2015年6月24日水曜日

説教集B2012年:2012年洗礼者聖ヨハネの誕生(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 49章1~6節
第2朗読 使徒言行録 13章22~26節
福音朗読 ルカによる福音書 1章57~66、80節

   本日の第一朗読は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第二の歌ですが、特に第三・第四の歌を読みますと、この僕は将来お出でになるメシアご自身を指していると思います。神の御子は、「母の胎内にあった」時から神の「僕として形づくられた」と、既に旧約の預言者時代に、イザヤ495節で歌われたのではないでしょうか。典礼はこの言葉を、メシアの先駆者ヨハネにも当て嵌めて、そのヨハネの誕生を記念しお祝いしているようです。第二朗読は、使徒パウロがアンティオキアのユダヤ教の会堂で語った説教からの引用ですが、その中でパウロは、洗礼者ヨハネもナザレのイエスを神から派遣されたメシアであると認め、「その方は私の後から来られるが、私はその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と話していたと告げています。多くのユダヤ人から神の預言者として尊敬されていた洗礼者ヨハネは、メシアの先駆者であったのです。

   しかし、洗礼者ヨハネの誕生を祝う本日の祭日には、これらの朗読聖書から離れて、ルカ福音書に基づいてそのヨハネの父母とヨハネの誕生の出来事について、ご一緒に考えてみたいと思います。私は個人的に、ヨハネの父母ザカリアとエリザベトを、新約時代の初めを飾る優れた聖人として厚く尊敬しています。ルカは、「二人とも主の全ての掟と定めとを落ち度なく踏み行い、神の御前に正しい人であった」と書いていますが、真にその通りであったと思います。しかし、エリザベトにはどれ程祈っても子供が生まれませんでした。旧約時代のユダヤ社会では、それは子孫が栄光のメシア時代にまで生き残れないようにする神からの罰であるとされていたので、二人には何か隠れた罪があるのではないかなどと、社会からは見なされていました。長年人々からこのように見下される恥を抱えていたのですから、二人は人の何倍も厳しく自分を律し、全ての掟と規則を心を込めて順守していたのだと思います。しかし、どれ程厳しく律法を順守し、祈りを重ねても子供は生まれず、遂に二人は子供を産めない程の年寄りになってしまいました。

   その上に、祭司のザカリアにはもう一つの苦しい社会的恥もありました。当時24組に分かれていたレビ族の祭司たちは、毎年2回一週間ずつエルサレム神殿に奉仕することになっていましたが、その奉仕の期間中は籤で選ばれた一人の祭司が、大祭司が大きな祝日の時に入って神に祈る神殿の至聖所に入り、香をたく務めを果たすことになっていました。各組の祭司の数は十分にありましたので、一度この務めを果たした祭司は、その籤を引かないことになっていました。各組には毎年14回その務めが割り当てられていたのですから、殆どの祭司は20歳代30歳代で一生一度のその光栄ある務めを果たしていましたが、アビアの組のザカリアだけは、年老いても一度もその籤に当たらず、神殿奉仕の期間中は毎日自分よりも一世代も若い祭司たちと一緒に籤を引いていました。子供が生まれないことと共に、これは耐えがたい程の社会的恥であったと思われます。皆は籤引きの度毎に、ザカリアには何か大きな隠れた罪があるのだ、と思ったことでしょうから。

   ところが、籤引きの当選はもう諦めていたと思われる年老いた祭司ザカリアに、ある日その籤が当たりました。ザカリアも皆も驚いたことでしょう。慣例に従って会衆が皆外で神に祈っている時に、祭服で着飾った老齢のザカリアは、香炉を手にして緊張しながら主の聖所に入って行ったと思います。そして香をたいていたら、天使が香壇の右手に現れ、ザカリアは胸騒ぎがして恐怖に襲われました。すると天使は、「恐れるな、ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言って、妻エリザベトが男の子を産むから、その子にヨハネという名をつけること、その子は主の御前で偉大なものとなること、母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らを神の下に立ち返らせることなどの、命令や予告を告げました。しかしザカリアが、「何によって、それを知ることができるのでしょうか。私は老人で、妻も年老いています」とお答えすると、天使は「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたにこの良い知らせを伝えるために派遣されたのです。あなたは、この事が起こる日まで話すことができなくなるでしょう。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったから」と言い渡しました。

   神殿の内庭で祈っていた民は、ザカリアが聖所内に留まったまま、なかなか出て来ないのを不思議に思っていました。やがて出て来ましたが、手振り身振りで人々に聖所内で幻を見たことを知らせるだけで、口は利けなくなっていました。それで皆は、やはりザカリアには隠れた大きな罪があったのだ、罪ある祭司が聖所に入ったために、天罰が下ったのだと思ったことでしょう。おしで弁明できないザカリアは、その社会的恥をも耐え忍びながら、務めの期間が終わると、黙って自分の家に帰りました。しかし、その心の中には大きな喜びと希望を宿していたと思います。妻との間に偉大な男の子が生まれる、と神から告げられたのですから。そして家に帰るとすぐ、筆談でそのことを全て妻に知らせたと思います。

   ところで、大天使ガブリエルは「私の言葉を信じなかったから」と言ったのですが、いったいザカリアのどこが悪かったのでしょうか。祭司として、神の存在も全能も堅く信じ、長年旧約時代の全ての掟を心を込めて順守して来たのですから、その点では全く落ち度がなかったと思います。ただしかし、全てを自分の人間理性で考え、自力で神信仰に生きていましたので、どんなに努力しても人間的弱さに起因する不完全さは免れることができなかったと思われます。大天使が咎めたのは、ザカリアのその神信仰や信仰生活のことではありません。彼が自分に対する神のパーソナルな特別の愛を、すぐに信じることができずに躊躇した事だと思います。長年「隠れた罪を持つ人」として社会的に見下されていたのですから、突然天使から偉大な男の子が生まれると告げられても、すぐには自分に対する神のその愛を信じることができず、神の御旨に神の僕として従うことができなかったのだと思います。口が利けなくなったザカリアは、この後の数ヶ月間この事についてゆっくりと反省し、人間理性中心にではなく、神の愛を堅く信じ、神の御旨中心に神の僕として生きよう、と決意を新たにしていたことでしょう。ザカリアの心の中では既に旧約時代が終り、新約時代が始まったのだと思います。そのザカリアの心が、旧約時代の神の憐れみや約束を回顧し、新しく生れる幼児ヨハネを夢見つつ産み出したのが、私たちが日々唱えている「ザカリアの讃歌」であります。ヨハネの誕生を親戚や近所の人々に知らせて、その割礼式を準備したと思われるマリアは、その讃歌を書き留めてルカに伝えたのだと思います。

   ザカリアがお告げを受けた半年後、ナザレトでマリアも、同じ大天使から神の御子を宿すというお告げを受けました。マリアは「私は神の婢です」と答えて、すぐ神の御旨に従う信仰心を表明しましたが、しかし、ルカが「その日々に」と書いている言葉から察しますと、お告げの後の数日間、マリアは苦しんだようです。マリアは洗礼者ヨハネと同様老夫婦の子供だったのか、伝えによると子供の時に神殿に献げられ、神殿所属のレビ族の女子育児院で養育されたようです。としますと、結婚適齢期が近づくと社会に出て働くことになりますが、親譲りの資産のない貧しい少女だったのではないかと思われます。女性に厳しかった当時のユダヤ社会では、婚約者ヨゼフの助けなしには子供を育てることができません。しかし、ヨゼフの承諾を得るために、神による神の御子の懐妊という未曾有の大きな神秘をどう説明したら良いのか判らず、マリアは悩んだのだと思います。

   その時大天使が最後に話した、老いた石女エリザベトが男の子を懐妊して六カ月になっているという知らせを思い出し、まずその奇跡を自分の目で確かめよう、そうすればヨゼフを説得する道も開かれようと考えたのではないでしょうか。しかし、当時は危険の多い若い女の一人旅は厳禁されていました。マリアはその事でも苦しんだ後に、事情あって三カ月程ザカリアの家に滞在する由の書置きを、知人に託してヨゼフに渡してもらい、朝早く誰も見ていない暗い内にナザレトを出発し、一人旅を敢行したのだと思います。神の御子を孕んでいるのならと神に信頼し、神の護りをひたすら祈り求めながら。規則中心主義でない新約時代の生き方が、ここでも始まっています。道々全ての危険を賢明に避けながら、三、四日後に無事ザカリアの家に辿りついたマリアは、大きな感謝と感激の声で「シャローム」の挨拶をしたことでしょう。その声を聞いたエリザベトは、胎内の子が聖霊に満たされて躍るのを覚え、女預言者のように声高らかに叫びながら奥から出て来ました。エリザベトがその時マリアに話した言葉は、皆様ご存じの通りですが、それに続いて述べられている讃歌は、プロテスタントの優れた古代教会史学者Adolf von Harnack(1851~1930)19世紀の末に発見したルカ福音書の非常に古い写本によると、マリアではなくエリザベトが唱えた讃歌とされています。

   ご存じのように、現存する新約聖書は全て原文ではなく後の時代の写本であります。手書きのその写本相互に多少の小さな違いが見られるのは、古代には写本作成の段階で時としてごく小さな書き直しがあったことを示していると思います。このことは19世紀のプロテスタント聖書学者たちによって次第に明らかにされましたが、19世紀末頃の教皇庁の役職者たちは、プロテスタントのそのような聖書研究に極度に反発し、教会が伝統的に伝えている聖書の一字一句には全て神の力が籠っているから、それをそのまま大切に信仰し、人間理性による批判的研究の対象にしないようにと、全てのカトリック者に命じていました。それでカトリックの聖書研究は、その保守的役職者たちが死に絶えるまで抑えられて、非常に遅れてしまいました。そのため、上述したHarnackの発見のことも取り上げられず、今では全ての聖書学者たちからも忘れられて、カトリック教会では相変わらず「マリアの賛歌」と思われています。しかし私は歴史家として、ヨーロッパでドイツ語のカトリック月刊誌を読んでこの事を知った時から、あの讃歌は、エリザベトが作って唱えたものを、マリアが書き残して日々唱え、それをルカに伝えたのではないか、と考えています。と言うのは、まだ十歳代半ばの外的人間的には平凡であった小娘マリアは、一人旅をしていた時は、旅中の全ての危険を回避する恵みと、婚約者ヨゼフの理解と協力を得るための祈りで心がいっぱいで、あのような讃歌を作詞する心境ではなかったと思われるからです。それに比べると、教養ある祭司の妻として懐妊の恵みに浴したエリザベトは、夫と共に旧約時代の神の愛の導きと働き、並びに自分たち夫婦の一生などをゆっくりと回顧しながら、あの讃歌を作詩したと考えられます。社会的に弱い者、抑圧されている者たちへの神の憐れみを讃えているこの讃歌を、聖母マリアもこの後一生かけて毎日のように愛唱していたと考えます。それで、この意味ではこれは「マリアの讃歌」と言われるに相応しいと思います。

   本日の福音は、洗礼者ヨハネの割礼の日の出来事について述べていますが、出産したエリザベトが高齢であったことを思いますと、ヨハネの誕生を手伝い、その事実を近所の人々や親族に知らせて、割礼式に皆を呼び集めたのは、マリアであったと思われます。高齢のザカリア夫婦にとってマリアの三カ月滞在は、神からの真に貴重な恵みであったと思います。そしてマリアも、神が為して下さった数々の不思議な出来事を見聞きして、神は自分の祈りに応えてヨゼフのためにも何かを為して下さると確信しながら、明るい希望を抱いてザカリアの家を離れたと思います。私たちも、その神が今の私たちにも大きな憐れみの眼差しを注いでおられると信じ、感謝しながら洗礼者ヨハネの誕生を記念し祝いましょう。