2016年9月25日日曜日

説教集C2013年:2013年間第26主日(三ケ日で)

C年 年間第26主日
第1朗読 アモス書 6章1a、4~7節
第2朗読 テモテへの手紙一 6章11~16節
福音朗読 ルカによる福音書 16章19~31節


   本日の第一朗読は、紀元前8世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。この警告の20数年後、残忍さで知られたアッシリア軍の襲来で、サマリアは徹底的に滅ぼされました。そしてこの時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニア軍の襲来で、亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させてしまう危険があります。現代の私たちも気を付け、清貧に生きるよう心がけましょう。現代の全世界で生産される食料の三分の一は、日本や欧米諸国で捨てられていると聞きます。今の世界には十億人も飢えで苦しんでいますが、日本と欧米の食料廃棄物はその人たちを三回救える程の量に達しているそうです。貧しい国々への食料援助は世界全体で年間四百万トン程だそうですが、その二倍近い食べ物が、日本では毎年捨てられているのだそうです。貧民の救済に本腰をあげようとしていない現代世界は、古代のサマリアやエルサレムのように、あるいは古代ローマ・ギリシャ世界のように、神のお怒りを招いて遠からず徹底的に滅ぼされるのではないでしょうか。先週の土曜日から東京や名古屋などではドキュメンタリー映画「もったいない!」が上映されているそうですが、一人でも多くの人が神と大自然に対する感謝の心で食料や物資を大切にし、清貧愛と隣人愛に生きるよう、心の目覚めを祈り求めましょう。長年の私の体験や見聞を振り返りますと、神の恵みに対する感謝と清貧・節約の生活実践に心がけている人に、神はいつも恵み深いように感じています。
   本日の第二朗読は、先週の日曜日にここで説明しましたように、使徒パウロが使徒ペトロと共に殉教することになる、ネロ皇帝によるキリスト者迫害が始まる少し前頃に認められた、使徒パウロの遺言のような手紙からの引用であります。パウロはその中で、愛弟子テモテを「神の人よ」と呼び、「あなたは正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」「万物に命をお与えになる神の御前で」「キリスト・イエスの御前であなたに命じます」などと書いています。これは、自分の生活の豊かさ、楽しみだけを優先して貧困に苦しむ人たちに対する配慮を後回しにし勝ちな、現代の私たちに対する神からの警告でもあると思いますが、如何でしょうか。私たちもテモテ司教と同様に、神から召され証人たちの前で主キリストに従って信仰と愛に生きることを表明した信徒・修道者であります。その初心を忘れずに、終末的様相が強まり全てが極度に多様化しつつある今の世にあって、使徒たちを介して主キリストから受け継いだ信仰と愛の生き方を、命がけで立派に証しするよう努めましょう。ご存知でしょうか、冬の星空に輝くあの正三角形の一角で、赤く光っているベテルギウスという星は、美しい三ツ星を中心とするオリオン星座の左上の一角ですが、太陽の一千倍もの直径を持つその巨大な星が今揺れ動いており、遠からずすさまじい超新星爆発を起こして死んで行くと天文学者たちに予測されています。ベテルギウスが爆発したなら、その明るさは満月の百倍にもなって、三ヶ月間も煌々と輝き続け、昼間でも肉眼で見ることが出来るであろう、と学者たちが予告していますが、新聞でその話を読んで、私は20年程前に聖母マリアが何方かに予告なされた話を思い出しました。人々が赤い星の現れるのを見たら、それが世の終わり直前の恐ろしい災害の始まる徴のようです。その時は、身近に迫っているのではないでしょうか。神に対する信仰と信頼を堅めて、覚悟していましょう。
   本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、死んだ律法学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話であります。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加して新しく展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。
   しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者は、あの世では貧困に苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその話を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などで心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に心がけている人もいます。これらのことを考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きることと、神の御旨に従うことを最高目標にして、そのために自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と各自に考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。
   譬え話に登場する金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。神の国は、自分中心の精神に死んでひたすら他者のために生きようとする、神の愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに譬え話の中の乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義を嫌悪する心から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむこと以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人は、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえると思います。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのではないでしょうか。

   一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて育ち、心の教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、自分の受けた教育に疑問を抱き、もっと大らかな開いた心で、相異なる多くの人と共に助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないと思います。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。