2016年11月20日日曜日

説教集C2013年:2013年王たるキリストの祝日

・ 第1朗読:サムエル記:(サムエル下5・1-3)
・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・12-20)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ23・35-43)


  典礼暦年の最後の日曜日を教会は「王であるキリスト」の祭日としています。聖書の思想では、王または王朝というものは神の御摂理によって神の側から選ばれ立てられる者、世の終わりになってメシアが全被造物を支配する時が来るまでの間、神の王権を代行する者であります。ところが、神の王権を代行するそういう王は第一次世界大戦後のヨーロッパではいなくなってしまいました。それで神はカトリック教会に「王たるキリスト」の祝日を制定させて、これからは目に見えないながらも世の終わりまで実際に私たちの間に現存しておられる復活の主キリストを、私たちの魂の王、全人類の霊的王として崇め、神の支配に対する私たちの従順と忠実の精神を磨くように導かれたのだと思います。天使は聖母マリアに「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その名をイエズスとつけなさい。彼は偉大な者となり、いと高き御者の子と呼ばれます。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになり、彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続くでしょう」と告げました。神からのこのお言葉が、カトリック教会によるこの祝日の制定により、全世界で記念され感謝されるようになったと申してよいと思います。

  本日の第一朗読はダビデが全イスラエルの王として就任する話ですが、ダビデはこの時に神の民から王として選出されたのではありません。既に羊の群れを世話していた子供であった時に神によって選ばれ、預言者サムエルに注油されて、神の御前のでは王とされていたのです。しかし、同じく神から選出されて王位についていたサウル王が在任中は王位につかず、戦士となって活躍していました。そしてサウル王の死後にヘブロンで王位についたのです。それで本日の朗読個所では、「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ」とあります。この時から、ヘブロン周辺に住んでいたユダ族だけではなく、イスラエルの全部族がダビデ王の支配下に入り、その保護と指導の下にエルサレムを首都とする強い王国を建設し始めたのです。長老たちがダビデ王の下に来て王に注油したのは、自分たちの王として推戴するという儀式であったと思います。

  同様に、神の御子イエスは既にこの世にお出でになった時から神によって王とされていました。ですから星によってその誕生を知った東方の博士たちはエルサレムに来て、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか」という、奇妙な質問をしています。神によって立てられた生まれながらの王を拝みに来たのですから。人間達によって公的社会的に選出された王ではなく、神によって立てられたその永遠に支配なさる王の許に来て、その方を王として推戴する人達はその支配下に入り、そのご保護と指導の下に新しい霊的王国、神の国の建設にたずさわりますが、そうでない人たちは、やがて神によって徹底的に滅ぼされてしまうこの世の世界と運命を共にすることでしょう。本日、「王であるキリスト」の大祝日は、神から派遣された神の御独り子であられる主を私たちの王として推戴し、その王に対する従順の誓いを新たにして、王のご保護と指導の下に新たに生き始める日であると思います。

  本日の第二朗読は、使徒パウロが今のトルコ半島の中央山岳部西南にあった町コロサイの信徒団に送った書簡からの引用であります。当時のコロサイでは、あの世にいる様々の霊に対する怖れや崇敬が盛んであったようです。ちょうど昔の日本人が山の神や田の神、あるいは竈の神や火の神を畏れ敬っていたのに近いのかも知れません。パウロはそれに対し本日の朗読の中で、天と地の見えるもの見えないものの全てをお創りになった神の御子こそ、私たちの畏れ敬うべき「第一のもの」であることを強調しています。あの世にいる諸々の霊たちも、全てその神の支配下にあるのですから。しかし、パウロのこの言葉によって、あの世の世界に属する八百万の小さな神々を、全て悪魔的なものとして排斥する必要はありません。私は1990年前後頃に、京都の国際日本文化研究センターの共同研究員として選ばれ、その創立期5年間を、毎年4回文部省から支給された出張費で京都に二泊三日の旅行をなし、内外の優れた学者たちと実りの多い討議や談話を交わしていました。そして初代センター長の梅原猛さんや三重県出身の安田喜憲さんたちが提唱した「新しいアニミズム」に、私はカトリックの立場から賛同していました。

  18世紀に西洋の理知的な啓蒙主義者たちが最低の宗教信仰として、多少軽蔑の意味を込めて言い出した「アニミズム」は、万物の働きの背後に神霊を認めてそれを神々と崇敬し、その保護を受けようとする信仰と言って良いかと思いますが、私はその神霊を、私の信奉する神の聖霊の働きや呼びかけの声と読み替えて、その声の背後に臨在しておられる神に対する信仰と畏れの念とを大切にし、私たちが日々接している平凡な森羅万象の背後に神からの呼びかけを聴き分け、その声に従うように心がけています。それでこの立場から、梅原さんたちの言う「新しいアニミズム」を受け止め賛同したのです。私は、生きとし生ける全てのものの背後に臨在してその存在を支えておられる神が、畏敬の心でどんな小さな物をも大切にする私の小さな心がけに、豊かに報いて下さるのを幾度も体験していましたから。このように申しますと、そんなら煩い蚊も蠅も殺すことができなくなるではないか、などと心配する人がいるかも知れません。私は神学生の時からドイツ人宣教師に倣って、生活の邪魔になるものや家の美観を損なうような生き物は、「お命頂戴するよ。ありがと」などと言いながら遠慮なく殺して、その命を頂戴しています。それは神の摂理が諸々の食べ物と同様に私の命を強め、私がそれらの生き物の分までも、神を讃えるために与えて下さった命であると考えるからです。私は「作品は作者を表す」という言葉を神にも援用し、命の源であられる神のお創りになった物は、太陽も月も星たちも全てある意味で皆生き物であり、いずれ老化と死を迎えるに至る存在と考えています。

  本日の福音は主と一緒に十字架にかけられた二人の犯罪人について述べていますが、その一人が主を罵って「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのに対して、もう一人はその言葉をたしなめ、「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だが、この方は何も悪いことをしていない」と主を弁護し、「イエスよ、あなたの御國においでになる時には、私を思い出して下さい」と願いました。すると主は、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」とお答えになったとあります。今自分の受けているこの恐ろしい十字架の苦しみを、神から与えられた自分の罪の償いとして受け止め、多くの病人を癒して神の預言者・メシアと仰がれていた主が、自分たちよりももっと酷い苦しみや、大祭司たちからの悪口を静かに耐え忍んでおられるお姿に感動し、死後の命を信じていたこの犯罪人は、主の憐れみを願い求めたのだと思います。そして主は、神に向かって大きく開いたその信仰心をお喜びになり、御功徳で楽園を約束なさったのだと思います。

  私たちも神に向かって大きく開いた心で、アブラハムのように神と親しく語り合いながら、日々の生活を営むように心掛けましょう。神はそれを何よりもお喜びになります。主は「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」と話されました。ファリサイ派は全ての律法をできるだけ忠実に守り、社会道徳に背く罪は何一つ犯さない、人間的社会的には尊敬に値する人たちで、その生き方に誇りを感じていました。しかしその心は、律法という神の民の伝統的規則とこの世の人々にだけ向けられていて、神をこの世から遠く離れたあの世に鎮座しておられる存在と考えていました。従って、アブラハムのような信仰には生きていませんでした。ですから自分を神として振る舞われる主の言行に躓き、それを赦し難い冒涜と受け止めたのです。その主はあの世の命に復活して、今はあの世から永遠に全人類を霊的に支配する王として、日々私たちのすぐ近くに現存し、私たちの全てを観ておられます。私たちの修道会則も何も、全てはその主と共に生きるためのものです。神の一番嫌っておられる自分中心・人間中心の「古いアダム」の罪、心の奥底に宿るそのファリサイ派のパン種による罪と戦いつつ、幼子のように素直な従う心で神の御旨中心に生きるよう心がけましょう。これが、昨年から今日までの「信仰年」の一番貴重な実りであり、神にも喜ばれると信じます。


2016年11月13日日曜日

説教集C2013年:2013年間第33主日(三ケ日で)

第1朗読 マラキ書 3章19~20a節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 3章7~12節

福音朗読 ルカによる福音書 21章5~19節


  真夏日の長く続いた今年の秋は短くて、もう落ち葉の目立つ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になってしまいました。本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書で、使徒パウロはまず、この世の終わりに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きと、その再臨の前に現れ出る徴などについて語っています。そしてその後で、テサロニケの信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読であります。使徒はそこで、「働きたくない者は、食べてはならない」などと、神の教えをファリサイ派律法学者たちのように頭だけで理解し、宗教的規則順守にだけ努めようとはせずに、むしろ体を使って働き、誰にもなるべく迷惑をかけずに喜ばれる生き方を体得するように、と勧めています。この勧めは、私たちも忘れてはならないと思います。
  余談になりますが、禅宗と呼ばれている禅仏教は、インドから渡来した達磨大師によって六世紀に中国で成立したと聞きます。仏教は文字通り仏の教えですが、文字で書き残された仏の教えをどれ程研究しても、文字で表現されたその経典には限界や不完全があって、経典の研究だけでは仏の悟りを自分のものにすることができません。そこで、仏の心を直接体験的に学び取ろうとしたのが禅宗だそうで、始めのうちは「仏心宗」と呼ばれていたそうです。それは、何よりも仏の心を座禅や実生活の中で、仏と一心同体になって生きる実践を通して学び取ろうとする生き方を指しているのだそうです。仏が座っているいる姿が座禅で、仏者は禅堂で座って仏と一心同体になろうとしますが、しかしそれだけではなく、行住坐臥の全てを仏と一つになって生きようとするのが、本来の「仏心宗」・禅宗の趣旨だそうです。キリスト教も、日常生活を内的に復活の主キリストと一致して営むところに実現するのではないでしょうか。私たちも聖書についての理知的ファリサイ的研究によってではなく、禅僧たちのように日々の平凡な実生活の中で、実践的に主の導きや働きを心で体得するように努めましょう。
  本日の福音に読まれる、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王により見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの高価な奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった予言「一つの石も石の上に残ることがない日が来る」というお言葉は、それから40年後の紀元70年に実際に実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、強い火をかけられると燃え崩れる石であります。アウグストゥス皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易賞商が立派になった神殿を訪れたりしていて、町は経済的に豊かに発展しつつありましたが、ユダヤ人がローマ皇帝の支配に敵対して立ち上がったら、徹底的廃墟とされてしまいました。美しい大理石で固められていた神殿も、火をかけられたら燃え上がり、主が予言なされたように「一つの石も石の上に残らない」程に崩れてしまいました。かつてなかった程便利にむまた豊かに発展しつつあるこの現代世界も、人々の心が人間としての尊厳を失わせる内的堕落の道を歩むなら、いつの日か同じ神によって恐ろしく悲惨な崩壊へと落とされることでしょう。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終わりについても予言しておられるからです。同じルカ福音の17章に、主は人の子が再臨する直前に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が人間社会の豊かさと繁栄の最中に、突然襲来することを予告しておられます。
  「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という弟子たちの質問に、主は本日の福音の中で、三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってはならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終わりはすぐには来ないことであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れるむことです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、即ち恐らく起こり始めている時に、信仰に生きる人たちに対して迫害がなされることであります。主は「親・兄弟・友人にまで裏切られる」と話されましたが、現代のように家族共同体が崩れ、人生観も価値観も極度に多様化して来ますと、このような現象は既に世界の各地に起こり始めているのではないでしょうか。内戦で揺らぐシリアのある村人は、上からの指令で同じ村の知人を殺してしまうと、もう殺し合いが現実となって何が正義か判らなくなってしまう、と告白しています。

  ところで、主がここで話しておられる徴は、一時的部分的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終わりが近いと結論することは出来ません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では一応終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中で大規模に発生し、天空に何かこれ迄になかったような現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終わりがいよいよ間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神の与えられる導きだけに心の眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けて下さる新しい命を勝ち取るように努めましょう。それは、ある意味でこの世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい栄光の世界への門であり、新しい永遠の命への誕生なのですから、「恐れてはなからない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の大災害と苦難を神の御手から感謝して受け取るように心がけましょう。

2016年11月6日日曜日

説教集C2013年:2013年間第32主日(三ケ日で)

第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節
福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節


  本日の第一朗読は、ユダヤがシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前2世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、ユダヤ人にもギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた迫害と殉教について述べています。国家権力によるこのような宗教迫害は、歴史上度々発生していましたが、最近のグローバル時代にはごく限られた地域で一時的に発生するだけで、迫害される民衆の実情や要求もマスコミによって国際的に明らかにされ、迫害する国家権力に対しては強力な諸外国がすぐに反発するので、国家による残酷な人民迫害はもう定着できない、と申してよいと思います。しかし、国家権力だけではなく、大小全ての共同体の指導力が、極度の自由主義やマスコミなどによって弱体化して来ている現代には、いじめや詐欺など民間の私的な迫害や搾取などが激増しているのではないでしょうか。
  30年程前の1980年代の前半からわが国では各地で「いのちの電話」協会が次々と設立されて、増え続けていた、自殺を考えて煩悶する人たちの悩みに伴うことに努めていますが、1997年から14年間は全国で、毎年3万人以上も自殺しています。幸いその数値は昨年3万人を下回りましたが、しかし、「いのちの電話」協会への電話相談の数は増え続けており、その原因の大半が家族問題や対人問題ではなく、自分の人生に生き甲斐が感じられず、夜も眠れないなどの個人的精神問題のようです。察するに、その人たちの心の悩みを解消するには理知的な人生観は無力で、何よりも神秘な神の働きや助けを実際に体験させることが、その人の奥底の心を目覚めさせ、新しい生き甲斐を見出させるのではないでしょうか。私は二十世紀の末期から急増しているこれらの多くの人の心の絶望現象の背後には、聖書に世の終わりに多くなるとされている反キリストや小さな悪霊たちが策動しているのではないかと考えています。如何なものでしょうか。その悪霊たちは、密かに私たちの心の中にまでも入り込むことができます。自分の心の動きにも警戒し、幼子の素直な心でひたすら神の御旨に従って生きようと心がけましょう。
  本日の第二朗読は、使徒パウロがコリントからテサロニケの信徒団に書き送った第二の書簡であります。第一の書簡の中でパウロはテサロニケ信徒団の信仰心を高く評価していますが、この第二書簡では、迫害を受けながらもその苦しみに耐えて信仰を堅持しているテサロニケの信徒団に感謝と喜びを表明しつつ、まず主キリストの再臨と神の審判について語っています。続く書簡の後半部分で、神による選びを感謝し、神が信仰に生きるテサロニケの信徒たちの心を励まし強めて下さるようにと祈り、宣教する自分たちも悪者たちから護られるよう祈って欲しいと願っています。そして最後に宣教する自分たちの模範に見習って、正当な教えに従わない兄弟たちを遠ざけ、交際しないようにと警告しています。本日の朗読個所は、書簡のこの後半部分からの引用であります。
  そこに読まれる「全ての人に信仰がある訳ではないのです」の言葉は、世界中の様々な思想がマスコミによって紹介されたり宣伝されたりしている、現代社会に生活する私たちにとっても大切だと思います。現代人が生活を便利に楽しくするために次々と産み出す利己的快楽主義的発想を、マスコミを介してそのまま鵜呑みにして心の中に入れていますと、全てを自分中心・人間中心に考えて評価したり行動したりする「古いアダム」の精神が、知らない内に心全体を支配するようになって来ます。そして私たちの日常生活に密かに伴って時折そっと呼びかけて下さる神の御声を聞き取れなくして行きます。気を付けましょう。信仰の恵みに浴し洗礼を受けた私たちは、洗礼のとき神に約束したように、自分中心・人間中心の「古いアダム」の精神に死んで、神の御旨中心の主キリストの精神で生活するよう召されています。主キリストの精神で生きるには、心の中まで世俗化するこの世中心の精神や価値観などを、主キリストの価値観で絶えず浄化する戦いが必要です。主キリストと一致しその力によってこの戦いに勝ち抜いた人が、あの世で神から勝利の栄冠を受けるのであり、そこに私たちの受けた命の本当の意義も喜びもあるのです。信仰年の終わりを間近にして、このことを改めて心で深く悟り、確信するよう神に恵みを願いましょう。使徒パウロも本日の朗読の中で、「どうか主が、あなた方に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせて下さるように」と祈っています。
  本日の福音は、私たち人間が神から受けた命の賜物についても教えていると思います。ルカ福音書にサドカイ派が登場するのはこの個所だけですが、ユダヤ教の大祭司を中心とするこの一派は、ヘロデ大王によってエルサレム神殿が大理石で大きく美しく増改築されたり、ローマ帝国の支配下で平和が国際的に長く継続し、商工業も国際的に大きく発展したりすると、世界各地から大勢の巡礼者や国際貿易商たちが神殿に来て祈り、多額の寄付をするようになったので、神殿のその上がりを殆ど独占して豊かになっていました。それでキリスト時代には、富裕な貴族たちのような生活を営んでいたと思われます。武力を殆ど持たない彼らは、その豊かな収入と生活を継続するため、強大な武力と国際的なローマ法で社会を平和にまた豊かに発展させてくれているローマの権力との繋がりを重視していましたが、この豊かさと世俗との関わりの中で、彼らの心は次第に神から離れ、急速に世俗化して行ったのではないでしょうか。モーセ五書だけを聖書の正典としてそれ以外のものを聖書と認めていないサドカイ派は、神も宗教も全てをこの世での生活中心に考え、本日の福音にもあるように、旧約聖書の預言書や文学書などにそれとなく語られている人間の復活、あの世での復活はないと信じていました。

   彼らが、復活はあると主張するファリサイ派の学者たちを困らせるために持ち出していたのが、本日の福音に登場するモーセの定めた「レビラト婚」の規定でした。これは申命記25章に述べられている規則で、先祖の家名をメシア時代にまで存続させ、土地財産が人手に渡るのを防ぐ目的で定められたようです。しかし、この世のこの規定をあの世で復活した人たちにまで広げると、この世で数人の男たちの妻となった女は復活の時誰の妻になるのか、という不合理が生じて来ます。あの世に行ったことのないファリサイ派の律法学士たちは、サドカイ派の持ち出すこの不合理に答えることができずにいました。それで主イエスにもこの問題を突き付けて困らせようと思ったようで、サドカイ派の数人が近づいて来て、主を「ラビ」と呼んで尋ねました。あの世からお出でになった主はそれに対してすぐに、この世の子らは結婚するが、あの世に復活する人たちは結婚せず、死ぬこともない。皆天使たちのようになる。神の子とされるのだからとお答えになり、ついでに、サドカイ派が聖書として大切にしている出エジプト記のモーセの話の中にも、この世の死者があの世に復活することが暗示されていること示すために、モーセが主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいる、と聖書の言葉を引用なさいました。私はローマにいた時、このように呼んでいることがどうして復活の証しになるのか、と知人の聖書学者に質問したことがありましたが、ヘブライ語ではこのような場合、「アブラハムの神である主」という風に、現在形の「である」という動詞が省かれていると理解され、遠の昔に死んだ太祖たちが、あの世では今も主を神として生きているという意味になるのだそうです。主のこのお言葉は、そこにいた人々皆にそのように理解されたようで、本日の朗読では省かれていますが、ルカ福音書ではすぐに続けて、「律法学者のある者たちが口を開いて、『先生、立派なお答えです』と言った。彼らはもはや、あえて何も尋ねようとはしなかった」とあります。主がサドカイ派の人たちに最後におっしゃった「神は死んだ者の神ではなく、全ての人は神によって生きている」というお言葉も、忘れてならないと思います。私たちはあの世に移ってからだけではなく、この世においても自分の力によってではなく、根本的に絶えず神の力によって存在し、神の力によって生かされている存在だと思います。この真理をしっかりと心に銘記し、神から自分に与えられた命を大切にしながら、感謝と愛の精神で、神の御期待に少しでもよく応えるように心掛けましょう