2015年9月27日日曜日

説教集B2012年:2012年間第26主日(三ケ日)

第1朗読 民数記 11章25~29節
第2朗読 ヤコブの手紙 5章1~6節
福音朗読 マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節

   本日の第一朗読には、神がモーセに話された後に、モーセに授けられている霊の一部を70人の長老たちにも授けられたこと、そしてモーセと共に主の幕屋に出席していなかった二人の長老にも同じ霊の恵みを授け、この二人も自分の住む宿営で預言状態になったことが述べられています。そのことを聞いたモーセは、「私は主が霊を授けて、主の民全てが預言者になればよいと切望している」と話していますが、各人の考えも価値観も極度に多様化して、家庭でも地域社会でも共同体が内側から分裂する危険性を抱えている、現代の個人主義社会に生きている私たちにとっても、モーセのこの言葉は大切だと思います。私たち各人も、自分の考えや好みなどは二の次にして、預言者たちのように何よりも神のお考えや神のお望みに従って生きるように心掛けましょう。そうすれば、神の霊の導きによって私たちの直面している諸問題が次々と不思議に良く解決されて行くのを、見るようになると信じます。豊かさと自由の支配する現代は、そのような意味での預言者時代だと思います。

   第二朗読は、神を信ずる人たちの間にもいる利己的蓄財に没頭する金持ちたちを、厳しく糾弾した使徒ヤコブの書簡からの引用です。ヤコブはエルサレムの信徒団を統括し指導する初代司教でしたから、ここでは富裕なユダヤ人地主たちを念頭に置いて、警告しているのかも知れません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、現代の私たちの教会内にも、貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこる虞があると思います。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、第二朗読にある金持ちたちは、伝統的な各種共同体が豊かさと自由の内に崩壊しつつあった、当時の過渡的社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。これまでの社会倫理の基盤が、打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、同様に巧みに大儲けをしている人たちが少なくないことでしょう。殊に近年世界的に広まったネット社会では、自分を隠して相手と交渉したり、金を振り込ませたりすることが容易にできるので、悪魔たちはこの現代文明の利器を各種の詐欺犯罪などに頻繁に利用させているようです。しかし、この世の富を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わない、そのような精神や生き方に、使徒ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人や能力ある人たちをいつも特別扱いにすることは慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。

   本日の福音は、二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちが自分たちの団体や組織に属していない人たちを敵視せずに、その人たちが主の御名を使って悪霊を追い出し奇跡をなしているのなら、「私たちの味方」としてその活動を止めさせないようにと命じておられます。このお言葉は、マタイやルカの福音書にも読まれますから、福音記者たちは皆、宗教の世界からわが党主義を排斥しようとなさる、主のこの寛大な御精神を重視していたと思われます。

   教会内も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている無数の異教徒たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになりますし、事実、その人たちの信仰に応えて数々の奇跡をなしておられます。心を大きく開いて、教会外のそういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。私たちが日々捧げているミサ聖祭の功徳、主キリストによる救いの恵みは、まだ主の御教えを知らずにいるその人たちの所で、私たちの所以上に効果的奇跡的に働くかも知れませんが、そのことで気を悪くすることのないよう心がけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、人間側の努力や業績中心に神が報酬をお与えになると考えない人たちを嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、ファリサイ的原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛に生かされている寛大で温かい「肉の心」を持つように心がけましょう。


   本日の福音の後半は、主を信じる小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを世の人たちに示しつつ、明るい希望に生きるよう努めましょう。神はそのように生きる私たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。その人は、神から自分に派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くにまで来られた神に対する、畏敬の念を新たに致しましょう。まだ完全には神中心に生きていない私の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとっていた人たちがその恵みによって温かい心に変わって行くことも、見ることでしょう。

2015年9月20日日曜日

説教集B2012年:2012年間第25主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節
第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節
福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節

   本日の第一朗読には、神に逆らう者が「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」などと話していますが、マタイ27章によりますと同様の嘲りの言葉は、十字架上の主イエスに対して、道行く人たちもユダヤ教の祭司や律法学者・長老たちと一緒になって主に浴びせています。全人類の罪、彼らの罪をも背負って、その償いのいけにえとなって極度の苦難を受けておられた主にとっては、真に耐えがたい程の公然の侮辱・嘲笑であったと思われます。豊かさと便利さの中で生まれ育ち、子供の時からこの世的成功や幸せだけを目指す能力主義教育を、家庭でも学校でも受けて来た現代人の中には、自分の成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおう、自分たちの価値観と違う精神で生きている者を見つけたら、皆で嘲笑したり苛めたりして自分たちの一体感や団結心を産み出し固めようとする人たちも、少なからずいるかも知れません。最近の子供たちの間に陰湿な「苛め」が広まっていることをマスコミで知り、昔にも小さな一時的苛めは小学校時代にも中学校時代にも耳にしていましたが、現代の子供たちは、それよりももっと酷い苛めが長く継続するような状況に置かれているのではないか、と不安になりました。

   実は私の従兄弟の長女も、20年程前の女学生時代に酷い集団的苛めに悩まされ、担任の先生は親身になってその苛めの解消に努めてくれたようですが、数年間も精神医の世話になる程の病気を患いました。従兄弟は大阪の建築会社に勤めていたので奈良県に立派な自宅を建て、その次女は毛利元就の子孫と結婚して立派な生活を営んでいますが、小学・中学時代には優等生であった長女は、病気のためか結婚せずに親元で生活し、3年程前に死去しました。集団的苛めによって子供の心がこれ程にまで傷めつけられるのかと思うと、苛めを受けて自殺した子供をはじめ、そのような体験を持つ多くの子供たちのことも心配になります。私から受洗し日ごろ親しくしている名古屋のある女性が、数日前に私の所に訪ねて来た時に聞いたのですが、その人の孫娘で、私もその三歳頃からよく知っている二十歳代の女の人が、未だに定職に就けずアルバイトで生活していること、そして小学・中学時代に苛めで5回も学校を変更したことを知って、マスコミでは報道されていませんが、現代には子供時代に受けた苛めのため、人並に幸せな人生を営むことができずに苦しんでいる人が多いのではなかろうか、と思うようになりました。主はそのような社会の隅に隠れている罪を償うためにも死なれたのだと思います。

   現代には視野の狭い利己的精神や人生観に囚われている心の人が少なくないようですが、そのような人たちも、誤った教育の犠牲者、正しい心の教育の欠如から数多く生み出された犠牲者だと思います。2千年前頃の豊かなギリシャ・ローマ文明の中で生まれ育った人々の中にも、そのような視野の狭い利己的人間、わが党主義の人間が、社会の中にはびこっていたのかも知れません。救い主は、貧しい者、弱い者、助けを必要としている者たちを社会的に抑圧し、苦しめて止まないそういう人たちの無数の罪を背負って償うためにも、天の御父神からあれ程大きな苦難を与えられ、それらによく耐えて人類救済の御業を達成なされたのだと思います。その背後には、心の教育の歪みや欠如に対する、万物の創り主であられる全知全能の神の激しい怒りと憤りの御心があるのではないでしょうか。

   「我に従え」という救い主の御言葉を受けて、主に従う信仰生活を営んでいる私たちも、視野の狭い利己的精神の蔓延している現代世界に対する神の御怒りに対する、恐れの心を失わないよう心がけましょう。神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、全ての人、全ての存在は神中心に永遠に幸せに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いて、そういうこの世的精神の人々の所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時をお遣わしになるかも知れません。覚悟していましょう。


   第二朗読の中で使徒ヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのは、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まずは徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。本日の福音には、「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」という主のお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神から派遣された救い主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる無信仰の一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉も心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰を大切に致しましょう。助けを必要としているこの世の小さい者・貧しい者・悩んでいる者の内に現存しておられる神との、そのような出遭いと愛の奉仕は、私たちにとって大きな恵みの時でもあると思います。

2015年9月13日日曜日

説教集B2012年:2012年間第24主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節
第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節
福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

   バビロン捕囚とその直後頃の預言書である第二イザヤ書には42章、49章、50章、52章から53章と、「主の僕の歌」と言われている美しい詩文が四つ読まれますが、本日の第一朗読は、そのうちの第三の歌からの引用であります。第二イザヤ書に登場するこの「神の僕」が誰であるかについては、旧約時代には大きな謎でした。しかし、メシアの受難死が現実となってみますと、それらは全て何よりもメシアのことを預言したものとあるという解釈が、新約時代のキリスト教会内に定着しました。

   「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、ご受難の時の救い主イエスのご心情についての預言であると思います。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉も、心に銘記しましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主イエスはそのような絶望的苦難の時にこそ、何よりも全能の父なる神の現存と助けに心の眼を向け、第一朗読にありますように、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、天の父なる神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。主は本日の福音の中でもペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責しておられます。何よりもまず、神の御旨をたずね求めてそれに従おうと努める、このような信仰心のある所に神の力が働いて、人間の力では不可能なことも可能にしてくれます。いつの日か死の苦しみを迎える時、主のこの御模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。

   2年前にNHKが「無縁社会」という題で放映した番組によりますと、わが国では誰からも看取られずに、社会の片隅でひっそりと亡くなって行く人たちが増えており、その数は年間32千人を超えているそうです。戦後の自由主義・個人主義教育を受けて育ち、何でも各人の思いのままに自由に利用しながら生活できる豊かな現代文明の中に生活する人が多くなりますと、伝統的な血縁・地縁・社縁の共同体的絆がズタズタにされて弱められ、多くの弱者や老人たちが孤独に追いやられて、孤独死・無縁死を迎える人が多くなったのだと思います。その原因は、現代の資本主義企業が競うようにしてモノを大量に生産し、低価格で提供して人々の生活を便利・快適にしたことが、家庭や学校、職場や社会の仕組みを個人主義中心に変革したからだ、とされているそうです。伝統的な奉仕の助け合い制度を根底から崩壊させたり、あるいは自分の生活に不都合な妊娠であれば、中絶によって孕んだ胎児を殺したりするような現代人の個人主義に対して、宇宙万物の創り主であられる愛の神は、いつまでもそのまま黙認しておられないと思います。わが国での妊娠中絶は年間20万にも達するそうですから、遠からず神からの厳しい天罰を覚悟していなければならないかも知れません。

   本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の箇所に読まれる、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切だと思います。ただ聖書を研究するだけ、あるいは聖堂で祈るだけのファリサイ的な頭の信仰に留まっていてはなりません。それは、神から戴いた言葉の種や神の愛の火を、心の奥に蓋をしてしまい込んで置くようなもので、やがて神のその言葉に込められている命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々小刻みに実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのだと思います。その実りや輝きを期待しつつ、隠れた所からそっと私たちを見ておられる、神の現存に対する信仰の内に決心を新たにつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

   本日の福音では、「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」という主のお言葉に、ペトロが「あなたはメシアです」と答えると、主は「御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」と述べられているだけですが、マルコと違って実際にその場にいたと思われるマタイによりますと、主はペトロに、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間ではなく、天におられる私の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。よみの国の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」とペトロを褒め、ペトロに大きな権限を約束なされてから、弟子たちに御自分がメシアであることを誰にも話さないようにとお命じになっています。これが事実だと思います。しかし、そのすぐ後で、主の受難死の予告をそのまま素直に受け止めようとしなかったペトロに対して主は、本日の福音にもあるように、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、弟子たちの前で厳しくお叱りになったのです。


   主から「あなたに天の国の鍵を授ける」と約束されたペトロは、神の国の最後の勝利を確信しており、主に自分の一生も命も捧げて従って行こうと、心に堅く決めていたでしょうが、しかしその頭の中には、それまで人々から聞いていた人間的な聖書解釈やメシア像が支配していて、神秘な神のご計画などは毛頭知らずにいたと思います。従ってその人間的な考えを中心にして、大きな善意の内に主にひと言おいさめ申し上げようとしたのだと思います。私たちも気を付けましょう。2千年前のキリスト時代と同様、いや恐らくはそれ以上に現代は人類史の大きな過渡期を迎えていると思います。神はこのような過渡期には、人々の聖書解釈とは違う全く新しい働き方をなさるかも知れません。例えば多くの信者はローマ・カトリック教会は世の終りまでこのまま続くと信じているかも知れませんが、神はその教会に主キリストの受難死にも似た、恐ろしい恥と苦しみをお与えになり、これまでの教会の罪や人類の無数の罪の償いをお求めになるかも知れません。躓かないように気を付けましょう。聖母マリアと一致して、ひたすら天の御父の御旨に従って忍耐と祈りの内に生き抜き、救いに達するよう今から心を堅めていましょう。

2015年9月6日日曜日

説教集B2012年:2012年間第23主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節福音朗読 マルコによる福音書 7章31~3節


   本日の第一朗読には、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」という預言者の言葉が読まれますが、心の教育が大きく乱れて立ち遅れているため、現代世界にはかつてなかった程の規模で犯罪が多発したり、それが国際的に普及したりしているようです。昔の保守的ドイツ人宣教師たちの感化を受けて育った私は、これ程多くの異常な犯罪発生の背後には、無数の悪魔が策動しているのではないかと考えています。恐ろしい犯罪や各種の悲惨なテロ事件は、これからも多発し続けるかも知れません。神がお創りになった大自然界の大小全ての能力や可能性を次々と発見し、人間中心に利用することに意欲的であった現代文明社会の地盤は最近液状化現象を起こし、神を無視する社会の地盤に潜んでいたものが続々と表面に現れて来るからです。そこに地球温暖化が進むと、今の私たちには想像できない程の深刻な自然災害が、これからの人類社会を絶望的状態に追い込むかも知れません。

   余談になりますが、ちょうど百年前の1912年に東京神田の下町で職人の家に生れた福田恒存という人は、そこで身に着いた職人気質と庶民の良識を大切にし、東大で英文学を学ぶと「生の哲学」に関心を寄せて、人間の非合理的な生命の力を直視し、当時の知識人たちの論理的な発想や考えにはいつも批判的であったそうです。それで戦争中は、戦争指導者やその政治にすり寄る知識人たちを嫌い、東大出ではありましたが社会の要職に着こうとせずに、自宅の庭で防空壕掘りなどをしていたそうです。そして戦後は劇団「雲」や「襷」を統率し、劇作家・評論家として目覚ましい活躍をしています。この福田恒存は、日本人庶民の伝統的良識の立場から、西洋文化にかぶれた知識人たちの人間理性中心論理の不完全性を鋭く批判して退け、絶対者の働きや導きに従う心と、人間の自主的努力との両方をバランスよく生かす生き方を説いています。それはちょうど旧約時代の預言者たちが、その時代の社会に流行していた人間的思考の立場でだけものを考えずに、歴史を支配し統合しておられる神の御摂理にも同時に心を向けながら、物事を判断しようとしていたのに似ていると思います。想定外の不穏な事件や災害が次々と発生すると思われるこれからの時代に賢明に生きるにも、江戸庶民の伝統的良識に根ざした、福田恒存のバランスの取れた両面的考え方、生き方が必要なのではないでしょうか。

   前述した、預言者を介して語られた神のお言葉を心に銘記し、どんな事態をも恐れずに、雄々しく生き抜く心を堅めていましょう。この世の社会や生活が不安で危険になればなる程ますます真剣に神に縋り、神に信頼と希望をもって祈るよう努めましょう。社会を内的に堕落させるような恐ろしい嵐に抵抗することは誰にとっても嫌ですが、嫌がって逃げ腰になっていると悪の勢力につけ込む隙を与えます。神の力に頼って雄々しく立ち向かおうとすると、神から私たち各人の心の奥底に与えられている本当の勇気が、目覚めて働き出します。神はそのような勇気と信仰と希望を堅持している人たちをご覧になると、その人たちを介して力強く働いて下さいます。神の御言葉に対するこの信仰を堅持して、前向きに希望をもって力強く生き抜きましょう。


   本日の第二朗読はヤコブ書からの引用ですが、ヤコブ書の122節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけの人になってはなりません」という言葉があり、これがヤコブ書全体のテーマになっている、と申しても過言ではないと思います。本日の朗読箇所も一つの具体例をあげて、人をその外的服装などから差別扱いをしないよう、厳しく警告しています。神が私たちから求めておられるのは、福音の御言葉を受け入れて心に保つだけではなく、その御言葉に従って生きる実践であります。種蒔きの譬え話から明らかなように、主の御言葉は種であります。その種が心の畑に根を張って、豊かな実を結ぶようにする実践が何よりも大切だと思います。しかし、ここで気をつけたいことがあります。それは、私たちが主導権を取り自分の考えや望みに従って、その種に実を結ばせようとしてはならない、ということです。使徒パウロはコリント前書3章に、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」と書いています。神がなさる救いの御業に協力し仕える姿勢を堅持しながら、人々の心の中での神の働き、神の命の御言葉の成長に下から奉仕し、温かい心でその豊かな実りを祈り求める実践に励みましょう。