2014年12月25日木曜日

説教集B2012年:2011年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

   本日の日中降誕祭ミサの福音は、ヨハネ福音書の冒頭を飾っている荘厳な序文からの引用であります。旧約聖書の冒頭を飾る創世記は、「初めに神は天と地を創造された」と万物の本源であられる神から説き起こしていますが、使徒ヨハネもそれに模して、新約の福音を全知全能の神から説き起こしています。神の言(ロゴス)によって万物が創造されたのであり、そのロゴスが万物を生かす命であり、私たち人間を照らす真の光であると説いてから、そのロゴスが人間となってこの世に来臨なされた所から、福音を説き始めたのです。それで本日は、ヨハネのこのような神観念について、ご一緒に少し考えてみましょう。

   と申しますのは、第二バチカン公会議が「世界に開かれた教会」を一つの努力目標に掲げましたら、ヘブライズムの思想的流れの中で生まれたキリスト教が、生まれてすぐギリシャ・ローマ的な理知的哲学思想の流れの中に広まって、その流れの中で生まれ育った人々に教えを宣べ伝えるために、ごく自然にその哲学思想の影響を受けて、自由や動きの乏しい堅苦しい神学に傾いてしまったように、今日では、主イエスの原初の自由な精神に立ち戻って、開放的自由と動的力に溢れた福音を、思想的に多様化している現代の諸民族に宣べ伝えるべきではないかというような思想が、公会議後一部の若手知識人たちの間に広まり、キリストの福音を相異なる各民族文化の受け入れ地盤に適合し易い形で宣べ伝えようとする道が、模索されているからです。南米での「解放の神学」をはじめ、アジアの一部の国々やわが国でも様々な試みがなされて来ました。

   しかし、ローマ教皇庁はそういう動向に対しては、公会議の精神を誤解した偏った試みとしていつも少し警戒しているように見えます。公会議開催中のローマに留学していて、多少なりともその精神を体験して来た私も、同様に感じています。教会は数々の問題を抱えて苦しんでいる現代世界に大きく心を開いて、それらの問題の解決に協力しようとしていますが、しかし、神が救いの御業の主導権を握っておられ、私たちは神の導きに従って、主キリストが創始された伝統を尊重しながら生きる従順によって救われるのだという、初代教会以来の大原則については少しも変わっていないからです。人間の理知的発想が主導権をとったり、過去の人間が産み出した様々の文化が中心になって、キリストの福音を文化圏毎に多様化させてはならないと思います。それらはいずれも、人間的・文化的には価値ある試みでしょうが、神の御前では陶工の前にある粘土のようなものであり、主導権を握る神の霊に徹底的に従おうとする信仰と従順の精神がなければ、それらの新しい人間的試みから、神に喜ばれる実りは結び得ないと思われるからです。

   使徒ヨハネは、一切の妥協を許さない光のイメージで、罪の闇を退ける強い神を提示し、その光を隠して近づく神の言(ロゴス)を、受け入れ信じる人たちを救い出そうとしている神の愛を提示していますが、公会議後の一部の進歩的神学者や知識人たち、特にドイツ辺りで活躍している知識人たちは、非キリスト教的諸文化に対する協調精神や柔軟性に欠ける、そういう非妥協的な神の働きを退け、今の世の流れと妥協させようとしているように見えます。しかし、使徒ヨハネの神観念や神の御子理解に真っ向から対立する、そのような現代の流行思想に対しては、優れた神学者であられる現教皇をはじめ、今日では反対するカトリック者たちも少なくありません。今年の9月下旬にドイツ政府からの招きを受けて、教皇として三度目にドイツを訪問し、この度は東ドイツにまでも足を伸ばした教皇は、一部の過激な知識人たちやマスコミから、カトリック教会をもっと今の世の流れに適合させるよう求められ、カトリックの保守主義がかつてなかった程激しく攻撃されました。彼らは司祭独身制の廃止、女性司祭の登用、信徒による司教の選出等々、多くのことを教皇に要求しましたが、教皇は平然と話し続けて屈しませんでした。悪霊たちがマスコミを駆り立てたのではないでしょうか。

   私は、キリスト教が旧約時代のヘブライズムの流れを大きく広げて、ギリシャ・ローマ文化の流れの中に乗り出し、そこに私たちの受け継いでいる伝統的神学を産み出したのは、神の御旨であったと確信しています。1世紀後半から2世紀後半にかけては、ギリシャ・ローマ思想に基盤を置く「グノーシス思想」と言われた異端思想も数多く発生しましたが、使徒ヨハネの孫弟子に当たる2世紀の神学者聖エイレナイオス司教の活躍で、それらの異端説は全て見事に批判され排除されて、神中心・神の御旨中心のキリスト教神学の道が開かれたからです。私は、外的には全てが極度に多様化しつつあるように見える現代においても、神の導きと働きによって確立されたこの西洋的伝統に踏み止まって、世界諸民族の伝統文化を神中心・神の御旨中心に新たに統合し発展させるのが、現代のキリスト教会に課せられている神よりの使命であると信じています。その使命達成のためには、全てを人間中心に評価し判断する理性や各民族文化の伝統が主導権を取るべきではなく、「私は主の婢です」と答えて、神から示された全く新しいご計画に徹底的に従い協力する意思を表明なされた聖母マリアのように、神からの啓示やお導きに徹底的に従う精神が、主導権を取るべきであると考えます。詩編103:14には、「主は私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」とありますが、塵にすぎない人間の考えに神の働きを従わせようとするような傲慢な試みは慎むのが、神の祝福を豊かに受ける道であると思います。


   神の御子イエスは、復活して昇天なされた後にも、世の終わりまで目に見えないながらも私たちに伴っておられ、この御降誕祭には霊的に私たちの奥底の心、無意識界の心の中にお生まれになると信じられています。夢のような話ですが、幼子のように素直な心でこの信仰の神秘を受け止め信じる心には、神の恵みが実際に豊かに注がれます。多くの聖人たちがそのことを体験し証言しています。私たちもその模範に倣い、この降誕節の間幼子のように単純素朴な心、従順な心に立ち返り、私たちの心の奥の無意識界に現存しておられる幼子の主イエスと共に、喜びも苦しみも全てを感謝の心で、父なる神から受けるように心がけましょう。その時、神の恵みが私たちの生活に豊かに溢れているのを実感するようになると信じます。

2014年12月24日水曜日

説教集B2012年:2011年降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読  イザヤ書 9章1~3、5~6節 
        「ダビデの位(くらい)」
第2朗読  テトスへの手紙 2章11~14節 
        「健全な教え」
福音朗読  ルカによる福音書 2章1~14節 
        「イエスの誕生」「羊飼いと天使」

  使徒パウロは今宵の第二朗読に、「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。」と述べていますが、ここで「全ての人」とあるのは、およそ人間としてこの世に生を享けた全ての人を指しており、何億人になるか知りませんが、過去・現在・未来の全人類を指していると思います。聖書の教えによりますと、全能の神の御子メシアは、人祖アダムの罪の穢れを受けた全ての人に救いの恵みを提供するために父なる神から派遣された救い主で、その恵みは時間空間の一切の制約を超えて、遠い過去や未来の人たちにも、既にあの世に移っている死者の霊魂たちにまでも波及するのですから。私たちの想像を絶する、夢のように大きな恵みの力を秘めて、この世に貧しくお生まれになった神の御子は、受難死を遂げてあの世の神の命に復活なされた後にも、もはや死ぬことのない霊的人間の体を保持したまま、目に見えないながら時間空間の制約を超越して私たち人類に伴っておられます。復活なされた主は弟子たちに、「世の終わりまであなた方と共にいる」と宣言なさったのですから。その主は、今宵信仰をもってその誕生を記念し感謝する人のためには、霊的に幼児の姿で新たにその人の心の中にお生まれになる、真に神秘な存在であります。これは、この世の人間の理性では知ることのできない大きな宗教的神秘ですが、カトリック教会が2千年来無数の体験に基づいて大切にしているこの伝統的信仰を、私たちも幼子のように素直な心でそのまま受け入れ、それに従いましょう。すると不思議なことに、神の霊がその心の中に働いて、恵みから恵みへと導いて下さるのを体験するようになります。使徒パウロも、自分の体験に基づいて書いているのだと思います。

  既にお読みになった方もおられるかと思いますが、明治天皇の孫にあたる中丸薫さんが、2年前の11月から12月にかけて、徳間書房から『いよいよ2012年、さあ、こんな世の中にしよう』という本を出版しました。著者の中丸さんはアメリカのコロンビア大学政治学部で学び、そこの大学院も卒業して、先端を行く多くの学者たちから得た情報に基づき他にも数点、文芸社や徳間書房から著書を出版していますが、この『いよいよ2012』の著書は、現代世界の動きに危機感を深めている人が多いせいか、多くの人に読まれているようです。私も一年ほど前に入手して読みました。中丸さんはその中で、2012年に現代世界の流れが大きく変わるであろう、というような予想を表明していますが、その前触れでしょうか、今年の春以来の世界の流れを回顧しますと、東日本大震災と原発事故を始めとして、各地で集中豪雨や土砂崩れなどに襲われたわが国だけではなく、欧米諸国も深刻な経済問題を抱えたり、長年安定していたアラブ諸国でもさまざまの不穏な動きが始まったりしています。それらの諸問題は来年にはもっと大きく膨らんで、人類全体を大きな社会不安に巻き込んで行くかも知れません。中丸さんはしかし、この大きな変動期に日本人が目覚めて立ち上がり、新たに活躍するのではないか、と考えているようです。

  しかし、日本がまだ貧しかった明治・大正期や昭和前期に厳しい心の教育を受けた日本人と違って、経済的に大きく発展し豊かになり始めてから育って来た現代の若手や中堅層の日本人に、果たしてアジア諸国でも吹き荒れると思われるこれからの社会的危機に耐えて、アジアを、また世界をリードして新しい世界秩序を打ち立てるようなことができるであろうか、などと甚だ疑問に思われます。日本の各地には、有能で精神的にもしっかりと立っている個人が、まだ少なからず存在していると思います。しかし、高度に発達した機械文明の中で生まれ育ち、能力主義・自由主義の教育を受けて、自分中心に家族も社会も利用しようとする生き方に慣れている非常に多くの日本人が足枷となって、有能な少数者の活躍を妨げることでしょう。1960年代、70年代には日本の経済発展のため、会社の計画に全面的に従って働く我なしの日本人がまだ大勢いて日本経済は急速に発展し、家族的に堅く団結し、「会社人間」と呼ばれていた日本人たちの活躍は、外国人の注目を浴びていました。しかし、80年代には経営者もサラリーマンも自分の利益や自分の考えを第一にし始めたのか、会社を変更する日本人が続出するようになり、「会社人間」という言葉も消えてしまいました。各人が何よりも自分の望みや好みを第一にし、そのためには神をも社会をも利用しようとするこの個人主義社会の趨勢は、最近のIT文明(情報技術文明)の普及により、今や世界的に広まりつつあるように見えます。神への従順を基盤にして堅く一つにまとまっていたイスラム諸国でも、これ迄の独裁者たちの権威が、新しい情報技術で団結した不特定多数の民衆によって揺がされ、崩壊しつつあります。2012年には、このような国家や経済の内的崩壊が世界中に広まるかも知れません。

  私は個人的に、似たような内的崩壊が2千年前のユダヤでも進行していたのではないか、と考えています。ローマ帝国が安定した国際平和を確立し、シルクロード貿易を積極的に援助すると、商工業が急速に発展して社会は豊かになり、海外から訪れる無数の巡礼者たちからの上がりで、ユダヤ教指導層も豊かになりました。しかし、国内外の人口移動も激しくなり、ギリシャ・ローマ文明の個人主義・自由主義の普及で信仰や道徳の乱れが、ユダヤ教指導層にまでも広まっていたと思われます。神は神中心主義の預言者的精神を失い、この世の富と豊かさを崇める人間の欲望中心主義によって、貧富の格差が拡大しつつあった当時のユダヤ社会に、かねて預言者たちを介して約束しておられたメシアを派遣なさいました。このメシアは父なる神の御独り子で神ですが、聖書によると神の力と栄光を深く隠して、この世の一切の富を退けたベトレヘムの家畜置き場で、夜に人知れずか弱い乳飲み子の姿でお生まれになりました。父なる神は天使を派遣してその子の誕生を人類に告げ知らせましたが、その知らせを最初に受けたのは、当時の社会で最も貧しい生活を営んでいたベトレヘムの羊飼いたちでした。ユダヤ教の祭司たちや、聖書を研究して民衆に教えていたファリサイ派の教師たちは、東方の博士たちが人類の救い主誕生の徴が星空に現れたのを見て、遠路はるばるそのメシアを拝みに来ても、「聖書によるとベトレヘムに生まれる筈だ」と教えただけで、赤貧の内に幼児となってお生まれになったその幼児メシアを、自分たちは訪ねようとはしませんでした。商工業の国際的発展によって急速に豊かになった当時の社会が、人間の欲望に起因する各種の矛盾を抱えて内側から崩壊しつつあるのを、実生活に基づいて痛感させられていた人たちは、もはや人間の政治や富の力に頼らずに、ひたすら神の憐れみと御保護を祈り求めていたと思われますが、神はそのような心の人たちに、その人たちが聖書の教えは何も知らなくても、またユダヤ教の割礼やキリスト教の洗礼などは受けていなくても、この世にお生まれになった救い主を最初に拝んで、大きな希望と喜びの内にこの世の人生を逞しく生き抜く力と導きとを、お与えになったのではないでしょうか。

  現代の私たちも、ある意味で似たような状況に置かれていると思います。現代世界の抱えている各種の現実的難問を解決する力は、今ではどこの国の政治や経済にも期待できなくなっていると思います。どこの国もそれぞれ深刻な国内問題を抱えているように見えるからです。このような時代には、何よりもこの全宇宙の創造主で所有主でもあられる神に心の眼を向け、その時その時の神の導きに従って生きようと努めるのが賢明だと思います。これはこれまでの人生で運命の神からの数多くの導きや助けを、小刻みに体験して来た私の確信であります。聖書や教会の教えなどは知らなくても構いません。今生きている日常茶飯事の中で復活の主キリストや父なる神に心を向け、その声なき御声に聞き従おうと心掛けていますと、神は不思議に導き助けて下さいます。あの世の神は私たち各人を、実際に導こう助けようとしておられると思います。もし私たちが日々神に従おうとしているならば。

  十日程前に私は、悪夢に悩まされることが多いと聞くある病人を訪問し、次のような予感を得ることができて、その病人に感謝しています。それは、福音書の記事から知られるように、2千年前にメシアがこの世にお出でになったら、悪霊たちがいろいろな人たちにとりついて周辺の人々を悩ませたようですが、終末的様相を濃くしている現代社会でも、悪霊たちが活発に働き始めており、想定外の様々な悲劇や事件を世界の各地で発生させているのではなかろうか、この不吉な動向は今後ますます広まるであろう、という予感であります。人祖アダムたちに自分中心・人間中心の罪を犯させて私たちの人間性を変質させ、この世をも死と苦しみの支配する世界に変質させた悪霊は、極度に発達した現代技術文明の豊かさと便利さの中で、一部の人の心に、本来神の御前では幼児のように何の権利も資格もない存在なのに、自分には神に対しても親に対しても自分独自の権利があるかのように思い込ませ、この権利を失ったら自分は生きて行けないなどと言わせる程、その人の心を悪魔的な個人主義や自我主張に引き込もうとしているように思われます。近年わが国でも、衝動的な無差別殺戮や、昔には考えられなかった程の衝動的事件や詐欺事件などが多発していますが、よその国でも多発しており、私はその背後に目に見えない悪霊たちが働いていると考えます。全能の神である救い主がこの世にか弱い幼児の姿でお生まれになったのは、自分中心・人間中心の「古いアダム」の罪を宿している私たちの心を、この世に生れ落ちた時の貧しく弱く助けを必要としている素直な心に立ち返らせて、神中心に神の助けに支えられて生きるように改心させるためだったのではないでしょうか。その救い主は今宵も、目に見えないながらも霊的に幼児の姿でこの祭壇にお出で下さいます。私たちも幼児の素直な心に立ち返ってその主を歓迎し、主と共に神中心に生きる決心を御捧げ致しましょう。その度合いに応じて、私たちは新しい一年においても神よりの導き・助けの恵みを豊かに受け、平和に生活できると信じます。


  話は違いますが、十数年前にこの聖堂が献堂された時、来賓として出席しておられたその時の三ケ日町の町長さんが、ここで祝辞の挨拶をなさった時、この聖堂で三ケ日町のためにもお祈りして下さい、と依頼されました。私たちはその言葉に従って、始めは三ケ日町のために、しかし間もなく浜松や豊橋などこの東海地方の住民皆のために、三カ月に一回、3月、6月、9月、12月の最後の土曜か日曜日に、この祭壇でミサを捧げてお祈りしています。今宵のミサはその意向で、この地方の住民皆のために捧げていますので、皆様もどうぞ心を合わせてお祈り下さい。私は、神がこの聖堂での私たちの祈りに、特別に慈しみ深くお耳を傾けておられるように感じています。と言うのは、ここ十数年の経験を振り返りますと、北日本でも西日本でも、近年は各地で大小の地震が頻発していますのに、この地方では殆ど地震を経験していないからです。大規模な東海地震の発生は予想され、警告されているのですが、神が私たちの祈りに応えて、それを遅らせておられるのではないでしょうか。幼児のように素直な信頼と従順の心で神のその御慈しみに感謝しつつ、またこれからの一年もお守り下さるよう願い求めつつ、今宵のミサ聖祭を捧げましょう。

2014年12月21日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第4主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節
福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

   本日の第一朗読に登場するダビデは、皆様ご存じのように、ベトレヘムで羊の群れの世話をしていた時から神の霊の力によって特別に守り導かれ、遂に紀元前千年頃にイスラエルの王位につき、堅固な城壁に守られていたエルサレムの町を占領して、王国の首都とした人であります。神の霊はその後もダビデ王の中に働いて、まだ周辺の各地に残っていたイスラエル人の敵たちを次々と退け、王国の安泰を確実なものとしましたが、こうして王国の平和が確立されると、王は内政の充実に心を向けたようで、神を崇めるための神殿を首都エルサレムに建設することを思い立ったようです。それで、預言者ナタンに「私はレバノン杉の王宮に住んでいるが、神の箱(すなわちモーセの時からイスラエルの民の中での神の現存を表示する契約の箱)は、(モーセの時以来の伝統をそのままに順守して今も)天幕を張った(移動式幕屋の)中に置かれているが」と、相談してみました。それに対する預言者の答えと、その夜に神がナタン預言者に現れて、ダビデ王に告げさせた神の御言葉とが、本日の第一朗読の内容であります。神はダビデ王の厚意の企画を喜ばれたようで、ダビデの子孫の王国を「揺るぎないものとする」と約束なさいます。ここで神が単数形で話しておられる「子孫」は、主イエスが来臨なされてからは、神の御子キリストを指していることが明らかになりました。

   余談になりますが、私の友人で1963年からイスラエルのヘブライ大学に留学し、77年にヘブライ文学博士号を取得した手塚という学者によると、2千年前頃のユダヤ教のラビたちの書き残している古くからの伝えによると、ダビデは父エッサイの正妻の子ではなく、一番最後に生まれた側女の子だったので、年上の兄弟たちの前では少し遠慮しなければならない立場に置かれていたようです。預言者サムエルがその家に来た時も、エッサイは七人の息子たちは次々と紹介しましたが、末っ子のダビデには野原で羊の群れの番をさせていました。預言者から「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねられて、初めてダビデを呼んで来させました。すると神は、兄弟たちの間で少し肩身の狭い思いをしていたこのダビデに、サムエルが聖油を注ぐことをお命じになり、この時からダビデは、子供ながらライオンにも立ち向かって、その口から羊を救い出す程の聖霊の力を身につけるに至ったようです。「神の力は弱いところに発揮される」と申しますが、外的この世的に貧しく弱い状態に置かれていることを喜ぶように心掛けましょう。神の霊はその状態にあってひたすら信仰に生きる小さい者の心の中で、特別によく働いて下さると信じます。

   本日の第二朗読には、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」という言葉が読まれます。現代にはよく「福音宣教」という言葉を耳にしますが、その言葉を口にする人たちが善意からではありますが、キリストの福音を人々に分かり易く合理的に説明しようと努めているように見えるのは、少し残念だと思います。福音は、あの世の永遠の神が編み出したご計画の神秘を宿しているもので、その神秘はこの世の理知的な人間理性では分かり得ないものだと思います。ですから使徒パウロも本日の朗読箇所の中に、「信仰による従順に導くため」という言葉を付記しています。理性では知り得ない神よりの啓示を、そのまま信仰と従順の心で受け止め、そのお言葉通りに生活しよう実践しようと心がけていますと、その心の中に神の愛の霊が働いて、神の導きや神秘に対する新しい霊のセンスを実践を介して育てて下さるのではないでしょうか。少年ダビデも、合理主義的な理性の力によってではなく、神から注がれ実践的に磨き上げられたその霊のセンスに導かれつつ、数々の困難を乗り越えて王位に就くことができたのだと思います。私たちも己を無にして、すなわち自分の理知的な考えゃ望みを無にして、神の神秘なご計画に対する信仰と従順に実践的に努めるよう心がけましょう。そうすれば、その実践的証しを目撃して感動したり興味を抱いたりする人々の心に、福音の神秘が伝わって行くと思います。


   本日の福音は、おとめマリアに天使ガブリエルを介して告げられた神のご計画であります。日頃から神の御導きに対する信仰と従順のセンスを実践的に磨いていたと思われるマリアは、落ち着いて冷静にそのお告げを受け止め、どのようにしてその男の子を産む種を頂くのかという質問をしただけで、その返答を聞くと、「私は主の婢です。お言葉通りこの身になりますように」と承諾し、神のご計画に徹底的に従います。しかし、天使が去った後には、どのようにしてその神秘をヨゼフに説明し、その子を育てるための協力を得たらよいかなどと、人間的にはいくら考えても名案が思い浮かばないことが、次々と心を悩まし始めたと思われます。将来自分を悩まし苦しめることになる様々の出来事については、まだ何も告げられていないからです。でもマリアは、その時その時に苦しむ自分の心に聖霊が働いて導いて下さるという信頼と従順の心を新たにしながら、神へのお任せと信頼の心でひたすら神に心の眼を向けて祈りつつ、新たに生き始めたのではないでしょうか。クリスマスを間近にして、私たちも乙女マリアのこの生活態度に見習うよう心がけましょう。今年は311日の東日本大震災と原発事故によって日本社会が大きく揺さぶられましたが、これは将来起こるもっと深刻な出来事の前触れなのかも知れません。ひと昔前に比べますと、今日では欧米の経済事情も、地球温暖化による環境や気象の悪化も、深刻になりつつあります。世界各地での戦争の危機も高まることでしょう。このような現実的不安を目前にして、私たちも聖母マリアに生き方に学んで、日々ひたすら神の働きに依り頼みつつ、祈りと信頼と従順の心で生き抜きましょう。全能の神が、全ての苦難から私たちを救い出して下さると信じます。

2014年12月14日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第3主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 61章1~2a、10~11節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~24節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節

   本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国した民に語った第三イザヤの預言ですが、そこには神から預言者に与えられた召命についても語られています。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた」という言葉に始まり、「囚われ人には自由を、繋がれている人には解放を告知するために、云々」と、後年主イエスも故郷ナザレでの説教に引用なされた言葉が続いています。これらの預言は、バビロン捕囚から解放された時にも、また主イエスの時代にも少しは実現したでしょうが、何よりも世の終わりの時、主イエスの再臨によって大規模に実現する情景を垣間見て、預言したものであると思われます。ご存じのように、待降節の前半1216日までの典礼は、何よりも主の再臨を待望する思想で満たされています。それで、この立場で本日の三つの祈願文も朗読聖書も受け止め、この世の人間社会や家庭が、数々の乱れで内面から崩壊し始める暗い終末的様相を呈している時代にあって、天から神の栄光を輝かせて再臨して下さる主を、忍耐強く待望し続ける決意を新たに致しましょう。

   第一朗読に読まれる「良い知らせを伝えさせるために」という言葉は、新約聖書にも何回か使われていますが、この「良い知らせを伝える」という言葉は、ギリシャ語の「エヴァンゲリオン」という動詞の邦訳であります。この動詞はもともと、戦争の時に前線での喜ばしい勝利を、伝令が後方の部隊や町の人々に伝える行為を指しており、そこから転じて、神からの喜ばしい知らせを人々に伝える行為にも使われるようになったようです。そして更に、私たちが福音を宣べ伝えるのにも使われるようになりましたが、ギリシャ語の最初の意味から、私はふと小学5年生の時に遊んだことのある「伝言リレー」という遊びを、懐かしく思い出しました。外国ではこの同じ遊びを「電話リレー」と呼んでいるそうですが、学校の先生が生徒たちを二つのグループに分けて、右と左にそれぞれ数歩ずつ距離を置いて細長く一列に並べ、左右の最初の生徒にそれぞれ同じメッセージを密かに囁き、それが20人余の生徒にそれぞれ個人的に密かに伝えられた後に、最後にどのようなメッセージになっているかを、時間的速さで競わせる遊びでした。しかし、どちらのグループでもとんでもない話に変形されていました。

   私たちの神も、主キリストの福音が2千年後の現代社会ではかなり変形されて宣べ伝えられていることに、驚いておられるかも知れません。各人の自主性を重視する戦後の能力主義的自由主義的教育を受けた司祭や信者たちの中には、自分の全く個人的な聖書解釈や伝統理解を重視し、「福音宣教のため」という善意からではありますが、主キリストの本来の福音的生き方とは違う生き方を、広めてしまうこともあるのではないでしょうか。社会に終末的様相が広まって来る時代には、そういうことが頻発するかも知れません。主はルカ福音18: 8に、「しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見出されるであろうか」という疑問を呈しておられます。私の知っている昔の信徒たちは、己を無にして神の御旨への従順を何よりも重視しておられた聖母や主キリストの御模範に倣って、自分の考えや自分の力で自主的に神のため何かを為そうとするよりも、神の御旨やお導きに幼子のように従っていようと努めていました。私たちも自力主義の現代の流れに抗して、そういう伝統を大切にしていましょう。

   本日の第二朗読は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝していなさい」という言葉で始っています。神から戴いた霊の火に従って、私たちもこのように心がけましょう。幼子のような素直な信仰心に生きているなら、栄光に輝く主の再臨は、恐れではなく大きな喜びを心にもたらすものとなるでしょう。そして主は、私たちの「霊も心も体も」非の打ちどころがない程、清いものとして下さるでしょう。神ご自身が、私たちの心の中で働いて下さるのです。使徒パウロのこの言葉を、堅く信じましょう。主イエスの再臨の時、主から「忠実な僕、婢」と認められて、新しい栄光の国に迎え入れられるために。
   本日の福音の中で洗礼者ヨハネは、「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。云々」と話していますが、この言葉は、現代の私たちにとっても大切だと思います。「私は荒れ野で叫ぶ声である」と公言したヨハネは、全ての被造物の中での神の現存、特に身近な出来事の中での神の現存と働きに対する心の感覚を、子供の時から磨いていたと思います。それで神は、御子イエスにいよいよ福音宣教と救いの御業を公然と始めさせるに当たり、まずはそういう預言者的信仰感覚を磨いていたヨハネの心の中に、力強くお働きになったのだと思います。ヨハネは、自分の心の中で神が叫んでおられる、自分の心はその叫ぶ神の道具でしかない、と実感したのではないでしょうか。ですから、イザヤ預言者の言葉を引用して、「私は荒れ野で叫ぶ声である」と答えたのだと思います。


   主の再臨に備えて私たちの為すべき準備は、何よりも心のこういう信仰感覚を磨くことだと思います。私たちは皆、全知全能の神の存在と私たちに対する愛とを信じてはいますが、その信仰がいわば「頭の信仰」に留まっていて、心の奥底の「もう一人の自分」と言われる霊魂、永遠に死ぬことのない私たちの一番大切な生命と能力は、まだ半分眠っているのではないでしょうか。心の上層部を統御する表向きのこの世的自我は、隣人や同僚たちに引け劣ることのないよう、この世での体験や集めた知識情報などを理知的に整理統合しながら、自分で判断し決定しようとします。2千年前のファリサイ派の人たちも、神を信じ、聖書に基づいてメシアの来臨を待望しつつも、そういう自分中心・この世の人間的組織や生活中心の自我が主導権を握っているような「頭の信仰」に生きていました。それで外的には幾度メシアの話を聞いても、そこに秘められている神よりの声を、正しく聞き分けることができなかったのだと思われます。その主は、目に見えないながら今も世の終わりまで私たちに伴っておられ、そのような「ファリサイ派のパン種に警戒せよ」「目覚めて祈れ」などと、私たちの心に呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちの心の奥底にいる「もう一人の自分」、私たちの本当の自己を目覚めさせ、幼子のように素直で奉仕的な愛の命に育て上げましょう。そうすれば、私たちの心の中に神の霊が実際に働き始め、私たちの生活を新たな光で照らし導いて下さるのを実感するようになります。神の聖霊が、私たちの心の中で導いて下さるのです。明治・大正頃の敬虔な日本人キリスト者たちは、そのように生きることを「自己完成」と呼んでいました。目覚めて完成された自己が主導権をとり、表向きの自我とバランスよく相互協力する生き方の中に、私たちの本当の幸せがあると思います。そこには、主の霊がいつも伴い守り導いて下さいますから。

2014年12月7日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第2主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
第2朗読 ペトロの手紙二 3章8~14節
福音朗読 マルコによる福音書 1章1~8節

   ご存じのようにイザヤ書の40章から54章までは、紀元前6世紀に語られた第二イザヤの預言であります。この預言書には、旧約聖書の中でも新約聖書の福音に読まれる喜びと希望に満ちた神よりのメッセージが、最も多く読まれると申してもよいと思います。「慰めよ、私の民を慰めよ」の言葉で始まる本日の第一朗読は、その第二イザヤ書の序曲とも言うべき部分であります。2節には、「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた」とあります。それは天上で主なる神が天使たちに告げられたお言葉なのでしょうか。というのは、3節と4節には、「主のために荒れ野に道を備え、私たちの神のために荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」と呼びかける声があって、荒れ地や谷や山に対するこのような変革は、当時の人間には望んでも為し得ないことだからであります。恐らくそれらは神が比喩的な意味でお命じになったことで、目に見える地上の山や丘や谷は以前のままであっても、バビロン捕囚の民が難なく無事にエルサレムに帰れるよう、万事を整えよという意味であろうと思われます。当時バビロン捕囚のユダヤ人たちはまだ新バビロニア王の支配下に置かれていて、廃虚と化した遠いエルサレムの都に帰ることなどは夢のまた夢でしかありませんでしたが、しかし、神のおられる天上の世界では、その民の長年にわたる苦難と祈りとを、かつて犯した罪の償いとして受け入れ、民を再びエルサレムに帰還させる動きが始まったのではないでしょうか。第二イザヤの44章辺りには、ペルシャ王キュロスの名前が登場しており、そのキュロス王によって神のお望みが実現し、エルサレムに神殿再建の基礎が置かれると述べられています。

   私たちの生きている現代世界も、近年様々な自然災害や民族対立・経済不況などで悩まされていますので、世界の将来に明るい若々しい希望を持てずにいる人が少なくないと思われます。しかし、多くの人が行き詰まり状況に悩んでいるこのような時にこそ、神のおられる天上の世界では、新たな救済の動きが始まっているのではないでしょうか。第二イザヤは本日の朗読個所9節と10節で、「見よ、あなた達の神を」「見よ、主なる神を」と力強く呼びかけています。私たちもこの世の社会の絶望的状況や、不安に怯えている人々にばかり目を向けるのではなく、何よりもまず私たちの主なる神に心の眼を向け、善い牧者であられる復活の主の御声に心の耳を傾けていましょう。事態が深刻になっても、恐れる必要はありません。神なる主が、依り頼む全ての人を力強く導き、救い出して下さいます。

   本日の第二朗読には、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし」「全てのものは滅び去るのです。云々」という恐ろしい言葉が読まれます。魚とりの出身である使徒ペトロは晩年に、旧約の預言者たちのように神から幻示を受け、この世の終末について予見したのでしょうか。しかしその後で、「私たちは義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」と書いていますから、失望することはありません。大きな明るい希望の内に、この世の終末後に現れる栄光の世界を待望していましょう。マルコ1332節によりますと、主は「その日その時は誰も知らない。天の御使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる」と話しておられますから、その終末は何かの天体が猛スピードで地球に激突した日に起こるのではないと思われます。もしそうであるなら、天文学者たちは予めその日その時を予測することができるでしょうから。その日は、単にこの地球の終末だけではなく、神がお創りになったこの世の物質的宇宙全体の終末の日だと思います。従って、ちょうど宇宙創造のビッグバーンの時のように、この宇宙全体が超新星爆発よりも遥かに大きな巨大な火になって燃え尽き、そのエネルギーがもはや死ぬことのない全く新しい天と地に生まれ変わるのではないでしょうか。突然火によって滅ぼされると申しても、奥底の心が霊界に結ばれて目覚めている人、よく祈っている人は、神の力によって救い出されるのだと信じます。主はルカ21章にその日の突然の到来を予告なされた後に、「いつも目覚めていなさい。起ころうとしているこれら全ての事から逃れ、人の子の前に立つ力が与えられるように祈りなさい」と勧めておられますし、使徒パウロもテサロニケ後書の1章に、主イエスが「燃え盛る炎に囲まれて天からお現れになる時、あなた方を苦しめている人々には苦しみを、苦しめられているあなた方には」「安らぎを報いとしてお与えになる。云々」と述べていますから。私は聖書のこれらの言葉から個人的に、人祖の罪に穢れたこの世の宇宙の終わりをそのように想像しています。主はまたマタイ24章やルカ17章に、「一人は連れて行かれ、一人は残される」と、ノアの洪水の時のような、その大災害の日のことを予告しておられますが、神への従順に生きていて神によって連れ去られる人が滅びを免れ、後に残される人が滅びに陥るのだと思います。この事も、心に銘記して置きましょう。

   本日の福音の著者マルコは、メシアの先駆者である洗礼者ヨハネの活動からその福音を書き始めています。荒野で「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」と叫んで、人々に悔い改めの洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、「駱駝の毛衣を着て、腰に革の帯を締めていた」とありますが、列王記下の1章によると、天から火を降らせ、天からの火の戦車に乗って天に上げられた預言者エリヤは、「毛衣を着て、腰に革帯を締めていた」と述べられています。聖書からこの預言者エリヤのことを学んでいた洗礼者ヨハネは、ギリシャ・ローマ文明の普及で2千年前のユダヤ社会が豊かになり、国際的人口移動も盛んになって、民衆も宗教者たちもこの世の富と自由に憧れ、あの世の神を遠い存在と考え、この世の営み中心主義の生き方を続けている中で、神から遣わされた神の子メシアを受け入れ、メシアに従うための精神的地盤をユダヤ社会の中に造り上げる使命を神から授かりました。それで、神中心主義の預言者エリヤの模範に倣い、エリヤの精神で貧しく生活しながら、民衆にこの世中心の生き方からの悔い改めを説き続けたのではないでしょうか。しかし、洗礼者ヨハネの預言者的働きは当時の民衆の一部をメシアの弟子としただけで、富に傾いていたユダヤ社会全体の流れを変えることはできず、ヨハネは殉教し、国は滅んで、ユダヤ人は亡国の民と化してしまいました。主イエスは「あなた方は神と富とに仕えることはできない」と強調し、種まきの譬え話の中では、「この世の思い煩いや富の誘惑のために御言葉の種は覆いふさがれて、実を結ぶ事が出来ない」と語られましたが、当時のユダヤ教の指導層の心は、この世の思い煩いや富の誘惑に囚われ過ぎていたのではないでしょうか。


   高度に発達した現代文明の豊かさの中で自由に生きている私たち現代人も、洗礼者ヨハネが身をもって証しした神中心主義のエリヤ精神に学んで、奥底の心の目覚めと悔い改めに努めなければ、やがて来る終末の日に恐ろしい苦難を受けるのではないでしょうか。待降節に当たり、現代人が一人でも多くこの真理に目覚めて、神から悔い改めの恵みを受けるよう祈り求めましょう。