2016年7月31日日曜日

説教集C2013年:2013年間第18主日(三ケ日で)

第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節、2章21~23節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~5、9~11節
福音朗読 ルカによる福音書 12章13~21節

   本日の第一朗読の出典である『コヘレトの言葉』は、旧約時代の末期に書かれた「知恵文学」の一つで、この「知恵文学」には『ヨブ記』や『シン言』も属しており、旧約聖書外典の『知恵の書』や『シラ書(集会書)』なども属しています。神の民のこの「知恵文学」の類型は、諸外国との文化的交流を盛んにしたソロモン王の時代から始まりました。すなわち、エジプトやメソポタミア諸国の宮廷人や知識人の知恵文学の影響を受けて、イスラエル人の祭司・賢者・預言者たちの間では、人間生活に関する教訓詩、常套句、俚諺や警告、あるいは動植物から学んだ教訓的寓話などが流行し始めたのでした。そこにはイスラエル人の伝統的世界観や人生観を基にして、現実を肯定しつつ賢明に生きる道を求める建設的で楽観的な思想のものと共に、現実の人生に遭遇する不公平や各種の危険などを重視する懐疑的思想のものも見られました。『シン言』は、その流れの中の人生教訓や建設的な言葉を多く収録していますが、『コヘレトの言葉』は、それよりもむしろ人生の現実に対する批判的懐疑的な言葉を多く収録している、と申してよいと思います。

   本日の第一朗読は「コヘレトは言う」という言葉で始まっていますが、コヘレトは特定の人物の名ではありません。それは、作者が「集める」という意味の動詞カーハルの分詞から勝手に作った号名で、エジプトの古い教訓詩の様式に倣って、その書の始めに「私コヘレトはイスラエルの王で、エルサレムにいた」などと書き、あたかも数百年前にいた賢明な国王の言葉であるかのような印象を与えようとしていますが、そんな国王は実際には存在せず、それまでのイスラエル知識階級の内に語り伝えられていた、現実の人生に否定的懐疑的な言葉を多く収録した著作のようです。紀元70年に首都エルサレムがローマ軍によって滅ぼされ廃墟とされた後、世界中に分散して行く流浪の民となったユダヤ人の律法学者たちは、90年にユダヤのヤムニヤで会合して、旧約末期の紀元前3世紀頃にエジプトでギリシャ語に翻訳され、既にオリエント・地中海沿岸諸国に広く普及しているいわゆる七十人訳聖書の内、どれをユダヤ教の聖書とするかについて協議しました。そして旧約末期にそれまでの伝えを収録した『トビト記』『ユディト記』『知恵の書』『シラ記』など、旧約聖書のかなりの部分が外典とされて、ユダヤ教の聖書から外されてしまいました。その時、『コヘレトの言葉』が聖書から外されなかったのは、旧約末期のユダヤ教でこの書が秋の収穫記念の仮庵祭に、かつての貧しかったイスラエルの民の遊牧生活を偲びながら朗読されていたからだと思われます。エジプトでの豊かさを離れて、荒れ野で40年間も生活したイスラエルの民の流浪時代を回顧するのに相応しい言葉が、この『コヘレトの言葉』には多く読まれます。豊かさに慣れ親しんでいる現代の私たちも、刻々と過ぎ行くこの世の人生の本質的儚さを見失うことのないよう、時々はこの書の言葉を愛読していましょう。

   本日の第二朗読の出典であるコロサイ書は、聖書学者たちの研究によりますと、使徒パウロの書簡ではなく、おそらくその近くにいた協力者が書いた書簡のようですが、作者は「あなた方はキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」などと説いています。私たちは皆遠からず死んで、上にあるあの世の世界に移るようにと神から予定されているのですから、その死の時を先取りして、日々あの世のものに心を留め、過ぎ行くこの世のものに心を引かれて道を誤り、時間や物資を無駄遣いしないようにとの勧めだと思います。しかし、この書簡の作者がその勧めに加えて、あなた方はキリストと共に死んで復活させられたのですだの、あなた方の命はキリストと共に神の内に隠されているのです、などと神秘な言葉を添えていることは注目に値します。恐らくそれは、あの世の神の側から見た現実であって、この世にいる私たちにはまだ見ることも理解することもできず、ただ聞いて信ずることしかできない真理だと思います。しかし、喜んで信じましょう。すると私たちの心のその信仰を介して神よりの恵みの力が心の中に注ぎ入れられ、私たちの心は、その恵みによって新しい確信と希望と意欲の内にあの世中心に生きるようになり、暗い死のトンネルを恐れずに、希望と愛の心で神目指して進んで行くことができるようになると思います。
   書簡の作者は本日の朗読の後半に、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に付け、日々新たにされて真の知識に達するのです」と述べていますが、ここで「古い人」とあるのは、自分中心の精神で神に背き、神による超自然的賜物を全て失って、この世の万物に死と苦しみを齎した古いアダムを指しており、「新しい人」とあるのは、全世界に広まっているその古いアダムの罪の穢れを、ご自身の受難死によって償い浄化した主キリストを指しています。私たちは皆、あの世の神に心の眼を向け神中心に生きようと努めるなら、その神から注がれる新しい恵みの力で、生来の古いアダムの命の衣を脱ぎ捨て、新しいキリストの命の衣を身に付けて、日々キリストの命に心の底から生かされつつ、その体験に基づいて真の知識に達するのではないでしょうか。私たち各人の善い牧者であられる主キリストの導きを正しく聴き取り、それに忠実に従って無事あの世の神の御許に辿り着く恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。


   「死の時を先取りして」と申したついでに、少し私たち自身の死の時のことを考えて見ましょう。心拍停止で頭が働かなくなりますと、夢も見ることが出来ませんが、しかし、そんな時にこそ霊魂が目覚めていろいろな経験をすることがあります。死後にその人の霊魂が見て来て生き返った人の実例は、立花隆氏や片桐すみ子さんの著作に沢山紹介されていますが、先日もある中堅企業の社長の実例を聞きました。その社長が心不全で心拍停止になった時、救急救命士が必死に心臓マッサージを続けたら、社長は息を吹き返したそうですが、その間に社長の霊魂は林の道を抜けて、綺麗なお花畑を通り過ぎ、川のほとりに出たそうです。対岸も見えていてこの川を渡ればあの世だと思ったそうですが、その時「あなたは自分の人生をどのくらい楽しんできましたか」という声が聞こえたそうです。社長はこの世で業績は沢山あげて来たそうですが、その問いには返事ができずにいましたら、「あなたの人生は失敗です。もう一度やり直して来なさい」という声がして、この世に戻され、その瞬間に息を吹き返したのだそうです。そして人生を楽しく生きるということは、業績を上げることではなく、マザー・テレサのように、周りの人たちから喜ばれ感謝される生き方をすることではないかと思い直し、それからは人生を新しい心で生き始めたそうです。私たちも自分の死を先取りして、あの世に行った時に快く歓迎していただけるように、日々温かい隣人愛に活きるよう心がけていましょう。