2013年10月27日日曜日

説教集C年:2010年間第30主日(三ケ日)



朗読聖書:  

第1朗読 シラ書 35章15b~17節、20~22a
第2朗読 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節
福音朗読 ルカによる福音書 18章9~14節


   本日の第二朗読は、テサロニケ教会への第二の書簡からの引用ですが、この書簡が果たして使徒パウロが書いたものであるかどうかは、不明のようです。テサロニケ教会への第一の書簡は確かに聖パウロのものですが、そこではキリストが再臨する終末が突然襲来するように語られているのに、第二の書簡ではその終末はまだ来ていないとして冷静さと忍耐とが説かれており、まず神に逆らう滅びの子が現れ出て、自分を神のように拝ませようとサタンの力であらゆる不思議なことをなし、この世に勢力を拡張した後に初めて主キリストが再臨し、その勢力の支配を裁き、崩壊させるとされています。表現の仕方にも、使徒パウロの他の書簡と多少違っている点が見受けられるので、パウロの名で誰か別の人が書いた書簡ではないのか、という聖書学者の意見もあります。しかし、使徒パウロが、テサロニケ教会で第一の書簡が少し誤解され、世の終わりが近いと騒ぎ立て、多くの信徒たちの心を不安にしたり、同調しない人々に圧力をかけたりする人々がいることを知って、第二の書簡を認めた可能性も否定できません。

   第二朗読の始めにある「いつもあなた方のために祈っています」という言葉は、テサロニケの信徒団が浮き足立っている心のそのような動揺や内部対立などを、神に対する全面的信頼と、どんな苦しみの最中にあっても忍耐して待つ心とによって乗り越え、主の突然の再臨の日まで落ち着いて豊かに信仰と愛の実を結ぶよう、祈っていますという意味なのではないでしょうか。察するに、現代に生きる私たちのためにも、神をはじめあの世の人々は皆、同様に希望し呼びかけているのではないでしょうか。過去の時代とは比較にならない程文明の機器が大きく発達し、それに適応しようと際限なく改造を重ねている家庭や地域社会などの伝統的組織の中にも、また極度の多様化と特殊化の巨大な流れの中で、統制力を失いつつある現代の国家にも、自分の人生の意義を見出せずに悩み苦しむ人が、増加の一途を辿っているようですから。

   十年ほど前からでしょうか、わが国では中高年の人たちの間で自殺者が激増していますが、その理由の一つは、今の世に生き甲斐が感じられないことにあると思われます。自殺した人たちの多くは、子供の時から競争また競争の忙(せわ)しない能力主義教育を受けて来た人たちで、長じても実社会での就職難や実績競争に苦しみ、鍛えられて来た人たちでした。しかし、歳が進んで自分よりも若い意欲溢れる人たちや新しい技術や能力を身につけた若者たちが増え、自分の力ではもう対抗できないのを痛感するようになると、自分の存在意義がどこにあるのかと悩むようになります。人々が家のため、社会のため、国のためと思って働いていた昔の落ち着いていた時代には、その家・社会・国家がいつまでもしっかりと自立していて、所属するメンバーを末長く大切にしていましたから、年老いて働けなくなっても安心しておれましたが、海流のように巨大なグローバル化の流れに家も社会も国家も呑み込まれ、流されつつある現代世界にあっては、生活が驚く程便利で豊かになりつつある反面、各人の過去の働きは次々と忘却の淵に捨てられてほとんど誰からも感謝されず、皆はただ新しい流れに乗り遅れまいと、続々登場する新しい流れを利用しようとのみ努めているように見えます。これが、多くの現代人に生き甲斐を見出せなくしているのだと思います。

   ではその人たちが、このようなグロバーリズムの時代にも生き甲斐を見出して日々喜んで生きるには、どうしたら良いでしょう。私は、この全宇宙をお創りになった神の働きに心の眼を向け、自分の力よりも、その神の力に生かされて生きようと心がけるなら道は開けて来ると、自分の数多くの体験から確信しています。目に見えない創造神の存在と働きに身を委ね、キリストを通して啓示された神の御旨に素直に聞き従おうとすることは、自分の好みや傾向などを常に相対化しながら、ある意味では自分に死に、自分を神の御旨に絶えず関連させて変えて行こう、高めて行こうとすることであり、パスカルの言葉を引用するなら一種の冒険的な「賭け」であります。しかし、自分中心に考え勝ちであったこれまでのエゴから抜け出て、神の導きに聞き従い、神の働きに身を委ねる生き方に漕ぎ出すと、やがて自分が、今まで知らなかった全く新しい希望と喜びと確信に満ちて生き始めるのを体験するようになります。それは、神がご自身を信じる人にお与えになる、神の命・神の働きへの参与だと思います。

   「神を信じる」と聞くと、教会という組織の枠に入れられて、様々の堅苦しい教えや規則に縛られながら生きる生活を連想する人がいます。しかし、組織や教義や規則は、様々な誤りの危険から私たちを守って、神の祝福を全人類の上に呼び下したアブラハム的信仰に生きさせるためのもの、いわばガードレールや道しるべのようなであって、アブラハム自身は後の世に広まったそのような理知的組織も教義も規則も知らずに、ひたすら実生活の中でその時その時に示される神の導き・働きに従って生きていたと思います。理知的な頭の知識は現代の私たちよりも遥かに少ししか知らず、自然界や人間社会をごく単純素朴に眺めて暮らしていたことでしょう。しかし、神からの呼びかけ・働きかけに対する心のセンスは、神への愛と信頼によって鋭敏に磨かれていたと思われます。そして神への愛と従順に生きようとする心の意志も、日々ますます強靭なものに成長していたとのではないでしょうか。2千年前の主キリストも聖母マリアも、同様の生き方をしておられたと思います。心が目前の規則や困難・貧窮などに囚われ過ぎず、それらを越えてますます高く神への愛に成長しようと努める所に、キリスト教信仰の特徴があります。

   全ての伝統がますます多様化され相対化されつつある現代世界に生きる私たちも、何よりもこのアブラハム的・新約時代的な、主体的で自由な信仰生活に心がけるべきだと思います。これまでの伝統にある難しい教理や小難しい規則などは知らなくても、子供のように単純で素直な心で神の働きを歓迎し、それに従おうと努めるなら、神がそういう私たちの心を受け入れ、私たちのために働いて下さる不思議を、幾度も体験するようになります。これが、極度に不安で複雑になりつつある現代世界の中で、神の働きに根ざし自由で主体的な、新しい生き甲斐を見出す道ではないでしょうか。聖書によると、神との関わりは神よりの言葉としるしをそのまま素直に受け入れるよって始まるようです。神から啓示された言葉は勝手に取捨選択せずに、全部そのまま素直に受け入れ、神が与えて下さる洗礼や祝福などのしるしも、幼子のように素直に身につけて頂きましょう。こうして神の子、神の所有物となる人の心に、神が救いの働きをして下さるのです。

   本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働く、ユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな無花果桑の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を家に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。律法のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。

2013年10月13日日曜日

説教集C年:2010年間第28主日(三ケ日)



朗読聖書 
. 列王記 5: 14~17.  
. テモテ後 2: 8~13.
. ルカ福音書 17: 11~19.

   本日の第一朗読である列王記によりますと、シリア王の軍司令官ナアマンは、サマリアにいる預言者に重い皮膚病を癒してもらうため、銀10タラント、金6千シケル、晴れ着の服10着など高額の贈り物を携え、数頭の馬や多くの随員を連れて神の人エリシャの所へやって来ましたが、預言者は戸口に立つ彼を出迎えようとはせず、取り次いだ下男を介して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば体は元に戻り、清くなります」と言わせました。世間一般の儀礼を無視したこのぶっきらぼうの言葉に驚き気を悪くしたナアマンは、始めはその言葉に素直に従おうとしませんでした。しかし、その時家来の者たちから、「あの預言者がもっと大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなしたでしょうに。ヨルダン川で洗えば清くなると命じただけなのですから」と諭されて思い直し、預言者の言葉を信じてヨルダン川の水に七度身を洗いました。すると、病は癒され小さな子供の体のように清くなりました。それでナアマンが随員全員と共に神の人の所に引き返し、真の神を信奉するようになったというのが、本日の第一朗読の話です。キリスト教の神は私たちから、修験道の行者たちがなしているような難行苦行や、数十日も続ける断食などを求めておられるのではありません。神のお言葉を信じそれに謙虚に従おうとする心を、誰にでもできるような簡単な実践によって表明することを求めておられるだけなのです。罪に穢れている俗世間の価値観や、この世の幸せ第一の精神を脱ぎ捨て、何よりもあの世の神のお言葉に徹底的に従って生きようとする、神中心の価値観と博愛の精神とを、小さな実践によって表明することを求めておられるのです。その心のある所に神の救う力が働き、悩み苦しむ私たちを癒し、守り、導いて、周辺の人々や社会にも、その救いの恵みを与えて下さるのです。神からのこのようなお求めを、最初のナアマンのようにこの世的尺度で誤解しないよう気を付けましょう。

   本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた二つ目の書簡からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、紀元61, 2年頃にローマで番兵一人をつけられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた時の書簡ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて殉教を目前にしていた時に書かれた書簡であると思います。従って、この書簡は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちや獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にして、その牢獄で説いた福音の要約であると思われます。

   本日の福音は、主キリストによるハンセン病者たちの癒しについての話ですが、ナアマンを癒したエリシャと同様、主はここでも遠く離れた所から命令を与えただけで、その命令にすぐ素直に従った10人の病者たちを、祭司たちの所へ行く途中で癒されました。しかし、自分の体が癒されたのを見て、大声で神を賛美しながら主の所に戻って来、主の足元にひれ伏し感謝したのは、サマリア人一人だけでした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人は、ユダヤ人だったのでしょうか。としますと、ファリサイ派が活躍していた当時のユダヤ社会では、この世で不幸を避け幸せになるためにも律法の厳守が異常なほど強調されており、ユダヤ人は皆子供の時から頭にそのことを叩き込まれていましたから、癒されたユダヤ人たちは、社会復帰が認められたら、今後は律法を守って幸せに暮らそうなどという、自分個人の嬉しい社会復帰と生活のことで頭がいっぱいで、恩人のイエスや神に感謝することなどは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。ファリサイ派の宗教教育では、神は無限に清い存在で、罪に穢れているこの世からは遥かに遠く離れておられる方であるかのように教えられていたでしょうから。しかし、これは人間が勝手に作り上げて広めたこの世中心の思想で、神は、特に主キリストの来臨によって、私たちの想像を絶するほど私たちの身近に隠れて現存し、苦しんでいる人たちを救おう、助け導こうとしておられるのです。何よりもその神の愛と働きに心の眼を向け、感謝の心で生活するよう心がけましょう。

   主は神を賛美しながら感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、このサマリア人は律法のことは知らないので、ただ現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けていたのではないでしょうか。本日の福音には「その中の一人は、自分が癒されたのを知って」と邦訳されていますが、ギリシャ語原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に肉眼で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味のエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で鋭敏に感知したり洞察したりする時に、聖書で用いられることの多いこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも神の現存や働きに対する心の眼、心のセンスを磨くよう心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している、隠れている神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などに囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日常体験の中にあって、何よりも小さな事の中で示される神の愛の保護や助け・導きなどに、信仰と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から求めておられる信仰であると思います。「あなたの信仰があなたを救ったのです」という主のお言葉から、これらのことをしっかりと学んで日々実践しつつ、神の望んでおられる新約時代の信仰の生き方を体得するよう努めましょう。日々私たちの出遭う小さな失敗や苦しみ、小さな誤解や他者からの願い事、それらの中に神の現存や御望みを感知し、相応しく受け止めることが大切だと思います。そこに神の祝福が隠されているのですから。

2013年10月6日日曜日

説教集C年:2010年間第27主日(三ケ日)



朗読聖書: 
. ハバクク 1: 2~3, 2: 2~4. 
 . テモテ後 1: 6~8, 13~14. 
 . ルカ福音書 17: 5~10.

    本日の第一朗読の前半は、紀元前600年頃、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの祈りですが、当時ユダ王国末期の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求め、叫ぶようにして声高く祈っていたようですが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってその贅沢な社会に迫りつつある様々の災いを、幻の中で預言者に見せておられたようです。

    それが第一朗読の前半ですが、預言者のその嘆きの祈りに続いて、神が「見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略について詳しく啓示なされたかなり長い話は省略され、後半部分は第2章の始めからの引用になっています。ユダ王国滅亡の啓示を受けた預言者は、第1章の終りに、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に、一層激しく嘆きます。それに対する神の答えが、この後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神がちっとも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過()ぎります。それは、本当に苦しい試練の時です。神は私たちの信仰を一層深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を私たちに体験させるのです。現代文明の大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

    その時に人間中心・自分中心の立場から抜け出て、神の御旨中心の主キリストの立場に立って、神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかも神のその支配が、私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いかけましたが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、黙々とそれに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が、働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する「信頼」を意味していると思います。頭で神の存在とその啓示の真理を信じているだけでは足りません。それは、地獄の悪魔も数々の嫌な体験から確信していると思います。そんな理知的な信仰ではなく、神の僕・婢として神の御旨にひたすら従順に従おう、全てを神に委ねて愛と信頼の内に清貧に生きようとする信仰心の成長強化を求めて、神は私たちに度々厳しい試練をお与え下さるのだと信じます。その苦しい試練を、嫌がらないように致しましょう。

    本日の第二朗読のはじめには、「私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」という言葉が読まれますが、これは叙階の秘跡によってテモテ司教に授与された神の賜物と、それに伴う神からの使命とを指していると思います。それは叙階式の時にだけ注がれる一時的な恵みではなく、その時霊魂の奥底に湧出した内的泉のように、その後も魂の奥に継続して続いている泉のような賜物であります。ですから使徒パウロは、その賜物を「再び燃え立たせるように」と強く勧めているのです。実は、私たちの受けている洗礼の秘跡も、堅信の秘跡も、私たちの霊魂の奥底にそれぞれそのような恒久的賜物を授与する秘跡であります。私たちも皆、神から洗礼の恵みの泉を、また堅信の秘跡による聖霊の愛の泉を霊魂の奥底に頂戴しているのです。日々その泉に心の眼を向けてそこから力と導きを受けつつ、自分に与えられている神からの使命に生きるよう心がけましょう。それが、新約時代の人たちに神から求められている、「信仰によって生きる」生き方だと思います。

    本日の福音には、弟子たちが「私たちの信仰を増して下さい」と願ったら、主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになったとあります。皆さまは芥子種を見たことがあるでしょうか。私は三十数年前の秋に聖地を訪れ、カイザリアの港湾の近くに見つけた芥子種の木からその種を少し貰ってきて、日本でいろいろの人たちに分け与え、あちこちで芥子の木を芽生えさせたことがありますが、その種はあまりにも小さくて、落としたら小さなピンセットで掴むこともできませんでした。本当に小さな小さな黒い一点でしたから。無に等しいと言ってもよいでしょう。主は、弟子たちを失望させたくないからでしょうか、端的にあなた方には「まだ本当の信仰がない」とは話されませでしたが、しかし主のお言葉から察しますと、時々誰が偉いかどちらが上かなどの争い事もしていた当時の弟子たちの内には、神がお求めになっておられる本当の信仰は、まだ芥子種一粒ほどもないという意味でも、このように話されたのだと思います。

    では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的従順と信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。全能の神は、我なしのそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の所有する能力で、神の助けを祈り求めつつ何かの奇跡的成功を獲得するのではありません。神が御自身が、その人の内に働いて下さるのです。

    本日の福音の後半も、私たちの持つべきその真の信仰について教えています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食をお望みなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家のお嫁さんたちは、皆このようにして家族皆に奉仕していました。我なしの家族愛の奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。今の社会では、何事も金銭的儲けで評価する価値観が広まっていますが、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場であります。家庭的無料奉仕の愛をパイプラインとして、神がその恵みを私たちの上に、また社会の上に豊かに注いで下さるのです。私たちが今後も永く、こういう信仰と愛の奉仕に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。