2016年10月2日日曜日

説教集C2013年:2013年間第27主日(三ケ日)

第1朗読 ハバクク書 1章2~3、2章2~4節
第2朗読 テモテへの手紙二 1章6~8、13~14節
福音朗読 ルカによる福音書 17章5~10節

   本日の第一朗読の前半は、紀元前600年頃にユダ王国がバビロニア軍に滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの祈りですが、当時のユダ王国の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求め、叫ぶようにして声高く祈っていましたが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってこれまでの王国の贅沢な社会に迫りつつある様々の災いを、幻の中で預言者に見せておられたようです。それが第一朗読の前半ですが、預言者のその嘆きの祈りに続いて、神が「見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略について詳しく啓示なされた長い話は省略され、後半部分はハバクク第2章の始めからの引用になっています。ユダ王国滅亡の啓示を受けた預言者は、第1章の終りに、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に激しく嘆きます。それに対する神の答えが、この後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神が少しも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過()ぎります。それは、本当に苦しい試練の時です。神は私たちの信仰を一層深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を私たちに体験させるのです。現代文明の大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

   その時に人間中心・自分中心の立場から抜け出て、神の御旨中心主義の主キリストの立場に立ち、神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけていましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかも神のその支配が、私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いかけましたが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、黙々とそれに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が、働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する幼子のような徹底的「信頼」を意味していると思います。頭で神の存在とその啓示の真理を信じているだけでは足りません。そんな信仰は、地獄の悪魔も数々の嫌な体験から確信していると思います。頭の理知的な信仰ではなく、神の僕・婢として神の御旨にひたすら従順に従おう、全てを神に委ねて愛と信頼の内に清貧に生きようとする信仰心の成長強化を求めて、神は私たちに度々厳しい試練をお与えになるのだと信じます。その苦しい試練を嫌がらずに、幾度倒れても新たに立ち上がり、神の御旨に従い続けましょう。それが信仰年にあたって私たちが身に付けるべき生き方だと思います。

   最近知ったのですが、今のフランシスコ教皇は、歴代教皇が居宅としておられた使徒宮殿には移住なさらず、そのことを尋ねられた時に、「私は宮殿に住まず、高級車に乗らず、金も宝石も持たないことを決意した」「ただ単に貧富の問題ではなく、私自身の人格に係わる問題だから」「私には人々の間に生きることが必要なのだ」「使徒宮殿内にある居住空間が取り立てて豪華としいうわけではないが、そこに一人で起居することはできない」などと話されて、相変わらずヴァチカン敷地内の質素な居住空間内に生活しておられるそうです。前の教皇ベネディクト16世も、その退位の直前に現在の教皇職の深刻な孤立を痛感し、小さな「聖マルタの家」での朝のミサに、ヴァチカンの聖職者たちや滞在中の枢機卿たちにそのことを説明なされたそうですが、今の教皇はそれを受けて、アシジの聖フランシスコのように清貧を実践的に愛することにより、豊かさを追い求めて止まない罪に穢れた現代人類の上に、神の憐れみと恵みを呼び下そうとしておられるのかも知れません。信仰年の終末を迎えるに当たって、私たちも神に誓った清貧の誓願を想起し、日々の日常生活の中でも実践的に清貧を愛しつつ、神の御旨に従う決心を新たに致しましょう。

   アシジの聖フランシスコの時代には、教皇庁も各地の司教たちも豊かな生活を営んでいたら、フランス・ドイツ・イタリアなどの各地で、そのような信仰生活は主キリストの福音的生活に背く生き方だ、とする過激な教会批判が信徒たちの間に広まり、宗教的権威を失墜した教会は崩壊の危機に直面していました。その時アシジのフランシスコが生家の豊かな生活を捨てて、福音的清貧の生活を実践的に証しする生活を始めたら、神の聖霊が働いたのでしょうか、無数の若手信徒たちが男も女もその新しい福音的生活に積極的に参加し、教会は分裂の危機を回避して立派に立ち直り、新しく発展し始めるに到りました。現代のカトリック教会も、多くの聖職者たちのセクハラや福音的清貧精神に欠ける生き方によって、特に欧米諸国では宗教的権威を失墜し、マスコミから厳しく批判されています。今の教皇はこの危機を乗り越えるために、アシジの聖人の模範に倣って福音的清貧の実践に心がけ、神による救いの恵みを呼び下そうとしておられるのではないでしょうか。清貧誓願を宣立している私たち修道者も、それに協力して日々の生活の中で、小さな清貧の実践を神に捧げるように心がけましょう。

   本日の福音には、弟子たちが「私たちの信仰を増して下さい」と願ったら、主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになったとあります。芥子種は落としたらピンセットで掴むこともできない程小さな黒い粒ですから、主のお言葉から察しますと、誰が偉いかどちらが上かなどの争い事もしていた当時の弟子たちの内には、神がお求めになっておられる本当の信仰は、芥子種一粒ほどもないという意味でも、このように話されたのだと思います。では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的従順と信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。全能の神は、我なしのそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の所有する能力で、神の助けを祈り求めつつ何かの奇跡的成功を獲得するのではありません。神が御自身が、その人の内に働いて下さるのです。


   本日の福音の後半も、私たちの持つべきその真の信仰について教えています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食をお望みなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家のお嫁さんたちは、皆このようにして家族皆に奉仕していました。我なしの家族愛の奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。今の社会では、何事も金銭的儲けで評価する価値観が広まっていますが、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場であります。家庭的無料奉仕の愛をパイプラインとして、神がその恵みを私たちの上に、また社会の上に豊かに注いで下さるのです。私たちが今後も永く、こういう信仰と愛の奉仕に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。