2015年10月4日日曜日

説教集B2012年:2012年間第27主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 2章18~24節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 2章9~11節
福音朗読 マルコによる福音書 10章2~16節

   ご存じのように今週の木曜日、1011日から「信仰年」が始まりますので、本日はそれに関連した話をさせて頂きます。60年前の1011日は聖母マリアのMaternitas(母性)の祝日とされていて、少しだけ大きな祝日となっていました。当時は普通の聖人の記念日はSimplexか一段上のSemiduplexの祝日とされていましたが、多くの信徒から特別に崇敬されていた聖ベネディクト修道院長らの記念日は、もう一段高いDuplexの祝日とされていました。しかし、この聖母の母性の祝日はそれよりももう一段高い祝日で、聖母の元后の祝日や聖母の聖心の祝日などと同様、Duplex classisとされていました。聖母被昇天などの大祝日は、Duplex classisでしたから、それに次ぐ祝日としてお祝いされていたのです。それで私が神学生であった頃の神言神学院では、毎年1011日には歌ミサを捧げて少し盛大にお祝いしていました。60年前の教皇ヨハネ23世は、公会議の前頃にイタリアにあるあちこちの聖母巡礼所を訪ねて聖母の導きと助けを願い求めましたが、教会の母であられる聖母の助けで、現代世界に逞しい若々しい教会が生れ出るようにと願いつつ、聖母マリアの母性の祝日に第二ヴァチカン公会議を開会なさいました。

   その公会議は初めは順調に進んで、教会は新しい信仰精神によって初代教会のようになり、もっと身軽に大きく発展し始めるかも知れない、という希望が支配的になりましたが、しかし聖母の働かれる所には悪霊たちの勢力も激しく働いたようで、公会議が初めに意図した教会現代化の動向は、二年目の第二会期の途中からかなり大きく変更されて、当時のプロテスタント諸教会の動きに近づいて行きました。そしてこの会期の10月下旬には、よく準備されていた聖母マリア憲章の議案は、プロテスタントとの間に溝を造る虞があるとの理由から、その議案を取り下げるよう主張する教父たちも増えて来て、1029日に行われた票決では、1,114票対1,074票というわずか40票の差で、聖母憲章の議案は取り下げられ、その内容の一部が教会憲章の最後の章(第八章)に、短く書き改められることになりました。第二ヴァチカン公会議では、殆どすべての票決で進歩派が圧倒的多数で保守派を上回っていましたが、この聖母憲章をめぐる票決の時だけは、二つの勢力が殆ど対等に多寡を競っていました。しかし、聖母憲章が退けられたこの時点から、カトリック教会にはプロテスタント過激派の改革精神が大きくなだれ込んで来て、特に若手の聖職者たちの間では、新約聖書非神話化を説く過激なプロテスタント聖書学者ブルトマンの著書を読んだり、カトリック司祭も牧師たちのように結婚すべきだと主張したり、ロザリオの祈りに反対したりすることが世界的に広まり始めました。当時ローマで公会議の下働きをしていた私は、自分の体験を振り返っても、6310月末が流れの変わり目であったと感じています。

   公会議の会期中はいつもドイツの司教たちに伴なってローマに滞在していた若い神学者ラッツィンガー(今の教皇)も、恐らく同様に感じておられたと思います。公会議の5年後の12月にミュンヘンのラジオ局から、公会議後のカトリック教会について厳しい批判を放送した最初の神学者でしたから。その教皇は、今週から始まる「信仰年」のために出された自発教令『信仰の門』の中で、「キリストと出会う喜びと新たな熱意をますます明らかに示すため」(2)「現代においても、信じることの喜びと、信仰を伝える熱意を再び見出す」(7)ためなどと述べておられます。これらのお言葉は、私たち各人が何よりもまず主キリストと内的に出会う喜びを体得すること、そしてその喜びを隣人たちに伝えることを説いています。これが、これからの信仰年の努力目的だと思います。公会議を招集なさったヨハネ23世は回勅『地上の平和』の後半に、科学技術の目覚ましい進歩にも拘わらず、教会が現代社会の堕落を防げ無かったのは、信仰教育のレベルの低さと信徒使徒職の不在にあった、と嘆いておられます。それで公会議は教会憲章の中程に「第4 信徒について」というかなり長い一章を設け、全てのキリスト者は洗礼によってキリストの司祭職・預言職・王職にも参与しており、教会から宣教師とされて社会に派遣されなくても、自分の信仰生活の証しを通して家庭や社会で地の塩となり、キリストを世の人々に伝えて行く信徒使徒職の使命を与えられていること、主キリストにおいて本質的に信仰の宣教に召されていることを教えています。今の教皇は、私たち各人が主から洗礼によって与えられているこの特別の使命を一層深く自覚して、各人が生活している場で実践的に信仰を深め、信仰に生きる喜びを人々に伝えるようにと、「信仰年」を定めたのだと思います。


   本日の第二朗読は、多くの人を神の愛の共同体の「栄光へと導くために」、死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に自分中心に生きる強い傾きをもっている人の多い今の世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人も、主イエスのように多くの人の罪を背負わされ、神から苦しみを与えられることを、教えているのではないでしょうか。しかし、神がお与えになるその試練や苦しみを通して心は鍛えられ、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる試練や苦難を嫌がらず、逃げ腰にならないよう心がけましょう。神は私たちを特別に愛しておられるので、時として病気や失敗や誤解などの苦しみをお与えになり、私たちの心をまだ奥底に残っている罪の穢れから浄化し鍛え上げて、主キリストの栄光の内に一層美しく照り輝くようにして下さるのだと信じます。思わぬ苦しみに出あうと、自分のこの世で為した行いだけに眼を向け、理性の考える原因結果の原理を中心にして、どこからこの苦しみが来たのかと理知的に考えたり、他人を疑ったりする人が多いようですが、思わぬ苦しみに襲われた時はすぐに神に心の眼を向け、その苦しみの背後に現存し私たちの心にそっと温かいまなざしを注いでおられる神に、一言感謝の言葉を申し上げましょう。それが、主キリストとの内的一致を深める道だと思います。神は、その苦しみに耐え抜く力も、自分に打ち克つ喜びも与えて下さいます。