時に来る」という主の警告を心に銘記して、神現存の信仰の内に日々の生活を営み、神に対する信仰と愛を深めることに励みましょう。教皇がこの十月から来年十一月の「王であるキリスト」の祝日までを「信仰年」とお決めになったのも、将来の不測の事態に私たちの心を備えるための、神の計らいなのではないでしょうか。

   神の特別な愛の被造物であるこの美しい水の惑星「地球」を穢して止まない利己的人間たちの怠りの罪や貪欲の罪に対して、これまで深く黙しておられた神は、愈々この終末時代に恐ろしい天罰を下して、被造物世界のすべてを全く新たにしようとなさるかも知れません。その時には先程の聖書朗読にある「イスラエルの残りの者たち」のように、たとえミサ聖祭に与かれなくなっても、個人的に日々悔い改めの業に励み、主キリストの聖心と一致して人類の罪の償いに心がけましょう。神は、貧しさの中で謙虚に信仰と愛に生きるそのような「残りの者たち」に特別に御眼を留め、その祈りと必要に応えて新しい救いの道を示し、必要な力も助けも与えて下さると信じます。神はイザヤ書の最後66章の始めに、「私が目を留める者は誰か。それは貧しく、心砕かれた者、私の言葉をおそれる者」と諭しておられますから。この前の日曜日の福音には、「異邦人の間では支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間ではそうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。云々」という主のお言葉が読まれました。「信仰年」に当たっては、何よりも「仕えられるためではなく仕えるために来た」とおっしゃる主のご精神を、日々の生活の中で体現するよう心がけましょう。私たちは福者マザー・テレサのように、今飢えている人、今助けを必要としている人たちに奉仕することはできませんが、せめてその人たちとの連帯精神の内に、小さな清貧の実践という「行動の祈り」を神に捧げることはできます。そのような祈りを神に捧げましょう。神が小さな清貧の実践を祈りと共にお捧げする人の願いは、不思議な程よく聞き届けて下さることを、私はこれまでの数多くの体験から確信しているからです。


   私は37年前の1975年秋に、江戸時代に中国から伝来したと聞く、京都の黄檗宗本山万福寺で三日間厳しい禅僧の生き方を体験させて頂きましたが、そこの禅僧たちは、水をなるべく無駄にしないように生活していました。例えば食事の時に各人の使ったお椀などの食器は、最後に御湯と漬物の香香で綺麗にしてその湯を飲み、各人に与えられている布巾で拭いて包み、その包んだ食器を各人に定められている食器棚に片付けていました。研修に参加していた私たちも、皆そのようにして水を大切にする生き方を実践的に学びましたが、後で考えますと、これは水を谷川から汲んでいた古い山寺の生活様式に起因する清貧生活なのかも知れません。中国でも韓国でも、仏教の寺院は全て山に建っていますから。北陸の禅寺永平寺でも、同様の厳しい清貧生活を続けているそうですが、そこの禅僧たちはその清貧の実践を介して、全能の神と主キリストから祝福と救いの恵みを豊かに受けているのではないでしょうか。私たちカトリックの修道者は神に清貧の誓願を宣立していますが、日常生活における清貧の実践は、万福寺や永平寺の禅僧たちに劣っているように思われます。そこで私は、30数年前から個人的には人目につかない小さな節水・節電に心がけています。すると不思議な程屡々神からの小さな計らいや導きを体験させて頂いています。私たちの神は信仰を持って為すこのような小さな清貧の実践を特別の関心をもって見ておられ、それらに豊かに報いて下さる愛の神であられるようです。「信仰年」に当たり、このような神現存の信仰体験を積み重ねることによって、弱い私たちの信仰を逞しくく鍛え上げ、やがて到来すると思われる終末期の試練に備えるよう努めましょう。