2013年7月7日日曜日

説教集C年:2010年間第14主日(泰阜のカルメル会で)

朗読聖書
            Ⅰ. イザヤ 66: 10~14c. 
       Ⅱ. ガラテヤ 6: 14~18. 
       Ⅲ. ルカ福音書 10: 1~12, 17~20. 

①    本日の第一朗読は、イザヤ預言書の最後の章からの引用ですが、イザヤはここで、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰国しても、祖国の再建を難しくする様々の困難に直面している民に向かって、喜んで神に従うよう励ましつつ、平和と慰め、繁栄と豊かさを約束して下さる神のお言葉を伝えているのだと思われます。また本日の第二朗読は、ガラテヤ書の結びの言葉といってよいですが、このガラテヤ書は全体として、異邦人キリスト者も皆割礼を受けて、神から与えられた律法を順守しなければならないと説く、ユダヤ教主義者の誤りを排除するために書かれた書簡であります。ガラテヤ書3章に述べられている教えによると、神がアブラハムとそのただ一人の子孫、すなわちキリストに約束なさった救いの恵みは、その430年後にできた律法に由来するものではなく、神の約束が律法によって反故にされたのでもありません。律法は、信仰によってキリストを受け入れるように導く養育係として与えられたのです。しかし、今や信仰によってそのキリストと一致し、神の子となる時代が到来したのですから、私たちはもはや養育係の下にはおらず、律法を順守しなくてもよいのです。もはやユダヤ人とギリシャ人の区別も、奴隷と自由人の区別もなく、皆キリストの内に一つとなって神の子の命に生き、神の約束なさった恵みを受け継ぐ者とされているのです。

②    使徒パウロはこの観点から、私たちを人間中心の文化や思想や自力主義から解放してくれる、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと、本日の朗読箇所で述べているのだと思います。また続いて「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」とある言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させます。使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに打ち込んでいたのだと思われます。古代の奴隷や奴隷女は、いつも自分の所有者である主人の考えや言葉に心を向け、その考えに従って行動し働こうとしている存在であって、自分の考えや自分の解釈、あるいは自分の望みのままに行動する自由は持っていませんでした。外的には自由のない可哀そうな存在と思われるかも知れませんが、しかし、その主人が愛深い良い牧者のような人である場合は、我なしのその従順によって主人から実に多くのことを実践的に学びとり、能力も磨かれ鍛えられて幸せに生きることができました。使徒パウロは、そういう主人・主キリストの奴隷として生きることに、大きな喜びと感謝を見出していたのだと思います。私たちも、その模範に倣うよう心がけましょう。

③    60年程前から各人の自由を尊重する能力主義教育が社会に普及し、商工業の急速な発達で都市部への人口移動が盛んになって核家族が激増すると、それまでの地域共同体や家族共同体の結束が弱まりましたが、それに伴って観光客が見に来るような大きな神社などは別として、小さな村々での村祭りも寂びれて、行われなくなった所が多くなりました。更に現代技術文明の発達で洗濯機・冷蔵庫・冷暖房・テレビ等々が普及し、日常生活が極度に便利になると、現代の日本には自分の思いのままに独りで生きていると思われる人間が多くなりました。年齢差によって各人の受けた教育や価値観も好みも幾分違うため、家庭においても家族皆で楽しく話し合うことも少なくなり、テレビやインターネットや携帯電話の頻繁な利用で、話し相手の顔が見えない、半分バーチャルな夢世界で生きている人や子供たちが増えて来ているようです。夢を見ている時、人は内的には孤独で、遊ぶようにして世渡りをしますが、しかし時には独りで不安感や恐怖感、あるいは人々からの見捨てられ感に襲われたりもします。「キレる」という言葉は1998年から辞書に登場しますから、その少し前の90年代の半ば過ぎごろから、日本の各地でそのような症状を示す、感性的に未熟な子供や若者たちが多くなり始めたと思われます。昔にも「堪忍袋の緒が切れる」という表現がありますが、これは忍耐を続けた後の怒りであるのに比べると、現代の「キレる」人は、耐え忍ぶ心が働かずに、突発的に怒りが爆発して思いもしなかった程の悪事に走ってしまうようです。日頃他者と一緒に助け合い励まし合って、不便を忍び困難に打ち克って生きるという体験がなく、極度の便利さの中で自分独りで全てを利用しながら生きているために、自分のその気ままと個人主義が無視され否定されたと思うような言行に出会うと、途端に自分が否定されたと受け止めて怒り出す、孤独な過敏さと被害者感覚が心の奥に蓄積されているのかも知れません。考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、心が個人主義にこもっていて落ち着きがなく、自分の思い通りにならない現実を蔑視する傲慢さもあって、心の衝動をコントロールすることが苦手なのではないでしょうか。

④    こういう人たちは社会にとって迷惑な困った存在ですが、本人たち自身も自分の心を持て余し、半分捨て鉢になって苦しんでいるのかも知れません。私は現代のキレる人たちをその心から救う道は、神を信奉すること以外にないと考えます。1995年にオウム真理教事件が発生しましたら、宗教に対する関心が若者たちの間で一時的に大きく落ち込みました。それ以前から続いていた伝統的宗教に対する教団離れが一層進んだばかりでなく、80年代以降に広まりつつあった新新宗教に対する関心も薄れました。宗教に批判的なマスコミの影響も大きかったと思います。しかし既に、美空ひばりが「川の流れのように」を歌った昭和最晩年の頃からは、日本社会の中に地球規模のグロバール社会の色彩が一段と濃くなって来ていたように思われます。そして社会はもう一つの川の流れのように動いているのではなく、地球規模の様々な海流に揉まれながら動いているように見えます。海ではあらゆる分野で世界各国の異変の影響を大きく受けますし、これまで経験して来なかった深みに隠れた深層水の流れにも配慮しなければならない、という不安もあると思います。

⑤    捉えようがない程のこの不安に、人々の心が目覚め始めたからなのでしょうか、21世紀の初め頃からは各個人の心の安定のため、再び神信仰に対する若者たちの関心が強まって来たようです。でも、その関心は宗教教団に対する関心ではなく、神信仰に基づく各個人の心の内観や、自己決定や自己責任などを重視する、心の霊的刷新強化に対する関心のようです。宗教集団には様々の古い法規や組織が居座っていて、そんな堅苦しいものに束縛されることを嫌っているのかも知れません。形は個人的であっても、真の神を信奉することが孤独と不安に悩む現代人を、新たな形で主キリストによる救いヘと導いてくれるよう、陰ながら主の恵みと聖霊の御導きを祈りたいと思います。出身地も教育も大きく異なる人たちが、深刻な不安の内に自分中心に生きようとする心を改め、謙虚に神を信奉する心で相互に結ばれ助け合うことを、神も現代社会に生きる人たちから望んでおられるのではないでしょうか。

⑥    本日の福音には、「どこかの家に入ったら、まずこの家に平和があるようにと言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人の上に留まる。もしいなければ、その平和はあなた方に戻って来る」という主のお言葉があります。各人の思想も関心も極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においては、このお言葉は大切だと思います。ここで「平和」と邦訳されている言葉シャロームは、「平安」と理解してもよいと思います。私の今いる神言神学院にはアジア・アフリカ・ヨーロッパ・アメリカの11ケ国人が一緒に生活していますが、年齢差もあって日本人同志であっても、お互いに話し相手のことはある限られた範囲までしか分りません。でも、それ以上に詳しく知らなくても、仲良く一緒に祈り一緒に食事をしたり働いたりすることはできます。お互いに主の平安が相手の心にあるようにと祈っていれば、主ご自身が働いて下さいます。この祈りは少しも無駄になりません。相手の心がその平安を受け入れなければ、その平安は自分の心に返し与えられるのですから。神の平安、神の働きが私たちの周辺に住む全ての人々に与えられるよう祈りつつ、不安がいや増すと思われるこれからのグローバル社会の海を渡り切りましょう。