2009年9月20日日曜日

説教集B年: 2006年9月24日、年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 2: 12, 17~20.   Ⅱ. ヤコブ 3: 16~ 4: 3.  
  Ⅲ. マルコ福音 9: 30~37.


① 本日の第一朗読には、神に逆らう者の言葉として、「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。(中略) 彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう」などとありますが、これらの言葉の背後には、この世的成功や幸せだけを念頭に置いて、自分たちの成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおうとする、この世の人生だけに囚われている視野の狭い人生観があります。神に従う者は、我々のなすことを神の律法に背くこと、神の教えに反することとして非難するが、これまでのところ神は少しも干渉せず、神の子と称する者は神に助けてもらうことなく、貧しく生活しているではないか。彼が本当に神の子なら、神から助けてもらえる筈だが、現実はどうやら違うようだ。暴力と責め苦で彼を苦しめ、試してみようなどと、神に逆らう者たちは、この世の成功や幸せだけを最高の判断基準にして、善悪・真偽を判断しようとしているように見えます。
② 神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、各人は神中心に全ての人、全ての存在が永遠に仕合わせに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いてその人たちの所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時が来るかも知れません。今から覚悟していましょう。
③ 神の啓示に基づいて考えますと、私たちの人生は死によって終わるものではなく、この世は仮の世で、私たちの本当の人生はあの世にあり、人間は本来あの世で永遠に生きるため、神の愛の内に生かされ、神のように自由で仕合せな神の子となって、神によって創られた全てのものを主キリストにおいて統治するために創られているようです。原罪によって誤謬と死の闇が支配するようになったこの苦しみの世に呻吟しながらでも、人間には、その闇と苦しみに鍛えられつつ、神の子の心を目覚めさせて鍛え上げ、あの世の本当の人生に備える恵みが与えられています。あの世中心のこのような人生観・価値観を、私たちの生き方を通して今の世の人々に証しするよう努めましょう。
④ 第二朗読の中でヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、…間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのも、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まず徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。
⑤ パウロがコリント前書15章の後半に書いていることからも明らかなように、私たちのこの世の人生は死によって一旦完全に終わり、あの世の人生はまたゼロから始まるのではありません。ちょうど母の胎内で育った胎児が生れ出るように、あの世の人生はこの世の人生の延長線上にある輝かしい発展であり、死はその新しい人生への門出のトンネルのようなものだと思います。この世の人は死ぬことを「永眠する」などと言いますが、この世にいる時から神の恵みのうちに駆け出していた魂は、死の門を潜り抜けた時から大きく飛躍し、自由に生き始めるのだと思います。アルスの聖司祭ヴィアンネーは、そのような言葉を口にしています。神から啓示されているこの明るい未来像を、いつも心に堅持していましょう。
⑥ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であるフィリッポ・カイザリア地方での第一の受難予告に続く、第二の受難予告ですが、ユダヤ人も住んでいてファリサイ派の監視の目が光っているガリラヤを通っていた時になされた話なので、「イエスは人に気づかれるのを好まなかった」という言葉も添え書きされています。外的にはこの世の人生の悲惨な失敗を意味する受難死は、メシアに対する多くの人の期待や希望を根底から覆す出来事であり、主の弟子たちをも絶望のどん底に落としかねない事柄ですので、主はせめて弟子たちの心がその大きな試練の時、一時の絶望的心理状態から立ち直って、あの世中心の新しい人生観・価値観のうちに大きな希望をもって生き始めるようにと願いつつ、予め小刻みに謎のような受難予告を繰り返し、彼らの心に立ち直りのための恵みの種を蒔いておられたのだと思います。主の御後に従って来るよう召されている私たちも、自分の死が差し迫って来た時の苦悩を先取りし、今から自分の心に小刻みにあの世の人生中心の人生観・価値観の種を蒔き、心を準備して置きましょう。死は、多くの人の救いのため、主と一致して神に自分をいけにえとして献げ尽くす、私たちがこの世で為すことのできる最高の業だと思います。逃げ腰にではなく、主の模範に倣って前向きにその価値高い業を成し遂げることができるよう、心を準備していましょう。
⑦ 「人々の手に引き渡される」という受難予告には、パラディドーミという意味の広いギリシャ語の動詞が使われていますが、この動詞は「伝える」「委ねる」「引き渡す」「裏切る」など、様々に邦訳されています。使徒パウロはローマ書8:23に、「その御子をさえ死に渡された」天の御父の愛について語っていますが、その時もこの動詞パラディドーミを使っています。主もこの受難予告の時、天の御父から人々の手に引き渡されるという意味でおっしゃったのかも知れません。私たちも主と一致して、日々自分に与えられる苦しみ、誤解、冷たい無関心や拒絶などの背後に、欠点多いこの世の人の心を見るよりも、私たちに強い愛と期待などの御眼を注いでおられる天の御父の御手を観るように、今から自分の心を訓練していましょう。
⑧ 本日の福音の後半には、「すべての人の後になり、すべての人に仕えなさい」というお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神からこの世に派遣された主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉を心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰も大切に致しましょう。神とのそのような出遭いは、私たちにとって大きな恵みの時でもありますから。