2013年7月28日日曜日

説教集C年:2010年間第17主日(三ケ日)



朗読聖書:  
. 創世記 18: 20~32.  
.コロサイ 2: 12~14.  
. ルカ福音書 11: 1~13.

    本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。3千数百年前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に、しかも大規模に進行しているからです。人類の人口は2030年に80億、2050年に90億などと予測されていますが、産業革命と共に始まった地球の温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル (IPCC)」の報告では、このままの状態が続くと、2050年には世界の飢餓人口が1千万人、水不足に悩む人が10億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生するであろう、などと警告されています。

    私たち神信仰に生きる人たちは、既にここまで地球環境を悪化させ、滅びへの道を進んでいるこの世の流れの中で、どう対処したら良いでしょうか。まずは本日の朗読に登場するアブラハムのように、神は罪悪を憎まれるよりも善に生きる人を喜ばれる方であることを信じつつ、一人でも多くの人が神に対する信仰と愛に目覚めて生きるよう、神中心主義に生きる真の神信仰を広めることに心がけましょう。神が求めておられる程多くの人を信仰に導くことができず、天罰は避け得ないかも知れません。しかし、せめてアブラハムの甥ロトたちのように、天使の導きや助けによって救われる人たちの数を増やすことは、可能なのではないでしょうか。使徒パウロはローマ書5章に、「罪の増えた所には、恵みは更に一層豊かになりました」と述べていますから。

    本日の福音の中で弟子の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい」と願うと、主は「祈る時にはこう言いなさい」とおっしゃって、「父よ、あなたの御名が聖とされますように」という言葉で始まる祈りを教えて下さいました。これが、主が教えて下さった本来の「主の祈り」であると思います。マタイが主のお言葉を総合的に手際よくまとめた山上の説教の中では、「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように」という言葉で「主の祈り」が始まっていますが、これは、初代教会が主から教わった祈りを集会の儀式用に多少補い変更させた祈りであろうと言われています。しかし、どちらの祈りでも、「御名が聖とされますように」という言葉が真っ先に置かれていることは大切だと思います。「聖とされる」という言葉は日本人には解り難いという理由で、プロテスタント諸派でもカトリックでも、この言葉は明治時代から「崇められますように」や「尊まれますように」などと訳し変えられ、宗教儀式でもそのように唱えられて来ましたが、これは主が唱えるようにとお命じになった祈りの言葉を、人間の考えによって別の意味の言葉に変えて唱えることになり、主のお望みに反することになると恐れます。主は「祈る時には、こう言いなさい」とお命じになったのですから。

    私は司祭叙階後にヨーロッパに留学しましたら、西欧諸国の言語にこの言葉がどこの国でも、「聖とされる」と翻訳されて使われているのを体験し、日本語訳が原文と違っているのが気になってなりませんでした。幸い十数年前から日本の聖公会とカトリック教会とが共同で、儀式の時に唱える「主の祈り」に「御名が聖とされますように」という邦訳を導入してくれましたので、今は感謝し喜んでいます。この祈りは主が教えて下さったという意味だけではなく、主ご自身が私たちと一緒に唱えて下さるという意味でも「主の祈り」であり、その言葉を私たち人間の考えや分り易さを中心にして変更することは、父なる神の聖さがこの世においても讃えられるようにと切に願っておられる、主のお望みに反するのではないでしょうか。

    「聖」という価値観は、真・善・美などのこの世の人間社会でも通用する価値観とは違って、本来神中心主義の美しさに輝いているようなあの世的聖さの価値観であり、この世の人間には解り難い価値観であります。主がそれを御承知の上で、あえて「御名が聖とされますように」という祈りを真っ先に唱えるようにとお命じになったのは、主と一致して度々そのように唱えている内に、私たちの心があの世的価値観に慣れ親しみ、聖霊の働きによってその価値観を正しく解るようになるからではないでしょうか。またこの言葉に続く幾つかの祈りは、全てこの最初の祈り一つに集約されるからでもあると思います。自分の考えを中心に据えて生きる人の多い「古いアダム」の罪がはびこっているこの穢れた被造物界に、父なる神中心に徹底的従順に生きる新しい神の愛の聖さを聖霊の働きによって根付かせ広めて行こうというのが、人間イエスの一番大きな願いであり、神の御国の広まりも日毎の糧の恵みも、他の全ては皆そのための手段に過ぎないように思われます。

    私たちの人間理性はこの世の事物を理解する能力ですので、神中心主義の愛の美しさに輝くその聖さを理解することも、自分の力で獲得することもできません。いや、宇宙万物の創造主を「父」とお呼びする大胆な愛を身につけることもできません。しかし、主のお言葉に従い主と一致してそのように祈っていますと、主も私たちの心の中で一緒に祈って下さり、聖霊もその心の中で働いて私たちに神の聖さを解らせて下さるのではないでしょうか。私たちの霊魂は、まだ心の奥に残っている、全てを自分中心に考える古いアダムの穢れた精神を、少なくとも死後あの世の浄めの火で徹底的に焼き尽くし、己を無にして神の御旨中心に生きる存在に変革されて、神中心の超自然的聖さに輝き始めない限り、諸聖人たちのいる天国には入れてもらえないと思います。私たちも諸聖人たちの模範に倣って、この世に生活する時から主の提供しておられるあの世的聖さを体得し、皆聖人になるよう努めましょう。察するに、日々御ミサの度毎にこの祭壇にお出で下さる御復活の主イエスは、今も毎日「父よ、御名が聖とされますように」と天の父なる神に祈っておられ、私たちがその祈りを唱える時、主も私たちの内で一緒に唱え、父なる神に捧げておられるのではないでしょうか。主の現存を信じつつ、主と御一緒に「主の祈り」を唱えるよう心掛けましょう。

2013年7月21日日曜日

説教集C年:2010年間第16主日(三ケ日)




朗読聖書:  
  Ⅰ.創世記 18: 1~10a. 
   .コロサイ 1: 24~28. 
   .ルカ福音書10: 38~42. 

    主が弟子たちを連れてやって来た村は本日の福音では「ある村」となっていますが、エルサレムに近いベタニヤという村でした。そこにはラザロという、多分富裕な貿易商と思われる人が大きな家屋敷を構えていて、いつも主の一行を快く泊めてくれていました。主のご受難の少し前に、このラザロが死んで屋敷内の墓に葬られていたのを、主が蘇らせた話がヨハネ11章に書かれていますが、そこにもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカ福音書には、七つの悪魔を追い出してもらったマグダラのマリアと呼ばれる女の話もあって、この女が特にヨハネ福音書では、主の受難死と復活の時に主に忠実に留まり続けて活躍したように描かれていますが、同じ古代末期の崩れ行く社会の中に生まれ育ち、4世紀後半に長年エルサレムに滞在して新約聖書をラテン語に翻訳したり、聖書の注解書を著したりした聖ヒエロニモは、このマグダラのマリアとラザロの妹マリアとを同一人物としています。しかし、社会体制も社会道徳も比較的安定していた時代しか知らないある聖書学者が、この二人が同一人物であるとは考えられないという仮説を唱えたことがありました。確かに、首都圏の立派な資産家の家に生まれ育った女が、貧しい家の出身者が多いマグダラの遊女たちの間で生活する程に身を持ち崩し、社会からも「罪の女」として後ろ指を指されるに到ったなどということは、通常では考えられないと思います。でも、社会全体が根底から文化的液状化現象で揺らぎ、社会道徳も心の教育も、基盤とする権威を失って崩壊しつつあるような時代には、現代においてもそのような異変が起こり得るのではないでしょうか。伝統的な堅苦しい束縛を嫌い、自分の思いのままに生きようとする人間は今の時代にも多いようで、良家の娘が家出をしたりした話は、現代にもたくさんありますから。

    本日の福音に戻りますと、罪の女の生活から足を洗って元の家に戻っている、そのマリアがいる家に主が弟子たちを連れてやって来ると、妹と違って伝統的良風を堅持し、家事を任せられていたと思われるマルタは、突然の客たちの夕食の準備で大忙しであったと思われます。マルタという名前は、当時シリア、パレスチナ地方に住んでいた庶民が、異教徒もユダヤ人もごく一般的に話していたアラム語では「女主人」という意味だそうですが、マルタは名実共に女主人として、本日の福音にあるように、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた」のだと思います。ルカ福音書8章の始めには、主と12使徒たちの旅行には以前に悪霊や病気から癒された数人の婦人たちも同行していたとありますから、マルタは、他所から来たその婦人たちにいろいろと指示を与えながら、主の一行の食事の準備などに追われて、心が少し散り散りになっていたかも知れません。

    ところが、自分の家のことをよく知る妹のマリアはマルタに手伝おうとはせず、広間で主の弟子たちと一緒に主の足元に座して、主の話に聞き入っていました。当時の伝統的慣習では、女性は公的なシナゴガだけではなく個人宅の広間などでも、男性客の間に入り混じって話を聞いたり教えを尋ねたりすることは許されず、女の慎みに欠ける行為とされていました。当時の律法学者たちが、律法の教えを学ぶのは男の務めであって、女性にはふさわしくないと教えていたからでもあると思います。伝統的慎みの慣習を重視していたと思われるマルタは、折角自宅に戻って来た妹のそのような女の慎みを欠く行為を見て、できれば一言すぐに注意したかったでしょうが、主のすぐ真ん前ですし、主が何もおっしゃらないので暫くは見て見ぬふりをしていたのかも知れません。しかし、遂に我慢できなくなったのだと思います。主のお側に近寄って「主よ、妹が私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」と申しました。

    主はそれに対して「マルタ、マルタ」と二度も名前を呼んでいますが、これはマルタへの親しみの情の表現だと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」とおっしゃいました。私たちも客人のもてなす時には、その人から良く思われるよう種々配慮しますし、その配慮は必要ですが、しかし、そのことで心を乱し、客人に対する接待を喜びの心のこもらないものにしてはならないというのが、主の教えではないでしょうか。外的慎みの配慮や客人もてなしの価値は、それらの配慮や奉仕に込める、神や客人への心の愛にあると思います。人と人の考えや好みや価値観などが大きく多様化しているような時代には、この本質を念頭においてひたすら神の方に眼を向けて喜んでなす奉仕愛に生きるように、というのが主のお勧めなのではないでしょうか。

    最後に「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というお言葉も、大切だと思います。ここで「良い方」とある言葉は、何を指しているのでしょうか。いろいろと意見があるでしょうが、私はこれを、昔ある人たちが考えたような観想生活のことではなく、自分に対する主の御言葉、神からの呼びかけなどを指していると思います。罪から立ち上がる恵みを得たマリアは、ひたすら神よりの呼びかけにのみ心を向けて生きようとしていた、進歩的女性だったのではないでしょうか。女性を家事や子育てだけに閉じ込めて来た旧来の伝統に反対し、いわば自分も主の女弟子になって男たちと共に主のお言葉を聴聞し、その証し人になることを望んでいたのかも知れません。主はその大胆な新しい試みを快く容認なされ、そのことを「良い方」と表現なされたのだと思われます。女性は律法研究などの男性の務めには立ち入らず、食事や育児などの家事の世話に専念すべきだとしていた律法学者たちの伝統的思想を退け、女性であっても神を愛し神に従おうとしているならその心を是とし、律法の理知的理解よりもメシアの新しい教えや神の霊の導きを信仰をもって受け入れる心、それに従おうとする自主的心の愛を重視しておられたからだと思われます。主のご受難の六日前、非常に高価なナルドの香油を1リトラも主の御足に注いで自分の髪の毛で拭いたマリアは、このような心の愛にかけては、当時の主の弟子たちよりも熱心だったのではないでしょうか。

    それが、人の心も神の霊の働きもそれぞれ極度に多様化する大きな過渡期に、主が多種多様な個性的人々を救うためにお示しになった生き方であると思います。「グローバル時代」と言われる現代も、未だかつて無かった程大きな、そのような過渡期であると言ってよいでしょう。私たちも、神の霊の導きに従うことを何よりも大切にしておられたと思われる主の、古い伝統に拘泥しない奉仕的愛の心の幅広い生き方を、身につけるよう心がけましょう。

2013年7月14日日曜日

説教集C年:2010年間第15主日(三ケ日)



朗読聖書:  
.申命記30: 10~14. 
.コロサイ 1: 15~20. 
.ルカ福音書 10: 25~37.

    本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」などと話しています。長年待望して来た約束の地を目前にしてモーセは、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と愛する神の民の心にしっかりと刻み込んで置きたかったのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。モーセがここで「律法の戒めと掟」と話している掟の内容も、後の時代の律法とは異なり、神の十戒を中心とするごく基本的な戒めや心構えだけであったと思います。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、その神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、温かい共同体精神が無力化して孤独と不安の中に生活している人の多い今のグローバル社会においても、私たちが心の本当の内的喜びと仕合わせに到達する道であると信じます。

    本日の福音には、一人の律法の専門家が主に「永遠の命をいただくには、何をしなければなりませんか」と尋ねていますが、当時の律法学者たちは、旧約聖書に書かれている数多くの法や掟を、私たちの言行を律する外的理知的な法規のように受け止め、人間の力ではそれらを全部忠実に守り尽くすことはできないので、それらの内のどの法、どの掟を守ったら永遠の命を頂いて幸せになれるかを論じ合っていたようです。この律法学者も、その答えを主に尋ねたのだと思います。主が「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」とお尋ねになると、その人はすぐ「心を尽くし精神を尽くし、云々」と、申命記6章に読まれる愛の掟を口にしました。この掟は、今でもユダヤ教の安息日の儀式の中程に、声を大にして唱えられている、特別に重要視されている掟であります。ですから、その人の口からもすぐこの掟がほとばしり出たのでしょう。主は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお答えになりました。しかしその人は、毎週幾度も口にしているこの掟の本当の意味内容を理解できずにいたようで、実行と言われても、何をどう実行したら良いのか判らず、「では、私の隣人とは誰ですか」と、まず隣人について主に尋ねました。主がそれに答えて話されたのが、「善きサマリア人の譬え」と言われる話であります。

    ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と10数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。

    譬え話では、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のように見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に12回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また本日の福音に読まれる半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として3回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。

    主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するように神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、外から法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、各人の心の精神が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。

    このようにして主体的に隣人を産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのです。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛・夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人や助けを必要としている人を見て憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見ることでしょう。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

    本日は聖ベネディクトの祝日で、シトー会系の修道会では祭日とされていますので、もう一言加えさせて頂きます。聖ベネディクトを記念するミサの福音の中で主は、「上に立つ者は仕える者のようになりなさい」と説き、「私はあなた方の中で、言わば給仕する者である」とも話しておられます。古代の西ローマ帝国が滅んだ後に生まれた聖ベネディクトは、西方教会の基盤となる新しい社会を神の力に頼って復興させるため、修道生活を創始し、修道院長となり修道会則を起草したり修道士の育成に尽力したりしましたが、家柄も良く教養高い人なのに、自分では司祭職に就こうとはなさらず、下から修友たち皆に仕えていたようです。同じミサの第二朗読では、神は知恵ある者、力ある者に恥をかかせるために、この世の無学・無力な者をお選びになったという聖書の言葉もありましたが、神は聖ベネディクトのように知恵ある人、初代の修道院長としての権威を持つ人であっても、無学・無力な修道士たちの地位に身を置いて下から皆に仕えようとしていた人を介して、多くの恵みを当時の修道会や修道士たち全員の上に注いで下さったのではないでしょうか。聖ベネディクトのこの模範も大切にし、私たちもそれに見習うよう心掛けましょう。