2016年11月13日日曜日

説教集C2013年:2013年間第33主日(三ケ日で)

第1朗読 マラキ書 3章19~20a節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 3章7~12節

福音朗読 ルカによる福音書 21章5~19節


  真夏日の長く続いた今年の秋は短くて、もう落ち葉の目立つ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になってしまいました。本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書で、使徒パウロはまず、この世の終わりに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きと、その再臨の前に現れ出る徴などについて語っています。そしてその後で、テサロニケの信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読であります。使徒はそこで、「働きたくない者は、食べてはならない」などと、神の教えをファリサイ派律法学者たちのように頭だけで理解し、宗教的規則順守にだけ努めようとはせずに、むしろ体を使って働き、誰にもなるべく迷惑をかけずに喜ばれる生き方を体得するように、と勧めています。この勧めは、私たちも忘れてはならないと思います。
  余談になりますが、禅宗と呼ばれている禅仏教は、インドから渡来した達磨大師によって六世紀に中国で成立したと聞きます。仏教は文字通り仏の教えですが、文字で書き残された仏の教えをどれ程研究しても、文字で表現されたその経典には限界や不完全があって、経典の研究だけでは仏の悟りを自分のものにすることができません。そこで、仏の心を直接体験的に学び取ろうとしたのが禅宗だそうで、始めのうちは「仏心宗」と呼ばれていたそうです。それは、何よりも仏の心を座禅や実生活の中で、仏と一心同体になって生きる実践を通して学び取ろうとする生き方を指しているのだそうです。仏が座っているいる姿が座禅で、仏者は禅堂で座って仏と一心同体になろうとしますが、しかしそれだけではなく、行住坐臥の全てを仏と一つになって生きようとするのが、本来の「仏心宗」・禅宗の趣旨だそうです。キリスト教も、日常生活を内的に復活の主キリストと一致して営むところに実現するのではないでしょうか。私たちも聖書についての理知的ファリサイ的研究によってではなく、禅僧たちのように日々の平凡な実生活の中で、実践的に主の導きや働きを心で体得するように努めましょう。
  本日の福音に読まれる、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王により見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの高価な奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった予言「一つの石も石の上に残ることがない日が来る」というお言葉は、それから40年後の紀元70年に実際に実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、強い火をかけられると燃え崩れる石であります。アウグストゥス皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易賞商が立派になった神殿を訪れたりしていて、町は経済的に豊かに発展しつつありましたが、ユダヤ人がローマ皇帝の支配に敵対して立ち上がったら、徹底的廃墟とされてしまいました。美しい大理石で固められていた神殿も、火をかけられたら燃え上がり、主が予言なされたように「一つの石も石の上に残らない」程に崩れてしまいました。かつてなかった程便利にむまた豊かに発展しつつあるこの現代世界も、人々の心が人間としての尊厳を失わせる内的堕落の道を歩むなら、いつの日か同じ神によって恐ろしく悲惨な崩壊へと落とされることでしょう。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終わりについても予言しておられるからです。同じルカ福音の17章に、主は人の子が再臨する直前に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が人間社会の豊かさと繁栄の最中に、突然襲来することを予告しておられます。
  「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という弟子たちの質問に、主は本日の福音の中で、三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってはならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終わりはすぐには来ないことであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れるむことです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、即ち恐らく起こり始めている時に、信仰に生きる人たちに対して迫害がなされることであります。主は「親・兄弟・友人にまで裏切られる」と話されましたが、現代のように家族共同体が崩れ、人生観も価値観も極度に多様化して来ますと、このような現象は既に世界の各地に起こり始めているのではないでしょうか。内戦で揺らぐシリアのある村人は、上からの指令で同じ村の知人を殺してしまうと、もう殺し合いが現実となって何が正義か判らなくなってしまう、と告白しています。

  ところで、主がここで話しておられる徴は、一時的部分的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終わりが近いと結論することは出来ません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では一応終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中で大規模に発生し、天空に何かこれ迄になかったような現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終わりがいよいよ間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神の与えられる導きだけに心の眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けて下さる新しい命を勝ち取るように努めましょう。それは、ある意味でこの世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい栄光の世界への門であり、新しい永遠の命への誕生なのですから、「恐れてはなからない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の大災害と苦難を神の御手から感謝して受け取るように心がけましょう。