2015年10月11日日曜日

説教集B2012年:2012年間第28主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 7章7~11節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節
福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節

   本日の第一朗読である知恵の書は、紀元前1世紀に当時のエジプトの首都アレキサンドリアに住むユダヤ人によって執筆されたと考えられています。アレキサンダー大王没後の紀元前4世紀の末以来、エジプトを征服し支配していたギリシャ系のプトレマイオス王朝は、被支配者の人口に比べてギリシャ人の少ないのをカバーするため、隣国のユダヤ人を優遇して大勢エジプトに移住してもらい、軍事面でも行政面でも活躍させていました。それで紀元前1世紀頃には、アレキサンドリアの町の五つの区画のうち、二つはユダヤ人街になっていたと言われています。有能で支配者に対して忠実であったこの頃のエジプト在住ユダヤ人たちは、経済的に豊かであっただけでなく、時間的余裕を利用して既にギリシャ語に翻訳された聖書もよく研究し、高い教養を持つ人たちが少なくなかったと思われます。知恵の書は、そういうユダヤ人によってギリシャ語で書かれたと考えられます。それで、エジプトでは聖書とされていても、ユダヤのラビたちには聖書と見なされていません。ヘブライ語で書かれたものでないからだと思います。

   神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであります。ですから執筆者は神に祈ったのであり、神から知恵の霊を授けられたのです。この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、本日の朗読個所に読まれる「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵はここでは生きている存在として描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人のこの世的智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。神の知恵は、生きている人格的存在なのです。

   主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられますが、最後の晩餐の時には「真理の霊」の派遣を約束なさり、その方が「あなた方を導いて真理を悉く悟らせる。云々」と、その知恵の霊を、神がお与えになる生きる存在として話しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとし、神の啓示までも人間の理性だけで批判的に解釈するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を各人の心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの生きる智恵に生かされ信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を体験に基づいて悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程綿密にキリスト教を研究し、その外殻を明らかにしてみても、この世では悟り得ないものだと思います。

   本日の第二朗読でも、第一朗読の「智恵」のように「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」は、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。三日前から始まった「信仰年」に当たって、神の知恵・神の言葉の内に日々の生活を営むことにより、心の奥底の信仰を実践的に深め強めるように心掛けましょう。それは、たくさん色々なこの世的研究を読んだり聞いたりして、自分の見解を広げ深めるような頭の信仰とは違います。私たちは既に神信仰の成長に必要に基本的情報は、神から全て頂戴しています。今の私たちに必要なのは、その信仰の生命が私たちの奥底の心の中に逞しく成長することなのです。そのためには日々の平凡な茶飯事を、「神が観ておられる」という神現存の信仰の内に、神にお見せする心、神にお献げする心で為すことが大切なのではないでしょうか。

   宮本武蔵が晩年に書いた兵法書『五輪書』が、武蔵の墓所がある熊本にありますが、そこには「観の目強く、見の目弱く」という言葉が読まれます。観は観察の「観」、見は見解の「見」ですが、心で観るのが「観」、肉体の目で見るのが「見」だと思います。私はこの言葉を神の現存信仰の内に観るのが「観」と受け止めて、小さなゴミを拾う時にも、ミサ聖祭を捧げる時にも、神が私のこの行為を観ておられるという信仰の内に為すよう心がけています。すると不思議な程万事が順調に進展するので、神は私のこの小さな行為まで全てを観ておられるのだ、そしてその信仰実践に豊かに報いて下さるのだ、という体験を数多く重ねています。それでこれからの「信仰年」にも、このようにして自分の奥底の心の信仰を実践的に深めたい、と願っています。

   今の日本社会には、戦後の自由主義・個人主義・能力主義の教育を受け、社会に出ても能率主義で競わされる生活を続けて来た人たちの中で、うつ病になっている人が少なくないようです。特に真面目に努力して来た生真面目な性格の人間が、ある時急に全てが恐ろしい程虚しく感じられる虚脱感に襲われ、過激な反社会的行動に走ったりするのだそうです。そういう話を耳にしますと、同様に生真面目人間だった私は、カトリック信仰の恵みに浴し、神様に救って戴いたのだという感謝の念を新たに致します。最近の医者たちの中には、「燃え尽き症候群」という診断を下す例も増えているそうです。全世界的な情報の流れの中で、小さな自分の力で自分中心の生き方を続けていますと、急に自分の夢も意欲も熱情も消えて、深い不安と無力感の内に全てが嫌になってしまう症状のようです。私の知人の娘さんも、親から優秀な能力を頂戴して学校の成績は良かったのに、今はそのようなウツの症状に悩まされているそうですので、私は日々聖母マリアの導き・助けを祈り求めています。自分の力で生きるエネルギーが燃え尽きてしまう所に、原因があるのだと思います。最近自死する人が増えている一つの要因も、そのような自分中心の自力主義の生き方にあるのではないでしょうか。自分に死んで神の僕・婢としての生き方を実践的に身につけるのが、治療の道だと思います。


   本日の福音の中で主は、「なぜ私を善いと言うのか、神お独りの外に善い者はない」と、走り寄り跪いて語りかけた人に答えておられます。私が神学生であった時、同僚の神学生の一人が主のこの言葉を、「私を善いと呼んではならない」という意味で受け止め、主はご自身を神と考えておられなかったのか、と言ったことがありました。その時、一緒にいた指導司祭のドイツ人司祭がすぐに、「あなたの前にいるこの私は神ですよ、という意味で主がおっしゃった言葉で、ご自身が神でないという意味でおっしゃったのではない」と説明して下さいました。その通りだと思います。聖書の言葉は、時々この世の人に間違って受け止められる恐れがありますので、私たちも気をつけましょう。そして何よりも大切なのは、人間理性による聖書解釈の知識よりも神の現存信仰に実践的に生きることだ、ということをしっかりと心に銘記していましょう。福音に登場した金持ちの人も、主のお言葉に従って貧しい人々に大きな施しをなし、主に従って生きる清貧な生活を為していたなら、あの世で永遠にどれ程幸せになったであろうと思うと、真に残念に思われてなりません。清貧に生きることを神に誓って生活している私たちも、「私に従いなさい」という主のお言葉や生き方を、忘れないよう気をつけましょう。27年前に京都の万福寺という黄檗宗本山の禅寺で三日間生活した時に学んだのですが、道元が創建した北陸の永平寺でもこの万福寺でも、由緒ある禅寺では豊かになった現代においても、水などをなるべく節約して生活する昔ながらの厳しい生活を続けています。禅僧たちは、その清貧の実践によって神から祝福され守られているのではないか、という印象を受けました。私たちキリスト教の修道者もその生き方に学び、もっと主キリストの清貧愛を日常生活の中で体現する心がけたいものだと思います。神はそのような信仰に生きる人を愛し、不安の多いこれからの終末時代にも、特別に守り導いて下さると信じます。