2009年9月27日日曜日

説教集B年: 2006年10月1日、年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 11: 25~29.   Ⅱ. ヤコブ 5: 1~6.  
  Ⅲ. マルコ福音 9: 38~43, 45, 47~48.


① 本日の第一朗読の中で、モーセはヨシュアに「私は、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」という、珍しい話をしています。神の民にして戴いている者たちが皆、預言者のように神の霊によって内面から生かされ、ただ神中心に神のために生きる人、語る人になることを切望しているという意味だと思います。いったいなぜこんな話をしたのかと思い、本日の朗読箇所の少し前の文脈を読んでみますと、同じ11章の前半にモーセは、イスラエルの民が「ああ、肉が食べたい。エジプトではただで魚を食べていた。きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやにんにくも忘れられない。今では、我々の唾(つば)は干上がり、どこを見回しても、マンナの他には何もない」などと、どこの家族でも泣き言を話し合っているのを聞き、また主なる神が人々のそのつぶやきの声に憤られたので、モーセは主に、「私一人ではこの民すべてを背負うことはできません。私には重過ぎます」と嘆きました。
② それで主は、民の中から長老と認められる者たち70人を神の臨在する幕屋に集めさせ、モーセに授けている霊の一部をその長老たちにも授けて、彼らもモーセと共に民の重荷を背負うことができるようになさいました。モーセと共に神の幕屋の周りに集まった長老たちは、神の霊を受けて一時的ながら預言状態になりましたが、宿営に留まっていた二人の長老もそこで預言状態になったので、モーセの従者ヨシュアがそのことをモーセに知らせて、「止めさせて下さい」と願ったのに対して、モーセが答えた言葉が最初に引用した話です。モーセがどれ程切望しても、神の民の全員が神の霊を受け、預言者的精神で生きることは、実際上期待できないでしょうが、せめて一部の信仰厚い人たちを神の霊による預言者精神で生活させることにより、神はモーセの苦悩を緩和させようとなさったのだと思われます。新約時代の神の民は堅信の秘跡によって神の霊を授かっており、その霊はその秘跡を受けた人々の心の奥底に泉のようになって現存しているのですが、日々その泉の水で生かされ預言者精神で生活している人は少ないようです。神からの召し出しに応じて自分の一生を神に献げて生きることを誓った私たち修道者に、神は「せめてあなた方だけでも」と、主キリストと内的に深く結ばれた預言者精神で生活するよう切望しておられるのではないでしょうか。お告げを受けた時の聖母の「フィアト (成れかし)」の精神を日々自分の内に新たにしながら、聖母マリアと共にできる限り神のご期待に沿うよう努めましょう。
③ 本日の第二朗読は、教会内にもいる利己的蓄財に没頭する信徒たちを厳しく糾弾する使徒ヤコブの書簡からの引用です。一般社会の不信仰者たちに対する非難ではありません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、教会内にも貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこり得るのです。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、その金持ちたちは、伝統的な各種団体が統率力を失って内面から瓦解しつつあった、当時の過渡的激動社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。これまでの社会倫理の基盤が打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、そのようにして巧みに大儲けをしている成金業者が少なくないことでしょう。しかし、この世の富、この世の生活の安全を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わないその精神や生き方に、ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人たちや能力ある人たちを優遇して、いつも特別扱いにするような生き方は慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。
④ 本日の福音は、前半と後半の二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちは自分たちの団体や組織に属していない者たちを敵視したり、除外視したりせずに、主の御名を使って悪霊を追い出したり奇跡をなしたりしているなら「私たちの味方」なのだから、その活動を止めさせたりしないようにと命じておられます。教会内も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている多くの人たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになります。事実、その人たちを通して奇跡をなさることもあります。心を大きく開いて、何よりもそういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、そのようなどっちつかずの生き方を嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛の霊によって生かされている柔軟で温かい「肉の心」を持つように心がけたいものです。
⑤ 本日の福音の後半は、主を信じている小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への献身的愛の道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを今の世の人たちに示しつつ、明るい希望のうちに生きるよう努めましょう。神はそのように生きる人たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、心で自分の言行を弁明したり、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。自分の心を悩ますその人は、神から派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くに来ておられる神に対する畏れの心を新たに致しましょう。まだ神中心に生きようとしていない自分の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとった人がその恵みによって温かい心に変わって行くことも見ることでしょう。