2015年6月28日日曜日

説教集B2012年:2012年間第13主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 1章13~15、2章23~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 8章7、9、13~15節
福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節

   本日の第一朗読には、神は「生かすためにこそ万物をお創りになった」のであって、「命あるものの滅びは」喜ばれません。「滅びをもたらす毒はその中にはなく、」「悪魔のねたみによってこの世に」入って来たのです。ですから、神が「ご自身の本性の似姿として」「不滅な存在として」創造して下さった人間は、その悪魔に抵抗し続けるなら、神と共に永遠に幸せに生きることができますが、悪魔の仲間に属する者になるなら、死を味わうに至るのです、というような旧約時代のユダヤ人たちの人間観が述べられています。その悪魔は極度に多様化し流動化しつつある現代の文明社会の中でも活躍し、多くの人の心を滅びへと導いていると思われます。使徒ヨハネの第一書簡の2章には、主キリストが来臨なさってからの末の世には、反キリストが大勢現れるように述べられているからです。最近の世界情勢は、既にその末の世に入っていることを私たちに示しているのではないでしょうか。私たち被造物に対する神の愛を信じつつ、神に堅く結ばれて生き抜くよう心がけましょう。

   かつての私たちは、数十年間も消費主義的な生活の快適さを享受し、人間が自然を際限なく自由に利用できるかのように思い込んでいました。しかし、地球温暖化による地球規模の気候変動が拡大して来たからなのでしょうか、最近では世界各地で人間の力を遥かに凌ぐ大地震・津波・豪雨・洪水・竜巻などの自然災害が多発するようになり、2004年に大津波が東南アジアを襲撃した頃からは、米国を襲うハリケーンも巨大化して来ているようです。それで、人類総人口の増加や水資源の限界、並びに大森林の激減と砂漠化なども考慮し、将来の人類社会に対する絶望的観測が広まって来ているようです。例えば20093月にオーストラリア南東部で発生した大規模の森林火災は、これまでの自然界では考えられなかった程の異常災害だったようです。火災発生の3週間前には州都メルボルンで気温が46.6度を記録したそうですが、熱せられた強風が夜に風向きを変えると、メルボルン北東の林にある町々で大規模の火災が発生して、200人以上の人が逃げ遅れて命を落とし、数万ヘクタールもの森林が焼失して、無数の家畜や野生動物が焼け死んだそうです。私たちの生活を見守り支えてくれていた大自然界の変動が進むと、想定外のこういう災害は今後も次々と発生するかも知れません。それで一部の人たちは、万物を創造し歴史を導いておられると言われる愛の神はどこにおられるのか、罪のない無数の人々が死ぬのを黙認しておられるのかなどと、恨みの声を挙げているようですが、本日はこの事について少し考えてみましょう。

   私は時間空間の制約の下に置かれているこの世は、言わば過ぎ去る「試しの世」であって、私たちが神の愛に抱かれて永遠に幸せに生きるのは、あの世に行ってからと考えています。使徒パウロも、コリント前書15章に「自然の命の体として蒔かれ、霊的な体に復活する」などと書いていますから。この世の宇宙万物をお創りになった神は、ご自身に似せてお創りになった人間にだけではなく、その他の万物にもそれぞれ自分に与えられた能力に従って生きる大きな自律性を与えておられ、神の特別な愛の発動や神の御計画実現に必要でない限り、通常はなるべく干渉を控えておられるのではないでしょうか。神は被造物を愛して、創造の御業によって各被造物にお与えになった自律性と自由を尊重しておられるからだと思います。人祖の罪によってこの世の被造物界が神に背を向ける苦しみの世に成ってしまっても、神はすぐにその罪の穢れを取り除き、この世を相互愛と調和の世に造り変えようとはなさいません。各被造物が夫々の苦しみから何を学び、どのように苦闘しながら、神がお定めになった終局のあの世的幸せを目指して進むか否かを、じーっと黙して観察しておられるように見えます。神は創造の御業によって、各被造物に夫々その終局目的へと進む、自律的能力をお与えになったのですから。

   時満ちて、神は罪の穢れと不調和に悩むこの苦しみの世に、御独り子を人間として派遣なさいました。「見えない神の姿」(コロサイ1: 15)であられるこの主キリストが、人祖の罪を償い清めて被造物を贖い、終局のあの世的幸せへと救い上げるために。しかし、主の受難死によって人祖の罪は償われても、すぐにはこの世の苦しみや不調和が無くなりませんでした。神は私たち各人がその主キリストがこの世でお示しになった生き方に見習って、自分に与えられる状況や苦しみを受け止め、主と共に神の僕・婢として人祖の罪を償い、神の愛(聖霊)に導かれ生かされて、あの世の幸せへと自由に進むことをお望みのようです。私たちにはそのために必要な力も、神の愛の計らいも十分に与えられています。主は最後の晩餐の席でご自身の肉と血を食べ物・飲み物となして人類にお与えになり、ご自身を記念してこの真に神秘な秘跡を続けることを弟子たちとその後継者たちにお命じになりました。ということは、この秘跡が続けられる限り、あの世の命に復活なされた神の御子は、全く新たな霊的形でこの苦しみの世に受肉し、全ての被造物に呼びかけ、必要な導きと力を世の終りまで提供し続けておられると思われます。その主は、終末的様相が強まって悪霊たちの働きが激しくなると思われるこれからの時代には、これまで以上に私たちの近くに現存して、信仰をもって主に近づき主に助けを祈り求める私たちの歩みを、護り導いて下さると信じます。……


   本日の第二朗読には、「あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなた方の欠乏を補うことになるのです」という言葉が読まれます。これは、使徒パウロの数々の体験から滲み出た確信であると思います。パウロはコリント後書4章に、「私たちは生きている間、イエスのために絶えず死に曝されています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために。こうして私たちの内には死が働きますが、あなた方の内には命が働きます」などと書いています。パウロは、洗礼によって霊的に主キリストの体に組み入れられ、その一つ体の一部分・一肢体として戴いている私たちキリスト者は、この世の命に生きながら、内的には既に永遠に死ぬことのないあの世の主キリストの大きな命に包まれて、いわば主キリストを着物のように纏いながら生活しているのであり、その限りでは死に伴われて苦しむことの多い私たちのこの世の苦しみは、主キリストの受難死に参与して人類の他の部分で主のあの世の命を広めるのに大いに役立っている、と信じていたのではないでしょうか。新約の神の民の復活の主キリストの中での、このような内的生命的な連帯性は、現代に生きる私たちも大切にしたいと思います。

2015年6月24日水曜日

説教集B2012年:2012年洗礼者聖ヨハネの誕生(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 49章1~6節
第2朗読 使徒言行録 13章22~26節
福音朗読 ルカによる福音書 1章57~66、80節

   本日の第一朗読は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第二の歌ですが、特に第三・第四の歌を読みますと、この僕は将来お出でになるメシアご自身を指していると思います。神の御子は、「母の胎内にあった」時から神の「僕として形づくられた」と、既に旧約の預言者時代に、イザヤ495節で歌われたのではないでしょうか。典礼はこの言葉を、メシアの先駆者ヨハネにも当て嵌めて、そのヨハネの誕生を記念しお祝いしているようです。第二朗読は、使徒パウロがアンティオキアのユダヤ教の会堂で語った説教からの引用ですが、その中でパウロは、洗礼者ヨハネもナザレのイエスを神から派遣されたメシアであると認め、「その方は私の後から来られるが、私はその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と話していたと告げています。多くのユダヤ人から神の預言者として尊敬されていた洗礼者ヨハネは、メシアの先駆者であったのです。

   しかし、洗礼者ヨハネの誕生を祝う本日の祭日には、これらの朗読聖書から離れて、ルカ福音書に基づいてそのヨハネの父母とヨハネの誕生の出来事について、ご一緒に考えてみたいと思います。私は個人的に、ヨハネの父母ザカリアとエリザベトを、新約時代の初めを飾る優れた聖人として厚く尊敬しています。ルカは、「二人とも主の全ての掟と定めとを落ち度なく踏み行い、神の御前に正しい人であった」と書いていますが、真にその通りであったと思います。しかし、エリザベトにはどれ程祈っても子供が生まれませんでした。旧約時代のユダヤ社会では、それは子孫が栄光のメシア時代にまで生き残れないようにする神からの罰であるとされていたので、二人には何か隠れた罪があるのではないかなどと、社会からは見なされていました。長年人々からこのように見下される恥を抱えていたのですから、二人は人の何倍も厳しく自分を律し、全ての掟と規則を心を込めて順守していたのだと思います。しかし、どれ程厳しく律法を順守し、祈りを重ねても子供は生まれず、遂に二人は子供を産めない程の年寄りになってしまいました。

   その上に、祭司のザカリアにはもう一つの苦しい社会的恥もありました。当時24組に分かれていたレビ族の祭司たちは、毎年2回一週間ずつエルサレム神殿に奉仕することになっていましたが、その奉仕の期間中は籤で選ばれた一人の祭司が、大祭司が大きな祝日の時に入って神に祈る神殿の至聖所に入り、香をたく務めを果たすことになっていました。各組の祭司の数は十分にありましたので、一度この務めを果たした祭司は、その籤を引かないことになっていました。各組には毎年14回その務めが割り当てられていたのですから、殆どの祭司は20歳代30歳代で一生一度のその光栄ある務めを果たしていましたが、アビアの組のザカリアだけは、年老いても一度もその籤に当たらず、神殿奉仕の期間中は毎日自分よりも一世代も若い祭司たちと一緒に籤を引いていました。子供が生まれないことと共に、これは耐えがたい程の社会的恥であったと思われます。皆は籤引きの度毎に、ザカリアには何か大きな隠れた罪があるのだ、と思ったことでしょうから。

   ところが、籤引きの当選はもう諦めていたと思われる年老いた祭司ザカリアに、ある日その籤が当たりました。ザカリアも皆も驚いたことでしょう。慣例に従って会衆が皆外で神に祈っている時に、祭服で着飾った老齢のザカリアは、香炉を手にして緊張しながら主の聖所に入って行ったと思います。そして香をたいていたら、天使が香壇の右手に現れ、ザカリアは胸騒ぎがして恐怖に襲われました。すると天使は、「恐れるな、ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言って、妻エリザベトが男の子を産むから、その子にヨハネという名をつけること、その子は主の御前で偉大なものとなること、母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らを神の下に立ち返らせることなどの、命令や予告を告げました。しかしザカリアが、「何によって、それを知ることができるのでしょうか。私は老人で、妻も年老いています」とお答えすると、天使は「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたにこの良い知らせを伝えるために派遣されたのです。あなたは、この事が起こる日まで話すことができなくなるでしょう。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったから」と言い渡しました。

   神殿の内庭で祈っていた民は、ザカリアが聖所内に留まったまま、なかなか出て来ないのを不思議に思っていました。やがて出て来ましたが、手振り身振りで人々に聖所内で幻を見たことを知らせるだけで、口は利けなくなっていました。それで皆は、やはりザカリアには隠れた大きな罪があったのだ、罪ある祭司が聖所に入ったために、天罰が下ったのだと思ったことでしょう。おしで弁明できないザカリアは、その社会的恥をも耐え忍びながら、務めの期間が終わると、黙って自分の家に帰りました。しかし、その心の中には大きな喜びと希望を宿していたと思います。妻との間に偉大な男の子が生まれる、と神から告げられたのですから。そして家に帰るとすぐ、筆談でそのことを全て妻に知らせたと思います。

   ところで、大天使ガブリエルは「私の言葉を信じなかったから」と言ったのですが、いったいザカリアのどこが悪かったのでしょうか。祭司として、神の存在も全能も堅く信じ、長年旧約時代の全ての掟を心を込めて順守して来たのですから、その点では全く落ち度がなかったと思います。ただしかし、全てを自分の人間理性で考え、自力で神信仰に生きていましたので、どんなに努力しても人間的弱さに起因する不完全さは免れることができなかったと思われます。大天使が咎めたのは、ザカリアのその神信仰や信仰生活のことではありません。彼が自分に対する神のパーソナルな特別の愛を、すぐに信じることができずに躊躇した事だと思います。長年「隠れた罪を持つ人」として社会的に見下されていたのですから、突然天使から偉大な男の子が生まれると告げられても、すぐには自分に対する神のその愛を信じることができず、神の御旨に神の僕として従うことができなかったのだと思います。口が利けなくなったザカリアは、この後の数ヶ月間この事についてゆっくりと反省し、人間理性中心にではなく、神の愛を堅く信じ、神の御旨中心に神の僕として生きよう、と決意を新たにしていたことでしょう。ザカリアの心の中では既に旧約時代が終り、新約時代が始まったのだと思います。そのザカリアの心が、旧約時代の神の憐れみや約束を回顧し、新しく生れる幼児ヨハネを夢見つつ産み出したのが、私たちが日々唱えている「ザカリアの讃歌」であります。ヨハネの誕生を親戚や近所の人々に知らせて、その割礼式を準備したと思われるマリアは、その讃歌を書き留めてルカに伝えたのだと思います。

   ザカリアがお告げを受けた半年後、ナザレトでマリアも、同じ大天使から神の御子を宿すというお告げを受けました。マリアは「私は神の婢です」と答えて、すぐ神の御旨に従う信仰心を表明しましたが、しかし、ルカが「その日々に」と書いている言葉から察しますと、お告げの後の数日間、マリアは苦しんだようです。マリアは洗礼者ヨハネと同様老夫婦の子供だったのか、伝えによると子供の時に神殿に献げられ、神殿所属のレビ族の女子育児院で養育されたようです。としますと、結婚適齢期が近づくと社会に出て働くことになりますが、親譲りの資産のない貧しい少女だったのではないかと思われます。女性に厳しかった当時のユダヤ社会では、婚約者ヨゼフの助けなしには子供を育てることができません。しかし、ヨゼフの承諾を得るために、神による神の御子の懐妊という未曾有の大きな神秘をどう説明したら良いのか判らず、マリアは悩んだのだと思います。

   その時大天使が最後に話した、老いた石女エリザベトが男の子を懐妊して六カ月になっているという知らせを思い出し、まずその奇跡を自分の目で確かめよう、そうすればヨゼフを説得する道も開かれようと考えたのではないでしょうか。しかし、当時は危険の多い若い女の一人旅は厳禁されていました。マリアはその事でも苦しんだ後に、事情あって三カ月程ザカリアの家に滞在する由の書置きを、知人に託してヨゼフに渡してもらい、朝早く誰も見ていない暗い内にナザレトを出発し、一人旅を敢行したのだと思います。神の御子を孕んでいるのならと神に信頼し、神の護りをひたすら祈り求めながら。規則中心主義でない新約時代の生き方が、ここでも始まっています。道々全ての危険を賢明に避けながら、三、四日後に無事ザカリアの家に辿りついたマリアは、大きな感謝と感激の声で「シャローム」の挨拶をしたことでしょう。その声を聞いたエリザベトは、胎内の子が聖霊に満たされて躍るのを覚え、女預言者のように声高らかに叫びながら奥から出て来ました。エリザベトがその時マリアに話した言葉は、皆様ご存じの通りですが、それに続いて述べられている讃歌は、プロテスタントの優れた古代教会史学者Adolf von Harnack(1851~1930)19世紀の末に発見したルカ福音書の非常に古い写本によると、マリアではなくエリザベトが唱えた讃歌とされています。

   ご存じのように、現存する新約聖書は全て原文ではなく後の時代の写本であります。手書きのその写本相互に多少の小さな違いが見られるのは、古代には写本作成の段階で時としてごく小さな書き直しがあったことを示していると思います。このことは19世紀のプロテスタント聖書学者たちによって次第に明らかにされましたが、19世紀末頃の教皇庁の役職者たちは、プロテスタントのそのような聖書研究に極度に反発し、教会が伝統的に伝えている聖書の一字一句には全て神の力が籠っているから、それをそのまま大切に信仰し、人間理性による批判的研究の対象にしないようにと、全てのカトリック者に命じていました。それでカトリックの聖書研究は、その保守的役職者たちが死に絶えるまで抑えられて、非常に遅れてしまいました。そのため、上述したHarnackの発見のことも取り上げられず、今では全ての聖書学者たちからも忘れられて、カトリック教会では相変わらず「マリアの賛歌」と思われています。しかし私は歴史家として、ヨーロッパでドイツ語のカトリック月刊誌を読んでこの事を知った時から、あの讃歌は、エリザベトが作って唱えたものを、マリアが書き残して日々唱え、それをルカに伝えたのではないか、と考えています。と言うのは、まだ十歳代半ばの外的人間的には平凡であった小娘マリアは、一人旅をしていた時は、旅中の全ての危険を回避する恵みと、婚約者ヨゼフの理解と協力を得るための祈りで心がいっぱいで、あのような讃歌を作詞する心境ではなかったと思われるからです。それに比べると、教養ある祭司の妻として懐妊の恵みに浴したエリザベトは、夫と共に旧約時代の神の愛の導きと働き、並びに自分たち夫婦の一生などをゆっくりと回顧しながら、あの讃歌を作詩したと考えられます。社会的に弱い者、抑圧されている者たちへの神の憐れみを讃えているこの讃歌を、聖母マリアもこの後一生かけて毎日のように愛唱していたと考えます。それで、この意味ではこれは「マリアの讃歌」と言われるに相応しいと思います。

   本日の福音は、洗礼者ヨハネの割礼の日の出来事について述べていますが、出産したエリザベトが高齢であったことを思いますと、ヨハネの誕生を手伝い、その事実を近所の人々や親族に知らせて、割礼式に皆を呼び集めたのは、マリアであったと思われます。高齢のザカリア夫婦にとってマリアの三カ月滞在は、神からの真に貴重な恵みであったと思います。そしてマリアも、神が為して下さった数々の不思議な出来事を見聞きして、神は自分の祈りに応えてヨゼフのためにも何かを為して下さると確信しながら、明るい希望を抱いてザカリアの家を離れたと思います。私たちも、その神が今の私たちにも大きな憐れみの眼差しを注いでおられると信じ、感謝しながら洗礼者ヨハネの誕生を記念し祝いましょう。


2015年6月14日日曜日

説教集B2012年:2012年間第11主日(三ケ日)

第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節
福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

   本日の第一朗読の著者エゼキエルは、バビロン捕囚の前頃にエルサレムにあって活躍した預言者エレミヤと同じ頃の人で、エレミヤと同様祭司の子であります。エレミヤはユダ王国の国王・祭司・預言者たちに向けて、度々神からの厳しい警告、恐ろしい予告を告げなければならなくて、王国の支配層から迫害され、投獄されたりもしましたが、それよりも少し若かったと思われるエゼキエルは、バビロン捕囚の時に一緒にバビロニアに連行され、バビロンの南東を流れる運河の一つと考えられるケバル川の畔りで、捕囚の人々と一緒にいた時に、神から最初の幻示を与えられ、それ以来数々の不思議な幻を見せられて、捕囚の民を励まし力づけた預言者であります。名前のエゼキエルも、「神強くする」という意味だそうです。

   本日の朗読個所であるエゼキエル書の17章には、まず二羽の大鷲と葡萄の木の譬えが語られています。最初に登場している大鷲はバビロンの王を指しているようです。この王はレバノンに飛来し、レバノン杉の梢の若い枝を折って、それを商業地に運び、豊かな水のほとりに柳のように植えたら、それは育って低く生い茂る葡萄の木となった。そしてその根を鷲のいる所の下に張り巡らせた。ところでもう一羽の大鷲もいて、この大鷲はエジプトのファラオを指しているようです。レバノン杉の若枝から成長した葡萄の木は、若枝を広げ蔓を伸ばし始めると、その根をこの第二の鷲の方へ伸ばし始めました。この時、主なる神はエゼキエルに、「語れ。この葡萄の木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ、実はもぎ取られないだろうか。云々」と、最初の大鷲から第二の大鷲の方へ根を伸ばそうとする葡萄の木の将来について、否定的な疑問の投げかけます。これは、バビロン王の最初の襲撃に負けて当時の支配階級の多くがバビロンに連行されて捕囚の身となっていた頃、バビロンの属国とされてバビロン王によって新しくユダ国王にされたゼデキヤ王の時に、宮廷でエジプト王の援助を受けようとする動きが強まったことを指していると思います。それを知ったバビロン王は、数年後にもう一度エルサレムを攻略し、都は徹底的廃虚となってしまいましたが、17章の話は、その第二の襲撃の前に受けた幻示であると思います。

   この話の最後に神が語られた言葉が、本日の第一朗読であります。ここでは、高さ30mにもなるレバノン杉の生命力の逞しさが述べられています。神の民も目前の政治的駆け引きや経済的損得に囚われることなく、真の預言者エレミヤを介した語られた神の声に対する従順に徹して生きるなら、神の恵みと働きにより、やがてはレバノン杉のように逞しく生き始めることを示しているお言葉だと思います。しかし、当時のゼデキヤ王を囲む支配者たちは、預言者を通して語られた神の声に従わなかったために、エルサレムはへ滅ぼされ、廃虚と化してしまてました。現代のような大きな過渡期、終末の様相が濃くなる時代にも、主である神は高い木を低くし、低い木を高くする働き、また生き生きとした木を枯らしたり、枯れた木を茂らせたりする不思議をなさいます。最近のニュースを聞いていますと、目前の政治的駆け引きなどの話の多いのにうんざりしますが、人々の意見の多様化が進んで時代の趨勢が纏まり難い様相を呈する時にこそ、私たちが真剣に神に祈り、黙しておられる神の導きや働きに心の耳を傾け、それに信仰をもって従うことを、神は強く求めておられるのではないでしょうか。神は大きな沈黙の内にも、私たちの心に強く訴え、また求めておられるのだと信じます。2千数百年前の旧約の預言者時代の時のように。

   第二朗読の中で使徒パウロは、私たちは「体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と書いていますが、この世で肉の体の内に生きている限り、私たちはいつまでも主を直接に見ることができず、主から離れていることを知っています。しかし、主が近くに現存し私たちを見ておられることを信じつつ、その信仰の内に希望と喜びをもって歩むことはできます。使徒パウロは、この心強い信仰の内に日々を生きておられ、私たちもそのようにして、ひたすら主に喜ばれるように生きるよう、勧めているのではないでしょうか。私たちは皆間もなくこの世を去り、キリストの裁きの座の前に立って、この世で信仰を持って生きた度合いに応じて報いを受けることになっているからです。


   本日の福音では主が、私たちがこの世で蒔く種の成長と、芥子種の力強い生命力について教えておられます。土に種を蒔くのは人間ですが、その種に芽を出させ、生長させて実を結ばせるのは、人間ではなく神がなさるのです。その神の不思議な大きな愛の働きに信頼し協力するのが、私たち人間の為すべきことなのではないでしょうか。人間側の働きよりも神の働きに心の眼を向けながら、日々の働きを捧げるように心掛けましょう。本日のこの「聖書と典礼」には、芥子だねについて、「種は1~2ミリ程度だが」とありますが、芥子だねを実際に見たことのない人の言葉だと思います子。私が1970年代にイスラエルのカイザリア港町の廃虚に生えていた芥子の木の小さな実一つから集めた何百という芥子種は、いずれも0.3ミリくらいの大きさで、1ミリ大なら小さなピンセットで掴むことができるのですが、全然掴むことができませんでした。しかし、紙の上に取りわけて蒔いてみますと、芽を出して育ち始め、それをいろいろの希望者に与えて育ててもらいましたら、1m以上に育って黄色い花も咲かせましたが、日本の冬の寒さのため残念ながら皆枯れてしまいました。私はその花の写真も持っています。こんなに小さな種に込められている生命力の大きさに驚きました。私たちが神から頂戴している平凡に見える秘跡にも、驚くほど大きな力が込められているのではないでしょうか。大きな信仰と信頼の内に生活するよう心がけましょう。

2015年6月7日日曜日

説教集B2012年:2012年キリストの聖体

第1朗読 出エジプト記 24章3~8節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章11~15節
福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節


   本日の第一朗読は、約束の地カナアンを目前にしてモーセが神の民に語った遺言のような話からの引用ですが、その中でモーセは「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまでたずねてみるがよい。これ程大いなることがかつて起こったことがあろうか。云々」と、天地万物と人間をお創りになった神の御業の偉大さに、まず民の心を向けさせています。そしてその神が、他の多くの国民の中からイスラエルを特別に選び出し、神による数多くの徴しや奇跡を体験させながら、これから入る約束の地まで民をお導き下さったことを語り、天においても地においてもこの神が唯一の主であり、他に神のいないことを弁えて、神から与えられた掟と戒めを守り行うよう命じています。そうすれば民もその子孫も、主がお与えになるこの約束の地で、長く幸せに生きることができるのだ、と明言しています。

   モーセがその民に語ったこれらの言葉は、現代世界に生きる私たちにとっても大切だと思います。私たちは神が創造なされたこの巨大な天地万物の恵みや、その中で神から特別に選ばれ愛されている人間という存在の素晴らしい恵み、並びにその使命などについて、日々心にしっかりと刻み込み、神に感謝を捧げているでしょうか。20世紀の中頃から人間の科学が大規模に発達して来てみますと、神がお創りになった宇宙の絶大な大きさや、その細かい所まで行き届いている組織体制の神秘には、全く圧倒される程の感動を覚えます。神は本当に大きな愛と配慮を込めてこの宇宙を、また人間をお創りになり、今も絶えず細かい所まで行き届くその御力と温かいお心で、万物を支え導いておられるように思います。

   筑波大学の名誉教授で遺伝子研究の世界的権威者の一人である村上和雄氏は、大人の人間の体に60兆もあると言われている、小さな小さな細胞1個の中に、「宇宙(全体)に匹敵する程の神秘が隠されている」と述べています。村上氏によると、ヒトの遺伝子暗号は約30億の科学的文字(塩基)から成っていますが、この30億の文字を人間が読めるような普通の文字に拡大しますと、1ページ1千字で、千ページもの分厚い本が3千冊になるそうです。それだけの詳しい情報が、私たちが胎児の時から受け継いでいる体の各細胞に書き込まれているのだそうですから、これは「神の驚くべき御業」と言わざるを得ません。村上氏は「20世紀に発見された最大の奇跡」と称しています。しかも、その遺伝子情報は、両親の遺伝子や兄弟姉妹の遺伝子とも幾分異なっている、全く各人独自の情報だそうで、こう考えますと、一人一人の人間は、すでに胎児の時から「神からの特別の贈り物、貴重な宝物」と言わざるを得ません。神からのその貴重な贈り物を、人間中心の浅墓なこの世的考えで、無駄にして仕舞わないよう心がけましょう。

   自然界の動植物の遺伝子より遥かに多い、その30億にも及ぶヒトゲノムの配列は、21世紀に入るとすぐ全部解読されましたが、以前にもここで申しましたように、そのうちonの状態(目覚めている状態)になっているのは7パーセント程で、残りの93パーセントはoffの状態になっており、どういう機能を持つ遺伝子であるかは分かっていないと聞きます。その話を聞いた時私はすぐ、それらのまだ眠っている遺伝子の多くは、世の終わりに主イエスの復活体と同じ姿に復活した時に働き出すのではないかと考えました。天文学者たちによると、この巨大な宇宙は今も尚、光の速度で無限に膨張し続けているのだそうです。私たちの住んでいるこの太陽系の星たちが所属する「天の川銀河系」と同じような巨大な星たちの集まりである銀河系は、一番近いアンドロメーダ銀河系をはじめ、他にもまだ無数に散在しているそうですから、私たち人間は、この世の時間空間の束縛から解放されたあの世の体に復活した後には、それらの銀河系の星たちの間を神出鬼没に自由に駆け巡りつつ、神がお創りになった無数の神秘を次々と発見し、大きな感動の内に三位一体の神を讃え、神に感謝し続けるのではないでしょうか。神に特別に似せ、万物の霊長として創られた私たち人間の未来には、想像を絶する程の明るい大きな永遠の喜びと、神の無数の被造物を益々深く理解し世話する使命が、神ご自身によって備えられているように思います。創世記1章にあるように、神は人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」「生き物を全て支配せよ」と、お命じになったのですから。

   本日の福音には、あの世の命に復活なされた主がガリラヤで弟子たちに、「全ての民を私の弟子にしなさい」と命じられたお言葉が読まれます。「教えなさい」と命じられたのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちは、いくら聖霊の賜物によって心が満たされ強められたとしも、言葉の違う世界にまで出かけて行って、教養の高い文化人たちにまで教えるなどということは、できなかったと思います。しかし、自分たちの見聞きした体験から目撃証人として語り、その証言を聴いた世界各地の文化人が、それぞれ自分たちなりに提供された神の救いに心を開き、主キリストの弟子となって生き始めることは可能だったと思います。主のお言葉は、このことを指しているのだと思います。神による救いに心を開く人たちには、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、弟子たちに命じて置いたことを全て守るように教えなさい、というのが主のご命令だと思います。これなら、無学な漁夫達にも実践可能だったでしょう。このようにして神の子の命に参与する人々と共に、主は世の終りまでいつも共にいるというのが、主のお約束だと思われます。

   私が公教要理を学んだ終戦直後の頃、西洋では「三位一体の教義が一番理解し難い教理だ」と言われていたようです。しかし、当時のあるドイツ人宣教師は「日本人には、三位一体の教義はほとんど抵抗なくそのまま受け入れられるようだ」と話していました。私も当時を振り返ると、その教義にはそれ程抵抗を感ぜずに、神は孤独な唯一神ではなく、三方の愛の共同体なのだ、と素直に信じることができていました。公教要理を教えるドイツ人宣教師の話の中に、「作品は作者を表わす」という諺のように、神のお創りになった被造物の中には、例えば火のように、燃やす力と照らす光と温める熱とが一つになっているものが多く、太陽の引力も光線も熱線も一つになっている、というような説明がありましたから。


   人間理性は無意識のうちに何か不動の原則や尺度を作り上げていて、「唯一のものは、三つにはなり得ない」などと、人間理性がこの世の日常体験から作り上げたその尺度を、あの世の霊的真理についての神の啓示にまで適用しようとし勝ちです。それではあの世の神の御教え、神の真理の中に生きることができません。理性は自分で自分を欺き易い能力なのです。人間理性のその弱さを逆に利用して楽しませてくれているのが、今の世にも流行っているマジックなのです。「主は幼児のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)と教えておられます。人間理性がこの世の経験から作り上げている原則や価値観などから離れて、まずは親から愛され親に聴き従っている幼児のように素直な心で、神の声に心を傾け、神の導きに聴き従いましょう。日々その生き方を続けていますと、神の働きと思われる不思議な護りや導きを小刻みにたくさん体験するようになります。そして目に見えない神の現存や働きに対する心の信仰が、無数の体験に根差した揺るがない確信になって行きます。…….