2009年10月25日日曜日

説教集B年: 2006年10月29日、年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 31: 7~9.   Ⅱ. ヘブライ 5: 1~6.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 46~52.


① 本日の第一朗読は、旧約の神の民の数々の罪を暴き、嘆きながら神よりの警告を語ることの多かったエレミヤ預言者の言葉からの引用ですが、この預言書の31章は神との新しい契約について予告していて、エレミヤ書の中でも、将来に対する大きな希望を与えている最も喜ばしい箇所だと思います。紀元前10世紀に南北二つの王国に分裂した神の民のうち、北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、そこに住んでいた住民はアッシリアに強制連行されて、各地に分散させられてしまいました。残酷なアッシリア人によるこの征服と連行の過程で、命を失った者や異教徒になってしまった者たちは多かったと思われますが、しかし、この時アッシリアに連行された人々が皆信仰を失ってしまったのではないようです。
② それから100年余りを経て神の言葉を受けたエレミヤは、ここで信仰を失わずにいるその人々のことを「イスラエルの残りの者たち」と呼んで、その人々を救ってくれるように祈ることを、神から命じられており、そして神は、「見よ、私は彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める」という、嬉しい約束の言葉を話しておられます。「北の国」とあるのは、アッシリアの支配地だと思います。神は更に、「私はイスラエルの父となり、エフライムは私の長子となる」と約束しておられますが、ここで「エフライム」とあるのは、エジプトで宰相となったヨゼフの子の名前で、その子孫である北王国の中心的部族の名でもあり、総じてアッシリアに連行されたイスラエル人たちを指していると思います。彼らも新たに神の子らとされて、メシアによる福音の恵みに浴することを、神が予告しておられるのではないでしょうか。
③ 本日の第二朗読は、神の御独り子がこの世の人間の弱さを身にまとって受肉なされたこと、そして全ての人間の中から選ばれ、民のためにもご自身のためにも、その弱さ故に苦しみつつ罪の贖いの供え物を献げるよう、神から任命されたのであることを教えています。人々のために神に仕えるこの光栄ある大祭司の職務は、自分で獲得するものではなく、神から召されて受けるものであることも説かれています。祭司の職務に限らず、英語では職業のことをヴォケーションと呼んだり、コーリングと呼んだりしていますが、いずれもラテン語あるいは英語の「呼ぶ」という動詞から派生した名詞で、その背後には、神からこの仕事に呼ばれているのだ、という敬虔なカルヴィン派の思想があると思います。昔の日本人も自分のなしている仕事を、天から授けられた使命と考えて「天職」と呼んでいましたが、近年汚職事件が多発しているのを見聞きしますと、現代社会にこのような宗教的職業観を広める必要性を痛感致します。人々の上にそのための照らしの恵みを神に祈るだけではなく、私たち自身も平凡な日常生活の中で、日々そういう職業観や天から見守られているという仕事思想を実践的に体現し、証しするよう心がけましょう。神はそのようにして信仰に生きる人を求めておられ、その人を介して豊かな恵みを現代の人々に注ごうとしておられると信じます。
④ 本日の福音は、主がバルティマイという盲人の目を癒された一つの奇跡物語ですが、マルコは主によるその癒しの奇跡よりも、その前後のバルティマイの言行の方に読者の関心を向けようとしているように見えます。というのは、原文のギリシャ語ではここに二度登場している「道」という言葉に、わざわざ冠詞をつけて「その道」と書いているからです。乞食の盲人はまず「その道の傍らに座っていたのです」。ここで「その道」とあるのは、その少し前の文脈を読んでみますと、先週の日曜日にも申しましたように、主がエルサレム目指して進んで行かれる道であり、その途上でエルサレムでの受難死を三度目に予告なされた、いわば十字架への道であります。その道の傍らにいる盲人に、主はご自身から言葉をかけるようなことはなさいませんでした。しかし、一行の通り過ぎる物音から、それがナザレのイエスのお通りと聞いて、盲人が「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び始めたのです。多くの人が彼を叱りつけ、黙らせようとしますと、彼はますます「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び続けました。
⑤ それで主は立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。人々が盲人を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」というと、盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスの御許に来ました。上着を捨てたことは、自分のそれまでの持ち物を捨て、無一物になって主の御許に来たことを意味していると思います。マルコがここで、叫び続けたバルティマイに対する主の方からのお呼びにも、フォーネオーというギリシャ語の動詞を三度も使って、「呼んで来なさい」「呼んで言った」「お呼びだ」などと書いていることも、注目に値します。それは少し力を込めて呼ぶという意味合いの動詞のようですから、マルコによると、主も弟子たちも、少し離れ去った所から大きな声で、バルティマイをお呼びになったのではないでしょうか。躍り上がって御許に来た盲人に、主が「何をして欲しいのか」とお尋ねになると、「ラビ、目が見えるように」と答えたので、主はすぐに癒し、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われました。ギリシャ語原文によりますと、その人は「その道を彼 (すなわち主) に従った」と続いていて、マルコはここでも冠詞をつけ「その道」と書いています。エルサレムを間近にした最後の旅の途中でなされた盲人の癒しというこの奇跡を、主が、ご自身の受難死に対する弟子たちの心の盲目の癒しのため、という願いを込めてなされたかのように。
⑥ 余談になりますが、私は先週の月曜日に三ケ日から帰った後、午後に西日本の老人修道女ばかりのようなある修道院で、皆の生活を統括する世話をしている私よりも年上の修道女から、名古屋駅でゆっくりとその苦労話を聴き、その相談に乗る機会に恵まれました。その人の話によると、それまで何十年間も人並みに大過なく修道生活を続けて来た人なのに、年老いてから急に妬み深くなり、修友たちを困らすようなことを言ったりしたりする人もいるのだそうです。それはそれ程驚くほどのことではありません。人間は面白いもので、どんな人にも「善悪二つの心」「二つの顔」などと言われるものがあります。人の心の中には、男性的と女性的との二つの要素がちょうど夫婦のように連れ立って存在しているのではないでしょうか。両者が互いに助け合い補い合って平和に協調している心は仕合せだと思いますが、片方だけが長年上に立ってワンマン的に振舞い、外の人に善い顔を見せようと一生懸命になっていると、その陰にあるもう一つの心が抑圧され続けて、気晴らしする機会にも恵まれず、心の奥底に深く根を伸ばし、欲求不満で反抗に傾き、強くなっていることがあり得ます。こうして二つの心の間に適度の交流がないまま、一つの理念だけで生きていますと、年老いたり、あるいは何かのことで落胆したりしてこれまで上に立っていた心の抑圧が弱まった時、抑圧され続けて来たもう一つの心が表面に躍り出て、憂さ晴らしのようなことを始めるのではないでしょうか。それで私はその修道女に、そういう言動を示す人には、まともに付き合わずに、少し距離を置いてでも良いですから、心配せずにあくまでも温かく親切にしていて下さい、そしてその人の心の奥には、もう一つの善い心が潜んでいて、自分のわがままな言行について詫びたり、悔い改めてもっと強くなろうとしたりしていることを信じ、その善い心の方に眼をかけていて下さい、と勧めました。
⑦ このような二つの心の葛藤は、聖人たちであっても多かれ少なかれ体験していると思います。使徒パウロも、ローマ書7章の後半に、自分の心の中でのそのような葛藤体験について述懐しています。「私は内なる人に従って神の律法を喜んでいますが、しかし、私の五体の中には別のノモス (原理) もあって、…それが私をとりこにしていることが分ります」などと書いていますから。私たちも、自分の内にある二つの心、二つの顔というものに常々配慮し、心のこの裏表二つの側面が相互によく話し合いながら、バランスよく生きるように、そしてやがては二つの顔がどちらも、それぞれ主キリストにおいて互いによく似た美しい顔になるよう心がけましょう。聖人たちは皆その内的平和協調に努めていたので、やがてはいつどの角度から見られても、いつも同じ一つの優しい顔に見えていたように思います。これが、心の奥にいつまでもストレスを蓄積することのない、最も仕合せな生き方だと信じます。私たち各人の上にその恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年10月18日日曜日

説教集B年: 2006年10月22日、年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 53: 10~11.   Ⅱ. ヘブライ 4: 14~16.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 35~45.


① 今日の日曜日は「世界宣教の日」とされていますので、現教皇のこの日に宛てたメッセージにもありますように、世界中の宣教師たちが人々の心を神の愛で「燃え上がらせる」よう、聖霊の恵みを願い求める意向で、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。ごいっしょにお祈り下さい。
② 本日の第一朗読であるイザヤ書53章は、「主の僕の歌」または「苦難の僕の歌」と言われており、その僕が誰を指しているかについて、ユダヤ教ではバビロン捕囚のイスラエルの民を指すと解釈しています。その子孫であるユダヤ人も、エルサレム滅亡後の2千年近い歴史を振り返ると、世界の各地で繰り返しひどい差別扱いや迫害を受けていて、まさに「苦難の僕」のような歴史を営んで来ているように思います。しかし、キリスト教ではその僕を主イエスご自身と受け止めており、イザヤ預言者は、主の受難死を数百年も前にはっきりと予見し、見たままに予言したのだと思います。実際、この53章に描かれている苦難は、四福音書の主の受難記と照合すると、よく適合しているように思われるからです。本日の朗読箇所にあるように、主イエスは「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を背負った」のであり、神のお望みに従って打ち砕かれ、「自らを償いの献げ物とした」のです。
③ 本日の第二朗読であるヘブライ書は、かつて律法学者でもあった使徒パウロが、ユダヤ人宛てに書いたものと考えられていた時代もありました。3世紀のアレクサンドリアの聖クレメンスがそのように考え、パウロが自分の名をつけなかったのは、自分に対して強い反感を抱いているユダヤ人がいたからであろう、と推察しているからです。しかし、聖書の研究が進むにつれ、ヘブライ書はパウロの作ではないと考えられるようになりました。すでに16世紀のルッターが、旧約聖書に基づく論証のやり方や力強い筆致などからの推察でしょうか、『使徒の宣教』やコリント前書に登場するアポロの作と考えたそうですが、近年の聖書学者たちは、パウロたちの没後、エルサレム神殿も破壊されて無く、絶対的権威であった旧約聖書をどう理解したらよいかに迷って、心を大きく動揺させていたユダヤ人キリスト者たちに宛てた、1世紀末葉の誰かの作と考えています。本書が「神殿」という言葉を避け、祭司たちが神を礼拝した場を一貫して「幕屋」と記していることも、注目に値します。エルサレム神殿が無くなって動揺している人々の心を鎮めるために書かれたからではないでしょうか。
④ 旧約聖書の多くの話がメシアの到来を約束しており、その約束通りにナザレのイエスが生活なされたことを説明した後の、一つの結びである本日の朗読箇所では、偉大な大祭司、神の子イエスによって神の憐れみと恵みを受ける道が開かれたのですから、「大胆に恵みの座に近づこう」という呼びかけがなされています。この大祭司は私たちの弱さを共に苦しむことのできない方ではなく、罪を別にすれば、全てについて私たちと同様に試練に遭われた方なのです。しかし、自分中心に考える自然理性に従って大胆に神の恵みの座に近づこうとしても、失敗し挫折すると思います。それは、先週の日曜日にも話した、この世の文明文化を大きく発展させたギリシャ人の智恵ではありますが、神に近づくのには、それだけでは足りません。心に神から授かった信仰を基盤として考えるという、もう一つのもっと大切な智恵が絶対に必要なのです。ですから本日の朗読箇所にも、「私たちが公に表明している信仰をしっかりと保とうではありませんか」という呼びかけが、先になされているのです。私は大学でキリスト教思想を教えていた時、理知的な自然理性だけで考えるのを「頭で考える」、心に授かった信仰に基づいて考えるのを「心で考える」と表現していましたが、聖母マリアも主イエスも、現実生活に対処して、いつも神に心の眼を向けながら心で考え、心を込めて祈っておられたのではないか、とお察し申し上げています。それが、『智恵の書』が力説している、神よりの智恵に生きる道だと思います。私たちもその道を通って、大胆に神の恵みの座に近づくよう心がけましょう。
⑤ 本日の福音のすぐ前のパラグラフには、イエスが先頭に立ってエルサレムへと進まれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れを抱いた、とあります。エルサレムではユダヤ人指導層がイエスを捕らえて殺そうとしていたからです。そこで主は12使徒たちをそばに呼び寄せて、第三番目の受難予告をなさいました。弟子たちはその話をまだよく理解できなかったようですが、でもいよいよ主の身の上に何か決定的な出来事が迫って来ているようだ、しかし、主が最後にいつも、「三日の後に復活する」という予言を添えておられることから察すると、ユダヤ人指導層との戦いで、主は死んでも間もなく復活して最後の勝利を獲得し、ユダヤは力強いメシアが支配する王国になるのかも知れないなどと、一部の使徒たちは、主の予言の言葉をそのように受け止めたのかも知れません。そこで、本日の福音にあるゼベダイの子ヤコブとヨハネは、他の弟子たちに先駆けて主に近づき、「あなたが栄光を得られた時」一人は右に、一人は左に座らせて下さいという、大胆な願いを申し上げたのだと思います。マタイ福音書には、二人は一行に伴って来ていた母と一緒に主に近づいてひれ伏し、母の願いという形で、主に願い出たように記されています。手柄を競い合っていたと思われる他の弟子たちに配慮して、そのようにしたのかも知れません。
⑥ 主はその二人に、「あなた方は自分が何を願っているか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになります。これまで目撃した数々の奇跡から主の勝利を確信していたと思われる二人は、すぐに「できます」と答えましたが、主は「確かに、あなた方は私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになるが、しかし、私の右や左に誰が座るかは、私の決めることではない」とお答えになって、彼らの願いを退けられます。この場面を傍らで見ていた他の10人の使徒たちが、後で二人に立腹したことは、想像するに難くありません。そこで主は、彼らを呼び集めて、次のように諭されました。「あなたたちも知っているように、異邦人の支配者と見做されている者たちは民を(上から)支配し、尊大な者たちは権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は皆の奴隷になりなさい。なぜなら、人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また自分の命を多くの人の身代金として献げるために来たのだから。」
⑦ 将来の教会の中核を構成するために選出された使徒たちへのこのお言葉から考えますと、神によって呼び集められ、主キリストを頭とする一つ共同体となる教会は、一般社会の政治組織や営利団体などとは異質の、いわば家族的奉仕的な愛の共同体であり、一つの有機的からだなのです。その中核をなす使徒とその後継者たちは、教会の頭であられる主キリストを体現し、キリストのように自分を多くの人の罪を背負う「神の僕」となし、自分を人々の罪を償う献げ物としなさいというのが、主の教えであるように思われます。ちょうど病気の子供たちを何人も抱えた親たちが、一家の将来を担うその子らに対する愛ゆえに、身を粉にして働いたり世話したりするように、神の愛の大きな家族的共同体の指導者たちも、神から自分に委ねられた人たちの世話に挺身しなければならないのだと思います。イザヤ書53章に「自らを償いの献げ物とした」とある言葉を、主はここで「自分の命を多くの人の身代金として献げる」と言い替えて話されたのだと思われますが、身代金は、当時は戦争の捕虜や奴隷などを釈放させるために支払われた金を指していました。教会の聖役者たちも、皆に仕えるために神から召された存在であり、主に倣って自分の命を人々の身代金となす覚悟も持っていなければならない、と主は今も私たちに説いておられるように思われます。主が創立なされた教会は、ギリシャ的智恵が主導権を持つこの世の国家や市民団体、あるいは会社などの営利団体とは本質的に異なる、神の愛の共同体であることを、しっかりと心に銘記しながら本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年10月11日日曜日

説教集B年: 2006年10月15日、年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵の書 7: 7~11.   Ⅱ. ヘブライ 4: 12~13.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 17~30.


① 本日の第一朗読である知恵の書は、旧約時代の末期にエジプトで書かれたと考えられます。アレクサンドロス大王の将軍の一人プトレマイオスは、大王の死後エジプトでギリシャ系の王朝を開きますが、圧倒的に多数のエジプト人に対する支配権を確立するためユダヤ人を招いて歓迎し、数多くのユダヤ人をアレクサンドリアやその他の軍事的要所に住まわせました。それで、エジプトのユダヤ人はギリシャ語を話すようになり、紀元前3世紀後半以降には、エジプト生まれのユダヤ人のため、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。これが、Septuaginta (七十人訳) と言われるギリシャ語旧約聖書であります。古代のギリシャ人は智恵を、処世術としても人生観としても大切にしていましたが、紀元前6世紀の頃から、科学が台頭し諸技術が発達する傍ら、知者の思索はより思弁的な方向にも向かうようになり、各種の哲学を産み出すようになりました。智恵がギリシャ人の生活を豊かで安全なものに高め、その文化を美しく幸せなものに発展させたのです。そういうギリシャ文化の中で教養を積んだアレクサンドリアのユダヤ人は、信仰に生きる預言者やダビデ、ソロモンたちの心に授けられた神よりの智恵と、人間の体験と思索に基づくギリシャ的知恵との違いを、次第にはっきりと意識するようになったと思います。そういう問題意識の中で神よりの智恵を讃え教えるために執筆されたのが、この智恵の書だと思います。
② 「私は祈った。すると悟りが与えられ、云々」とあるように、神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであり、この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が、私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵は、すでに人格化されて描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、…万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人の智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。
③ 主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとして、神よりの啓示までも人間理性で批判するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの智恵に生かされる信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程細かくキリスト教を研究してその外殻を明らかにしてみても、知り得ないものだと思います。
④ 本日の第二朗読であるヘブライ書では、ちょうど第一朗読の「智恵」のように、「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、…心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」も、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。主は私たちの心の思いや悩みや望みなどを全て見通しておられる方ですので、くどくどと多く申し上げる必要はありません。全てを主に委ねて、ただ主に対する幼子のように素直な信頼と愛と従順の心を申し上げましょう。主の御言葉の種が、その心にしっかりと根を下ろし、豊かな実を結ぶに到りますように。
⑤ 本日の福音を読むと、いつも懐かしく思い出すエピソードがございます。まだ神学生になって間もない大学一年生の時でしたが、同級の神学生が「なぜ私を善いと言うのか。神お独りの他に善い者はない」という主のお言葉に躓き、これでは自分を善いと言ってはならない、神ではないから、という意味になるのではないか、と言いました。私はそれに答えることができませんでしたが、少し離れた所で私たちの会話を聞いていた指導司祭のトナイク神父がすぐ、「それは、今あなたの前にいるこの私は神ですよ」と、その人に深く考えさせようとなさった主のお言葉なんです、と説明して下さいました。なるほど、こういう謎めいたお言葉の解釈には慎重でなければならないと感心した、今でも忘れ難い思い出の一つです。
⑥ その人は「走り寄り、ひざまずいて尋ねた」のですから、かなり真剣に「永遠の命を受け継ぐ」ための道を求めていたのだと思います。主はそれに対して、「殺すな、姦淫するな、盗むな、奪い取るな、父母を敬え」という、当時のユダヤ人が耳にタコができるほど聞き慣れている、ごく在り来たりの掟を並べて、その道を表現なさいました。それらはいずれも、隣人愛に集約できる掟です。その人は、「先生、そういうことは皆、子供の時から守って来ました」と答え、自分の心はもっと確かな、手ごたえの感じられる道を求めている、という意志表示をしたようです。当時のオリエント地方はある意味で現代によく似た大きな過渡期を迎えていて、それまでの伝統も価値観も根底から揺らぎ崩れつつありましたから、その人の心は自分の受け継いだ財産などにも不安を覚え、何か心を実際に安心させてくれるものを求めていたのかも知れません。そこで主は、その人をしっかりと見つめ、慈しんで、その人の心がまさに手ごたえの感じられるような、一つの新しい道を具体的に教えられました。「行って、持っている物を売って貧しい人たちに与えなさい。あなたは宝を天に持つことになるでしょう。それから来て、私に従いなさい」という道です。
⑦ それは、人間の側では捨て身の大きな決断を必要とする道でしょうが、それだけに、神の大きな祝福をその身に招き、過ぎ去るこの世の富とは比較にならない程の大きな富を天に蓄える道であり、同時に心の欲が産み出して止まない一切の煩わしさから解放されて、心が大きな自由と解放の喜びの内に、身軽に生きるようになる道でもあります。察するに、その人の心はこの世の人生の儚さに悩み、永遠の命に対する憧れを強めていたのだと思います。それで主は、その人の心をその悩みから完全に解放し、喜びをもって自由にのびのびと生きる道をお示しになったのだと思われます。しかし、その人はこの言葉を聞くと忽ち気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。「たくさんの財産を持っていたからである」と聖書は説明しています。
⑧ その人が去った後、主は弟子たちを見回しておっしゃいました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。驚いた弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と互いに言い合うと、主は彼らを見つめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃいました。日々ラジオやテレビのニュースを聞いていますと、富や金ほど人の心を束縛するものはないという印象を受けますが、実際富には、人の心を束縛する悪魔の力が密かに隠されているのではないでしょうか。その魔力に心が引き込まれることのないよう、清貧の誓願を宣立している私たちも気をつけましょう。自力に頼らず、神に眼を向け神に頼ってこそ、私たちはその魔力に勝つことができるのです。全てを神に献げて身軽になり、神のお導きのままに清貧に生きようとしていることは、心に自由の喜びと神に対する信頼の安らぎを与えてくれる大きな恵みだと思います。この恵みを失うことのないよう、富や金にはくれぐれも警戒していましょう。清貧の誓願を立てても、金銭や電気などの節約を軽視し、贅沢に支出していた修道者が、後年ひどい病気に何年間も苦しめられて死んでいった例や、召命の恵みを失って寂しく暮らすようになった例を、私は幾つも見聞きしていますから。
⑨ ペトロは主のお言葉を聞くと、「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。主は、その言葉を喜ばれたのか、ご自身のためまた福音のために全てを捨てて従う者は誰でも、今のこの世で迫害も受けるが、しかし百倍の報いを受け、後の世では永遠の命を受ける、と確約なさいました。主はこのお言葉を、現代の私たちのためにもおっしゃったのだと信じます。事実、私たち修道者はすでにその百倍の報いを受けつつあるように思いますが、いかがでしょうか。この世で受ける迫害についても覚悟していましょう。私たちには、全能の主ご自身から永遠の命も確約されているのですから、恐れることはありません。全てを捨てて喜んで従う、この大胆な心の若さを失わずいるなら、神が導き働いて下さいます。

2009年10月4日日曜日

説教集B年: 2006年10月8日、年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 2: 18~24.   Ⅱ. ヘブライ 2: 9~11.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 2~16.


① 私たちは昨年春に小泉首相の靖国神社参拝によって日中・日韓の外交関係が悪化した時から、極東アジア諸国の平和共存のため毎月一回ミサを献げて神の導きと恵みを願い求めています。土曜日に献げることが多いのですが、本日から二日間、安倍晋三新首相が中国と韓国を訪問して外交関係改善のために尽力しますので、本日の日曜ミサは、極東アジア諸国の平和共存のために献げることに致します。ご一緒にお祈り下さい。
② 本日の第一朗読は、神が創造なされた人間の特性について教えています。これは歴史的事実を語った話ではなく、神から示された幻示を描写した一種の神話ですが、そこには神の意図しておられる人間像が示されています。それまでの無数の生き物とは違って、神が「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。そして…全てを支配させよう」とおっしゃってお創りになった人間は、いわば万物の霊長として創造されたのだと思います。ですから神は、それまでの動物たちの場合とは違って、人間の場合には特別に、「その鼻に命の息を吹き入れ」て、「生きる魂」(原文の直訳)となさったのだと思います。
③ 続いて神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃいました。このお言葉から察しますと、人間は独りではまだ未完成で、神の御前に立つことも万物を支配することも許されていない、と思われます。神はまず獣や鳥などを次々とその人の前に連れて来て、人が「それをどう呼ぶか見ておられた」とありますが、「呼ぶ」ことは名をつけることで、名づけたものの主人になることを意味していました。こうして人はすべての生き物の主人として振舞うようになりました。しかし、それらの生き物の中には、まだ自分と対等に助け合い愛し合うことのできる者は見つけられませんでした。思うに、神はこのようにしてその人に、対等の話し相手、愛し合う相手がいない時の孤独感を味わわせたのだと思います。
④ それから神は、その人を深い眠りに落として、いわば死の状態にしてから、そのあばら骨の一つで女を創り上げ、眠りから覚めたその人の所へ連れて来ました。すると、その人は「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」といって喜び、「女と呼ぼう。男から取られたものだから」と言ったとあります。ヘブライ語で女はイシャー、男はイシュと言うそうですから、ヘブライ語の言葉遊びのようにも思いますが、察するにその人には、神が深い眠りの状態にある自分のあばら骨の一つで女を創り上げるのを、幻示で知らされたのではないでしょうか。とにかく神の意図された人間の創造は、こうして男と女が対等に一つの体、一つの共同体となって愛の内に生き始めることによって、一応完成したのだと思います。人間は男も女もそれぞれ孤独の状態で父母から生まれますが、しかし、成長して男と女が愛によって結ばれ、二人が一つの共同体になって初めて、神が初めに意図された人間の状態になるのだと思います。
⑤ では、私たち独身の修道者については、どう考えたらよいのでしょうか。私は、全ての人はキリストの神秘体という、もう一つのもっと大きくてもっと崇高な来世的共同体のメンバーになるようにも召されていて、まだ目には見えませんが、すでにそのメンバーになっている私たち修道者は、全ての人がキリストの愛の内に皆一つの体になって生きる、そういう永遠に続く共同体に召されていることと、過ぎ行くこの世の結婚生活はそのための一つの準備であり、配偶者の不在や死別などで結婚生活ができなくても、信仰と神の愛の生活に励むことにより、神の意図しておられる永遠に続く愛の共同体に入れてもらえることとを、世の人々に証しするために、修道生活を営んでいるのだと考えます。全ての人は、究極においては過ぎ行くこの世の儚い結婚生活のためにではなく、永遠に続くその大きな愛の共同体の中で仕合せに生きるために神から創造されたのであり、これが、神が本来意図しておられる人間像だと思います。この世の結婚者も独身者も、皆その共同体に入るよう召されています。しかし、そのためには各人が神の愛を磨く必要があります。聖ベルナルドが説いた婚約神秘主義は、そのためであったと思います。
⑥ 本日の第二朗読は、多くの人をその来世的愛の共同体の「栄光へと導くために」死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手 (ギリシャ語原文)」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、…ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に生来自分中心の強い傾きをもっている人の多いこの世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人は、多くの人の罪を背負って苦しめられることを教えているのではないでしょうか。しかし、その苦しみを通して心は鍛えられて、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる苦難を、逃げることのないよう心がけましょう。
⑦ 幼い時から豊かさと便利さの中で育ち、知識と技術を習得して、何でも巧みに利用しながら生きるという習性を身に付けている現代人の間では、50年前100年前に比べて、離婚の数が驚くほど激増していますが、主は本日の福音の中で、創世記の言葉に基づいて夫婦が一体であることと、神が結び合わせて下さったものを人が分離してはならないこととを、強調しておられます。では、すでに離婚してしまい、もう元に戻すことができない状態になっている夫婦は、どうしたら良いのでしょうか。すでに申しましたように、過ぎ行くこの世の人生、この世の結婚生活は究極のものではありませんので、自分のなしてしまった失敗や罪に謙虚に学びつつ、またその重荷を背負いつつ、新たにあの世での仕合せのため希望をもって生きるべきだと思います。神は、この世で失敗を体験したそのような人たちにも、恵み深い方だと信じます。
⑧ 本日の福音の後半には、多忙な主イエスに手を触れて戴くため、幼子たちを連れて来た人々を叱った弟子たちに、主が憤っておられます。そして「神の国はこのような者たちのものである。…子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と教え、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福なさいました。神の国は、人間の功績に対する報酬ではなく、幼子のように素直に受け入れて従う貧しい人や無力な人たちに、無償で与えられる愛と憐れみの恵みであることを、主はこれらの言葉で弟子たちに強調なさったのだと思います。私たちも、神の恵みの器となられた聖母マリアのように、何よりも私たち各人の中での神の働きに信仰と愛と従順の眼差しを向けながら、神の働きに幼子のように素直に従うよう努めましょう。