2009年9月18日金曜日

説教集B年: 2006年9月18日、マリア会総会のミサ(東海市で)

朗読聖書: Ⅰ. ローマ 12: 1~2.   Ⅱ. ルカ福音 1: 26~38.  

① ご存じのように、科学技術の急速な発達によって、百年前には考えられなかった程便利で豊かになった現代社会は、その反面、内的地盤の液状化現象による深刻な不安に悩まされつつあります。社会の外的発展に伴うはずの心の教育・心の修練が、大きく立ち遅れているからです。神に導かれ神と共に生きようとしないこれまでの社会の地盤に潜んでいた諸々の悪や弱点が、今や続々と表面に現われ出て、心に対する抑止力を失って来ている無数の人々を介して、テロや殺人、詐欺や飲酒運転、絶望や自殺等々の過激な行動を頻発させているのです。今の社会を恨み、生き甲斐が感じられない程に悩んでいる心を、どれほど理論で説得しようとしても無駄だと思います。心は頭と違って、何よりも現実の体験に注目しているからです。一切のこの世的伝統が液状化現象により内面から弱体化し崩壊しつつある現状では、そのような悩む心に新しい希望を見出させるには、神の愛・神の助けを実際に体験させる必要があります。そこで本日は、アンジェラスの鐘の音で唱えていたカトリックの伝統的「お告げの祈り」について、ご一緒に少し考えてみましょう。
② 終戦直後の昭和23年春に、私が多治見の修道院に入った頃は、修道院の鐘の音が一キロ離れた所でもはっきりと美しく聴き取れるほど、町も静か自然界も美しかったので、私は毎日朝昼晩に鳴らされるこの鐘の音に、懐かしい思い出を幾つも持っています。近年はアンジェラスの鐘の音を聴くことがほとんど無くなりましたが、幸い私が毎週三日間滞在する三ケ日の海の星修道院では、京都の妙心寺にあるキリシタン時代の教会の鐘のような小さな鐘ですが、それでも朝昼晩に鳴らして「お告げの祈り」を唱えています。
③ 皆様お持ちの祈祷書やカトリック手帳などにも載っていますので、皆ご存じの短い祈りですが、前半は三つの部分から成っていて、その第一はマリアが天使のお告げで神の御子懐妊の恵みに浴したことを宣言しています。私はこの最初の祈りを唱える時、それ程大きな恵みについてではなくても、神は今も日々私たちの心に、直接間接に度々呼びかけ、語りかけておられることを思い起こし、目に見えず耳に聞こえないその呼びかけを、心で正しく発見し識別する恵みを、聖母を通して願います。そしてマリアが「私は主の婢です」と答えて承諾する第二の祈りを唱える時には、私も神の御旨中心主義の「僕」の精神で、心が発見した神の呼びかけを全面的に受け入れ、それに従って行動し生活する恵みを、聖母を通して願います。また神の御子の受肉を宣言する第三の祈りを唱える時には、神の御言葉中心に生きようとしている私の心の畑に蒔かれて、既に根を下ろしている御言葉の種に心の眼を向け、いつも心の中での神の現存、神の働きを忘れずに、神に導かれ神と共に生きる恵みを、聖母を通して願います。
④ 日々この祈りを心を込めて唱えていますと、いつの間にか私たちの心は変化して来て、以前には何事にも自分の望み、自分の都合を第一にして判断したり行動したりしていた心が、聖母のように神の僕・婢として、神の御旨を第一にして考え行動するようになって来ます。そして次第に神からの小さな呼びかけを、鋭敏に感知し発見するようになります。これは大きなお恵みだと思います。神はそのような心に、一層しばしば語りかけ、ご自身の小さな器や道具のようにして、護り導き働いて下さるからです。10年ほど前に、自分に対する神の具体的御旨を頭で詮索している信徒から質問されたことがありますが、神の御旨は人間の頭でどれほど考えても、全ての規則や倫理学の本を研究しても判りません。主キリストも聖母も、そんなことはなさいませんでした。日々出会う事物や小さな物事などを介して、何気なくそっと提示される神の導きを鋭敏に感知する心のセンスを磨けば、判るようになるのです。私は30年ほど前から、私に対する神の不思議な導きやご保護を小さな体験を通して知るようになり、日々感謝と喜びのうちに生きるようになりました。そして今も小さな不思議を数多く体験しています。心の信仰は、実生活の中での神の現存・神の助けに関するこういう体験を、小さくても数多く積み重ねることによって、次第に何者をも恐れない逞しいものに成長して来ます。
⑤ 先程の第一朗読の中に、「あなた方はこの世に倣ってはなりません」という使徒パウロの言葉がありましたが、いくら社会的に実績をあげている人であっても、豊かなこの世の人たちの常識に同調して、適度の節制や節電などを軽視して怠り、思う存分豊かに明るく生活していると、いつの間にか健康を害して薬に頼って生活する体になったり、あるいは思わぬ不幸に見舞われたりした人を、私は数多く見聞きして来ました。神はその人たちにも小刻みにいろいろと呼びかけておられるのに、その呼びかけに対する心のセンスに欠けているからだと思います。極度の多様化・流動化の国際的広がりと人々の心の汚染拡大のため、これからの世界には社会組織も宗教組織もこれまで以上に弱まり、社会不安がいや増すかも知れません。社会と共に歩みながらも、社会の流れに身を任せず、各人が自主的に神の導きに根ざして謙虚に清貧に生きるのが、賢明な生き方だと信じます。30年ほど前から東海地震のおそれが叫ばれているのに、まだ自分でできる範囲での災害対策を準備していない人が少なくないと聞きます。「目覚めてあれ、用意してあれ、あなた方はその日その時を知らないのだから」と主も度々話しておられるのに、全てを人任せ社会任せにして自分でできる備えを怠っている人には、神も災害時に厳しいと思います。心にこの恐れと危機感をしっかりと刻み、聖母マリアに倣って神に根ざして生きるよう努めましょう。そのための照らし・導き・助けを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。