2016年10月9日日曜日

説教集C2013年:2013年間第28主日(三ケ日で)

第1朗読 列王記下 5章14~17節
第2朗読 テモテへの手紙二 2章8~13節
福音朗読 ルカによる福音書 17章11~19節

  私たちのフランシスコ教皇は、信仰年行事の一つとして、今年の1012()から13日にかけての夜、即ち昨夜から今朝にかけてローマ教区で徹夜礼拝を開催し、聖母マリアと共に神に特別に祈りミサ聖祭を捧げることにしています。日本とは8時間の時間差がありますから、今この時間にもローマではその徹夜礼拝が続けられていると思います。教皇庁はこの行事を地球規模で行うために、世界に数ある聖母巡礼地の中から特別に十箇所を厳選し、それらの巡礼地でもこの土曜日から日曜日にかけて、聖母マリアと共に全人類のため同様の徹夜礼拝をなすよう依頼しました。アジアでは涙の聖母像で世界的に有名になり、海外からも数多くの巡礼者が来日した秋田の聖体奉仕会の修道院聖堂が教皇庁から指定され、神言会員の新潟教区長菊地司教が聖座の要請を受諾して、教区民宛の公文書でこの出来事の準備を進め、他教区の聖職者・信徒たちにも参加を呼びかけています。1013日は聖母がファチマで最後に出現なされ、あの壮大な太陽の奇跡を集会に参加していた数多くの人々に体験させた日ですので、ローマをはじめ各巡礼所では、この行事の時にファチマの聖母像も飾られることになっています。イタリアのテレビ局が世界の十大聖母巡礼地を結んでのライブ中継を予定していると聞きましたので、秋田での祈りも世界各地に放映されたかも知れません。秋田ではローマより少し早く昨夜11時に聖体を顕示して、日本語・ベトナム語・韓国語・タガログ語・英語の順でロザリオやその他規定の祈りなどが唱えられ、今朝5時頃に挙行される菊地司教司式のインターナショナル・ミサで締めくられる予定と聞いています。従って日本では既に徹夜礼拝は終わっていますが、ローマをはじめ欧米諸国の聖母巡礼地での祈りに心を合わせて、私たちもこの御ミサの祈りを聖母マリアと共に神に捧げ、数多くの問題を抱えて苦しむ全人類の上に、神の特別の憐れみと助けの恵みを祈り求めましょう。

  公会議後のこれまでの日本教会では、第二ヴァチカン公会議をカトリック教会の伝統を現代世界に適合したものに改革するものと捉え、「典礼改革」をはじめ、事ある毎に「改革」という言葉が持て囃され、プロテスタントの新しい聖書学が宣伝されたりして、聖母崇敬の伝統が著しく軽視された時代がありました。公会議の公文書には「改革」という言葉は一度も使われていません。公会議は古い伝統を新しい時代に生かして刷新することを目指していたからです。これについては公会議を身近に見聞きして来た私が既に多くの所で話したり執筆したりしましたので、ここでは省きます。秋田市添川湯沢台の聖母像が数々のメッセージを修道女笹川カツ子さんに与え、掌の傷から血を流したり、101回にわたって眼から涙を流したりする奇跡をなし、多くの人がその奇跡を目撃し、その血や涙が人間のものであることが大学の医学博士たちによって立証されても、更に当時の新潟教区の伊藤司教がその出来事が聖母マリアからのものであることを公言して聖母崇敬を奨励しても、既に聖母崇敬に批判的になっていたわが国の多くのカトリック者はそれを無視して、「秋田の聖母崇敬はローマに認められていない」等と話し合っていました。この度聖座は、秋田の涙の聖母像が韓国や米国など多くの他国人たちからも崇敬されていることを評価し、他の九聖母巡礼所と共にローマの徹夜礼拝と合わせて聖母崇敬の行事を為すよう特別に依頼することにより、聖座が秋田を聖母巡礼所として公認したことは、喜ばしいことであると存じます。

  本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた二つ目の手紙からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、紀元62年頃にローマで番兵一人を付けられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた時の手紙ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて殉教を目前にしていた時に書かれた手紙であると思います。従って、この手紙は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちや獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。ローマ市民に世俗の壮大な遊びと贅沢を提供するため、国家の資金を大規模に投入して止まないネロ皇帝の政治に愛想をつかし、使徒の説くあの世の幸福に耳を傾ける人も少なくなかったと思います。「私たちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にしてその牢獄で説いた福音の要約でもあると思われます。

  本日の福音は、主キリストによるハンセン描写たちの癒しについて語っていますが、ナアマンを癒して預言者エリシャと同様、主もここで遠く離れた所から命令を与え、病者がその命令に従って祭司たちの所へ行くという行動をなした時に、癒しておられます。しかし、自分の体が癒されたのを見て、大声を神を賛美しながらまず主の許に戻って、主の足元にひれ伏して感謝したのは、サマリア人一人だけでした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人はユダヤ人だったのでしょうか。としますと、神をこの世から遠く離れた天におられる聖なる存在と考え、その神がモーセに啓示なされた律法の厳守を何よりも重視していたファリサイ派の宗教教育を子供の時から受けていたので、まずは癒された自分の体を祭司に見せて、律法に従う嬉しい社会復帰を成し遂げることだけを考え、恩人の主イエスや神に感謝することは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。この世の社会的規則や慣例だけを重視して、それらよりも私たちの身近に現存しておられる神の働きに対する感謝を軽視しないよう、今日の私たちも気をつけましょう。規則や慣例よりも、神からの具体的呼びかけや導き・働きなどが大切なのですから。


  主は感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、律法を知らないその人は、ただ身近な現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けて生きようとしていたのではないでしょうか。主のお言葉にある「あなたの信仰」とは、その生き方のことを指していると思います。本日の福音には、「自分の癒されたのを知って」と邦訳されていますが、ギリシャ語の原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に肉眼で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味のエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で感知したりする時に聖書で用いられるこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも神の現存や働きに対する心の眼、心のセンスを磨くように心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などに囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日常生活の中にあって、何よりも隣人の小さな必要、小さな願いなどを通してそれとなく示される神からの愛の求め、あるいは私に対する神からの小さな保護や助け・導きなどに、信仰と愛と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から求めておられる信仰であると思います。何よりもその信仰を大切にして生きるところに、神の祝福が隠されていると信じます。