2015年9月20日日曜日

説教集B2012年:2012年間第25主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節
第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節
福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節

   本日の第一朗読には、神に逆らう者が「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」などと話していますが、マタイ27章によりますと同様の嘲りの言葉は、十字架上の主イエスに対して、道行く人たちもユダヤ教の祭司や律法学者・長老たちと一緒になって主に浴びせています。全人類の罪、彼らの罪をも背負って、その償いのいけにえとなって極度の苦難を受けておられた主にとっては、真に耐えがたい程の公然の侮辱・嘲笑であったと思われます。豊かさと便利さの中で生まれ育ち、子供の時からこの世的成功や幸せだけを目指す能力主義教育を、家庭でも学校でも受けて来た現代人の中には、自分の成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおう、自分たちの価値観と違う精神で生きている者を見つけたら、皆で嘲笑したり苛めたりして自分たちの一体感や団結心を産み出し固めようとする人たちも、少なからずいるかも知れません。最近の子供たちの間に陰湿な「苛め」が広まっていることをマスコミで知り、昔にも小さな一時的苛めは小学校時代にも中学校時代にも耳にしていましたが、現代の子供たちは、それよりももっと酷い苛めが長く継続するような状況に置かれているのではないか、と不安になりました。

   実は私の従兄弟の長女も、20年程前の女学生時代に酷い集団的苛めに悩まされ、担任の先生は親身になってその苛めの解消に努めてくれたようですが、数年間も精神医の世話になる程の病気を患いました。従兄弟は大阪の建築会社に勤めていたので奈良県に立派な自宅を建て、その次女は毛利元就の子孫と結婚して立派な生活を営んでいますが、小学・中学時代には優等生であった長女は、病気のためか結婚せずに親元で生活し、3年程前に死去しました。集団的苛めによって子供の心がこれ程にまで傷めつけられるのかと思うと、苛めを受けて自殺した子供をはじめ、そのような体験を持つ多くの子供たちのことも心配になります。私から受洗し日ごろ親しくしている名古屋のある女性が、数日前に私の所に訪ねて来た時に聞いたのですが、その人の孫娘で、私もその三歳頃からよく知っている二十歳代の女の人が、未だに定職に就けずアルバイトで生活していること、そして小学・中学時代に苛めで5回も学校を変更したことを知って、マスコミでは報道されていませんが、現代には子供時代に受けた苛めのため、人並に幸せな人生を営むことができずに苦しんでいる人が多いのではなかろうか、と思うようになりました。主はそのような社会の隅に隠れている罪を償うためにも死なれたのだと思います。

   現代には視野の狭い利己的精神や人生観に囚われている心の人が少なくないようですが、そのような人たちも、誤った教育の犠牲者、正しい心の教育の欠如から数多く生み出された犠牲者だと思います。2千年前頃の豊かなギリシャ・ローマ文明の中で生まれ育った人々の中にも、そのような視野の狭い利己的人間、わが党主義の人間が、社会の中にはびこっていたのかも知れません。救い主は、貧しい者、弱い者、助けを必要としている者たちを社会的に抑圧し、苦しめて止まないそういう人たちの無数の罪を背負って償うためにも、天の御父神からあれ程大きな苦難を与えられ、それらによく耐えて人類救済の御業を達成なされたのだと思います。その背後には、心の教育の歪みや欠如に対する、万物の創り主であられる全知全能の神の激しい怒りと憤りの御心があるのではないでしょうか。

   「我に従え」という救い主の御言葉を受けて、主に従う信仰生活を営んでいる私たちも、視野の狭い利己的精神の蔓延している現代世界に対する神の御怒りに対する、恐れの心を失わないよう心がけましょう。神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、全ての人、全ての存在は神中心に永遠に幸せに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いて、そういうこの世的精神の人々の所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時をお遣わしになるかも知れません。覚悟していましょう。


   第二朗読の中で使徒ヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのは、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まずは徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。本日の福音には、「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」という主のお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神から派遣された救い主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる無信仰の一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉も心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰を大切に致しましょう。助けを必要としているこの世の小さい者・貧しい者・悩んでいる者の内に現存しておられる神との、そのような出遭いと愛の奉仕は、私たちにとって大きな恵みの時でもあると思います。