2016年11月20日日曜日

説教集C2013年:2013年王たるキリストの祝日

・ 第1朗読:サムエル記:(サムエル下5・1-3)
・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・12-20)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ23・35-43)


  典礼暦年の最後の日曜日を教会は「王であるキリスト」の祭日としています。聖書の思想では、王または王朝というものは神の御摂理によって神の側から選ばれ立てられる者、世の終わりになってメシアが全被造物を支配する時が来るまでの間、神の王権を代行する者であります。ところが、神の王権を代行するそういう王は第一次世界大戦後のヨーロッパではいなくなってしまいました。それで神はカトリック教会に「王たるキリスト」の祝日を制定させて、これからは目に見えないながらも世の終わりまで実際に私たちの間に現存しておられる復活の主キリストを、私たちの魂の王、全人類の霊的王として崇め、神の支配に対する私たちの従順と忠実の精神を磨くように導かれたのだと思います。天使は聖母マリアに「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その名をイエズスとつけなさい。彼は偉大な者となり、いと高き御者の子と呼ばれます。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになり、彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続くでしょう」と告げました。神からのこのお言葉が、カトリック教会によるこの祝日の制定により、全世界で記念され感謝されるようになったと申してよいと思います。

  本日の第一朗読はダビデが全イスラエルの王として就任する話ですが、ダビデはこの時に神の民から王として選出されたのではありません。既に羊の群れを世話していた子供であった時に神によって選ばれ、預言者サムエルに注油されて、神の御前のでは王とされていたのです。しかし、同じく神から選出されて王位についていたサウル王が在任中は王位につかず、戦士となって活躍していました。そしてサウル王の死後にヘブロンで王位についたのです。それで本日の朗読個所では、「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ」とあります。この時から、ヘブロン周辺に住んでいたユダ族だけではなく、イスラエルの全部族がダビデ王の支配下に入り、その保護と指導の下にエルサレムを首都とする強い王国を建設し始めたのです。長老たちがダビデ王の下に来て王に注油したのは、自分たちの王として推戴するという儀式であったと思います。

  同様に、神の御子イエスは既にこの世にお出でになった時から神によって王とされていました。ですから星によってその誕生を知った東方の博士たちはエルサレムに来て、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか」という、奇妙な質問をしています。神によって立てられた生まれながらの王を拝みに来たのですから。人間達によって公的社会的に選出された王ではなく、神によって立てられたその永遠に支配なさる王の許に来て、その方を王として推戴する人達はその支配下に入り、そのご保護と指導の下に新しい霊的王国、神の国の建設にたずさわりますが、そうでない人たちは、やがて神によって徹底的に滅ぼされてしまうこの世の世界と運命を共にすることでしょう。本日、「王であるキリスト」の大祝日は、神から派遣された神の御独り子であられる主を私たちの王として推戴し、その王に対する従順の誓いを新たにして、王のご保護と指導の下に新たに生き始める日であると思います。

  本日の第二朗読は、使徒パウロが今のトルコ半島の中央山岳部西南にあった町コロサイの信徒団に送った書簡からの引用であります。当時のコロサイでは、あの世にいる様々の霊に対する怖れや崇敬が盛んであったようです。ちょうど昔の日本人が山の神や田の神、あるいは竈の神や火の神を畏れ敬っていたのに近いのかも知れません。パウロはそれに対し本日の朗読の中で、天と地の見えるもの見えないものの全てをお創りになった神の御子こそ、私たちの畏れ敬うべき「第一のもの」であることを強調しています。あの世にいる諸々の霊たちも、全てその神の支配下にあるのですから。しかし、パウロのこの言葉によって、あの世の世界に属する八百万の小さな神々を、全て悪魔的なものとして排斥する必要はありません。私は1990年前後頃に、京都の国際日本文化研究センターの共同研究員として選ばれ、その創立期5年間を、毎年4回文部省から支給された出張費で京都に二泊三日の旅行をなし、内外の優れた学者たちと実りの多い討議や談話を交わしていました。そして初代センター長の梅原猛さんや三重県出身の安田喜憲さんたちが提唱した「新しいアニミズム」に、私はカトリックの立場から賛同していました。

  18世紀に西洋の理知的な啓蒙主義者たちが最低の宗教信仰として、多少軽蔑の意味を込めて言い出した「アニミズム」は、万物の働きの背後に神霊を認めてそれを神々と崇敬し、その保護を受けようとする信仰と言って良いかと思いますが、私はその神霊を、私の信奉する神の聖霊の働きや呼びかけの声と読み替えて、その声の背後に臨在しておられる神に対する信仰と畏れの念とを大切にし、私たちが日々接している平凡な森羅万象の背後に神からの呼びかけを聴き分け、その声に従うように心がけています。それでこの立場から、梅原さんたちの言う「新しいアニミズム」を受け止め賛同したのです。私は、生きとし生ける全てのものの背後に臨在してその存在を支えておられる神が、畏敬の心でどんな小さな物をも大切にする私の小さな心がけに、豊かに報いて下さるのを幾度も体験していましたから。このように申しますと、そんなら煩い蚊も蠅も殺すことができなくなるではないか、などと心配する人がいるかも知れません。私は神学生の時からドイツ人宣教師に倣って、生活の邪魔になるものや家の美観を損なうような生き物は、「お命頂戴するよ。ありがと」などと言いながら遠慮なく殺して、その命を頂戴しています。それは神の摂理が諸々の食べ物と同様に私の命を強め、私がそれらの生き物の分までも、神を讃えるために与えて下さった命であると考えるからです。私は「作品は作者を表す」という言葉を神にも援用し、命の源であられる神のお創りになった物は、太陽も月も星たちも全てある意味で皆生き物であり、いずれ老化と死を迎えるに至る存在と考えています。

  本日の福音は主と一緒に十字架にかけられた二人の犯罪人について述べていますが、その一人が主を罵って「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのに対して、もう一人はその言葉をたしなめ、「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だが、この方は何も悪いことをしていない」と主を弁護し、「イエスよ、あなたの御國においでになる時には、私を思い出して下さい」と願いました。すると主は、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」とお答えになったとあります。今自分の受けているこの恐ろしい十字架の苦しみを、神から与えられた自分の罪の償いとして受け止め、多くの病人を癒して神の預言者・メシアと仰がれていた主が、自分たちよりももっと酷い苦しみや、大祭司たちからの悪口を静かに耐え忍んでおられるお姿に感動し、死後の命を信じていたこの犯罪人は、主の憐れみを願い求めたのだと思います。そして主は、神に向かって大きく開いたその信仰心をお喜びになり、御功徳で楽園を約束なさったのだと思います。

  私たちも神に向かって大きく開いた心で、アブラハムのように神と親しく語り合いながら、日々の生活を営むように心掛けましょう。神はそれを何よりもお喜びになります。主は「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」と話されました。ファリサイ派は全ての律法をできるだけ忠実に守り、社会道徳に背く罪は何一つ犯さない、人間的社会的には尊敬に値する人たちで、その生き方に誇りを感じていました。しかしその心は、律法という神の民の伝統的規則とこの世の人々にだけ向けられていて、神をこの世から遠く離れたあの世に鎮座しておられる存在と考えていました。従って、アブラハムのような信仰には生きていませんでした。ですから自分を神として振る舞われる主の言行に躓き、それを赦し難い冒涜と受け止めたのです。その主はあの世の命に復活して、今はあの世から永遠に全人類を霊的に支配する王として、日々私たちのすぐ近くに現存し、私たちの全てを観ておられます。私たちの修道会則も何も、全てはその主と共に生きるためのものです。神の一番嫌っておられる自分中心・人間中心の「古いアダム」の罪、心の奥底に宿るそのファリサイ派のパン種による罪と戦いつつ、幼子のように素直な従う心で神の御旨中心に生きるよう心がけましょう。これが、昨年から今日までの「信仰年」の一番貴重な実りであり、神にも喜ばれると信じます。


2016年11月13日日曜日

説教集C2013年:2013年間第33主日(三ケ日で)

第1朗読 マラキ書 3章19~20a節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 3章7~12節

福音朗読 ルカによる福音書 21章5~19節


  真夏日の長く続いた今年の秋は短くて、もう落ち葉の目立つ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になってしまいました。本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書で、使徒パウロはまず、この世の終わりに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きと、その再臨の前に現れ出る徴などについて語っています。そしてその後で、テサロニケの信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読であります。使徒はそこで、「働きたくない者は、食べてはならない」などと、神の教えをファリサイ派律法学者たちのように頭だけで理解し、宗教的規則順守にだけ努めようとはせずに、むしろ体を使って働き、誰にもなるべく迷惑をかけずに喜ばれる生き方を体得するように、と勧めています。この勧めは、私たちも忘れてはならないと思います。
  余談になりますが、禅宗と呼ばれている禅仏教は、インドから渡来した達磨大師によって六世紀に中国で成立したと聞きます。仏教は文字通り仏の教えですが、文字で書き残された仏の教えをどれ程研究しても、文字で表現されたその経典には限界や不完全があって、経典の研究だけでは仏の悟りを自分のものにすることができません。そこで、仏の心を直接体験的に学び取ろうとしたのが禅宗だそうで、始めのうちは「仏心宗」と呼ばれていたそうです。それは、何よりも仏の心を座禅や実生活の中で、仏と一心同体になって生きる実践を通して学び取ろうとする生き方を指しているのだそうです。仏が座っているいる姿が座禅で、仏者は禅堂で座って仏と一心同体になろうとしますが、しかしそれだけではなく、行住坐臥の全てを仏と一つになって生きようとするのが、本来の「仏心宗」・禅宗の趣旨だそうです。キリスト教も、日常生活を内的に復活の主キリストと一致して営むところに実現するのではないでしょうか。私たちも聖書についての理知的ファリサイ的研究によってではなく、禅僧たちのように日々の平凡な実生活の中で、実践的に主の導きや働きを心で体得するように努めましょう。
  本日の福音に読まれる、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王により見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの高価な奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった予言「一つの石も石の上に残ることがない日が来る」というお言葉は、それから40年後の紀元70年に実際に実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、強い火をかけられると燃え崩れる石であります。アウグストゥス皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易賞商が立派になった神殿を訪れたりしていて、町は経済的に豊かに発展しつつありましたが、ユダヤ人がローマ皇帝の支配に敵対して立ち上がったら、徹底的廃墟とされてしまいました。美しい大理石で固められていた神殿も、火をかけられたら燃え上がり、主が予言なされたように「一つの石も石の上に残らない」程に崩れてしまいました。かつてなかった程便利にむまた豊かに発展しつつあるこの現代世界も、人々の心が人間としての尊厳を失わせる内的堕落の道を歩むなら、いつの日か同じ神によって恐ろしく悲惨な崩壊へと落とされることでしょう。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終わりについても予言しておられるからです。同じルカ福音の17章に、主は人の子が再臨する直前に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が人間社会の豊かさと繁栄の最中に、突然襲来することを予告しておられます。
  「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という弟子たちの質問に、主は本日の福音の中で、三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってはならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終わりはすぐには来ないことであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れるむことです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、即ち恐らく起こり始めている時に、信仰に生きる人たちに対して迫害がなされることであります。主は「親・兄弟・友人にまで裏切られる」と話されましたが、現代のように家族共同体が崩れ、人生観も価値観も極度に多様化して来ますと、このような現象は既に世界の各地に起こり始めているのではないでしょうか。内戦で揺らぐシリアのある村人は、上からの指令で同じ村の知人を殺してしまうと、もう殺し合いが現実となって何が正義か判らなくなってしまう、と告白しています。

  ところで、主がここで話しておられる徴は、一時的部分的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終わりが近いと結論することは出来ません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では一応終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中で大規模に発生し、天空に何かこれ迄になかったような現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終わりがいよいよ間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神の与えられる導きだけに心の眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けて下さる新しい命を勝ち取るように努めましょう。それは、ある意味でこの世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい栄光の世界への門であり、新しい永遠の命への誕生なのですから、「恐れてはなからない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の大災害と苦難を神の御手から感謝して受け取るように心がけましょう。

2016年11月6日日曜日

説教集C2013年:2013年間第32主日(三ケ日で)

第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節
福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節


  本日の第一朗読は、ユダヤがシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前2世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、ユダヤ人にもギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた迫害と殉教について述べています。国家権力によるこのような宗教迫害は、歴史上度々発生していましたが、最近のグローバル時代にはごく限られた地域で一時的に発生するだけで、迫害される民衆の実情や要求もマスコミによって国際的に明らかにされ、迫害する国家権力に対しては強力な諸外国がすぐに反発するので、国家による残酷な人民迫害はもう定着できない、と申してよいと思います。しかし、国家権力だけではなく、大小全ての共同体の指導力が、極度の自由主義やマスコミなどによって弱体化して来ている現代には、いじめや詐欺など民間の私的な迫害や搾取などが激増しているのではないでしょうか。
  30年程前の1980年代の前半からわが国では各地で「いのちの電話」協会が次々と設立されて、増え続けていた、自殺を考えて煩悶する人たちの悩みに伴うことに努めていますが、1997年から14年間は全国で、毎年3万人以上も自殺しています。幸いその数値は昨年3万人を下回りましたが、しかし、「いのちの電話」協会への電話相談の数は増え続けており、その原因の大半が家族問題や対人問題ではなく、自分の人生に生き甲斐が感じられず、夜も眠れないなどの個人的精神問題のようです。察するに、その人たちの心の悩みを解消するには理知的な人生観は無力で、何よりも神秘な神の働きや助けを実際に体験させることが、その人の奥底の心を目覚めさせ、新しい生き甲斐を見出させるのではないでしょうか。私は二十世紀の末期から急増しているこれらの多くの人の心の絶望現象の背後には、聖書に世の終わりに多くなるとされている反キリストや小さな悪霊たちが策動しているのではないかと考えています。如何なものでしょうか。その悪霊たちは、密かに私たちの心の中にまでも入り込むことができます。自分の心の動きにも警戒し、幼子の素直な心でひたすら神の御旨に従って生きようと心がけましょう。
  本日の第二朗読は、使徒パウロがコリントからテサロニケの信徒団に書き送った第二の書簡であります。第一の書簡の中でパウロはテサロニケ信徒団の信仰心を高く評価していますが、この第二書簡では、迫害を受けながらもその苦しみに耐えて信仰を堅持しているテサロニケの信徒団に感謝と喜びを表明しつつ、まず主キリストの再臨と神の審判について語っています。続く書簡の後半部分で、神による選びを感謝し、神が信仰に生きるテサロニケの信徒たちの心を励まし強めて下さるようにと祈り、宣教する自分たちも悪者たちから護られるよう祈って欲しいと願っています。そして最後に宣教する自分たちの模範に見習って、正当な教えに従わない兄弟たちを遠ざけ、交際しないようにと警告しています。本日の朗読個所は、書簡のこの後半部分からの引用であります。
  そこに読まれる「全ての人に信仰がある訳ではないのです」の言葉は、世界中の様々な思想がマスコミによって紹介されたり宣伝されたりしている、現代社会に生活する私たちにとっても大切だと思います。現代人が生活を便利に楽しくするために次々と産み出す利己的快楽主義的発想を、マスコミを介してそのまま鵜呑みにして心の中に入れていますと、全てを自分中心・人間中心に考えて評価したり行動したりする「古いアダム」の精神が、知らない内に心全体を支配するようになって来ます。そして私たちの日常生活に密かに伴って時折そっと呼びかけて下さる神の御声を聞き取れなくして行きます。気を付けましょう。信仰の恵みに浴し洗礼を受けた私たちは、洗礼のとき神に約束したように、自分中心・人間中心の「古いアダム」の精神に死んで、神の御旨中心の主キリストの精神で生活するよう召されています。主キリストの精神で生きるには、心の中まで世俗化するこの世中心の精神や価値観などを、主キリストの価値観で絶えず浄化する戦いが必要です。主キリストと一致しその力によってこの戦いに勝ち抜いた人が、あの世で神から勝利の栄冠を受けるのであり、そこに私たちの受けた命の本当の意義も喜びもあるのです。信仰年の終わりを間近にして、このことを改めて心で深く悟り、確信するよう神に恵みを願いましょう。使徒パウロも本日の朗読の中で、「どうか主が、あなた方に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせて下さるように」と祈っています。
  本日の福音は、私たち人間が神から受けた命の賜物についても教えていると思います。ルカ福音書にサドカイ派が登場するのはこの個所だけですが、ユダヤ教の大祭司を中心とするこの一派は、ヘロデ大王によってエルサレム神殿が大理石で大きく美しく増改築されたり、ローマ帝国の支配下で平和が国際的に長く継続し、商工業も国際的に大きく発展したりすると、世界各地から大勢の巡礼者や国際貿易商たちが神殿に来て祈り、多額の寄付をするようになったので、神殿のその上がりを殆ど独占して豊かになっていました。それでキリスト時代には、富裕な貴族たちのような生活を営んでいたと思われます。武力を殆ど持たない彼らは、その豊かな収入と生活を継続するため、強大な武力と国際的なローマ法で社会を平和にまた豊かに発展させてくれているローマの権力との繋がりを重視していましたが、この豊かさと世俗との関わりの中で、彼らの心は次第に神から離れ、急速に世俗化して行ったのではないでしょうか。モーセ五書だけを聖書の正典としてそれ以外のものを聖書と認めていないサドカイ派は、神も宗教も全てをこの世での生活中心に考え、本日の福音にもあるように、旧約聖書の預言書や文学書などにそれとなく語られている人間の復活、あの世での復活はないと信じていました。

   彼らが、復活はあると主張するファリサイ派の学者たちを困らせるために持ち出していたのが、本日の福音に登場するモーセの定めた「レビラト婚」の規定でした。これは申命記25章に述べられている規則で、先祖の家名をメシア時代にまで存続させ、土地財産が人手に渡るのを防ぐ目的で定められたようです。しかし、この世のこの規定をあの世で復活した人たちにまで広げると、この世で数人の男たちの妻となった女は復活の時誰の妻になるのか、という不合理が生じて来ます。あの世に行ったことのないファリサイ派の律法学士たちは、サドカイ派の持ち出すこの不合理に答えることができずにいました。それで主イエスにもこの問題を突き付けて困らせようと思ったようで、サドカイ派の数人が近づいて来て、主を「ラビ」と呼んで尋ねました。あの世からお出でになった主はそれに対してすぐに、この世の子らは結婚するが、あの世に復活する人たちは結婚せず、死ぬこともない。皆天使たちのようになる。神の子とされるのだからとお答えになり、ついでに、サドカイ派が聖書として大切にしている出エジプト記のモーセの話の中にも、この世の死者があの世に復活することが暗示されていること示すために、モーセが主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいる、と聖書の言葉を引用なさいました。私はローマにいた時、このように呼んでいることがどうして復活の証しになるのか、と知人の聖書学者に質問したことがありましたが、ヘブライ語ではこのような場合、「アブラハムの神である主」という風に、現在形の「である」という動詞が省かれていると理解され、遠の昔に死んだ太祖たちが、あの世では今も主を神として生きているという意味になるのだそうです。主のこのお言葉は、そこにいた人々皆にそのように理解されたようで、本日の朗読では省かれていますが、ルカ福音書ではすぐに続けて、「律法学者のある者たちが口を開いて、『先生、立派なお答えです』と言った。彼らはもはや、あえて何も尋ねようとはしなかった」とあります。主がサドカイ派の人たちに最後におっしゃった「神は死んだ者の神ではなく、全ての人は神によって生きている」というお言葉も、忘れてならないと思います。私たちはあの世に移ってからだけではなく、この世においても自分の力によってではなく、根本的に絶えず神の力によって存在し、神の力によって生かされている存在だと思います。この真理をしっかりと心に銘記し、神から自分に与えられた命を大切にしながら、感謝と愛の精神で、神の御期待に少しでもよく応えるように心掛けましょう

2016年10月30日日曜日

説教集C2013年:2013年間第31主日(三ケ日で)

第1朗読 知恵の書 11章22~12章2節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 1章11~2章2節
福音朗読 ルカによる福音書 19章1~10節

  本日の第一朗読には、全宇宙の創り主であられる神に対して「あなたは全ての人を憐れみ、改心させようとして人々の罪を見過ごされる」という言葉が読まれ、続いて「あなたは存在するもの全てを愛し、お創りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、創られなかったはずだ」だの、「命を愛される主よ、全てはあなたのもの、あなたは全てをいとおしまれる。あなたの不滅の霊が全てのものの中にある」だの、更に「主よ、あなたは罪に陥る者を少しづつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨てて、あなたを信じるようになるために」などの言葉が読まれます。いずれも万物を創造なされた全能の神の、存在する全ての被造物、全ての人に対する限度なしの大きな愛を、目的論の立場から断言している、貴重な聖書の言葉だと思います。

  今年の1020日「世界宣教の日」の教皇フランシスコのメッセージの日本語訳全文が、先週のカトリック新聞に載っていましたので、皆様も既にご存知のことですが、その中で教皇が、「神は私たちの命をもっと意味深く、良く、美しくするために、自らの命を分け与えることを望んでおられます。神は私たちを愛しておられるのです」「一人ひとりがそれに応え、私たち自身を神に委ねる勇気が必要です。信仰はわずかな人々のためではなく、惜しみなく与えられている贈り物なのです。全ての人が、神に愛されるという喜び、救いの喜びを経験できるはずです。それは決して独り占めすねものではなく、ともに分かち合うものなのです。云々」と、全ての人を愛し、全ての人にご自身の命を分け与え、強く、美しく、幸せになってもらおうと切望しておられる神の強い強い愛の観点から、私たちキリスト者の宣教活動の必要性を説き起こしておられることは、注目に値します。宣教は「キリスト者の生活において二次的なものではなく、本質的なものなのです。即ち私たちは皆、兄弟姉妹と世の道を歩み、キリストに対する私たちの信仰を証しし、宣言し、キリストの福音の使者となるよう招かれているのです。云々」と全てのキリスト者に、自分の置かれている生活の場で福音の使者となって働く使命があることが強調されていることも、大切だと思います。

  同じ思想は、私がローマに留学していた時に、第二ヴァチカン公会議の議場でも強調されていました。しかし、ここで言われている「宣教活動」を、口や文筆で福音の真理を述べ伝えることなどと、短絡的に受け止めないよう気をつけましょう。そのようなチャンスは神の摂理によってごく少数の人に、しかも限られた機会に与えられているだけで、特に観想修道会の修道女たちには神のお望みにならない宣教活動であると思います。私は頻繁に外出して福音を知らない無数の人たちに出遭いますが、誰彼と区別無く福音を語ろうとはしていません。これまでに臨終洗礼を含めると百人以上の人に洗礼を授けていますが、日頃出遭う人たちには黙々と祈りの宣教を為しているだけで、口を使っての宣教は殆どしていません。どこの家に入っても、どのバスや電車に乗っても、主がお弟子たちを宣教に派遣なされた時のお言葉に従って、そこに「平和があるように」と祈っています。すると恵みの時に聖霊が働いて、まだ外的成果は少ないですが、その地方に神に従う人たちが増えつつあるように感じています。神は私たちから、まずはこのような祈りの宣教をお求めなのできはないでしょうか。

  本日の第二朗読の終りには「主の日が既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい」という言葉が読まれます。使徒パウロがこのすぐ後に書いている話によると、まず初めに神への反逆が起こり、神の掟に逆らう「滅びの子」が現れて、自分を神として神の聖所に座を占めるに至るそうです。神の掟に逆らうその力は既に活動していますが、その活動を引き止めている者が退く時に表に現れ、サタンの力によって様々の徴や不思議な現象を為し、多くの人を悪へと誘い込むようです。主キリストが再臨なさる世の終わり前のそのような出来事は、遠からず発生するかも知れませんが、動揺しないように気をつけましょう。多くの預言を的確に実現させていた聖ヨハネ・ボスコは、世の終わり前にローマ教皇がヴァチカン宮殿を去る予言的幻を見ています。現代世界経済の動きの中では、そのような事態が実際に近い将来に発生するかも知れません。驚いてはいけません。神の愛と憐れみに信頼して生き抜くように努めましょう。


  本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、雇い主のローマ総督側から既定の税金に少し輪をかけて住民から徴収し、こうして蓄積した税収の中から不作や天災の年にも、毎年既定額の税金をローマ側に納入するよう決められていたので、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働くユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな桑葉無花果の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ギリシャ語を直訳しますと、「私は今日あなたの家に泊まらなければならない」とおっしったようです。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を自宅に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。聖書のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。本日の第一朗読に述べられているように、全能の神はお創りになった全ての人を愛し憐れみ、その罪を見過ごして回心させようと心掛けておられる方なのですから。

2016年10月23日日曜日

説教集C2013年:2013年間第30主日(三ケ日で)

第1朗読 シラ書 35章15b~17節、20~22a
第2朗読 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節
福音朗読 ルカによる福音書 18章9~14節

  本日の第一朗読は、紀元前2世紀頃に書かれたシラ書からの引用ですが、そこでは神を畏れることに始まる生き方が勧められています。自分がどれ程弱い貧しい人間であっても、また自分の歩んで来た人生がどれ程怠りと失敗の連続であったように見えても、主に信頼し、主に助けを願い求める心があるならば、心配しないよう心がけましょう。第一朗読にもあるように、全てをお裁きになる主は誰に対してもえこひいきを為さらず、貧しい者、虐げられている者、孤児、寡婦たちの願いに特別に御心を留めて下さる方ですから。神の御旨に従って主に仕えている、そういう弱い人や謙虚な人の祈りは、「雲を突き抜けて主の御許に届く」とまで述べられています。

  察するにこれらの言葉は、神を身近な存在と信じてその働きを実感している著者の、数多くの体験に基づいて語られているのではないでしょうか。実は、私の過去数十年間の体験を振り返ってみましても、また私がこれまでに見聞きした多くの実例を思い出してみましても、やはり同様に断言してよいように思います。日々小さな事で度々神に対する忠実に背く、信仰心も意志力も弱い子供のような私ですが、長年にわたる自分の人生体験を回顧しますと、神は実際に私の全ての言動を見ておられ、遅かれ早かれその全てにそれぞれ裁きや報いを与えておられると確信しています。目に見えなくてもいつも私たちに伴っておられるその父なる神の御前では、私たちは幼子のように素直に神の愛に甘えながら、神と共に生活していて良いと思います。これは、私が洗礼を受けて間もない小神学生の頃に小さき聖テレジアの自叙伝から学んだ生き方ですが、年老いても少しも変えておらず、このまま幼子の心で、最後まで神の御旨に従おうと努めつつ生きようと思っています。

  余談になりますが、今年一月の毎日新聞で、三月末頃にパンスターズ彗星が、十一月末頃にアイソン彗星が観測されるが、いずれもこれまでに来たことのない、一昨年と昨年に発見された彗星であり、特にアイソン彗星は史上最も明るい大彗星になる可能性が取りざたされている、という情報を知った時、私はすぐに、この二つの彗星が大災害の接近を予告する神からの使者ではないかと思いました。それは二十数年前頃に出現なされた聖母マリアからメッセージを受けた人たちの一部が、そのような星の出現を予告していたからです。果たして今年の春頃からは、世界各地でこれまでにない程頻繁に大災害が発生し、アメリカやオーストラリアでは幾度も大規模な森林火災が発生したり、その他竜巻や風水害、異常気象や熱中症、中国における空気の汚染などが数多く報じられています。IC機器に侵入する新しい犯罪や老人を狙った詐欺事件なども、相変わらず多発しているようです。信仰年の終り頃にアイソン彗星が出現した後には、人類世界を脅かす災害や犯罪は、もっと酷くなるのではないでしょうか。地球温暖化の影響も深刻になることでしょう。しかし恐れずに、幼子の心で神と共に生きる信仰にしっかりと掴まっていましょう。全能の神が私たちを助け導いて下さいます。そして弱い私たちの信仰心はますます深く神に根ざして成長するようになります。神は私たちの信仰心を苦しみによって逞しく成長させるために、災害や各種の苦難をお許しになるのだと思います。

  本日の第二朗読は、「私自身は既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」という言葉で始まっていますが、最後に「私は獅子の口から救われました。主は私を全ての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い上げて下さいます」とある言葉から察しますと、使徒パウロのこの最後の手紙は、ネロ皇帝によってローマ市内にいたキリスト者たちが次々と投獄され鎖に繋がれた時に、その獄中で認められたのではないかと思われます。使徒パウロはこの手紙の2章に、「私はこの福音のために、犯罪者のように鎖に繋がれて苦しみを受けています。しかし、神の言葉は繋がれていません」と書いていますが、紀元64年のローマ放火の責任をキリスト者に転嫁したネロ皇帝による三年間に及ぶ迫害は、ローマ大火の時にローマ市内にいたキリスト者たちだけになされた迫害で、ローマ市外ではなされていません。

  それでその迫害の初期、ローマ司教であった使徒ペトロは、側近の信者たちからの強い勧めに促されて、一時的に市外に難を避け、迫害の終わるのを待とうとしたことがありました。しかし、城門を出てアッピア街道を二百メートル程進んだ所で、主キリストが十字架を背負ってローマ市に行くお姿の幻を見、Quo vadis Domine ?(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねたら、「お前が去るなら、私が行く」というお言葉を聞いて、ペトロはローマに戻り、後で殉教しました。しかし、その獄中の生活は長引き、鎖には繋がれていても訪問者とは自由に接触できましたので、ペトロもそこでネロ皇帝がギリシャを訪れる直前頃に、東方各地の諸教会に当ててその第一書簡を書いています。その書簡の4章や5章にも「火のような試練を」「キリストの名のために」受けるという言葉や、「悪魔が吼えたける獅子のように、誰かを探し回っている」など、ネロ皇帝の迫害と深く関係している表現が読まれます。ペトロの第一書簡は、パウロの書簡とは違って一つの教会、一つの信徒共同体向けに書かれたものではなく、その冒頭の挨拶にあるように、ポントス、ガラティア、カパドキア、アジア、ヒチニアなど、現代のトルコ半島全域の数多くの教会に宛てて書かれた書簡です。当時既にこれらの地方ではキリスト教に改宗する人が多くなり、彼らが神々の像が飾られた広場での異教徒たちとの住民集会などに出席しないので、これが社会問題になりつつある地域もあり、事によるとネロ皇帝がこれらの地方でのキリスト者迫害を命令するかも知れない、と迫害下のローマの信徒たちは恐れ、使徒ペトロが書簡を送ったのではないでしょうか。ギリシャのオリンピックを観覧して大歓迎を受けたネロ皇帝は、四頭馬車の競技に優勝させてもらって月桂冠を受けたからか、上機嫌でローマに戻り、危惧されていたキリスト者迫害などは起こりませんでした。


  ネロ皇帝は獄に繋いだ数百人のキリスト者をすぐに全員処刑するのではなく、自分の造ったヴァチカン競技場で遊びが行われる度毎に、その一部の人たちを高い柱の上に縛り付けて火をつけたり、ライオンの餌食にしたりして残酷な遊びの道具にしていました。使徒パウロが獅子の餌食にされなかったのは、ローマ市民権を持っていたからだと思われます。しかし、67年頃にローマ市外で斬首され、ペトロも同じ頃逆さ磔で殉教して、ネロの迫害は終わっています。現代世界には、もうそのような迫害は起こらないと思いますが、しかし、人類文明によって痛めつけられた大自然界からの大規模な恐ろしい反抗と復讐は、覚悟していなければならないかも知れません。人間の力ではそれに対抗できません。ひたすら幼子のようになって神の力に縋り、神によって救われるように努めましょう。

2016年10月16日日曜日

説教集C2013年:2013年間第29主日(三ケ日で)

第1朗読 出エジプト記 17章8~13節
第2朗読 テモテへの手紙二 3章14~4章2節
福音朗読 ルカによる福音書 18章1~8節

  本日の第一朗読には、「アーロンとフルがモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉が読まれますが、これは旧約時代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げる姿勢で祈っていたからだと思います。初代のキリスト教会でもそのような姿勢で祈っており、その名残は今でもミサの司式司祭が祈願文を唱える時などに残っています。キリスト教会に両手を合わせて祈る慣習が広まったのは、シルクロード貿易で盛んになった東西文化の交流で、両手を合わせて祈るインドやシャム辺りの慎ましい慣習が導入された、2, 3世紀頃からだと思われます。

  モーセが手を挙げて祈るとイスラエル人が勝ち、疲れて手を下ろし祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、外的短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈りを止めると、すぐ援助を止めてしまわれるような方ではありません。モーセが初めに指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の上に立つ」と告げたことを見落としてはなりません。神の杖、これはモーセが数々の偉大な神の業を遂行するために、シナイ山麓で神から与えられた神の力の篭もる道具であり、神が共にいて下さる徴でもありました。この杖を差し上げてエジプト軍を海の底に沈めたモーセは、今はイスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強大なアマレク軍を目前にし、民族存亡の危機を痛感しながらも、この杖を持って丘の上に立ったのです。まともに戦ったら少人数のイスラエル軍に勝ち目はありません。しかしモーセは、全能の神に対する不動の信頼心の内に、丘の上から両軍を見下ろしながら神に祈ったのです。神は、エジプト軍の追跡を受けた時のようにすぐには大きく働いて下さいませんでしたが、しかし日没前には、ヨシュアに決定的勝利を与えて下さいました。神の杖に対するモーセの信仰と信頼、そこに注目しそこから学ぶようにしましょう。実は私たちも、目に見えないながらそのような神の杖を、洗礼によって神から頂戴しているのです。しかしその杖は私たちの心の奥底、霊魂に刻まれていますので、それを取り出して全能の神に働いて戴くには、モーセのように真剣に祈ることや、神現存の信仰に生きることが必要だと思います。

  現代文明は極度の便利さと多様化・個人主義化などによって全ての伝統的共同体を弱体化し、内側から崩壊させつつあるようですが、現代社会のそのような流れの中で生まれ育ち、自由主義教育・能力主義教育を受けて大人になった日本人の中には、全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会のどこにも、自分の個性や自由を生かす地盤を見出すことができずに、孤独と不安に苦しんでいる人たちが少なくないようです。学校では良い成績を取得していた人であっても、自分の個性を自由に生かして働く場が見出せないと、夜に眠れなくなったり薬物に手を染めたりして深刻に苦悩し、自分の個性を捨てきれずに自死を考える人たちもいるようです。このような精神的マイナス面が露わになっている日本社会に福音を広めるには、宣教者自身が日々感謝と喜びの内に生きているという姿を示す必要があると思います。心に苦悩や絶望を抱えている人の心は、頭に福音の真理を解説する話よりも、実際に神に支えられ神と共に生き生きと生活している人の生活実践を見てみたい、と望んでいるからです。それには、どうしたら良いでしょうか。

  以前に南山大学でも講演してくれた聖心会のSr.鈴木秀子さんは、最近「幸せ癖をつけましょう」と題する京都での講演の中で、旅先で列車に乗り遅れても、その他どんな不運や失敗に出遭っても、それを新しい生き方をしてみせるチャンスと受け止め、マイナスの言葉を口にしないよう勧めています。「日本では言霊と言って言葉には力があるとされています」。従って不安の言葉や脅しの言葉などを口にしていると、「言葉には力がありますから」心は幸せになれません。「幸せは自分の心の中に育てるものです」。命があるという、ごく当たり前のことにも神に感謝し、喧嘩している人と仲直りしたい、家族の人たちに心から感謝したい、「家族がいる、歩ける、食べられる、自分一人でお手洗いに行ける、目がある、手がある」などと、いつも幸せ言葉を口にしていましょう。するとその言葉が神の御心を動かして幸せへの新しい道が開かれて来ます、と私はその講演の趣旨を受け止めました。毎日神様に向かって笑顔で、「有難うございます」「感謝しています」「希望しています」などと個人的に申し上げるのも、一つの幸せ癖だと思います。私は、孤独や不安などに苛まれている現代人の心に神からの希望の光が注がれるよう願いつつ、マイナス言葉を避けて、日に幾度も父なる神にそのように申し上げ、感謝と希望の精神で神と共に喜んで生きるよう心がけています。

  本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。出エジプト記22章には、「寡婦や孤児を全て、苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という、神の厳しい警告の言葉が読まれます。本日の福音に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、聖書のその言葉は知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えは古代にも多かった遺産問題のトラブルだったでしょう。遺産を横取りされて貧困に苦しむ寡婦が訴え続け、叫び続けていたのだと思います。初めはそんな複雑な遺産問題などは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負けて、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、心の執念と言うこともできる不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい、そうすれば神は、夜昼叫び求めて止まない信者の願いをいつまでもほうふっておかれることは無い、というのがこの譬え話の趣旨だと思います。

  必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは難しいかも知れません。しかし神は、私たちの口先だけの祈り言葉ではなく、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から真剣になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気強く祈り続けても、神は少しも変わらず沈黙しておられるかも知れません。しかし、苦しみながらのその祈りによって、私たちの心はゆっくりと変わり始め、神が待っておられる心の底の霊的土壌の中に根を下ろし始めるのです。

  大正13年に栃木県の足利市に生まれ、平成3年に67歳で亡くなられた優れた書家で詩人の、相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき  いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が ふかくなる」という詩であります。私たちがマイナス言葉を口にせず、苦しみや悲しみに耐えて神に眼を向ける時、私たちの心は黙々と深く深く根をおろし、その根が神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、全能の神の神秘な力が、私たちの内に働き出すのではないでしょうか。


  しかし主は本日の福音の最後に、人の子が再臨する時、この地上にそのような信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。一年前に始まった信仰年は今年の11月下旬で終わりますが、私たちが神から頂戴した信仰が、神が待っておられる心の底の水脈にまでその根を伸ばしているかどうかを反省し、これからも神の御旨によって与えられる日々の労苦や病苦、思わぬ失敗・誤解・やり直しなどを快く受け止め、苦しみによって心の根を神がおられる心の奥底の水脈にまで伸ばすように心がけましょう。ある聖人は、「苦しみは、神が私たちに恵みを与える第八の秘跡である」と言ったそうですが、この言葉も心に銘記して、日々与えられる数々の苦しみ・失敗等々を積極的に受け止め、喜んで耐え忍び、神にお捧げするよう心がけましょう。

2016年10月9日日曜日

説教集C2013年:2013年間第28主日(三ケ日で)

第1朗読 列王記下 5章14~17節
第2朗読 テモテへの手紙二 2章8~13節
福音朗読 ルカによる福音書 17章11~19節

  私たちのフランシスコ教皇は、信仰年行事の一つとして、今年の1012()から13日にかけての夜、即ち昨夜から今朝にかけてローマ教区で徹夜礼拝を開催し、聖母マリアと共に神に特別に祈りミサ聖祭を捧げることにしています。日本とは8時間の時間差がありますから、今この時間にもローマではその徹夜礼拝が続けられていると思います。教皇庁はこの行事を地球規模で行うために、世界に数ある聖母巡礼地の中から特別に十箇所を厳選し、それらの巡礼地でもこの土曜日から日曜日にかけて、聖母マリアと共に全人類のため同様の徹夜礼拝をなすよう依頼しました。アジアでは涙の聖母像で世界的に有名になり、海外からも数多くの巡礼者が来日した秋田の聖体奉仕会の修道院聖堂が教皇庁から指定され、神言会員の新潟教区長菊地司教が聖座の要請を受諾して、教区民宛の公文書でこの出来事の準備を進め、他教区の聖職者・信徒たちにも参加を呼びかけています。1013日は聖母がファチマで最後に出現なされ、あの壮大な太陽の奇跡を集会に参加していた数多くの人々に体験させた日ですので、ローマをはじめ各巡礼所では、この行事の時にファチマの聖母像も飾られることになっています。イタリアのテレビ局が世界の十大聖母巡礼地を結んでのライブ中継を予定していると聞きましたので、秋田での祈りも世界各地に放映されたかも知れません。秋田ではローマより少し早く昨夜11時に聖体を顕示して、日本語・ベトナム語・韓国語・タガログ語・英語の順でロザリオやその他規定の祈りなどが唱えられ、今朝5時頃に挙行される菊地司教司式のインターナショナル・ミサで締めくられる予定と聞いています。従って日本では既に徹夜礼拝は終わっていますが、ローマをはじめ欧米諸国の聖母巡礼地での祈りに心を合わせて、私たちもこの御ミサの祈りを聖母マリアと共に神に捧げ、数多くの問題を抱えて苦しむ全人類の上に、神の特別の憐れみと助けの恵みを祈り求めましょう。

  公会議後のこれまでの日本教会では、第二ヴァチカン公会議をカトリック教会の伝統を現代世界に適合したものに改革するものと捉え、「典礼改革」をはじめ、事ある毎に「改革」という言葉が持て囃され、プロテスタントの新しい聖書学が宣伝されたりして、聖母崇敬の伝統が著しく軽視された時代がありました。公会議の公文書には「改革」という言葉は一度も使われていません。公会議は古い伝統を新しい時代に生かして刷新することを目指していたからです。これについては公会議を身近に見聞きして来た私が既に多くの所で話したり執筆したりしましたので、ここでは省きます。秋田市添川湯沢台の聖母像が数々のメッセージを修道女笹川カツ子さんに与え、掌の傷から血を流したり、101回にわたって眼から涙を流したりする奇跡をなし、多くの人がその奇跡を目撃し、その血や涙が人間のものであることが大学の医学博士たちによって立証されても、更に当時の新潟教区の伊藤司教がその出来事が聖母マリアからのものであることを公言して聖母崇敬を奨励しても、既に聖母崇敬に批判的になっていたわが国の多くのカトリック者はそれを無視して、「秋田の聖母崇敬はローマに認められていない」等と話し合っていました。この度聖座は、秋田の涙の聖母像が韓国や米国など多くの他国人たちからも崇敬されていることを評価し、他の九聖母巡礼所と共にローマの徹夜礼拝と合わせて聖母崇敬の行事を為すよう特別に依頼することにより、聖座が秋田を聖母巡礼所として公認したことは、喜ばしいことであると存じます。

  本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた二つ目の手紙からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、紀元62年頃にローマで番兵一人を付けられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた時の手紙ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて殉教を目前にしていた時に書かれた手紙であると思います。従って、この手紙は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちや獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。ローマ市民に世俗の壮大な遊びと贅沢を提供するため、国家の資金を大規模に投入して止まないネロ皇帝の政治に愛想をつかし、使徒の説くあの世の幸福に耳を傾ける人も少なくなかったと思います。「私たちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にしてその牢獄で説いた福音の要約でもあると思われます。

  本日の福音は、主キリストによるハンセン描写たちの癒しについて語っていますが、ナアマンを癒して預言者エリシャと同様、主もここで遠く離れた所から命令を与え、病者がその命令に従って祭司たちの所へ行くという行動をなした時に、癒しておられます。しかし、自分の体が癒されたのを見て、大声を神を賛美しながらまず主の許に戻って、主の足元にひれ伏して感謝したのは、サマリア人一人だけでした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人はユダヤ人だったのでしょうか。としますと、神をこの世から遠く離れた天におられる聖なる存在と考え、その神がモーセに啓示なされた律法の厳守を何よりも重視していたファリサイ派の宗教教育を子供の時から受けていたので、まずは癒された自分の体を祭司に見せて、律法に従う嬉しい社会復帰を成し遂げることだけを考え、恩人の主イエスや神に感謝することは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。この世の社会的規則や慣例だけを重視して、それらよりも私たちの身近に現存しておられる神の働きに対する感謝を軽視しないよう、今日の私たちも気をつけましょう。規則や慣例よりも、神からの具体的呼びかけや導き・働きなどが大切なのですから。


  主は感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、律法を知らないその人は、ただ身近な現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けて生きようとしていたのではないでしょうか。主のお言葉にある「あなたの信仰」とは、その生き方のことを指していると思います。本日の福音には、「自分の癒されたのを知って」と邦訳されていますが、ギリシャ語の原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に肉眼で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味のエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で感知したりする時に聖書で用いられるこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも神の現存や働きに対する心の眼、心のセンスを磨くように心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などに囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日常生活の中にあって、何よりも隣人の小さな必要、小さな願いなどを通してそれとなく示される神からの愛の求め、あるいは私に対する神からの小さな保護や助け・導きなどに、信仰と愛と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から求めておられる信仰であると思います。何よりもその信仰を大切にして生きるところに、神の祝福が隠されていると信じます。

2016年10月2日日曜日

説教集C2013年:2013年間第27主日(三ケ日)

第1朗読 ハバクク書 1章2~3、2章2~4節
第2朗読 テモテへの手紙二 1章6~8、13~14節
福音朗読 ルカによる福音書 17章5~10節

   本日の第一朗読の前半は、紀元前600年頃にユダ王国がバビロニア軍に滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの祈りですが、当時のユダ王国の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求め、叫ぶようにして声高く祈っていましたが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってこれまでの王国の贅沢な社会に迫りつつある様々の災いを、幻の中で預言者に見せておられたようです。それが第一朗読の前半ですが、預言者のその嘆きの祈りに続いて、神が「見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略について詳しく啓示なされた長い話は省略され、後半部分はハバクク第2章の始めからの引用になっています。ユダ王国滅亡の啓示を受けた預言者は、第1章の終りに、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に激しく嘆きます。それに対する神の答えが、この後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神が少しも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過()ぎります。それは、本当に苦しい試練の時です。神は私たちの信仰を一層深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を私たちに体験させるのです。現代文明の大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

   その時に人間中心・自分中心の立場から抜け出て、神の御旨中心主義の主キリストの立場に立ち、神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけていましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかも神のその支配が、私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いかけましたが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、黙々とそれに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が、働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する幼子のような徹底的「信頼」を意味していると思います。頭で神の存在とその啓示の真理を信じているだけでは足りません。そんな信仰は、地獄の悪魔も数々の嫌な体験から確信していると思います。頭の理知的な信仰ではなく、神の僕・婢として神の御旨にひたすら従順に従おう、全てを神に委ねて愛と信頼の内に清貧に生きようとする信仰心の成長強化を求めて、神は私たちに度々厳しい試練をお与えになるのだと信じます。その苦しい試練を嫌がらずに、幾度倒れても新たに立ち上がり、神の御旨に従い続けましょう。それが信仰年にあたって私たちが身に付けるべき生き方だと思います。

   最近知ったのですが、今のフランシスコ教皇は、歴代教皇が居宅としておられた使徒宮殿には移住なさらず、そのことを尋ねられた時に、「私は宮殿に住まず、高級車に乗らず、金も宝石も持たないことを決意した」「ただ単に貧富の問題ではなく、私自身の人格に係わる問題だから」「私には人々の間に生きることが必要なのだ」「使徒宮殿内にある居住空間が取り立てて豪華としいうわけではないが、そこに一人で起居することはできない」などと話されて、相変わらずヴァチカン敷地内の質素な居住空間内に生活しておられるそうです。前の教皇ベネディクト16世も、その退位の直前に現在の教皇職の深刻な孤立を痛感し、小さな「聖マルタの家」での朝のミサに、ヴァチカンの聖職者たちや滞在中の枢機卿たちにそのことを説明なされたそうですが、今の教皇はそれを受けて、アシジの聖フランシスコのように清貧を実践的に愛することにより、豊かさを追い求めて止まない罪に穢れた現代人類の上に、神の憐れみと恵みを呼び下そうとしておられるのかも知れません。信仰年の終末を迎えるに当たって、私たちも神に誓った清貧の誓願を想起し、日々の日常生活の中でも実践的に清貧を愛しつつ、神の御旨に従う決心を新たに致しましょう。

   アシジの聖フランシスコの時代には、教皇庁も各地の司教たちも豊かな生活を営んでいたら、フランス・ドイツ・イタリアなどの各地で、そのような信仰生活は主キリストの福音的生活に背く生き方だ、とする過激な教会批判が信徒たちの間に広まり、宗教的権威を失墜した教会は崩壊の危機に直面していました。その時アシジのフランシスコが生家の豊かな生活を捨てて、福音的清貧の生活を実践的に証しする生活を始めたら、神の聖霊が働いたのでしょうか、無数の若手信徒たちが男も女もその新しい福音的生活に積極的に参加し、教会は分裂の危機を回避して立派に立ち直り、新しく発展し始めるに到りました。現代のカトリック教会も、多くの聖職者たちのセクハラや福音的清貧精神に欠ける生き方によって、特に欧米諸国では宗教的権威を失墜し、マスコミから厳しく批判されています。今の教皇はこの危機を乗り越えるために、アシジの聖人の模範に倣って福音的清貧の実践に心がけ、神による救いの恵みを呼び下そうとしておられるのではないでしょうか。清貧誓願を宣立している私たち修道者も、それに協力して日々の生活の中で、小さな清貧の実践を神に捧げるように心がけましょう。

   本日の福音には、弟子たちが「私たちの信仰を増して下さい」と願ったら、主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになったとあります。芥子種は落としたらピンセットで掴むこともできない程小さな黒い粒ですから、主のお言葉から察しますと、誰が偉いかどちらが上かなどの争い事もしていた当時の弟子たちの内には、神がお求めになっておられる本当の信仰は、芥子種一粒ほどもないという意味でも、このように話されたのだと思います。では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的従順と信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。全能の神は、我なしのそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の所有する能力で、神の助けを祈り求めつつ何かの奇跡的成功を獲得するのではありません。神が御自身が、その人の内に働いて下さるのです。


   本日の福音の後半も、私たちの持つべきその真の信仰について教えています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食をお望みなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家のお嫁さんたちは、皆このようにして家族皆に奉仕していました。我なしの家族愛の奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。今の社会では、何事も金銭的儲けで評価する価値観が広まっていますが、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場であります。家庭的無料奉仕の愛をパイプラインとして、神がその恵みを私たちの上に、また社会の上に豊かに注いで下さるのです。私たちが今後も永く、こういう信仰と愛の奉仕に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2016年9月25日日曜日

説教集C2013年:2013年間第26主日(三ケ日で)

C年 年間第26主日
第1朗読 アモス書 6章1a、4~7節
第2朗読 テモテへの手紙一 6章11~16節
福音朗読 ルカによる福音書 16章19~31節


   本日の第一朗読は、紀元前8世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。この警告の20数年後、残忍さで知られたアッシリア軍の襲来で、サマリアは徹底的に滅ぼされました。そしてこの時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニア軍の襲来で、亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させてしまう危険があります。現代の私たちも気を付け、清貧に生きるよう心がけましょう。現代の全世界で生産される食料の三分の一は、日本や欧米諸国で捨てられていると聞きます。今の世界には十億人も飢えで苦しんでいますが、日本と欧米の食料廃棄物はその人たちを三回救える程の量に達しているそうです。貧しい国々への食料援助は世界全体で年間四百万トン程だそうですが、その二倍近い食べ物が、日本では毎年捨てられているのだそうです。貧民の救済に本腰をあげようとしていない現代世界は、古代のサマリアやエルサレムのように、あるいは古代ローマ・ギリシャ世界のように、神のお怒りを招いて遠からず徹底的に滅ぼされるのではないでしょうか。先週の土曜日から東京や名古屋などではドキュメンタリー映画「もったいない!」が上映されているそうですが、一人でも多くの人が神と大自然に対する感謝の心で食料や物資を大切にし、清貧愛と隣人愛に生きるよう、心の目覚めを祈り求めましょう。長年の私の体験や見聞を振り返りますと、神の恵みに対する感謝と清貧・節約の生活実践に心がけている人に、神はいつも恵み深いように感じています。
   本日の第二朗読は、先週の日曜日にここで説明しましたように、使徒パウロが使徒ペトロと共に殉教することになる、ネロ皇帝によるキリスト者迫害が始まる少し前頃に認められた、使徒パウロの遺言のような手紙からの引用であります。パウロはその中で、愛弟子テモテを「神の人よ」と呼び、「あなたは正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」「万物に命をお与えになる神の御前で」「キリスト・イエスの御前であなたに命じます」などと書いています。これは、自分の生活の豊かさ、楽しみだけを優先して貧困に苦しむ人たちに対する配慮を後回しにし勝ちな、現代の私たちに対する神からの警告でもあると思いますが、如何でしょうか。私たちもテモテ司教と同様に、神から召され証人たちの前で主キリストに従って信仰と愛に生きることを表明した信徒・修道者であります。その初心を忘れずに、終末的様相が強まり全てが極度に多様化しつつある今の世にあって、使徒たちを介して主キリストから受け継いだ信仰と愛の生き方を、命がけで立派に証しするよう努めましょう。ご存知でしょうか、冬の星空に輝くあの正三角形の一角で、赤く光っているベテルギウスという星は、美しい三ツ星を中心とするオリオン星座の左上の一角ですが、太陽の一千倍もの直径を持つその巨大な星が今揺れ動いており、遠からずすさまじい超新星爆発を起こして死んで行くと天文学者たちに予測されています。ベテルギウスが爆発したなら、その明るさは満月の百倍にもなって、三ヶ月間も煌々と輝き続け、昼間でも肉眼で見ることが出来るであろう、と学者たちが予告していますが、新聞でその話を読んで、私は20年程前に聖母マリアが何方かに予告なされた話を思い出しました。人々が赤い星の現れるのを見たら、それが世の終わり直前の恐ろしい災害の始まる徴のようです。その時は、身近に迫っているのではないでしょうか。神に対する信仰と信頼を堅めて、覚悟していましょう。
   本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、死んだ律法学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話であります。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加して新しく展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。
   しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者は、あの世では貧困に苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその話を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などで心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に心がけている人もいます。これらのことを考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きることと、神の御旨に従うことを最高目標にして、そのために自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と各自に考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。
   譬え話に登場する金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。神の国は、自分中心の精神に死んでひたすら他者のために生きようとする、神の愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに譬え話の中の乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義を嫌悪する心から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむこと以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人は、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえると思います。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのではないでしょうか。

   一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて育ち、心の教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、自分の受けた教育に疑問を抱き、もっと大らかな開いた心で、相異なる多くの人と共に助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないと思います。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2016年9月18日日曜日

説教集C2013年:2013年間第25主日(三ケ日で)

C年 年間第25主日
第1朗読 アモス書 8章4~7節
第2朗読 テモテへの手紙一 2章1~8節
福音朗読 ルカによる福音書 16章1~13節

   本日の第一朗読は、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍したアモス預言者の語った言葉ですが、預言者はここで貧者や苦しむ農民を抑圧し搾取して止まない、支配者や金持ちたちの不正を厳しく非難し、「私は彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、主なる神が誓って話された厳しいお言葉を伝えています。主は貧しい人、苦しむ人の味方で、そのような人たちの中に現存して私たちに近づかれる神であります。アモス預言者の言葉を聞いても、それまでの生き方を改めようとしなかった北イスラエル王国の支配者や富める人たちは、その後間もなく残酷なアッシリアの大軍によって征服され、国外に連行されて悲惨な状態に落とされています。神の呼びかけに謙虚に従い、悔い改めなかった天罰であると思います。

   現代の一見豊かに見える日本社会にも、人目に隠れていますが、日々の生活に窮している家族は少なくありません。派遣切りで失業したり就職難で就業できずにいる人たちやホームレスの人たち、あるいは1998年以降毎年3万人以上にもなったりした自殺者たちの貧しい遺族、細々と貧困に耐えている家族などが年々増え続けています。能力があっても貧しさのため進学できず、適当な働き場を見出せずにいる若者たちも少なくありません。1960年代から市民生活の豊かさの陰に急速に広まった生活の都市化、核家族化は、自由主義・個人主義の普及によってそれまでの地域共同体や血縁共同体を、内面から崩壊させたり無力化させたりしてしまいました。それで共同体の絆や支えを失った貧者たちの苦しみは、生き甲斐を失わせるほど深刻なものになって来ています。近年そのような人たちの生活を援助する慈善家の数も増え、慈善事業の数も増えつつありますが、まだまだ不十分の状態です。神は、ご自身がこの世に送り出されたそのような人たちの中に特別に現存して、現代の社会や私たちに憐れみと愛を求めておられるのではないでしょうか。そういう人たちの中に神よりの人キリストや聖母マリアを見出して奉仕する模範を残された福者マザー・テレサは、真に現代的な聖人であったと思います。大きなことは何一つできない私たちですが、せめて貧しく孤独に悩んでいる人たちの上に神の憐れみと導き・助けの恵みを祈り求めることにより、個人主義化した現代世界の中に、神の愛による新たな絆・新たな組織が産み出され広まるのを、日々内的にまた積極的に支援するよう努めましょう。

   本日の第二朗読は、使徒パウロがその愛弟子テモテに宛てた手紙からの引用ですが、この手紙はネロ皇帝の下でのパウロの殉教の少し前頃に書かれた手紙のようです。使徒言行録28章の最後に記されているように、パウロは紀元60年頃に初めてローマに来た時は、ローマ軍の囚人ではありましたが、まる2年間は自費で借りた家に留まっていて、来訪する人たちに憚ることなく神の国や主キリストについて宣教することができました。コロサイ書とフィレモン書の冒頭にパウロが書いているように、30歳代半ばと思われるテモテはその時、ローマでパウロと一緒にいました。紀元96年頃に第四代教皇クレメンス1世が書いた第一書簡によりますと、使徒パウロはその後暫くは今のスペインにまでも旅行したようですから、テモテとテトスに小アジアとクレタ島で使徒に代わって教会を指導する権限を与えたのも、この多少自由に行動できた時のことだと思われます。しかし、64年にネロ皇帝が、古い伝統から解放されたもっと新しいローマの町造りを意図したのでしょうか、密かに放火させてローマの町の大半を焼き払わせ、30キロ程離れた海辺の宮殿アンツィオでその火事を眺めて喜んでいたことが、後でローマ市民に知られると、放火の責任をユダヤ人に転嫁して、以前にもあったローマでのユダヤ人迫害を再燃させました。すると逮捕されたユダヤ人たちが、放火したのはキリスト者たちだと嘘の証言をしたので、ネロ皇帝によるローマ市内でのキリスト者迫害が始まり、67年に使徒ペトロもパウロも殉教するに至りました。その厳しい迫害下か、あるいはその迫害が始まる少し前頃に認められたのが、テモテへの手紙ではないか、と私は受け止めています。使徒がそこで、「願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のために捧げなさい。王たちや全ての高級官吏たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」と書いていることは大切です。主イエスも、「迫害する者のために祈れ」と命じておられます。現代の私たちも、将来神を信じない人たちからの思わぬ誤解や迫害に苦しめられることがあるかも知れません。そのような時、主キリストは全ての人の救いのためにその苦しみを神にお捧げになったことを思い、迫害する人たちの救いのため自分の受ける誤解や苦しみを、主の御受難にあわせて神にお捧げする覚悟を今から固めていましょう。

   本日の福音は、先週の日曜日の福音であった見失った羊やなくした銀貨など三つの譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか聖書では「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の14節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。それで25年前に出版された新共同訳の日本語聖書では「弟子たちに言われた」と訳しかえています。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、しかし実際上は様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。儲け本位の理知的貨幣経済が流行していた時代でしたから。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを借用人から返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制が確立していない所では、密かに似たような詐欺や着服が横行しているようです。2千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界では、心の教育の不備に起因する「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約時代の神の民の中にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったのかも知れません。

   ところでこの譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」というアイロニーを話しておられることは、注目に値します。私は勝手ながら、主はこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていない「この世の子ら」を、闇の中にいる者たち、神に呪われた罪人たちとして批判し断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていた「この世の子ら」は、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。


   主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神の摂理によって自分に委託されたその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、その愛の実践を何よりも評価なされる神はその努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには、別に何もしなくても天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだ、などというファリサイ的考えを持たないように気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や神の導き・啓示などを利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりもこの世の富(マンモン) に仕えようとしている、と神から見做されるのではないでしょうか。ここで「富」とあるのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉、幸せなどをも指していると思います。それらを神の奉仕的愛よりも大切にしている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物を、貧しい人や苦しむ人たちのためにも利用するよう心がけましょう。