2016年7月31日日曜日

説教集C2013年:2013年間第18主日(三ケ日で)

第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節、2章21~23節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~5、9~11節
福音朗読 ルカによる福音書 12章13~21節

   本日の第一朗読の出典である『コヘレトの言葉』は、旧約時代の末期に書かれた「知恵文学」の一つで、この「知恵文学」には『ヨブ記』や『シン言』も属しており、旧約聖書外典の『知恵の書』や『シラ書(集会書)』なども属しています。神の民のこの「知恵文学」の類型は、諸外国との文化的交流を盛んにしたソロモン王の時代から始まりました。すなわち、エジプトやメソポタミア諸国の宮廷人や知識人の知恵文学の影響を受けて、イスラエル人の祭司・賢者・預言者たちの間では、人間生活に関する教訓詩、常套句、俚諺や警告、あるいは動植物から学んだ教訓的寓話などが流行し始めたのでした。そこにはイスラエル人の伝統的世界観や人生観を基にして、現実を肯定しつつ賢明に生きる道を求める建設的で楽観的な思想のものと共に、現実の人生に遭遇する不公平や各種の危険などを重視する懐疑的思想のものも見られました。『シン言』は、その流れの中の人生教訓や建設的な言葉を多く収録していますが、『コヘレトの言葉』は、それよりもむしろ人生の現実に対する批判的懐疑的な言葉を多く収録している、と申してよいと思います。

   本日の第一朗読は「コヘレトは言う」という言葉で始まっていますが、コヘレトは特定の人物の名ではありません。それは、作者が「集める」という意味の動詞カーハルの分詞から勝手に作った号名で、エジプトの古い教訓詩の様式に倣って、その書の始めに「私コヘレトはイスラエルの王で、エルサレムにいた」などと書き、あたかも数百年前にいた賢明な国王の言葉であるかのような印象を与えようとしていますが、そんな国王は実際には存在せず、それまでのイスラエル知識階級の内に語り伝えられていた、現実の人生に否定的懐疑的な言葉を多く収録した著作のようです。紀元70年に首都エルサレムがローマ軍によって滅ぼされ廃墟とされた後、世界中に分散して行く流浪の民となったユダヤ人の律法学者たちは、90年にユダヤのヤムニヤで会合して、旧約末期の紀元前3世紀頃にエジプトでギリシャ語に翻訳され、既にオリエント・地中海沿岸諸国に広く普及しているいわゆる七十人訳聖書の内、どれをユダヤ教の聖書とするかについて協議しました。そして旧約末期にそれまでの伝えを収録した『トビト記』『ユディト記』『知恵の書』『シラ記』など、旧約聖書のかなりの部分が外典とされて、ユダヤ教の聖書から外されてしまいました。その時、『コヘレトの言葉』が聖書から外されなかったのは、旧約末期のユダヤ教でこの書が秋の収穫記念の仮庵祭に、かつての貧しかったイスラエルの民の遊牧生活を偲びながら朗読されていたからだと思われます。エジプトでの豊かさを離れて、荒れ野で40年間も生活したイスラエルの民の流浪時代を回顧するのに相応しい言葉が、この『コヘレトの言葉』には多く読まれます。豊かさに慣れ親しんでいる現代の私たちも、刻々と過ぎ行くこの世の人生の本質的儚さを見失うことのないよう、時々はこの書の言葉を愛読していましょう。

   本日の第二朗読の出典であるコロサイ書は、聖書学者たちの研究によりますと、使徒パウロの書簡ではなく、おそらくその近くにいた協力者が書いた書簡のようですが、作者は「あなた方はキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」などと説いています。私たちは皆遠からず死んで、上にあるあの世の世界に移るようにと神から予定されているのですから、その死の時を先取りして、日々あの世のものに心を留め、過ぎ行くこの世のものに心を引かれて道を誤り、時間や物資を無駄遣いしないようにとの勧めだと思います。しかし、この書簡の作者がその勧めに加えて、あなた方はキリストと共に死んで復活させられたのですだの、あなた方の命はキリストと共に神の内に隠されているのです、などと神秘な言葉を添えていることは注目に値します。恐らくそれは、あの世の神の側から見た現実であって、この世にいる私たちにはまだ見ることも理解することもできず、ただ聞いて信ずることしかできない真理だと思います。しかし、喜んで信じましょう。すると私たちの心のその信仰を介して神よりの恵みの力が心の中に注ぎ入れられ、私たちの心は、その恵みによって新しい確信と希望と意欲の内にあの世中心に生きるようになり、暗い死のトンネルを恐れずに、希望と愛の心で神目指して進んで行くことができるようになると思います。
   書簡の作者は本日の朗読の後半に、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に付け、日々新たにされて真の知識に達するのです」と述べていますが、ここで「古い人」とあるのは、自分中心の精神で神に背き、神による超自然的賜物を全て失って、この世の万物に死と苦しみを齎した古いアダムを指しており、「新しい人」とあるのは、全世界に広まっているその古いアダムの罪の穢れを、ご自身の受難死によって償い浄化した主キリストを指しています。私たちは皆、あの世の神に心の眼を向け神中心に生きようと努めるなら、その神から注がれる新しい恵みの力で、生来の古いアダムの命の衣を脱ぎ捨て、新しいキリストの命の衣を身に付けて、日々キリストの命に心の底から生かされつつ、その体験に基づいて真の知識に達するのではないでしょうか。私たち各人の善い牧者であられる主キリストの導きを正しく聴き取り、それに忠実に従って無事あの世の神の御許に辿り着く恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。


   「死の時を先取りして」と申したついでに、少し私たち自身の死の時のことを考えて見ましょう。心拍停止で頭が働かなくなりますと、夢も見ることが出来ませんが、しかし、そんな時にこそ霊魂が目覚めていろいろな経験をすることがあります。死後にその人の霊魂が見て来て生き返った人の実例は、立花隆氏や片桐すみ子さんの著作に沢山紹介されていますが、先日もある中堅企業の社長の実例を聞きました。その社長が心不全で心拍停止になった時、救急救命士が必死に心臓マッサージを続けたら、社長は息を吹き返したそうですが、その間に社長の霊魂は林の道を抜けて、綺麗なお花畑を通り過ぎ、川のほとりに出たそうです。対岸も見えていてこの川を渡ればあの世だと思ったそうですが、その時「あなたは自分の人生をどのくらい楽しんできましたか」という声が聞こえたそうです。社長はこの世で業績は沢山あげて来たそうですが、その問いには返事ができずにいましたら、「あなたの人生は失敗です。もう一度やり直して来なさい」という声がして、この世に戻され、その瞬間に息を吹き返したのだそうです。そして人生を楽しく生きるということは、業績を上げることではなく、マザー・テレサのように、周りの人たちから喜ばれ感謝される生き方をすることではないかと思い直し、それからは人生を新しい心で生き始めたそうです。私たちも自分の死を先取りして、あの世に行った時に快く歓迎していただけるように、日々温かい隣人愛に活きるよう心がけていましょう。

2016年7月24日日曜日

説教集C2013年:2013年間第17主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 18章20~32節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 2章12~14節
福音朗読 ルカによる福音書 11章1~13節

   本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。4千年近い、3千数百年前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に、しかも大規模に進行しているからです。人類の人口は2030年に80億、2050年に90億などと予測されていますが、産業革命と共に始まった地球の温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル (IPCC)」の報告では、このままの状態が続くと、2050年には世界の飢餓人口が1千万人、水不足に悩む人が10億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生するであろう、などと警告されています。

   今から9百年ほど前のアイルランドには、古都アーマーの大司教であったマラキという預言者が住んでいました。1139年に初めてローマを訪れた時、その往復の途次クレルボー修道院に滞在して聖ベルナルド修道院長と親交を結んでいましたが、1148年に再度ローマ教皇に会うため旅行をした時に、クレルボーで激しい熱病を病み、ベルナルド院長に看取られて亡くなりました。54歳でした。マラキ大司教がこの時ローマ教皇に手渡そうとしていた一枚の紙には、1143年に教皇になったチエレスティーヌス2世から世の終わりまでの全ての教皇の特性が、ラテン語でごく短く数語で表記されており、聖ベルナルドからその預言書を受け取ったローマ教皇庁は、それを門外不出の極秘文書として保管していました。しかし、印刷術が発明されて普及した16世紀の終り頃に出版された『生命の木』と題するラテン語の著書の末尾に、その予言の全文が公刊されてしまいました。それを読んだ歴史家たちは、驚いたと思います。それまでの数十人の教皇たちの特性が皆、ある意味でよく表現されていたからです。私がこの預言書を知ったのは、終戦後間もない神学生時代でしたが、次の教皇即ちヨハネ23世はPator et nauta(牧者と船乗り) となっていて、この教皇の時代に教会はヨーロッパの司牧中心主義から脱皮して、海外の諸宗教にも大きく心を開いた全人類の宗教になるのではなかろうか、などと推測されていました。公会議開催の動きが報道された時、私はなる程と思いました。ヨハネ・パウロ2世については、de labore Solis(太陽の働きで)と予言されていたので、私が神学生であった頃には、この教皇の下でカトリック教会が全世界に広まるのではなかろうか、などと噂されていました。しかし事実は少し違って、この教皇が韓国や日本にまでも旅行なされたことを意味していたようです。

   その次のベネディクト16世については、Gloria olivae(オリーブの栄光)と予言されていて、私たちはオリーブは殉教者と関係が深いので、この教皇は殉教するのではなかろうか、などと噂していました。この教皇は栄光の座にあって、優れた神学者として立派な働きをなさいましたが、しかし、登位なされて間もなくに世界各国での聖職者たちのセクハラが次々と露見し、保守的な教皇に対するマスコミの攻撃も激しさを増して、高齢のためにも教皇としての激務を続けられなくなり、遂に引退なされました。その次の現教皇についてはPetrus Romanus(ローマ人ペトロ)と記されており、初代のローマ司教ペトロのように、ヨーロッパ大陸からは遠く離れた他の大陸の庶民層出身の人が教皇になりましたが、マラキの預言によりますとこの人が最後のローマ教皇で、多くの苦難の中で司牧しますが、この教皇の時に七つの丘の町(即ちローマの町)は崩壊し、最後の審判が始まるとされています。と申しますと、この預言に従うなら今の私たちは既に世の終わり直前の時代に生きており、神が人間中心主義の罪で穢れたこの世の全てに恐ろしい苦難を与えてその全ての罪を償わせ、復活した主キリストの栄光に参与して輝く新しい世界に産まれ変わらせる時は、既に間近に来ており、今私たちの祝っている「信仰年」は、その苦難の時に備えて信仰・希望・愛に生きる心を整えて置くようにと、神の摂理が私たちにお与えになった特別の修練期間なのかも知れません。目覚しく発展しつつある今の世界の豊かさを謳歌する人たちの多くは、まだ世の終わりには成りそうでないと思うと思いますが、終末は全く突然に訪れる死のようなもので、豊かに発展しつつあった二千年前のエルサレムの町が、突然ローマの大軍に包囲されて人が住めない程の徹底的廃墟と化したように到来するようです。「その日その時は誰も予測できない」という主のお言葉もあります。その日に聖母マリアや主の導き・助けを受けることができるよう、今から心を備えて置きましょう。

   本日の福音の中で弟子の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい」と願うと、主は「祈る時にはこう言いなさい」とおっしゃって、「父よ、あなたの御名が聖とされますように」という言葉で始まる祈りを教えて下さいました。これが、主が教えて下さった本来の「主の祈り」であると思います。マタイが主のお言葉を総合的に手際よくまとめた山上の説教の中では、「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように」という言葉で「主の祈り」が始まっていますが、これは、初代教会が主から教わった祈りを集会の儀式用に多少補い変更させた祈りであろうと言われています。しかし、どちらの祈りでも、「御名が聖とされますように」という言葉が真っ先に置かれていることは大切だと思います。「聖とされる」という言葉は日本人には解り難いという理由で、プロテスタント諸派でもカトリックでも、この言葉は明治時代から「崇められますように」や「尊まれますように」などと訳し変えられ、宗教儀式でもそのように唱えられていましたが、これは主が唱えるようにとお命じになった祈りの言葉を、人間の考えによって別の意味の言葉に変えて唱えることになり、主のお望みに反することになると恐れます。主は「祈る時には、こう言いなさい」とお命じになったのですから。
   私は司祭叙階後にヨーロッパに留学しましたら、西欧諸国の言語にこの言葉がどこの国でも、「聖とされる」と翻訳されて使われているのを体験し、日本語訳が原文と違っているのが気になってなりませんでした。幸い十数年前から日本の聖公会とカトリック教会とが共同で、儀式の時に唱える「主の祈り」に「御名が聖とされますように」という邦訳を導入してくれましたので、今は感謝し喜んでいます。この祈りは主が教えて下さったという意味だけではなく、主ご自身が私たちと一緒に唱えて下さるという意味でも「主の祈り」であり、その言葉を私たち人間の考えや分り易さを中心にして変更することは、父なる神の聖さがこの世においても讃えられるようにと切に願っておられる、主のお望みに反するのではないでしょうか。

   「聖」という価値観は、真・善・美などのこの世の人間社会でも通用する価値観とは違って、本来神中心主義の美しさに輝いているようなあの世的聖さの価値観であり、この世の人間には解り難い価値観であります。主がそれを御承知の上で、あえて「御名が聖とされますように」という祈りを真っ先に唱えるようにとお命じになったのは、主と一致して度々そのように唱えている内に、私たちの心があの世的価値観に慣れ親しみ、聖霊の働きによってその価値観を正しく解るようになるからではないでしょうか。またこの言葉に続く幾つかの祈りは、全てこの最初の祈り一つに集約されるからでもあると思います。自分の考えを中心に据えて生きる人の多い「古いアダム」の罪がはびこっているこの穢れた被造物界に、父なる神中心に徹底的従順に生きる新しい神の愛の聖さを聖霊の働きによって根付かせ広めて行こうというのが、人間イエスの一番大きな願いであり、神の御国の広まりも日毎の糧の恵みも、他の全ては皆そのための手段に過ぎないように思われます。


   私たちの人間理性はこの世の事物を理解する能力ですので、神中心主義の愛の美しさに輝くその聖さを理解することも、自分の力で獲得することもできません。いや、宇宙万物の創造主を「父」とお呼びする大胆な愛を身につけることもできないと思います。しかし、主のお言葉に従い主と一致してそのように祈っていますと、主も私たちの心の中で一緒に祈って下さり、聖霊がその心の中で働いて、私たちに神の聖さを解らせて下さるのではないでしょうか。私たちの霊魂は、まだ心の奥に残っている、全てを自分中心に考える古いアダムの穢れた精神を、少なくとも死後あの世の浄めの火で徹底的に焼き尽くし、己を無にして神の御旨中心に生きる存在に変革されて、神中心の超自然的聖さに輝き始めない限り、諸聖人たちのいる天国には入れてもらえないと思います。私たちも諸聖人たちの模範に倣って、この世に生活する時から主の提供しておられるあの世的聖さを体得し、皆聖人になるよう努めましょう。察するに、日々御ミサの度毎にこの祭壇にお出で下さる御復活の主イエスは、今も毎日「父よ、御名が聖とされますように」と天の父なる神に祈っておられ、私たちがその祈りを唱える時、主も私たちの内で一緒に唱え、父なる神に捧げておられるのではないでしょうか。主の現存を信じつつ、主と御一緒に「主の祈り」を唱えるよう心掛けましょう。

2016年7月17日日曜日

説教集C2013年:2013年間第16主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 18章1~10a節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章24~28節
福音朗読 ルカによる福音書 10章38~42節

   主が弟子たちを連れてやって来た村は本日の福音では「ある村」となっていますが、エルサレムに近いベタニヤという村でした。そこにはラザロという、多分富裕な貿易商と思われる人が大きな家屋敷を構えていて、いつも主の一行を快く泊めてくれていました。主のご受難の少し前に、このラザロが死んで屋敷内の墓に葬られていたのを、主が蘇らせた話がヨハネ11章に書かれていますが、そこにもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカ福音書には、七つの悪魔を追い出してもらったマグダラのマリアと呼ばれる女の話もあって、この女が特にヨハネ福音書では、主の受難死と復活の時に主に忠実に留まり続けて活躍したように描かれていますが、同じ古代末期の崩れ行く社会の中に生まれ育ち、4世紀後半に長年エルサレムに滞在して新約聖書をラテン語に翻訳したり、聖書の注解書を著したりした聖ヒエロニモは、このマグダラのマリアとラザロの妹マリアとを同一人物としています。しかし、社会体制も社会道徳も比較的安定していた時代しか知らないある聖書学者が、この二人が同一人物であるとは考えられないという仮説を唱えたことがありました。確かに、首都圏の立派な資産家の家に生まれ育った女が、貧しい家の出身者が多いマグダラの遊女たちの間で生活する程に身を持ち崩し、社会からも「罪の女」として後ろ指を指されるに到ったなどということは、通常では考えられないと思います。でも、社会全体が根底から文化的液状化現象で揺らぎ、社会道徳も心の教育も、基盤とする権威を失って崩壊しつつあるような時代には、現代においてもそのような異変が起こり得るのではないでしょうか。伝統的な堅苦しい束縛を嫌い、自分の思いのままに生きようとする人間は今の時代にも多いようです。良家の娘が家出をしたりした話は、現代にもたくさんありますから。

   本日の福音に戻りますと、罪の女の生活から足を洗って元の家に戻っている、そのマリアがいる家に主が弟子たちを連れてやって来ると、妹と違って伝統的良風を堅持し、家事を任せられていたと思われるマルタは、突然の客たちの夕食の準備で大忙しであったと思われます。マルタという名前は、当時シリア、パレスチナ地方に住んでいた庶民が、異教徒もユダヤ人もごく一般的に話していたアラム語では「女主人」という意味だそうですが、マルタは名実共に女主人として、本日の福音にあるように、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた」のだと思います。ルカ福音書8章の始めには、主と12使徒たちの旅行には以前に悪霊や病気から癒された数人の婦人たちも同行していたとありますから、マルタは、他所から来たその婦人たちにも、いろいろと指示を与えながら、主の一行の食事の準備などに追われて、心が少し散り散りになっていたかも知れません。
   ところが、自分の家のことをよく知る妹のマリアはマルタに手伝おうとはせず、広間で主の弟子たちと一緒に主の足元に座して、主の話に聞き入っていました。当時の伝統的慣習では、女性は公的なシナゴガだけではなく個人宅の広間などでも、男性客の間に入り混じって話を聞いたり教えを尋ねたりすることは許されず、女の慎みに欠ける行為とされていました。当時の律法学者たちが、律法の教えを学ぶのは男性の務めであって、女性にはふさわしくないと教えていたからでもあると思います。伝統的慎みの慣習を重視していたと思われるマルタは、折角自宅に戻って来た妹のそのような慎みを欠く行為を見て、できれば一言すぐに注意したかったでしょうが、主のすぐ真ん前ですし、主が何もおっしゃらないので暫くは見て見ぬふりをしていたのかも知れません。しかし、遂に我慢できなくなったのだと思います。主のお側に近寄って「主よ、妹が私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」と申しました。
   主はそれに対して「マルタ、マルタ」と名前を二度も重ねて呼んでいますが、これはマルタへの親しみの情の表現だと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」とおっしゃいました。私たちも客人のもてなす時には、その人から良く思われるよう種々配慮しますし、その配慮は必要ですが、しかし、そのことで心を乱し、客人に対する接待を喜びの心のこもらないものにしてはならないというのが、主の教えではないでしょうか。外的慎みの配慮やもてなしの価値は、それらの配慮や奉仕に込める、神や客人への心の愛にあると思います。人と人の考えや好みや価値観などが大きく多様化している時代には、もてなしの心の本質を念頭において、ひたすら神の方に眼を向けつつ喜んで奉仕するように、というのが主のお勧めなのではないでしょうか。

   最後に、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というお言葉も、大切だと思います。ここで「良い方」とある言葉は、何を指しているのでしょうか。いろいろと意見があるでしょうが、私はこれを、昔ある人たちが考えたような観想生活のことではなく、自分に対する主の御言葉、神からの呼びかけなどを指していると思います。罪から立ち上がる恵みを得たマリアは、ひたすら神よりの呼びかけにのみ心を向けて生きようとしていた、進歩的女性だったのではないでしょうか。女性を家事や子育てだけに閉じ込めて来た旧来の伝統に反対し、いわば自分も主の女弟子になって男たちと共に主のお言葉を聴聞し、その証し人になることを望んでいたのかも知れません。主はその大胆な新しい試みを快く容認なされ、そのことを「良い方」と表現なされたのだと思われます。女性は律法研究などの男性の務めには立ち入らず、食事や育児などの家事の世話に専念すべきだとしていた律法学者たちの伝統的思想を退け、女性であっても神を愛し神に従おうとしているならその心を是とし、律法の理知的理解よりもメシアの新しい教えや神の霊の導きを信仰をもって受け入れる心、それに従おうとする自主的心の愛を重視しておられたからだと思われます。

   ガラテヤ書3章の中で、ユダヤ教の律法をキリストがお出でになるまでの「養育係」と説いている使徒パウロは、すぐその後で、「私たちはもう養育係の下にはおりません。あなた方は皆、信仰によってキリスト・イエスと一致し、神の子なのです」「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人も、男も女もありません」などと書いています。時代遅れになっていたユダヤ教の律法に反発するあまり、罪の女にまで成り下がって社会的対面をつぶし、ゼロにまで成ったマリアは、主キリストに出会って神に対するその罪を全て赦して戴くと、その主に対する信仰と愛と感謝の心で、律法中心の旧約の生き方から完全に脱皮し、メシア中心・神中心の新約時代の信仰一つに転向し、主の女弟子のようになって生き始めたのではないでしょうか。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という主のお言葉は、この立場で受け止めたいと思います。主のご受難の六日前、非常に高価なナルドの香油を1リトラも主の御足に注いで自分の髪の毛で拭いたマリアは、その心の愛にかけては、当時の主の弟子たちよりも熱心だったのではないでしょうか。


   それが、人の心も神の霊の働きもそれぞれ極度に多様化する大きな過渡期に、主が多種多様な個性的人々を救うためにお示しになった生き方であると思います。「グローバル時代」と言われる現代は外的にも内的にも、未だかつて無かった程大きな過渡期であると言ってよいでしょう。私たちも、男女を問わず一人でも多くの人が、崩れ行く伝統的枠組みに拘泥せずに、善き牧者であられる主キリストの御声や神の霊の導きに従うことを何よりも大切にして、激変する終末的な今の世の荒波を乗り切る力と助けを神から受けるに至るよう、神の憐れみと恵みを祈り求めましょう。

2016年7月10日日曜日

説教集C2013年:2013年間第15主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 30章10~14節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章15~20節
福音朗読 ルカによる福音書 10章25~37節

   本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」などと話しています。長年待望して来た約束の地を目前にしてモーセは、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と愛する神の民の心にしっかりと刻み込んで置きたかったのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。モーセがここで「律法の戒めと掟」と話している掟の内容も、後の時代の律法とは異なり、神の十戒を中心とするごく基本的な戒めや心構えだけであったと思います。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、各人に対するその神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、温かい共同体精神が無力化して孤独と不安の中に生活している人の多い今の世に、私たちが心の本当の内的喜びと仕合わせに到達する道であると信じます。
   本日の福音の中で主は、一人の律法学者から「では、私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、「善きサマリア人の譬え」を話されました。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と10数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。
   譬え話では、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のように見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に12回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また本日の福音に読まれる半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として3回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。
   主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するように神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、律法にあるように法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、私たち各人の心の精神が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人の内に私たちに対する神からの導きや招きの声を感知して、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。

   こうして自分の隣人を主体的に産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのではないでしょうか。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛や夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人や助けを必要としている人を見て憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見るようになるのです。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2016年7月3日日曜日

説教集C2013年:2013年間第14主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 66章10~14c節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節
福音朗読 ルカによる福音書 10章1~12、17~20節

①本日の第二朗読の中で、使徒パウロは、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと述べていますが、続いて「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」とある言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させます。使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに、心を打ち込んでいたのだと思われます。古代の奴隷や奴隷女は、いつも自分の所有者である主人の考えや言葉に心を向け、その考えに従って行動し働こうとしている存在であって、自分の考えや自分の解釈、あるいは自分の望みのままに行動する自由は持っていませんでした。外的には自由のない可哀そうな存在と思われるかも知れませんが、しかし、その主人が愛深い牧者のような人である場合は、我なしのその従順によって主人から実に多くのことを実践的に学び取り、能力も磨かれ鍛えられて幸せに生きることができました。使徒パウロは、そういう主人・主キリストの奴隷として生きることに、大きな喜びと感謝を見出していたのだと思います。私たちも、その模範に倣うよう心がけましょう。
②戦後数十年間も自由主義と個人主義の教育が続きましたら、日頃他者と一緒に助け合い励まし合って、不便を忍び困難に打ち克って生きるという体験をしたことがなく、極度の便利さの中で自分独りで全てを利用しながら生きているために、自分のその気ままと個人主義が無視され否定されたと思うような言行に出会うと、途端に自分が否定されたと受け止めて怒り出す、いわゆる「キレる」人間が多くなって来たように思われます。その人たちは、孤独な過敏さと被害者感覚が心の奥に蓄積されていて、考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、心が個人主義一つに立て篭もっているために落ち着きがなく、自分の思い通りにならない現実に直面すると、心の衝動をコントロールすることが出来なくて、極度に苦しむのではないでしょうか。
③こういう人たちは社会にとって真に迷惑な困った存在ですが、本人たち自身も自分の心を持て余し、半分捨て鉢になって苦しんでいるのかも知れません。私は現代のキレる人たちをその心から救う道は、神を信奉すること以外にないと考えます。現代は国家も社会も家族も極度に多様化しつつあり、内面から分裂し分散する動きを示していて、個人主義の極限で苦しむ人の心を癒したり、その苦悩から救い上げたりすることは期待できないからです。美空ひばりが「川の流れのように」を歌った昭和最晩年の頃からは、島国日本の社会にも、地球規模のグロバール社会の色彩がそれまでよりも遥かに濃くなって来て、日本社会はもう一本の川の流れのように動いているのではなく、地球規模の様々な海流に揉まれながら動いているように見えます。外的にはまだ日本人が主導権を握っていますが、しかし社会の流れはもう川ではなく、様々な汚れや塩分や毒物を巻き込んでいる海水の流れになっています。海ではあらゆる分野で世界各国の異変の影響を大きく受けますし、これまで経験して来なかった深みに潜む深層水の流れにも配慮しなければならない、という不安もあると思います。
④捉えようがない程のこの不安に、人々の心が目覚め始めたからなのでしょうか、21世紀の初め頃からは各個人の心の安定のため、オーム真理教のサリン事件などで宗教に背を向けていた若者たちの間でも、再び神信仰に対する関心が目覚めて来たようです。でも、その関心は宗教教団に対する関心ではなく、神信仰に基づく各個人の心の内観や、自己決定や自己責任などを重視する、自分の心の内的刷新に対する関心のようです。宗教集団には様々の古い法規や組織が居座っていて、そんな堅苦しいものに束縛されることを嫌っているのかも知れません。形は個人的であっても、真の神を信奉することが孤独と不安に悩む現代人を、新たな形で主キリストによる救いヘと導いてくれると信じます。主からのその恵みと、聖霊の御導きとを、孤独に苦しむ多くの現代人の上に祈り求めたいと思います。出身地も教育も大きく異なる人たちが、深刻な不安の内に自分中心に生きようとする心を改め、謙虚に神を信奉し神の新たな導きに従う心で、相互に結ばれ助け合うことを、神も現代社会に生きる人たちから望んでおられるのではないでしょうか。
⑤本日の福音には、「どこかの家に入ったら、まずこの家に平和があるようにと言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人の上に留まる。もしいなければ、その平和はあなた方に戻って来る」という主のお言葉があります。各人の思想も関心も極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においては、このお言葉は大切だと思います。ここで「平和」と邦訳されている言葉シャロームは、「平安」と理解してもよいと思います。私の今いる神言神学院にはアジア・アフリカ・ヨーロッパ・アメリカの10ケ国人が一緒に生活していますが、年齢差もあって日本人同志であっても、お互いに話し相手のことはある限られた範囲までしか分りません。でも、互いに相手のことを詳しく知らなくても、仲良く一緒に祈り一緒に食事をし一緒に働くことはできます。お互いに主の平安が相手の心にあるようにと祈っていれば、主ご自身が私たちの中で働いて下さいます。主が唱えるようにとお命じになったこの祈りは、少しも無駄になりません。相手の心がその平安を受け入れなければ、その平安は自分の心に返し与えられるのですから。主は、本日の福音にあるように七十二人の弟子たちを派遣なされた時だけではなく、マタイ10章では十二使徒を選んで派遣なされた時にも、全く同じようにお命じになっておられます。それで私は、使徒や弟子たちが主から命じられたこの言葉を唱える時、その瞬間に神なる主がそこに現存して彼らは霊的に主の器・道具となり、主ご自身が彼らを通してそこにお働き下さり、人々に恵みを与えて下さるのだ、と受け止めています。聖書によりますと、主から派遣された彼らは、外的には主から遠く離れていても、病人を癒したり悪霊を追い出したりしていますが、それは主のお言葉に従って実践した彼らを介して、主が霊的に現存し働いて下さったからだと思います。

⑥その同じ主は、死ぬことのないあの世の命に復活なされて、今は私たちと共におられます。私たちも主のお言葉を信じて同じように実行してみましょう。主は私たちを通してもお働き下さいます。主はまた別の時に弟子たちに、あなた方はこのように祈りなさいとお命じになって、「主の祈り」を教えて下さいました。私は、主のご命令に従ってこの祈りを唱える時も、主がその瞬間に私たちの中に霊的に現存されて、私たちと共に天の御父に祈って下さるのだと信じています。私たちはミサの中でも、ロザリオの祈りの時にも、この祈りを唱えますが、その時主が私たちと一緒に祈っておられるのだ、という信仰に生きるよう心がけましょう。すると主が実際に私たちの内にも、また周囲の人たちのためにも善い働きを為して下さいます。これは、現代のような終末の世の不安に揉まれて生活する時代には、非常に大切な「人生の秘訣」であると思います。