2013年7月21日日曜日

説教集C年:2010年間第16主日(三ケ日)




朗読聖書:  
  Ⅰ.創世記 18: 1~10a. 
   .コロサイ 1: 24~28. 
   .ルカ福音書10: 38~42. 

    主が弟子たちを連れてやって来た村は本日の福音では「ある村」となっていますが、エルサレムに近いベタニヤという村でした。そこにはラザロという、多分富裕な貿易商と思われる人が大きな家屋敷を構えていて、いつも主の一行を快く泊めてくれていました。主のご受難の少し前に、このラザロが死んで屋敷内の墓に葬られていたのを、主が蘇らせた話がヨハネ11章に書かれていますが、そこにもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカ福音書には、七つの悪魔を追い出してもらったマグダラのマリアと呼ばれる女の話もあって、この女が特にヨハネ福音書では、主の受難死と復活の時に主に忠実に留まり続けて活躍したように描かれていますが、同じ古代末期の崩れ行く社会の中に生まれ育ち、4世紀後半に長年エルサレムに滞在して新約聖書をラテン語に翻訳したり、聖書の注解書を著したりした聖ヒエロニモは、このマグダラのマリアとラザロの妹マリアとを同一人物としています。しかし、社会体制も社会道徳も比較的安定していた時代しか知らないある聖書学者が、この二人が同一人物であるとは考えられないという仮説を唱えたことがありました。確かに、首都圏の立派な資産家の家に生まれ育った女が、貧しい家の出身者が多いマグダラの遊女たちの間で生活する程に身を持ち崩し、社会からも「罪の女」として後ろ指を指されるに到ったなどということは、通常では考えられないと思います。でも、社会全体が根底から文化的液状化現象で揺らぎ、社会道徳も心の教育も、基盤とする権威を失って崩壊しつつあるような時代には、現代においてもそのような異変が起こり得るのではないでしょうか。伝統的な堅苦しい束縛を嫌い、自分の思いのままに生きようとする人間は今の時代にも多いようで、良家の娘が家出をしたりした話は、現代にもたくさんありますから。

    本日の福音に戻りますと、罪の女の生活から足を洗って元の家に戻っている、そのマリアがいる家に主が弟子たちを連れてやって来ると、妹と違って伝統的良風を堅持し、家事を任せられていたと思われるマルタは、突然の客たちの夕食の準備で大忙しであったと思われます。マルタという名前は、当時シリア、パレスチナ地方に住んでいた庶民が、異教徒もユダヤ人もごく一般的に話していたアラム語では「女主人」という意味だそうですが、マルタは名実共に女主人として、本日の福音にあるように、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた」のだと思います。ルカ福音書8章の始めには、主と12使徒たちの旅行には以前に悪霊や病気から癒された数人の婦人たちも同行していたとありますから、マルタは、他所から来たその婦人たちにいろいろと指示を与えながら、主の一行の食事の準備などに追われて、心が少し散り散りになっていたかも知れません。

    ところが、自分の家のことをよく知る妹のマリアはマルタに手伝おうとはせず、広間で主の弟子たちと一緒に主の足元に座して、主の話に聞き入っていました。当時の伝統的慣習では、女性は公的なシナゴガだけではなく個人宅の広間などでも、男性客の間に入り混じって話を聞いたり教えを尋ねたりすることは許されず、女の慎みに欠ける行為とされていました。当時の律法学者たちが、律法の教えを学ぶのは男の務めであって、女性にはふさわしくないと教えていたからでもあると思います。伝統的慎みの慣習を重視していたと思われるマルタは、折角自宅に戻って来た妹のそのような女の慎みを欠く行為を見て、できれば一言すぐに注意したかったでしょうが、主のすぐ真ん前ですし、主が何もおっしゃらないので暫くは見て見ぬふりをしていたのかも知れません。しかし、遂に我慢できなくなったのだと思います。主のお側に近寄って「主よ、妹が私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」と申しました。

    主はそれに対して「マルタ、マルタ」と二度も名前を呼んでいますが、これはマルタへの親しみの情の表現だと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」とおっしゃいました。私たちも客人のもてなす時には、その人から良く思われるよう種々配慮しますし、その配慮は必要ですが、しかし、そのことで心を乱し、客人に対する接待を喜びの心のこもらないものにしてはならないというのが、主の教えではないでしょうか。外的慎みの配慮や客人もてなしの価値は、それらの配慮や奉仕に込める、神や客人への心の愛にあると思います。人と人の考えや好みや価値観などが大きく多様化しているような時代には、この本質を念頭においてひたすら神の方に眼を向けて喜んでなす奉仕愛に生きるように、というのが主のお勧めなのではないでしょうか。

    最後に「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というお言葉も、大切だと思います。ここで「良い方」とある言葉は、何を指しているのでしょうか。いろいろと意見があるでしょうが、私はこれを、昔ある人たちが考えたような観想生活のことではなく、自分に対する主の御言葉、神からの呼びかけなどを指していると思います。罪から立ち上がる恵みを得たマリアは、ひたすら神よりの呼びかけにのみ心を向けて生きようとしていた、進歩的女性だったのではないでしょうか。女性を家事や子育てだけに閉じ込めて来た旧来の伝統に反対し、いわば自分も主の女弟子になって男たちと共に主のお言葉を聴聞し、その証し人になることを望んでいたのかも知れません。主はその大胆な新しい試みを快く容認なされ、そのことを「良い方」と表現なされたのだと思われます。女性は律法研究などの男性の務めには立ち入らず、食事や育児などの家事の世話に専念すべきだとしていた律法学者たちの伝統的思想を退け、女性であっても神を愛し神に従おうとしているならその心を是とし、律法の理知的理解よりもメシアの新しい教えや神の霊の導きを信仰をもって受け入れる心、それに従おうとする自主的心の愛を重視しておられたからだと思われます。主のご受難の六日前、非常に高価なナルドの香油を1リトラも主の御足に注いで自分の髪の毛で拭いたマリアは、このような心の愛にかけては、当時の主の弟子たちよりも熱心だったのではないでしょうか。

    それが、人の心も神の霊の働きもそれぞれ極度に多様化する大きな過渡期に、主が多種多様な個性的人々を救うためにお示しになった生き方であると思います。「グローバル時代」と言われる現代も、未だかつて無かった程大きな、そのような過渡期であると言ってよいでしょう。私たちも、神の霊の導きに従うことを何よりも大切にしておられたと思われる主の、古い伝統に拘泥しない奉仕的愛の心の幅広い生き方を、身につけるよう心がけましょう。