2015年9月13日日曜日

説教集B2012年:2012年間第24主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節
第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節
福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

   バビロン捕囚とその直後頃の預言書である第二イザヤ書には42章、49章、50章、52章から53章と、「主の僕の歌」と言われている美しい詩文が四つ読まれますが、本日の第一朗読は、そのうちの第三の歌からの引用であります。第二イザヤ書に登場するこの「神の僕」が誰であるかについては、旧約時代には大きな謎でした。しかし、メシアの受難死が現実となってみますと、それらは全て何よりもメシアのことを預言したものとあるという解釈が、新約時代のキリスト教会内に定着しました。

   「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、ご受難の時の救い主イエスのご心情についての預言であると思います。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉も、心に銘記しましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主イエスはそのような絶望的苦難の時にこそ、何よりも全能の父なる神の現存と助けに心の眼を向け、第一朗読にありますように、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、天の父なる神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。主は本日の福音の中でもペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責しておられます。何よりもまず、神の御旨をたずね求めてそれに従おうと努める、このような信仰心のある所に神の力が働いて、人間の力では不可能なことも可能にしてくれます。いつの日か死の苦しみを迎える時、主のこの御模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。

   2年前にNHKが「無縁社会」という題で放映した番組によりますと、わが国では誰からも看取られずに、社会の片隅でひっそりと亡くなって行く人たちが増えており、その数は年間32千人を超えているそうです。戦後の自由主義・個人主義教育を受けて育ち、何でも各人の思いのままに自由に利用しながら生活できる豊かな現代文明の中に生活する人が多くなりますと、伝統的な血縁・地縁・社縁の共同体的絆がズタズタにされて弱められ、多くの弱者や老人たちが孤独に追いやられて、孤独死・無縁死を迎える人が多くなったのだと思います。その原因は、現代の資本主義企業が競うようにしてモノを大量に生産し、低価格で提供して人々の生活を便利・快適にしたことが、家庭や学校、職場や社会の仕組みを個人主義中心に変革したからだ、とされているそうです。伝統的な奉仕の助け合い制度を根底から崩壊させたり、あるいは自分の生活に不都合な妊娠であれば、中絶によって孕んだ胎児を殺したりするような現代人の個人主義に対して、宇宙万物の創り主であられる愛の神は、いつまでもそのまま黙認しておられないと思います。わが国での妊娠中絶は年間20万にも達するそうですから、遠からず神からの厳しい天罰を覚悟していなければならないかも知れません。

   本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の箇所に読まれる、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切だと思います。ただ聖書を研究するだけ、あるいは聖堂で祈るだけのファリサイ的な頭の信仰に留まっていてはなりません。それは、神から戴いた言葉の種や神の愛の火を、心の奥に蓋をしてしまい込んで置くようなもので、やがて神のその言葉に込められている命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々小刻みに実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのだと思います。その実りや輝きを期待しつつ、隠れた所からそっと私たちを見ておられる、神の現存に対する信仰の内に決心を新たにつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

   本日の福音では、「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」という主のお言葉に、ペトロが「あなたはメシアです」と答えると、主は「御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」と述べられているだけですが、マルコと違って実際にその場にいたと思われるマタイによりますと、主はペトロに、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間ではなく、天におられる私の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。よみの国の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」とペトロを褒め、ペトロに大きな権限を約束なされてから、弟子たちに御自分がメシアであることを誰にも話さないようにとお命じになっています。これが事実だと思います。しかし、そのすぐ後で、主の受難死の予告をそのまま素直に受け止めようとしなかったペトロに対して主は、本日の福音にもあるように、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、弟子たちの前で厳しくお叱りになったのです。


   主から「あなたに天の国の鍵を授ける」と約束されたペトロは、神の国の最後の勝利を確信しており、主に自分の一生も命も捧げて従って行こうと、心に堅く決めていたでしょうが、しかしその頭の中には、それまで人々から聞いていた人間的な聖書解釈やメシア像が支配していて、神秘な神のご計画などは毛頭知らずにいたと思います。従ってその人間的な考えを中心にして、大きな善意の内に主にひと言おいさめ申し上げようとしたのだと思います。私たちも気を付けましょう。2千年前のキリスト時代と同様、いや恐らくはそれ以上に現代は人類史の大きな過渡期を迎えていると思います。神はこのような過渡期には、人々の聖書解釈とは違う全く新しい働き方をなさるかも知れません。例えば多くの信者はローマ・カトリック教会は世の終りまでこのまま続くと信じているかも知れませんが、神はその教会に主キリストの受難死にも似た、恐ろしい恥と苦しみをお与えになり、これまでの教会の罪や人類の無数の罪の償いをお求めになるかも知れません。躓かないように気を付けましょう。聖母マリアと一致して、ひたすら天の御父の御旨に従って忍耐と祈りの内に生き抜き、救いに達するよう今から心を堅めていましょう。