2009年10月4日日曜日

説教集B年: 2006年10月8日、年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 2: 18~24.   Ⅱ. ヘブライ 2: 9~11.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 2~16.


① 私たちは昨年春に小泉首相の靖国神社参拝によって日中・日韓の外交関係が悪化した時から、極東アジア諸国の平和共存のため毎月一回ミサを献げて神の導きと恵みを願い求めています。土曜日に献げることが多いのですが、本日から二日間、安倍晋三新首相が中国と韓国を訪問して外交関係改善のために尽力しますので、本日の日曜ミサは、極東アジア諸国の平和共存のために献げることに致します。ご一緒にお祈り下さい。
② 本日の第一朗読は、神が創造なされた人間の特性について教えています。これは歴史的事実を語った話ではなく、神から示された幻示を描写した一種の神話ですが、そこには神の意図しておられる人間像が示されています。それまでの無数の生き物とは違って、神が「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。そして…全てを支配させよう」とおっしゃってお創りになった人間は、いわば万物の霊長として創造されたのだと思います。ですから神は、それまでの動物たちの場合とは違って、人間の場合には特別に、「その鼻に命の息を吹き入れ」て、「生きる魂」(原文の直訳)となさったのだと思います。
③ 続いて神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃいました。このお言葉から察しますと、人間は独りではまだ未完成で、神の御前に立つことも万物を支配することも許されていない、と思われます。神はまず獣や鳥などを次々とその人の前に連れて来て、人が「それをどう呼ぶか見ておられた」とありますが、「呼ぶ」ことは名をつけることで、名づけたものの主人になることを意味していました。こうして人はすべての生き物の主人として振舞うようになりました。しかし、それらの生き物の中には、まだ自分と対等に助け合い愛し合うことのできる者は見つけられませんでした。思うに、神はこのようにしてその人に、対等の話し相手、愛し合う相手がいない時の孤独感を味わわせたのだと思います。
④ それから神は、その人を深い眠りに落として、いわば死の状態にしてから、そのあばら骨の一つで女を創り上げ、眠りから覚めたその人の所へ連れて来ました。すると、その人は「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」といって喜び、「女と呼ぼう。男から取られたものだから」と言ったとあります。ヘブライ語で女はイシャー、男はイシュと言うそうですから、ヘブライ語の言葉遊びのようにも思いますが、察するにその人には、神が深い眠りの状態にある自分のあばら骨の一つで女を創り上げるのを、幻示で知らされたのではないでしょうか。とにかく神の意図された人間の創造は、こうして男と女が対等に一つの体、一つの共同体となって愛の内に生き始めることによって、一応完成したのだと思います。人間は男も女もそれぞれ孤独の状態で父母から生まれますが、しかし、成長して男と女が愛によって結ばれ、二人が一つの共同体になって初めて、神が初めに意図された人間の状態になるのだと思います。
⑤ では、私たち独身の修道者については、どう考えたらよいのでしょうか。私は、全ての人はキリストの神秘体という、もう一つのもっと大きくてもっと崇高な来世的共同体のメンバーになるようにも召されていて、まだ目には見えませんが、すでにそのメンバーになっている私たち修道者は、全ての人がキリストの愛の内に皆一つの体になって生きる、そういう永遠に続く共同体に召されていることと、過ぎ行くこの世の結婚生活はそのための一つの準備であり、配偶者の不在や死別などで結婚生活ができなくても、信仰と神の愛の生活に励むことにより、神の意図しておられる永遠に続く愛の共同体に入れてもらえることとを、世の人々に証しするために、修道生活を営んでいるのだと考えます。全ての人は、究極においては過ぎ行くこの世の儚い結婚生活のためにではなく、永遠に続くその大きな愛の共同体の中で仕合せに生きるために神から創造されたのであり、これが、神が本来意図しておられる人間像だと思います。この世の結婚者も独身者も、皆その共同体に入るよう召されています。しかし、そのためには各人が神の愛を磨く必要があります。聖ベルナルドが説いた婚約神秘主義は、そのためであったと思います。
⑥ 本日の第二朗読は、多くの人をその来世的愛の共同体の「栄光へと導くために」死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手 (ギリシャ語原文)」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、…ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に生来自分中心の強い傾きをもっている人の多いこの世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人は、多くの人の罪を背負って苦しめられることを教えているのではないでしょうか。しかし、その苦しみを通して心は鍛えられて、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる苦難を、逃げることのないよう心がけましょう。
⑦ 幼い時から豊かさと便利さの中で育ち、知識と技術を習得して、何でも巧みに利用しながら生きるという習性を身に付けている現代人の間では、50年前100年前に比べて、離婚の数が驚くほど激増していますが、主は本日の福音の中で、創世記の言葉に基づいて夫婦が一体であることと、神が結び合わせて下さったものを人が分離してはならないこととを、強調しておられます。では、すでに離婚してしまい、もう元に戻すことができない状態になっている夫婦は、どうしたら良いのでしょうか。すでに申しましたように、過ぎ行くこの世の人生、この世の結婚生活は究極のものではありませんので、自分のなしてしまった失敗や罪に謙虚に学びつつ、またその重荷を背負いつつ、新たにあの世での仕合せのため希望をもって生きるべきだと思います。神は、この世で失敗を体験したそのような人たちにも、恵み深い方だと信じます。
⑧ 本日の福音の後半には、多忙な主イエスに手を触れて戴くため、幼子たちを連れて来た人々を叱った弟子たちに、主が憤っておられます。そして「神の国はこのような者たちのものである。…子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と教え、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福なさいました。神の国は、人間の功績に対する報酬ではなく、幼子のように素直に受け入れて従う貧しい人や無力な人たちに、無償で与えられる愛と憐れみの恵みであることを、主はこれらの言葉で弟子たちに強調なさったのだと思います。私たちも、神の恵みの器となられた聖母マリアのように、何よりも私たち各人の中での神の働きに信仰と愛と従順の眼差しを向けながら、神の働きに幼子のように素直に従うよう努めましょう。