2016年7月10日日曜日

説教集C2013年:2013年間第15主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 30章10~14節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章15~20節
福音朗読 ルカによる福音書 10章25~37節

   本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」などと話しています。長年待望して来た約束の地を目前にしてモーセは、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と愛する神の民の心にしっかりと刻み込んで置きたかったのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。モーセがここで「律法の戒めと掟」と話している掟の内容も、後の時代の律法とは異なり、神の十戒を中心とするごく基本的な戒めや心構えだけであったと思います。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、各人に対するその神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、温かい共同体精神が無力化して孤独と不安の中に生活している人の多い今の世に、私たちが心の本当の内的喜びと仕合わせに到達する道であると信じます。
   本日の福音の中で主は、一人の律法学者から「では、私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、「善きサマリア人の譬え」を話されました。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と10数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。
   譬え話では、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のように見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に12回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また本日の福音に読まれる半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として3回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。
   主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するように神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、律法にあるように法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、私たち各人の心の精神が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人の内に私たちに対する神からの導きや招きの声を感知して、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。

   こうして自分の隣人を主体的に産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのではないでしょうか。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛や夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人や助けを必要としている人を見て憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見るようになるのです。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。